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「テロリズムのサイコグラフ?」
ちょっと驚いて訊き返した私に、聖一さんは説明してくれた。
「うん、興味深いことに今までに世界で問題を起したカルトなんかのテロリストたちはみな同じサイコグラフを持っていて、その認識の枠組みは、神話‐メンバーシップ段階。順応的、伝統主義。この伝統的枠組みは宗教‐神話システムの思考と信条によっている。宗教的な信条、絶対的な価値、伝統‐順応主義的な倫理を支持することを語るけれど、実際の彼らの行動はその段階より下にある力の崇拝の段階にある。強烈な権力衝動や自己中心的な衝動が彼等の自己の重心なんだよ」
私は目を丸くして話に聞き入ってしまった。
「彼らは自己の重心をおいている段階よりも上の段階の認識の枠組みを使い言葉を語るけれど、実際の行動はその下の段階のまま。理想や正義を語るけれど、実際の行動は自己中心的で強烈な権力欲に支配されている。機会さえあれば、自らが語る理想や正義も分解してしまう」
認識の枠組みの段階と実際の行動の枠組みが異なっていて、自己の重心は実際の行動の方の段階にある──なるほど。これはよく見られる現象かもしれない。
「言っている事とやっていることが違う人をよく見るけれど、そういう感じなんだ」
「人の言う事よりも実際の行動を見るのは、この意味からも理にかなっていると言えるよね」
「確かに。正義を語っていながら、いじめや嫌がらせ、犯罪やテロ活動を実行している時点で本当におかしい。でもそれは本人の認識の枠組みの段階よりも実際のその人自身の重心が低い段階にあるからなんだね」
「そう。その力の崇拝の段階も、かつてその時代においては適切だった世界観の段階ではあるけれど、現代社会に対応するとマフィアなんかの世界観だね」
「なるほど」
私と聖一さんが話している間、レネ君は黙々とタルトを食べていた。お行儀よく小さいお口でもぐもぐ咀嚼している姿は何だか小動物みたいで可愛らしい。
「ついているよ」
ほっぺについているクリームをティッシュでふき取ると、彼は少し照れたように笑った。
私は彼を微笑ましく思いながら、そういえば、と思い出した。
「知性や意識に発達段階があるのはわかったけれど、それには健康的なものと不健康なものがあるのじゃないの? 以前、レネ君に、いじめや嫌がらせ加害を愉しんだりする人たちは、発達途上のどこかで暴力や加害侵害で快楽や利益を得ることを学習していて、それを自分で選択するうちに脳の機能自体も変わってしまうんだって教えてもらったのだけれど、基本的な能力が育つ前に自分自身の葛藤や不安を外化して快楽や利益を得ることを繰り返した人は、人間として必要な基礎や根幹がきちんと健康的に育まれていないとの事だった。それはつまり、健康的な成長をしていないってことだよね」
私がそう尋ねると、聖一さんは頷いた。私は続けて尋ねる。
「基礎や根幹にひずみがあったり問題があれば、それをくるんだまま成長することになるでしょう?」
「そうだね」
「それって遡って修正したり修復できないの?」
「できるはずだけれど、それには本人がまずそれを望まないと」
聖一さんがそう言うと、レネ君が口を開いた。
「誰かや何かを犠牲にして快楽や利益を得ることを学習してそれを繰り返し選択して強化した場合は、脳の機能自体も変わってしまうのと、関係性の在るところであればそれを比較的簡単に得ることが出来るという条件が揃っていると、なかなか本人はそれを手放さないよ。本人にとっては健全な在り方を身につけていく事は自分にとって不利益で損しかないと感じるだろうから」
聖一さんも続けて言った。
「それを超える何か強い動機や意志がないと難しいのが現実なんだよ。でも不可能ではない。本人次第だね」
「つまり、それは可能なんだね?」
「可能性はあるよ。ただそれを外からどうにかすることはできない。内側からの強い動機や意志、、内発的なものでしか成し得ない。本人次第なんだよ」
「そう。それでも不可能ではないんだね」
何となくほっとしていた。何らかの理由で発達上のどこかの段階で基礎や根幹への健康的発達阻害を受けるという事は、加害者自身もかつて何らかの意味で被害者であったという事が考えられるからだった。人としての根幹や基礎がきちんと健康的に育まれなかったからと言って、そこから先何をやってもダメなら、あまりにも救いようがなさすぎる。暴力は学習だから、それに幼少期に曝される環境に否応なく置かれるという事は、決してその後のその人自身の選択に関して本人が責任を負わないという事ではないけれど、それでも戦争や犯罪、虐待、カルトテロリズムやマフィアからの加害侵害に否応なしに曝される被害者にとっても言える事だからだった。
「依存症の人がそれを克服するのに全てを失う底つき体験を通して自分自身を変容させていく過程があるのだけれど、それと同様かそれ以上の何かがないと、そうした人が本質的に自分自身を変えるのは難しいと思うよ。自分自身の葛藤や不安を他者を犠牲にして処理する外化構造を未熟な基礎や根幹を支えるための精神内界構造にしてしまうのは、始まりは安易なものであってもそれくらい重たい影響を生涯にわたって及ぼすものになる。だから、本人が更生したと言って反省しているそぶりを見せたとしてもそれは信用できないものである可能性が高いし、実際にはその問題の方が加害者の更生よりも注意が必要だしね」
レネ君は淡々とした口調でそう言った。
「現実はかなり厳しいんだね」
「犯罪やテロリズムを実践してしまう危険性を考えたらそれは仕方ないことだよ」
まだまだ甘い考えが抜けないのかもな、と私が黙って考えていたら、聖一さんが言った。
「結局は本人が望まない更生はそもそも意味がないからね。そして本人がそれを望まない可能性の方が高いから」
そうか、反省したり更生したりというのも、人としての根幹や基礎がきちんとあってのことだもんね。そこにそもそも問題があるわけだから、悩ましい所だけれども、これが現実なんだろう。それに、本人からしたら、偉そうに更生や正しさを押し付けられたと感じるとか反抗心の方が自然かもしれない。
「神奈ちゃんがその立場に立たされたとしたらどうする?」
「テロリストの? そもそもカルトに洗脳されていたら自分がおかしいって思わないんじゃないかな」
「洗脳までされなくとも、それを自分自身で選択している時点で何かそうした因子がその人にはあるという事だから、それを打ち破るだけの大きな何かがないと、自分の在り方に問題があると考えてそれを変えるのは難しいと思わない?」
「そうだね。……うん、そうしたい理由か何かがその人にあるから、それが全てなのかも。そしてそれを外側の正しさの基準でどうこうできるとしたら、その人自身の中にそれに呼応するような、ある程度健康的な感覚や倫理観があってのことだもんね」
「彼らのしている事がそれで免責されるわけではないけれど、人として大切な基礎や根幹そのものがないからどうすることもできないし、それを健康的に育みなおそうと思っても、まず本人がそれを望まない可能性の方が高い。むしろ正しさや倫理の基準そのものを相対化してそれを分解させてしまう。そういう存在様式のひともいるんだよ」
「そのように生まれて死んでいく、ということ?」
「そういう一生もある」
──つまり、私が私の基準や感覚で見ているだけのことだ、という事か。
「正しさや間違いや善悪でもなくて、そういう存在の在り方も世界の一部で、そのひとの魂がそれを望んでいる?」
「そう」
「そっか」
やっぱり、聖一さんやレネ君の見ている世界は、私が見ている世界より深くて、深遠だ。現実の問題や責任、その解決について否定も逃避もしないけれど、また別の視点からもそれを見ているから、彼らはそれぞれの在り方を尊重した自然や時間にゆだねる基本的な姿勢を一貫して保っているように思う。消極とは根本的に異なる、高度な自制、抑制的な保持の姿勢とでもいうか。独特の流儀があるように思う。
「堕ちていく事も含めてそのひとに必要な経験で、そこに人間的な情や善はあまり関係ない。自分で選択をしてその責任を身をもって引き受ける、魂にとってはその方がずっと大切なんだよ」
高校生の頃によく聴いていた歌を思い出していた。授業をさぼって礼拝道で居眠りしながらよく聴いていた。マリア像の前でそれを聴いていたので、まるで歌の内容そのままに、自分に語り掛けられているみたいに感じたものだ。
「Let it Be (あるがままに)?」
聖一さんは私をじっと見つめてから、ふっと微笑んだ。
「聖一さんもレネ君も、問題や解決、責任について否定しない、と言うより、普通の人よりむしろ厳しい見方をしているにもかかわらず、独特の流儀で在り方そのものを尊重するような姿勢を保つよね。時間や自然にゆだねるみたいな感じで」
私がそう言うと、彼らは互いに目を合わせていた。レネ君は肩をすくめた。
「そんなこと、初めて言われた。でも言われてみると、面白いね」
「僕も初めて言われたけれど、神奈ちゃんはよく見ているんだなと少し驚いてもいるかな」
「そうでしょう」
少し得意げに私が笑ったら、思いのほか聖一さんに優しく微笑まれてしまった。
「君は本当に、見ていて楽しいよ。どうかそのまま、君がのびのびとすこやかであってほしいと願わずにいられないくらいにね」
なんだか赤くなってしまった。だってなんだかあまりに優しく言うから。
「カンナが真っ赤だね」
「それを言ったら、また赤くなってしまうんじゃない?」
私は恥ずかしいやら照れくさいやらで、いたたまれない。でも嬉しい。ものすごく、嬉しいのだった。聖一さんに見守ってもらってここまできて、自分なりに試行錯誤しながらも少しは成長したようにも思っていて、それを何となく認められたような気もしたから。
「何だか思わぬところから花丸マークをもらってしまったみたいなきもち」
私がそう言うと、聖一さんはあはは、と明るい声で笑った。
「君が僕らをよく見ているのも、そこから何かに気づくことにも、君らしさがよく出ているんだよ」
「私らしさって何?」
僕わかる気がする。レネ君は言って、「カンナ自身も、今僕らに見ていたものの素地の様なものがあるんだよ。だから気が付いたんだろうし。意識化したんだよ」
「素地? そうなれたらいいな、くらいの憧れの目標みたいな気持ちはあるけれど、自分があなた達みたいに、それを出来るとはあまり思えないけれど」
「気が付く、意識に上る事自体が、君の潜在的な可能性や課題を示しているんだよ」
聖一さんは私の目をじっと見つめて、それから続けて言った。
「君自身の達成課題みたいなものかな」
「……達成課題」
彼らの独特の流儀が? それを身につけるということ? ええ? 無理でしょう。だって彼らみたいな鳥の視点をもっていないもの。彼らの深遠な世界には憧れるけれど、それは彼らが特別な視点を持っているからで、だからこそ達観しているのだろうけれど、私にそんなものはない。
「うん、君は今、自律性の段階にいて、それを敷衍していく課題の真っ最中」
聖一さんは私を見つめてそう言った。
「カンナが僕らに見たものは、カンナの未来の姿で、どんぐりが未来の樫の木に呼ばれるみたいなものなんだよ」
「ここまでおいで、って、未来の樫の木の姿がどんぐりを呼ぶから、どんぐりは樫の木になるために一生懸命、成長するんだよ。未来の自分の姿が今の自分を牽引する原動力になるのは、不思議な事ではないでしょう。みんな何かの理想像や青写真を心に描いたりして、それに向かって努力したりするんだから」
「……なるほど」
そのものの在り方を尊重して時間や自然にゆだねる姿勢を言い換えれば、自律性の尊重になるのかもしれない──そう考えると、何となく、作為そのもの、しかもかなり過ぎた作為を顕現する反面教師の存在についても腑に落ちるような気がした。




