18
夕陽が照らす金色の光に染められた草原の向こうには光を映すようにひろがる湖。これから沈みゆく太陽が光の色彩で彩る魔法みたいに美しい空。やがて訪れる夜の闇の前に、ひととき光の色彩で美しく世界を染め上げていく。告別の贈り物。
湖の見える丘に聖一さんと二人で立って、夕陽を眺めていた。少し強い風が吹いていた。雲が流れてどんどん形を変えていく。湖を吹き渡る風が湖面を繊細に揺らして光を跳ね返し、水面の上で光が細かく振動して踊っているように見えた。
聖一さんと一緒にここから向こう側の風景を眺めていると、いつも不思議な気持ちになる。痛いような郷愁にいつも心を掴まれる。かえりたい、帰りたい、還りたい──でも一体どこへ? わからないのに、とにかく還りたくてたまらなくなる。彼が隣で手をつないでいてくれている分、少しは気分が楽だけれど、でもこの気持ちはどうしようもない。自分でもどこに還りたいのかわからないのに、そこへかえりたい。
痛いようなノスタルジーに心を掴まれるようにしていたら、隣で彼が私を見つめていた。そして私と目が合うと少し微笑んでまた前を向いた。
いつも旅先にいるような、寄る辺の無い、流離感のようなもの。漂泊する魂の孤独。その自分が自分であるがゆえの根源的な悲しみやしんとした寂しさのようなもの──そんなものが、私と彼を繋ぐものだったような気がする。
実際には私にも彼にも帰る家もあり家族もいて愛されて育ってきたというのに、それでもいつも寂しかったし、いつも帰る場所をもとめていたし、そこへかえろうとしていた。誰といても笑っていても。愛する人もいるというのに。
そのひとがそのひとであるがゆえの孤独というものはあると思う。周囲の状況や環境の条件に関係なく、それはもっと根源的な孤独で、彷徨う魂の孤独のようなもの。故郷を遠く離れて流離う魂の孤独だと思う。幼い時からもう既にそれは気づいたらあったし、何処に誰と居ようともいつでもそこにあるものなので、それはもう人生の旅の仲間のようなものだけれど、それを抱え、ひとり歩いていく。どこまでも一人──そうして生きていく、それに気づいている、そういうものだと知っている、そこが彼と私を繋ぐものなのだと思う。
「自分が自分として生きていくことそのものから誰も逃げることはできないんだよ。誤魔化したり幻想の安心を一時的に得ることはできたとしても、それを失った時の苦しみといずれは向き合わなければならない。自分の道を、自分の足で立って、歩いて行くしかない。そうして初めて本当に魂の仲間として協力ができるようになっていくんだ」
彼はそんなことを話していた。
私はどちらかといえば、ものすごく頑固で意地っ張りの塊みたいなところがあって、そんなにひとの話を素直に聴くようなタイプではない。そんな私に根気よくつきあうようにして彼が色々なことを教えてくれたので私は彼の話を素直に聴いていたのだと思う。その根気の良さとは何も延々と私に付き添うとか話し相手になるとかではなく、ときには無礼で露骨な私の反発心や口答え、むき出しの感情にすら、彼が常に一定の姿勢を崩さなかったからだと思う。余計な誤魔化しがない。余計な甘さも辛さもない。揺るぎない静けさと、落ち着き。そして礼節をもって、逃げたり怯んだりすることも一切なく、真っ直ぐに私の心に入ってきたからだった。彼のその姿勢が、私にとってある意味で理想の在り様だったのだと思う。どこまでも広がる夜の砂漠を一人歩くような道のりを、遠くから輝き導く星の光のようなものだったのだと思う。
瑤子さんは3月の終りに元気な男の子を出産した。
周りから色々と言われても海は生まれた子供と瑤子さんに会いに行くことはせず、弁護士さんを通じてDNA鑑定の要請をしていたけれど、彼女は承諾しなかった。
海は淡々と自分の問題に対処することにしたようだ。迷いの中で傷ついてどこか逃げ腰だった事に覚悟を決めてあたることにしたことで、彼は彼自身の在り方をどこか深いところから変えた。自分で自分の身を守ることに対しての罪責感を振り切ったみたい。私に軽蔑されるんじゃないかとか言いながら、実は自分が自分のことをそう思って責めていたのだ。そしてそれが彼の致命的な弱さになってもいたのだ。
彼はとても大人びた。静かにどこか深いところから物事をじっと見ているようなところは以前からもあったけれど、そうした老成した雰囲気が前面に出てきて、落ち着いた神秘的なムードをもった一人の成熟した大人の男性のようになっていた。
気づいたら私を静かに見つめていることがよくあった。
目が合うと優しく微笑んでくれる。
少し距離をもって見つめていたり、そばにいたり。なんとなくいつも穏やかで静かだった。ぐっと距離を詰めてくるようなちょっと息詰まるようなところはなくなった。もっと静かで落ち着いたちょうどいい距離感。どこか安心するような雰囲気で見守っていてくれる。
彼は両親に私とのことや瑤子さんの彼氏のことや、自分が考えている事など全部腹を割って話した。そうしたら彼の両親が全面的に海をバックアップする方に回ってくれて、一転方向転換することになった。両親の理解も得て弁護士さんに依頼するなどの現実的な対処もトントン拍子に進んだ。
私たちは互いの両親に付き合っていることを今までずっと内緒にしていたので、海の両親はすごく驚いていたみたいだ。
結果としてはばれてよかったのかも。
何となく静かに毎日が流れていった。
「何であんなに義理や忠誠心のようなものに縛られていたのかなと思うけれど、どこかで自分で覚悟を決めてしまったら、そこからは自然に解けていったみたいな気がする。もうどうなろうと自分ができることをしていくだけだって。今となっては、なんであんなに背負い込んでいたのか、自分でもよくわからない。それは自分にとってたいして必要でも大切でもないもの、守るべき価値のあるようなものでもなかったのに、自分を守ることを犠牲にしてまでも守らなければいけないようなそんな気がしていたんだ。周りに瑤子のことを悪く言うような事をしてはいけない気がして、事実として伝えておく必要があることすら黙っているべきのように思っていたんだ」
海はそう言って私に謝った。
「自分でよけいなものを背負い込んで苦しくなっていたようなものなのに、守るべきものを間違えていて、本当に守るべき相手にその負担を背負わせてしまった。実際に俺がしていたことは、神奈を犠牲にして瑤子の名誉を守ろうとしていたようなものだし」
そう言われると何となく腹が立ってくる。面白くないな。むかついてきた。
海は私をまっすぐ見つめながら言った。
「怒っていいよ。実際神奈に甘えて酷いことをしていたんだし」
私は彼を見つめた。
何だか覚悟を決めた殉教者みたいなかおしている。
「そのときは私を犠牲にしてでも瑤子さんを守りたかったってことだよね?」
「そうじゃない。でも、実際にはそういうことをしてしまっていたから、そう思われても仕方ないんだけど。自分の中で勝手に創った規制に縛られていて、でも自分でその自覚がないから、自分でもどうなっていくのかわからないしどうしていいのかもわからない、そのまま目の前で神奈のこともどんどん失いかけていてどうすることもできない、不安や怖さだけが膨らんでいったみたいな気がする。それを力づくで追い払いたかったんだと思う。でも実際に俺がしたことは、神奈を力づくで押さえつけることだったんだ」
できるだけ淡々と、冷静に、そういう感じで海は私に答えていた。視線を伏せて、内側に沈み込むようにして。可能な限り自分の内奥を見つめてさらけ出すように言ってくれているようだった。
それが彼なりの誠意なんだな、と何となく私は思った。
「他にも訊きたいことがあれば、自分でわかる限りはちゃんと答えるよ。むしろ訊いてほしいんだよ。そうじゃないとちゃんと伝えることもできないから。わかってほしいというより、ちゃんと伝えられるうちに伝えておきたいんだ。後悔するのは嫌だから」
「もうないよ。思いつかない」
私がそう言うと、海はわかった、と言った。
私は何となく沙羅に言われたことを思い出していた。
「沙羅が私に言ってくれたの。大きく見せることも小さく見せることもしなくていいんだって。罪の意識に縛られて頭を垂れて跪いて祈り続けなくてもいい、ただ自分の歩いて行きたい道を等身大で楽しんで歩いて行けばいいんだって」
海は私をじっと見ていた。
それから言った。
「自分にそれを許すことは神奈にも許すってことだから、何となく複雑な気持ちだ。どこかで自分で自分を縛っていた方が気持ちが楽みたいなところがあるのか、単に神奈を縛っておきたいのかわからないけれど」
「罪の意識に縛られていたいの?」
「たぶん。そうしておけば安心するのかも」
「へんなの」
私がそう言うと、海は私を見て言った。
「あまり自由になりすぎるのは不安なんじゃないかな。自分だけではなく、相手にもその自由を認めるってことで」
「でもそれでは、自分も不自由なんだよ?」
「でも安心はする」
「安心したいのはわかるけれど、それと引き換えに必要もないのに罪の意識に縛られ続けるなんて、自分で自分を不幸にするものでしかないんじゃないの? それってデメリットの方が絶対大きいよ」
海は黙った。
なんか考え込んでいるな、と何となくわかった。
「全然保障になってないよ。バランスが悪すぎるもん」
私がそう言うと、海はちょっと吐息をついた。
「神奈の言うことはわかるけれど、たぶん、人間ってそんなに変化を受容できないんじゃないかな。できるだけ今の状態を保ちたい。特にそれがうまくいっているのなら、なおさら。そうして安心していたいんだよ。何が起きるかわからない不安な状態にずっと曝されているくらいなら、不自由でもいいから自他共に縛りを掛けておきたい。それが罪の意識の形であろうと何らかの決まりだろうと、同じ。規制をすることで安心を買うのには、収支のバランスはあまり関係なくて、むしろアンバランスでも構わないものなのかもしれない。たぶんそれが幻想であってもそれに頼りたい気分があるからなんじゃないかな」
私は彼を見上げて、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「でも幻想は幻想でしかないから、いずれムダなものだったってわかるときがくるよ? そしてそのときになって、自分の人生の時間やエネルギーをそのせいで既に消耗していて、残り僅かになっていたらどうするの? その方が後悔するんじゃない? 人生の時間もエネルギーも限られているんだよ? 意味もなく自分の手足を縛ってそれを無駄にしてどうするの? どっちにしろ、いずれ自分の道を、自分の足でひとりで歩いて行かないといけなくなるんだよ?」
海はちょっと口もとを引き結んだ。
そして言った。
「神奈は一人で歩くこと前提なの?」
「一緒に歩くことはできても、自分の道と相手の道がいつまでも一緒だとは限らない。自分の道だから自分の道なんだよ。同じようにも相手にも相手の道があるんだよ。それに、自分の道を自分で歩くことから逃れることはできないよ。それが早いか遅いかだけで、いずれはそこにひとりで立たされるんだから」
海は私をじっと見て言った。
「神奈はそう思っているってことだよね」
「そうだよ」
「神奈の言うことの方が真実なのかもしれない。でもむき出しの真実に曝されているよりも、一時的にでも不安から逃れたかったり、安心したい気持ちは理屈じゃないんだよ。本当はいつ何が起きるかわからない、どんな条件だろうとそうだけれど、それをいつもいつも意識していることで神経が磨り減るくらいなら、一時的にでも幻想でもいいから安心していたい」
私は口を引き結んで彼を見つめた。ちょっと怒っていたのもある。
この期に及んで何を甘いこと言っているんだ。
全然海らしくないじゃないか。
「でも、海は、以前言っていたよ。死んでから後悔するのは嫌だなって。それくらいなら、一瞬先が闇だってことを忘れないでいたいって。それが平常だっていうくらいにしっかり│肚決めして生きていく方がいいって、そう海が言っていたんだよ。あの時の海はどこにいってしまったの?」
海の周りの空気が一瞬、変わったのがなんとなくわかった。ぴりっとした清冽な空気。目が変わったのだ。それは奥から光るような眼だった。何だか瞳にこもる力がぐっと強くなったような。口元も怒ったように強く引き結んでいる。
それからはあ、と大きく吐息をついた。
「なんか、情けないな。すっかり忘れてたよ。でも思い出した」
意志の強そうな瞳で苦笑した。
冷静でも優しくても本当は負けん気の人一倍強い子供の頃の海の目だった。ぐっとエネルギーを凝縮したような、底で何かが光る眼だ。ぐっと瞳の力で圧してくるような、物怖じしない眼。真っ直ぐにぶつけてくる強い眼差し。
あ、なんか、戻ってきた。
私はちょっとほっとして笑った。
「よかった。思い出してくれて」
「なんか、目覚ましのびんたをくらったみたいな気分だ」
言って海は笑っていた。
「目が覚めたならよかった」
「本当にすっかり忘れてたよ」
「思い出したんだからもういいんじゃない?」
「うん、何でぐずぐずになっていたんだろう。一瞬で景色が切り替わった」
「幻想の安心って麻薬みたいだね。いつの間にかそれに耽溺させられてしまう。気づいたらもうそうなっている。そうして麻痺させて本来のその人の力を弱めてしまう。本当に生きていく為に必要な、野性の力や感覚を弱らせてしまう」
結論から言うと、海の一連の問題は思わぬ展開で終了を迎えた。カギになったのは、あの名刺だった。念のために弁護士さんに預けて弁護士さんの方から相手方に連絡を取ってもらったところ、相手が自分の子どもだとあっさりと認めた。DNA鑑定で確認済みなのだそうだ。離婚協議中なので表沙汰にはできないけれど、将来自分の子として籍に入れる意思があるとのことだった。何故瑤子さんが海との子どもだと言い張ったのかはわからないけれど、不倫関係がばれそうになっていて、相手の奥さんから訴えられそうになっていたことも関係あるのかも知れない。
海が自分の問題に本腰を入れて当たる覚悟を決めて当たったところ、思わぬ展開で解決をしたみたいな感じ。でも、もしかしたら彼女は彼女なりに海に本気だった可能性もある。海自身も始めは割り切っていたつもりでのめり込んでいたわけだし。いずれにせよ、彼女からの要求は取り下げられて、そのまま和解も何もなく事件が終了した今となってはわからないことだけれど。




