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海との関係はなんとなく良好で、とりあえず私に負担のかかるものではなくなった。彼の得体の知れないような暗い情熱がなくなったというわけではなくて、それよりももっと面白いものを見つけたという感じに近いけれど。身体も心も魂も全身全霊全部使ってのコミュニケーション、と頭を切り換えたことで、私の姿勢が変わったのもあるのかもしれない。海は特にあれ以来、私を無理に押さえつけようとかしなくなった。それより行為も含めてのやり取りを素直に楽しんでいるみたいだったし、私もそれを楽しんだ。
性に関する関心はそれ自体でも成立するけれど、それは相手あってのもの。お互いの在り方次第では最低なものにも最高なものにもなる可能性があるのかも。最低なものや最高なものがどんなものか知らないけれど、結局はコミュニケーションなので、とりあえずは、人の心の暗闇にどんどん引きずり込んで支配したり征服していくようなものばかりではない、もっと別の可能性があるってわかっただけでもよかったかも。
そんなわけで海との関係は保留のまま継続されて、その話を蒸し返すようなことは互いにしなかった。一度だけ海に聖一さんとのことを訊かれたことがある。私にとって必要な人だから海の為に会わないということはしない、私との関係をどうするかは海が自分で決めてほしい、とだけ私は答えた。その後は彼の方からそれを訊いてくることはなかった。
海の部屋のベッドで彼に借りた本を読んでいたときのことだった。隣で海は私の髪を弄んでいた。本の後ろに何か挟んであるのに気づいて私は何気なくそこを開いて見た。名刺が挟んであったので、彼に
「これ、邪魔なんだけど、必要な物?」
と尋ねた。
海は私の手の中にある本を覗き込んで、何となく微妙な表情になった。
何かあるな(女のカンとはこういうものらしい)と思って彼を見ていたら
「捨てていいよ」
と海は言って私の頭にキスした。
その名刺は男性の名前のものだったし、裏側に携帯電話の番号らしい数字が手書きで書かれている以外特に変わったものではなかった。有名な企業のそれなりの役職者の名刺だった。
「そう」
言いながら私は何となくそれは捨てずにそのまま挟んで置いた。そして海の顔をなんとなくじっと見ていたら、海はちょっと気まずそうにしたので、やっぱりなんかある、と確信して
「何でそんな気まずそうにしてるの」
と訊いてみた。
「そんな怖い顔するなよ」
「もともとこういう顔だよ」
別に怒ってないのに怖い顔扱いされて、私はちょっとむっとしていた。
海は黙りこんで私をしばらく見つめていたけれど、その内にちょっとむすっとして言った。
「それは瑤子の彼氏の名刺」
瑤子、とは海が妊娠させたという年上の彼女のことだった。
名前だけは知っていたので、私がそれに反応したのをじっと見ていた海は
「神奈が知りたいなら話すけど、知りたくないなら俺も今ここでそんな話、したくない」
聞きたくないし知りたくもなかったけれど、こうして何か事情を秘めたような物が出てきて、それを目にした以上は気になった。何となく、訊け、と私の中の何かが告げていた。私は海に言った。
「知りたいから話して」
海はため息をついてから、私の手元にある閉じた本に目をやった。
「瑤子にはもうずっと長くつき合っている彼氏がいて、その相手とは不倫関係だったみたいだ。その男から俺に連絡があって、何かと思って会ったら手切れ金みたいなものを用意されていて、瑤子と別れろって言われた。相手が瑤子の彼氏だと知らずに会ったから、突然の申し出に頭にきて席を立とうとしたんだけど、向こうがこの名刺を押しつけるように俺に渡して、瑤子と別れてくれるならもう少し用意してもいいから連絡をくれって言って去って行った。そのままその本に挟んだまま忘れていた」
私が海を見ていると、彼はちょっと怒ったように言った。
「瑤子と俺の関係は、それなりに恋愛関係だったけれど、もうちょっと割り切った関係だった。互いにゲーム感覚で楽しんでいたんだよ。瑤子の彼氏の突然の申し出が失礼なものだったから頭に来ただけ」
「瑤子さんの気持ちが本当に海に傾いていたからその人はそう言ってきたんじゃないの?」
「何が言いたいんだよ」
その瞳に僅かな鋭さをきらめかせて、無表情のまま彼は言った。
「割り切った関係って思っていたのは海だけだったんじゃないの?」
「違うね。瑤子はもっと女王気質っていうか、どっちかというと俺を弄んで面白がっているようなところがあったし。俺もそれを面白がってたし。そういうゲームだったんだよ。だから今回こんな風に瑤子が俺との子供を妊娠したことを盾に結婚を迫るなんて、本来ならあり得ないことだったんだよ。だいたい、本当に俺の子かどうかだって怪しいんだし」
私が海を黙って見ていると、海は静かに怒った。
私を睨んで詰るように言った。
「何だよ。軽蔑したの?」
ハリネズミみたいだ。と何となく私は思った。うっかり触ったら傷つけ合ってしまう。単に彼は自分の身を守るのに今は精いっぱいなだけなのに。心根の優しい彼はほんとうは傷つけ合うことだって本意ではないだろうに。
「違う。そう思うなら、何でそう彼女に言わないの?」
「言えるわけないだろう。向こうの親もこっちの親も一緒になって責任取れって言ってんのに責任逃れするみたいにそんなこと言ったら、余計に逆上されるかもしれないし。向こうは妊娠中だからあまり精神的に追い詰めるわけにいかないし」
私は彼を見つめた。
「でも、それって感情の問題と別問題じゃないの?」
彼は表情を変えずに私を見つめ、その瞳だけに剣をひらめかせる。
「何が言いたいんだよ」
海を静かにかなり怒らせてしまっている事に気づいてはいたけれど、特に怯むことなく私は答えた。
たとえこの会話が剣呑な雰囲気になっていたとしても、別に私は彼と喧嘩したいわけでも傷つけたいわけでもなかったから。
「彼女や周囲の心情に配慮して逆上させないようにするのはわかるけれど、海の子供かどうかっていうのは根本的に別問題でしょう。それはそれできちんと確認しないといけないんじゃないの? それを要求すること自体が心情への配慮を欠くっていうのは違うんじゃないの?」
彼は私の意図を計りかねるみたいにしている。
「でも実際にそんなことを言ったら、相手は何するかわかんないんだぞ。妊娠中で不安定になってるのか知らないけれど、俺の知っている瑤子じゃないみたいなんだよ。まともに話が通じないしできないんだよ」
そんなにはっきりと表情を変えたりするわけではなく、むしろ一見冷静そうに冷たくすら見える怜悧な彼の顔を眺めながら私はちょっと息をついた。
「そうじゃなくて、海の言うとおりに認知するにしろ、彼女や周囲の言うとおりに責任をとって入籍するにしろ、その前提条件として確認を要求するのって当然の権利でしょう? 何でそうしないの。周りにどう思われるとかはこの場合は関係ないでしょう。こっちは単に手続き上の問題でしょう」
海はちょっと黙った。
そして言った。
「そうだな」
「弁護士さんに頼めばいいことなんじゃないの?」
海は私を見て言った。
「神奈は俺がそうしても軽蔑したりしない?」
「しないよ。というより、誰がどう思うとか関係ないでしょう。海の問題なんだよ?」
海は黙って私を見ていた。
それからむすっとして言った。
「みんなからこっちの事情もお構いなしに四六時中責め立てられていたら、そんな簡単に思えなかったんだよ。それに自分の大切な相手からも軽蔑されるかもしれないって思ったら怖かったし」
「しっかりしてよ、海。あなたはもっと冷静な人だったでしょう? 私を助けてくれたときは、あなたはちゃんと問題に対して冷静だったよ。感情と対処を混同したりしていなかった。いつの間にか相手や周囲の感情に巻き込まれて、海の優しさや思いやりや感情につけこまれて混乱しているんじゃないの? それに誰がどう思おうと海自身の問題がそれに左右されるのはおかしいでしょう。そんなの本当はその問題に関係ないんだから」
海はもの言いたげな瞳に何かを揺らめかせるようにして私をじっと見ていた。
なんかものすごく色々な(面倒くさそうな)ことを考えていそう。
私は彼を見上げながらそんなことを思っていた。
「俺には関係なくなんかなかったんだよ」
「私は軽蔑したりしないし、海の問題に対して私の感情を挟むことはしないよ。それにそんなことされたくない。私をあなたの問題に無理に巻き込まないで」
海は私を見つめていた。
表情からは何も読めなかったので私は言った。
「何?」
「何か複雑だな。でも、少し肩の荷が下りたのは事実だし」
「そうなら、それでいいんじゃないの」
「うん」
「自分でややこしくしてどうすんのよ」
海は素直にちょっとむっとしていた。
子供みたいにあけすけな表情には少しほっとするところもあったのだけれど、次に言われた事には普通にむかついたので、私も即座に言い返して返り討ちにした。
「おまえって生意気。可愛くない」
「そんなの今さら知ったことじゃないでしょうよ」
海が更にむかっとしたのがわかったので、私もむっとした。
しばらくにらみ合ったけれど、海の方が先に折れた。
「やめよう、何で俺たちがケンカしないとなんないんだよ」
自分からケンカ売ったくせに、と思ったけど黙っていたら、海は私の頬にキスして自分に抱き寄せた。
「可愛くないとこも可愛い。それでいい?」
「どっちよ」
「どっちも」




