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 沙羅と一緒に入った美術館でばったりと静香さんと会った。偶然の再会にお互い驚いて、美術館に併設されているレストランで静香さんと一緒にお茶を飲んだ。ご主人のお母様が亡くなられたので急きょ帰国しているそうだ。それでついでに自分の父親の墓参にも行ってきた帰りとのこと。彼女のご主人がこの画家の絵が好きなのでここに立ち寄ったと美しい色彩の絵はがきを見せてくれた。


 沙羅には以前にあったことを少し話してあったので、簡単な自己紹介をして静香さんの名前を聞いただけでぴんときたみたいだった。


 暖かい陽射しがガラス越しに注ぐテーブルについて、テラスの向こうにあるハーブ園を一緒に眺めた。水まきをした後なのか、植物たちは滴を光らせて瑞々しく輝いていた。


 何の話からそうなったのかもう忘れたけれど、窓の外を眺めながら静香さんは言った。


「小学生の時に仲良くしていた友達に蓮(れん)君という同じ年の男の子がいて、親同士が仲がいいのもあって彼はよく家に遊びに来ていたの。蓮君は体が大きくて言葉は少し乱暴だったけれど、気持ちの優しい、とてもいい子だった。男の子らしくてその年でも紳士的なところもちょっとあった。でも蓮君にはプライドが高いところがあって、妹はそれが気に入らないのか、よく彼のそのプライドを打ち壊そうとした。わざと貶(おとし)めることでそこにヒビを入れて、自分の要求を通す入り口にしようとしていたのね。


 あるとき妹は蓮君のことをとても怒らせた。あまりに彼の怒りが凄くて、彼は身体が大きいから大人でも止められないほどで、妹は殺されると思ったのかトイレに閉じこもって出てこなかった(笑)。蓮君はかなり長い間トイレの前で出て来いとか色々と怒鳴って壁やドアをドンと突いたり蹴ったりしてそれはもう大騒ぎしていた。


 妹はそれを後に自分がしたことはまるでちょっとした可愛い悪戯だったかのように笑い話にして周囲に語っていたけれど(確かに笑い話ではある)、でも本当はそれはちょっと違うと私は今でも思う。


 蓮君が怒るのは当たり前だと私は思っていた。私だってそれをずいぶんとされてきていたし、小さい頃からずっと、本当に殺してやりたいと思うほどに不愉快な思いをさせられても、私はお姉ちゃんだから、ということで、それでも妹を理解して受け入れるように思いやりや優しさを持つように、親からずっと抑えつけられ続けていたのでもう諦めのような気持ちでいるようなところはあったけれども、蓮君は他人だし、別にそこまで陰湿な嫌がらせをされてまでも妹の面倒をみる必要なんてないから。


 蓮君は確かにプライドが高かったけれど、でもそれは彼自身の心のきれいさとか高潔さとも一緒になっているもので、持って生まれた魂の気高さとか綺麗さとか、何かそういったものにも関わるようなものみたいだった。小学生の男の子にでもちゃんとそういうものがある。自尊心は大切な尊いものだわ。決してそれは反抗的で良くないもの傲慢なもの我儘なものなんかではなくて、たとえそういう側面があったとしても、それは関係性からくるものだったりする事が多い気がする。全部が全部そうではないかもしれないけれど、少なくとも健康的な意味での自尊心はとても大切なものだもの。自他の感情に境界線をきちんと引いて思考を機能させる能力にも関係している大事なものでもあるし。


 けれど、妹はそれが気に入らないのね。母にもそういうところがあった。まるで自分よりも下か同等に貶めないと気が済まないみたいなところがあった。そうした在り様を認めたくないみたいで、それを陰湿なやり方で何とか打ち壊そうとする。陰湿で巧妙なあの手この手を使って、その境界の壁にヒビを入れて、そこを自分の要求を通すための入り口にしようとするだけではなく、その人自身のプライヴェートな領域にまで土足で侵入して支配したり操作しようとするような、異常といってもいいほどに強引で執拗なところがあった。


 父が亡くなったことを父の学生時代の友人だった人に知らせた時に、その人は父のことを、プライドが高くて高潔な人だった、と言ってくれたんだけれど、私は父のことを理解してくれていた人がいたことにちょっとほっとした。晩年の父は、本来のその精神性の核は残っていたけれども誤解されていて、逆にそれが最悪の形で作用してしまうような悲劇に呑まれていくようで、まるでどうしていいかわからずに混乱の渦に押し流されて呑まれていったように思える。


 母や妹のような人たちとずっと関わり続けていたら、私もそうなっていたかもしれない。父のような死に方をしたくなければ、今後一切関わらないことだ、と自分でも思っている。たとえ相手にどんな事情があろうとも、一切もうそこに耳を貸す気はないの。


 血のつながりだけで家族や共同体の仲間としてやっていけるとは限らないし、それが何よりも大切な濃い絆というわけではない。結局は人と人との関係なので各々の個人としての在り方や関係の持ち方次第で、血縁関係よりもその人自身の在り方、関わり方の方が重要なものなのだと思う。自分の母親が亡くなるよりも主人の母が亡くなった方が悲しい。とてもお世話になったしよくして頂いたから」


「お母様も亡くなられたんですか?」


 私が尋ねると、


「まだ生きてる」


 静香さんは笑った。喩(たとえ)で言っただけ、と。

 沙羅は何となく視線を伏せて紅茶のカップを手で包むようにして持っていた。


「よくわかります。でもそういうものだときちんと心も体も理解するまでにはちょっと時間がかかる気がします。特にその相手に世話をされ育ててもらったという背景があれば、それがどんな関係であっても自分を構成するものとして既に組み込まれてしまっていて、その中にはいい記憶もあったりする。それがほんの僅かでも沢山あっても愛の記憶自体は消えないから、今も愛情があるとかは一切関係なく、心や体に刻み込まれた記憶に引き留められたりもする。そこを本当に振り切っていくには時間もエネルギーもいる」


 静香さんは沙羅を見つめていた。

 そして言った。


「本当にそうね」

「頭で理解するのとそれを心や身体のレベルでも理解するのとでは次元が違っていて、その分、自分の中にあるいくつも次元を統合していくだけの時間がかかるような気がします」

「面白いこと言うね」


 私が言うと、沙羅は


「だって本当にそんな感じなんだもの」


「家族って人間関係の縮図だから、その共同体や集団の問題が、より具体的に切実に自分に迫ってくるようなものでしょう? その中に自分自身も関与していて、自分自身の在り方も関わり方も切り離すことができない構成要素になっている。


 その混沌とした生命同士の濃いスープの中でしか学べないことがあるのかも知れない。だからと言っていつまでもそこに関わっていなくてはならないというわけではなく、結局自分次第なのよね。たぶん。


 そこから自分に必要な知識や智慧を学び取り卒業していくのも、惰性やしがらみでそこに留まるのも。


 それが安定した帰属感をもたらすバランスの良い健康的な関係性ばかりではないから、一概に家族や血縁関係が良いもの絆が深いものだとは言えないし、そこに関わり続けることも本人にとって本当に必要か適切かどうか、ということなんだけれど、なかなか思い込みや刷込みのようなものの潜在力も強くて、そのいくつもの呪縛や封印を解いていくということは、あなたの言うように、結局は自分自身にあるいくつもの次元に渡って呪縛や封印を解いて統合していくことにもなるのかもしれない。それだけ深いレベルで全身全霊を使っての成長の機会にする事も出来る」


「そう、そうなんです」


 沙羅は目を上げて静香さんを見た。二人はしばらく目を合わせていた。


「それぞれに課題を抱えている生身の人間が集まって切磋琢磨(せっさたくま)する、そういう生命の濃いスープ、混沌(こんとん)。でもそこから自分として、個として、自律した存在として立ち上がっていく必要がそれぞれにあって、その分化の過程そのものがその人自身を自分で創り上げていく。その人自身の人生を自分で創り上げていく。そうした機会でもあって、それは大きな意味では、もしかしたら恩寵や祝福のようなものなのかも知れない。そんな感じがします。どう捉えるかはその人次第だけれど」


 私は何となく沙羅らしいなぁ、と思っていた。

 彼女自身の核であるところの基本姿勢は、何があってもぶれないからだ。

 それは外側からも内側からも揺すられて翻弄(ほんろう)されることがあったとしても、結局は自分自身が一体なにものであるか、どうありたいのか、という問いへの応答を自分自身の輪郭を、より鮮明に浮かび上がらせていくものなのだと思う。


「自分自身の感情の面倒は自分で看(み)る。自分の責任を自分自身でとるということには、何か外側にある物事、関係する相手の問題に関与し続けて相手の領域に侵入したりしないことも含まれるのだと思う。


 必要以上に相手の面倒を看たり世話をする事で相手の領域に干渉していくこと自体が、自分自身の感情の面倒を自分で看れていない、他者との関係を使ってそれを何とかしようとしている、ということなのだと思うのだけれど、家族だとそれが分かりづらい。


 社会でもそれを推奨したり義務として要請しているのもあるけれど、そういった思い込みや刷込(すりこ)みを脱して現実をありのままに見ていく、状況を識別していくには、やっぱり時間はかかる。


 そしてその分、その間に互いに与え合う影響も大きく切実なものだったり深刻なものになったりもするけれど、それだけ間近で見れるということでもあるのよね。


 直接知として体感して経験することで学んでいく。成長したい学びたい探究したい、そういう深いところからくる魂の望みに対しての祝福とか恩寵のようなものなのかも知れない」


 互いに頷(うなづ)き合っている二人を眺(ながめ)めつつ、私もちょっと口を挟んでみた。


「混沌からの分化の過程って、要は自律性をもった一人の人間として成熟していく過程?」

「そう、その通り」


 沙羅が頷いた。


「自分自身の感情についても自律性を保つ、ってけっこう大切なことなんですね」


 私がそう言うと、静香さんは頷いた。


「共感とか優しさとか思いやりとか協調とか、社会で推奨されている道徳的な徳目が逆に分かりづらくさせている側面もあるんだけれど、物事って当たり前だけれど一面だけではないでしょう。でも根強い善に対しての信仰みたいなものがあって、それを絶対的に良いものとしてあまり疑わない人も多い。思考停止していて、一律にそれに適応させればいいと思い込んでしまっている場合も多い。そうするとそこを温床にして蔓延(はびこ)るものもある。


 自分自身の問題を他者の問題と融合(ゆうごう)させ、巻き込み、その関係性や集団に溶解(ようかい)することで、本来の自律性を持った自分自身の問題/自分自身の感情に対しての責任も放棄してしまう。責任転嫁してしまう。そしてより複雑にしてしまう。大きくしてしまう。少なくとも家族という人間関係の縮図の中から私が見てきたものはそうだった。


 個々の感情や意思は自由に表現される必要はあるけれど、少なくとも自分は自分の感情としてきちんと自律して在るのであれば、団子状からペースト状になって関係性や集団の中に溶解してどんどん余計なものを付着させ、飽和(ほうわ)させてしまうことは防げるのではないかしら? 


 共感というものの悪しき側面も、もっとちゃんと見たほうがいいと思う。共感が権力をもつこととイコールになる。集団の持つ深刻な問題にはそれがたいてい関わっている。個として自律して在ることが、戦争のような大きな悲劇を防ぐ一番の近道なのではないかしらって思うの。


 個として自律して在るということは自律した状態で協調性や関係性を機能させることもできるということだし、優しさや思いやりや共感を否定するものでもない。ただ従来の価値観でつくられてきたものとは違った様相にはなるとは思うけれど。


 それは必ずしも分断や断絶を意味しないのよ。それも含めての、もっと大きな、寛容で、自由な、緩やかな協調関係や共同体としての在り様を見出していく手がかりになる可能性があるものなのではないかしらって」


「虐(いじ)めの構図とかにもそれがありますよね。集団で犠牲の血を求める情動や衝動に溶解していく。個々できちんとそれに対して責任をとろうとしないでべったり融合して襲いかかって祝祭を楽しむようなところ。その変性意識での快楽を楽しむようなところ」


「戦争ってまさにそんな感じなんじゃないの」


 沙羅が言った。


「そうだね。あまり表には出ないけれど、戦争体験者には戦争は楽しかった、という意見も実際にはあるよね」


「社会の中で推奨されている道徳徳目や善への信仰が真実を見えづらくしている側面はやはりあって、それを全て否定はしないけれど、それがあまりに大きく完全なものかのように表にあるので陰になって見えなくなってしまっている部分にも自覚的になることは大切な気がするの。そしてそのヒントは身近な関係性の中にある」


「なんだかよくわかります」

「私も」







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