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「ローカルナレッジ?」
私は海も含めてみんなで夕食を頂きながら、聖一さんの言葉を繰り返して尋ねた。
リビングルームの窓が開け放してあるので、涼しい風が向こう側から入り、草木や花の香り、虫の声も運んでくる。気持ちのいい夜だった。
聖一さんは綺麗な発音で言った。
「local knowledge, 問題を最もよく知っているのは学者でも専門家でもなく、現場にいる人々。そうした概念を言うんだよ。
植民地支配下の入植者における先住民族への虐殺や絶え間ない人権侵害、虐待、強奪や破壊行為、それが一体どういうものなのか、それを最もよく知っているのは被害者であり、そこにいた人々でしょう。
無差別に空から次々と降ってくる爆弾の下で何が起きているのか、原爆の雲の下で何が起きていたのか、兵士として戦地に駆り出されたその場で一体何が起きていたのか、カルトによってテロリズムが実行されたときどの様な加害侵害行為が行われていたのか、それがどの様に人々や共同体、社会を蝕むのか、それを誰よりもよく知っているのはそこにいた人々であり、被害者でしょう」
ああ、と私は納得した。
だからこそ、生き証人の言葉が、生きた証拠が必要なんだ。なるほど。そういうことか。
「いじめや嫌がらせの問題もそうだし、モラルハラスメント(精神的虐待)やドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)なんかもそう。虐待の問題もそう。カルトによるレリジャスハラスメント(宗教的嫌がらせ、虐待)の問題や、ストーカー(つきまとい)の問題も。犯罪や人権侵害の問題もみんな同じ──被害者自身が問題を誰よりもよく知っていると自覚をもって発言することで、未来に向けて本当に有効な正しさや智慧を育むことが出来るんだよ」
海がそこで少し考えるようにしてから、レネ君に尋ねた。
「以前、レネが言っていた事がここに重なって来る、って事でいいのか?」
レネ君は頷いた。
「local knowledge による未来への提言は大切な智慧。暫時更新されていく世界の秩序や、より包摂的な正しさや智慧を育む豊かな土壌にもなり得る。けれど、それをコントロール(支配)やマニピュレーション(操作)の為に利用されない様にも注意深くある必要があるんだよ」
──僕らはこの争いの繰り返しを止めないといけないのだけれど、かつての犠牲者や被害者であることがその人やその集団の権利になってしまうと、一部の人たちが誰かや何かを犠牲にすることで埋め合せる事にも権利があると心の奥底で信じ込んでしまうようになることがある。それはよくあることだけれど、大きな民族単位や集団でそれが信じ込まれてしまうと、パワーゲームのシーソーゲームが戦争のような大きなことになってしまうんだ──彼が以前私達にそう言っていたのを私は思い出していた。
「一部の人たちが、かつての被害者で在る事自体を権利にしてしまって、誰かや何かを犠牲にすることで埋め合せる事にも権利があるのだと心の奥底で信じ込んでしまうようになることがあるから、だね?」
「そう」
「そうした被害者の心情を利用するやつらもいるだろうし、カルトなんかがいい例だしな」
海が私にそう言ってから聖一さんを見ると、聖一さんは続けるようにして言った。
「被害者に寄り添い助ける振りをしながら、甘言や実際の利益供与なんかで弱者や困っている人を取り込んでいくのも、マフィアやカルト、政治的なマニピュレーションでよく使う手口だし、気づいたらもう既に逃げられない様にされてしまっていて死ぬまで搾取される場合もある。そうならない様に被害者を護りながら、本当に未来に必要な大切な智慧を育んでいけるような姿勢や体制を整えていくのは必要な事だと思う」
レネ君も横で頷いている。
「被害者自身の二次被害や三次被害には、こうしたカルトやマフィア、政治的なマニピュレーションからも起こりうる事があるという事に注意をしておく必要があると僕は思う。そのつらい被害体験を利用されて甘い言葉でつけこまれ、気づいたら加害者に利用されて加担していたり変貌している、なんて、後追いの被害としても被害者にとっては、本当はかなり酷い被害だと思うから。カルトテロリズムの妄執を埋め込まれてしまって、もう本当に救いようがない状態になってしまう事もあり得るわけだからね。例えその選択の責任は本人にあるとはいえ、それでも酷い事には変わりがないから」
いつものように淡々と言葉を紡ぐ彼の瞳に、少し、あるかなきかの悲しみのような、悲哀? の様なものが揺れている──様に私は感じた。何となく、言葉に詰まるような思いでいたら、私の視線に気づいたレネ君が私を見た。そうして少し微笑んだ。
「僕の仲間だって同じだからね」
──ああ、そうか。この話は、対岸の火事でも他人事でもなんでもなくて、今も現在進行中の切実な問題なんだ、そう私は改めて気づいた。ああ、やっぱり私はどうにも甘さが抜けない。こうした切実さを甘く捉えている、一人で何となく反省していたら、
「そんな、カンナが泣きそうな顔しなくても」
そう言って、レネ君は優しく笑った。
この子は、一体どれだけの想いをその心の奥に秘めて、こうして笑っているんだろう──そう思ったら、私の目からはもうぽろっと涙こぼれていて、次々にぽろぽろと落ちていった。
「なんかごめん、泣くつもりなかったのに」
自分で情けなく思いながら止まらない涙に何とか耐えようと困っていたら、レネ君が私に言った。
「そんな気にしないで。僕やこの救いようのない悲劇に関わる他のみんなの代わりに、君が泣いてくれているみたいなものだから」
ううっ、もうだめだ、最後の一押しで、耐えきれずに涙腺崩壊だった。自分でもよく解らない、ただ泣きたいだけの、ただ泣く為だけの涙みたいだった。自分が自分を超える何か大きな深い悲しみの根源のようなものにジャックされているみたいな感じで、本当に涙が止まらなかった。
聖一さんがバスタオル(なんで毎回バスタオルなんだろう? それだけ泣くと思われているのか??)を持ってきてくれた。私はそれに顔をうずめるようにして泣きに泣いた。
海は私の隣で少しもらい泣きしそうになって鼻をすすりながら、私の手を握ってくれた。そうして聖一さんとレネ君に
「今、俺の中にも、自分ではよく解らないような、微弱な電流の様な何かが、自分でも解らない圧倒される様な深い感情と一緒に体の奥に染み込んでくるみたいな感覚があって、ずっと鳥肌がたっているんだけれど、これって前にレネが言っていた、感応、というやつ?」
聖一さんとレネ君は「そう」と静かに声をそろえて言った。
「そっか」 うわあ、まじか、と言いながら、海は私の手を握る手にぎゅっと力を込めた。
「神奈ちゃんもそうだけれど、どちらかというと、君の方が本当は感応しやすいかもしれない。そういう体質みたいなものがあるんだよ。君達二人とも、そういう意味ではとてもよく似ていると思う」
海は黙って聖一さんの言葉を反芻しているみたいだった。
「うん、そういう意味では、リクより、カンナとの方がカイは似ている」
「へえ、そうなんだ」
興味深いような表情で、海はレネ君から私の方へと視線を移した。そうして独り言ちるように言った。
「なんか、でも、わかるような気がするかもしれない」
私は泣きたいだけ泣いて、少しすっきりとしてきたので「顔洗ってきたい」と言って、海の手をほどいて一人で洗面所に行き、顔を洗った。──ああ、びっくりした。本当にいきなり涙が止まらなくなって、自分でもよく解らない悲しみの塊に全身がなってしまったみたいな感じだった。今は泣きたいだけ泣いて、それはすっきり抜けている。そうなると、あれは一体何だったのだ、という気すらするほどだった。
鏡に映った自分の顔をまじまじと眺めながら、私は、私という存在って、一体何なのだろうか──と何となくぼんやりと物思いに耽っていた。自分のようで自分ではないような、そんなものが私の中にあるし、たまにこうして圧倒的な情動の嵐みたいなものを伴って一時的に私の全てをジャックするみたいに竜巻を起して通り過ぎていくものがあったり、本当に不思議。私と言う容れものに、私であって私ではないようなものが、その存在を感情というものを使って主張しながら、、目も眩む様な色とりどりの煌めきをもった風のように吹き抜けていく──この私という現象が、何だかとても不思議に感じる。とても不思議だ。
そんな奇妙な事を考えながらぼんやりと鏡を見つめていたら、
「大丈夫?」
聖一さんがひょいと顔を出した。洗面所の入り口から、少し気遣うように私を見つめている。
しまった、思いのほかぼんやりとしていたらしい。
「うん、何か色々と不思議な事があるなあって、ぼんやり考え事をしてしまっていたみたい」
「そう」
彼はあの透明な瞳で私を少しじっと見つめ、それから笑って「タオルは洗濯かごに放り込んでおいていいから」そう言ってまたダイニングルームへと戻って行った。
私は最後にもう一度つめたい水で顔を洗ってからみんなのところに戻った。
三人はちょうどデザートを食べようとしていたところだった。
「遅いから神奈の分も食べようかと思っていたところだぞ」
「やだよ、あげないよ。海こそ最近体が重いって言っていたし、私が食べてあげようか?」
「相変わらず食い意地のはった奴だな」
「うるさいな」
席に着きながら海と軽く小競り合っていたら、
「すっきりした顔しているね」
レネ君が私を見て言った。
「うん、なんかわからないけれど、突然大嵐がきて余分なものも一緒に洗い流して去って行ったみたいな感じ。自分でも何だかよく解らない不思議なすっきりした感じがある」
「カンナのいいところはそういうところだよね。いっそのことみんなまとめて一緒に浄化するみたいな感じで思い切りがよくて、すっきり抜けがいい」
「何か面白いこと言うね」
「でもわかるでしょ」
「うん、何か分かる気がする」
海が隣で言った。
「昔からこうだったよ。泣いたカラスが今笑うみたいに、けろっとしているんだ、いつも」
「もうちょっといいたとえないの」
「思いつかない」
聖一さんが笑いながら私に「コーヒーや紅茶もあるけれど、僕たちは煎茶にしたんだ。神奈ちゃんはどうする?」と訊いてくれたので、私は「みんなと同じものがいい」
彼が急須にお湯を注いでから、丁寧な所作で湯飲みにお茶を注いでくれるのを綺麗だなと見とれていたら、聖一さんがこちらに気づいて、目が合った。
「聖一さんの所作って綺麗だよね。もしかして茶道とかやっていたの?」
「いや、特には。でも、そうだなあ、家が道場だったから立ち居振る舞いには厳しく教わったかもしれない。道がつくものには同じような思想哲学が根底にあるから立ち居振る舞いの中にもそれは共通しているし、僕の動きの中にそういうものを君は見ているのかもね」
海は興味津々で
「道場?」
「キイナのお兄さんなんだって前に話したでしょう。キイナの家には剣道の道場があるんだよ」
言ってから、私もちょっと意外だったので
「聖一さんも剣道をやっていたの?」
「嗜む程度にだけね」
「セイは弓道もやっていたんだよ」
「学生時代ね」
「へえ、かっこいい」
海はかなり興味津々という感じだ。
「たまに手入れするから道具はそろっているんだけれど、よかったらやってみる?」
聖一さんに言われて、海はわかりやすく目を輝かせていた。
「やる!」
こうなったら海はしばらく夢中になるだろう。何となく私が隣でお茶をすすりながらそう思っていたら、
「うん、じゃあ、やってみるといいよ。君はスポーツを何かしていたでしょう。体の使い方が上手だけれど、少しだけ偏っているから、体幹を鍛えて気の通りをよくすると今より色々と能力が発揮しやすくなると思う。 弓道は役に立つと思うよ」
「よろしくお願いします!!」
敬礼しそうな勢いで海がそう言うと、聖一さんは笑って言った。
「僕が教えられるのは簡単な基礎だけだし、本格的にやりたいなら知り合いの道場を紹介してあげるよ」
「でも、基礎はセイから教わっておいた方がいいと思うよ。教師の資格あるんでしょ」
レネ君が言うと、聖一さんは「一応は」と師範代であると教えてくれた。
「でも、続けているわけではないから、腕もなまっていると思うんだけれど」
「カイにはセイが教える方が合っていると思う。もっと深い精神性の所まで、気の整え方や使い方まで教えられるのはたぶんセイしかいないよ」
レネ君がそう言うと、海は更に目を輝かせた。もう是非とも!!! と全身全霊で訴えている。なんてわかりやすい。わかりやすすぎだろう。
「うーん、じゃあしばらくは、この裏庭を使って野外での練習にしよう。必要だったら、また道場を紹介するよ」
「あ、私もみたい」
「僕も!」
私達がわくわくしながらそう言うと、聖一さんは少し考えてから
「神奈ちゃんがここに来るときに合わせて、夕方ここに来たら? 明るいうちがいいから少し遅めの午後の方がいいかな。僕の仕事の関係もあるから、都合のいい日をいくつか後で教えておくよ」
「やったー!」
海は大喜びだ。それからはっとして、いきなり立ち上がったと思ったら、きちんと姿勢を正して、礼をした。
「よろしくお願いします」
何気に海も姿勢や礼が綺麗だな、と私が思っていたら、聖一さんは「こちらこそ」と言ってから、立ち上がって海に言った。
「少し向こうで真っ直ぐに立ってみてくれる?」
二人でリビングルームに行って、何やら姿勢についてのレクチャーがいきなり始まったようだ。道がつくものには武道や禅の精神や哲学が根底にあって、その根本は丹田にある、そう言いながら聖一さんは海に、ここにもう少し力をこめて自分自身の中心を定めるようにして立って見て、とか教えている。
「体を通って流れてきた重さの力が足の裏にまで流れ、地に接しているのがわかる?」
「……」
微妙な表情のまま無言の海に、聖一さんは開いたガラス戸からそのまま外に出て、
「裸足になって、直接地面に触れて立ってみた方がいいかもしれない。足の裏で地面にあるバッテリーに直接接続された様なイメージ。体から重力を足裏を通して地面に流すけれども、地面から直接受け取りもする感覚」
しばらく二人で何やら集中しているので、残された私とレネ君は
「私もやってみたいな」
「僕もやってみたいな」
お互いに言いながらもその場から動くことはせず、デザートを食べ続けていた。だって冷たいうちが美味しいんだもの。




