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別れを切り出したら、海はあっさりとそれを呑んだ。
「わかった」
それでほっとしていたら、彼は私をじっと見つめていた。陸はどこかに出かけていなくて、彼らのマンションに私たちは二人で居た。時間は夕方で、リビングのガラス戸から夕焼け空が見えた。
「夕飯一緒に食べて行くでしょ?」
そう訊かれて、私はちょっと迷ったけれど頷いた。
「何か食べたい物ある?」
海の好きな物を何か作ってあげたいな、と思って尋ねたら、彼は
「なんかうどんとか食べたいなー。肉とか野菜とか沢山入れて煮込んだやつ」
「じゃあお鍋にしようか」
「うん、そうしよう」
カセットコンロを出して土鍋で鍋焼きうどんを作ることにした。材料は冷蔵庫や保存棚にあるもので全てまかなえたので、私たちは仲良く喋りながら分担してそれを準備した。
「誰か好きなやつでもできた?」
ちょっとそこのネギとって、くらいの言い方であたりまえに尋ねてきたので、私は一瞬固まった。それまで小気味よいリズムでとんとんと白菜を刻んでいた手元の包丁ごと思わずぴたっと止まったので、海はあきれたように私を見た。
「何だよ、図星なの」
私が顔を上げたので、彼と目が合った。ちょっとお互いに黙ったまま目を合わせていたけれど、私は視線を手元に戻し白菜を包丁で刻むのを再開しながら、
「そうみたい」
と言った。
「ふーん」
海はそう言ってお皿や箸なんかを持ってリビングに並べに行った。それ以上は彼は何も訊いてこなかったので、私たちはまた普通の何気ない会話を交わしながら夕食を一緒に準備した。
海が借りてきたDVDを一緒に観ながらリビングでコンロの上でくつくついっているお鍋にうどんを入れて、一緒に食べた。
「美味しい」
そう言って海はけっこうたくさん食べた。
なんとなくそれをほっとしながら湯気の向こうに見ていたら、海は私のお皿に残っているうどんの上に肉や野菜などをどんどんのせてきた。
「神奈も食べろ」
「うん」
のせられた食材をもぐもぐとひたすら食べていたけど、海がまたのせてくるので
「もうお腹いっぱい」
とギブアップしたら、
「なんだ、情けないなあ」
と言われた。
情けないとかそういう問題か?
疑問に思いながら
「もう無理。入らない」
さらにギブアップを申し出たら、海は私を見た。
そのまま私を見ているので、
「何?」
「何でもない」
そう言って、海はまた自分の分を食べた。殆どきれいにお鍋に入った食材を食べ終わって気持ちいいくらいの食べっぷりだったので、作ってよかったと心から思うほどだった。
私はお腹がいっぱいで動けなくなり、冷凍庫からデザートのアイスクリームを持ってきた海に
「もう無理。一ミリも入らない」
再度ギブアップを申し入れた。
笑いながら海は私にソファに少し横になってれば、と言ったので、私はおとなしく言うとおりにした。うどんがおなかの中で水分を吸ってどんどんふくれ上がっているような気がした。水をけっこうたくさん飲んだし、スープも飲んだのがよくなかった。量はそんなに食べたつもりはないのに、ものすごくお腹がいっぱいで苦しかった。
「動けなくなるほど食べるなんて、小学生以来だよ」
うう、情けない、と思いながら私がそう言うと、海は笑った。
「ばかだなあ」
「海がのせたからでしょ」
「人の思いやりに対して、なんて言い草だ」
あきれたように言いながらも海は毛布を持ってきて私にかけてくれた。
そのまま二人でDVDの続きを観ていたらうとうとしてきて眠りかけていた。目の前には海の後ろ姿があって、彼はソファに寄り掛かってカーペットの上に直接座ってTV画面の方を見ていた。見慣れた海の後姿をぼんやり見つめながら私はゆっくりと目を閉じた。
DVDの音声をBGMにうとうとしていたら、海の声がした。
「神奈? 寝てんの?」
眠りから意識を引き戻すようにして目を開けると、海がこっちを見ていた。
「寝てない」
私が起きようとすると、海は私をおしとどめた。
「いいよ、起きなくて。休んでろ」
ソファに沈められて私が海を見上げると、海はしばらく私を見つめていた。そうして言った。
「神奈の気持ちはわかったけど、ちょっと保留にしたいんだけど」
一瞬何のことかわからず、え? と思ったが、ああそうか、と思い直した。あっさり海が「わかった」って言ったのは、そういう意味か。そう思いながら私が彼を見ていると、
「もうそいつと寝たの?」
と海は訊いてきた。
ぎょっとして、何てこと言うんだと思っていたら、海は私を見つめながら言った。
「ふーん、まだなんだ」
そうして彼は私に顔を近づけてきて、
「まだ俺のこと好きでしょ?」
そう言ってキスしてきた。すぐに舌を絡ませてきてそのまま私の上にのしかかってきたので、手で彼をおしとどめたら彼は唇を離して、私を上から見下ろした。その雰囲気でまた私を押さえ付ける気だ、とわかったので
「待って、海。やめて」
はっきり強くそう言った。
海は私を見つめながらちょっと逡巡しているみたいだった。
海が本気でそうしようと思ったらもう力では敵わないのはわかっていたので、私は海の目をまっすぐ見てもう一度はっきりと言った。
「やめて」
海は私を黙って見下ろしていた。
しばらく迷っていたみたいだけど、結局は自分のしたいようにすることにしたようだ。
私の髪に顔をうずめるようにして首筋にキスしながら私の服を脱がしにかかってきたので、私は慌てた。あせって彼の手をつかんで止めようとしたら、逆に片手で両手首をまとめて掴まれた。軽く掴んでいるみたいに見えるのに動かせないのに驚いていたら、
「ここでか、俺の部屋に来るか、神奈の部屋か、どこがいい?」
と訊いてきたので、私は息をついて言った。
「海の部屋」
ここでは絶対嫌だった。陸が帰って来たら見られるかもしれないし。
「いいよ」
そう言って海は私の手首を離し、自由にした。
「シャワー浴びる?」
私に訊いてきたので頷くと、海は
「じゃあ、一緒に入ろう」
と私を抱き起こした。
「やだよ」
私が言うと、海は
「何でだよ、別にいいじゃん」
「陸が帰ってくるかもしれないし。いや」
私がそう言うと、彼は私をしばらく見ていたが、
「じゃあ、このまま部屋に行こう」
そう言って腕を引っ張って自分の部屋に連れて行った。
肌と肌を重ねると、海の体温も肌もにおいも全部私になじんだ。行為そのものよりも、肌と肌を合わせたときのあまりの心地よさに何だかどうしようもなく私は惹き付けられているみたいだった。彼の肌に直接私の肌が触れると、そのまま彼の温度に包まれて、そのあまりの心地よさに何も考えたくなくなる。何もかもどうでもよくなって、そのままずっとそうしていたくなる。それが何なのかわからないけれど、肌と肌を合わせることだけでも目に見えない何かを交流しているみたいだった。皮膚の下に微細な電流が心地よく流れていて、それが重なるとすごく気持ちがいい。磁石に惹き付けられるように離れがたくなる。放っておいても身体が彼にくっついていってしまうみたいだった。
私は海のことが好きだったし、そうなると心も体も放っておいたら海にくっついていってしまって、いつまでもこの関係から脱け出せないような気がした。
海が自分の内側に抱えている暗い情熱を発散させるために私を征服したり支配したりするのをいつまでも続けるのはお互いに良くないと頭ではわかっているのだけれど、いざそうなると、私は海を止められないし、彼の気が済むようにしたらいい、と考えが自動的に切り替わってしまう。彼が満足するとほっとしてやっとその切り替わったモードから自分も解放されるような気持ちになった。
この関係が何なのかわからないけれど、あまり健全とは言えないのは頭ではよくわかっていた。かと言って病んでいるとか不健全とも言い切れないような。一時的には仕方ないものなのかも、でもずっと続けるのはよくない。そんな感じがしていた。
夜中に目が覚めて喉が渇いていたので水を飲みに行こうと彼の腕の中から出ようとしたら、目を覚ました海に手首を掴まれた。驚いて彼を振り返ると、海が身を起こしながら
「どこ行くの?」
と訊いたので、
「水のみに。喉が渇いたから。海も飲む?」
「うん」
「じゃあ持ってくるよ」
私がそう言うと、海はそのまま目を瞑ってベッドに体を沈めた。手首を掴まれたままだったので自由な方の手でそっとその手を解くと、海は目を開けて私を見ていた。
海のシャツを裸の身体に羽織ってボタンを留めた。大きめのシャツが腰まですっぽり覆っていたのでそれだけで出ようかと思ったけれどやっぱり下着も身につけスカートもはいてから部屋を出た。台所からは明かりが漏れていて陸がいるのが分かったのでシャツのボタンを上までしっかり留めてから台所に入って行った。
風呂上りらしい濡れた髪の陸がペットボトルを片手に私を見た。
「おっす」
私は黙って頷いた。
そのまま冷蔵庫から水のペットボトルを取ってコップを二つ手に持って出て行こうとしたら
「何かあったの?」
と陸が訊いてきた。
私が陸を見ると、彼はリビングの方に目をやった。置きっ放しで片づけてない夕食のあとを見て言っているんだなとわかったので
「朝になったら片づけるよ」
そう私が言うと
「別にそういうことじゃない」
そのまま彼は私を見ていた。
「海をあまり甘やかすなよ」
そう彼は言った。
「なにそれ」
「まんまだよ。海はおまえに甘えてるんだよ。でもそれ、あんまり続けると海にもおまえにもよくない」
何となく言いいたいことはわかったので、私は頷いた。
陸はちょっと吐息をついて私に言った。
「前に神奈が言っていただろう。自分だって階堂みたいになるかもしれない、絶対にそうならないとは言えない、人間はいつだって変化の途上にあるから不安定なものだって。海があんな風になってもいいのか」
私はちょっとショックを受けていた。
海が? そこは考えてみたことがなかった。
「一歩間違えて海が吸血鬼みたいになったらどうすんだよ。おまえが生贄になるようなものだぞ」
私の顔色が変わったのを陸は淡々とした様子で眺めていた。
「自分でもわかっているんなら、よく考えろ。目を覚ませ。今おまえらはもの凄く危ういバランスで何とか立っているけれど、このままいけばそれはどこかで崩れる。どっちにしろいずれ崩れるバランスだから、どこでそうするか、どうやってそうするのか、よく考えろ」
真っ直ぐに私を見てそう言う陸に、私は目を上げ合わせた。パズルのピースがかちりとはまったような感じがした。
「ありがとう」
陸はちょっと吐息をついた。
「目が変わったな。神奈、そうやっておまえがしっかりしてろよ」
「うん、わかった。ありがとう」
私がそう言うと、陸は私を見てちょっと笑った。
「そうそう、その目でいろ」
どんな目だ、と思いながらも、私は改めて感謝を込めて彼を見た。
「そういえば、沙羅がおまえにどっかに付き合ってほしいようなこと言ってたぞ」
「そうなの?」
「そのうち連絡来るかも」
「わかった」
私たちはおやすみ、と言ってそこで別れた。
部屋に戻ると、海が目を覚ました。
「飲む?」
勉強机の上にコップを置いてひとつに水を注ぎながら声をかけると、海は身を起こした。私がコップを渡すと彼はお礼を言って受け取り一気に飲み干した。
「まだいる?」
「うん」
海の手にあるコップに水を注ぐと、それも一気に飲み干した。そして私にコップを返した。私はそれに自分の分を注いで飲んだ。
海は私を眺めていた。
水が少し残ったコップを机に置いてベッドに戻ると、海は私を抱き寄せてから組み敷くようにしてベッドに沈めた。シャツのボタンを外しながら好きだとか愛してるとか呪文みたいに囁いて額や頬や唇や耳や首筋にキスの雨を優しく降らせて私から衣類を全て剥ぎ取ると、そのまま肌を重ねて身体を絡ませてきた。丁寧に優しく壊れものでも扱うみたいに私に触れている。
力づくで私を扱うのも海だし、本当に優しく丁寧に扱ってくれるのも海で、その極端な差も振り幅も全部含めて彼なのだなあ、と何となく思いながら身を任せていた。いつも受身だけど、こっちから動いたらどうなるのかな、何となくそう思って海に自分から腕を絡ませてみたら、海は私を見つめた。私を測るように見ている。
「俺のこと好き?」
うんと頷くと、彼は私に口づけてからまた私を見た。
「愛してる?」
うん、と頷くと彼は私をきつく抱きしめた。
私の名前を何度も呼びながら。
「海?」
「うん」
「どうしたらいい?」
海は私をじっと見ていた。
そして私の額にキスして言った。
「俺の名前呼んでほしい」
私は彼を見つめた。
「それって、その最中に?」
「そう」
そうか、と頷くと、彼は私に笑って言った。
「あと、もっと積極的になってほしい」
抽象的だな。具体的に言ってほしいな。
そう思っていたら、海は笑いながら私に軽くキスした。
「そんなに難しく考えなくていいよ」
何となく囁くようにそんなことを近い距離で話していたら、彼の雰囲気が明るいものになってきたので、そうか、こういうのも身体も全部使ったコミュニケーションなんだ、と何となく納得した。暗闇にどんどんのみこんでいくようなものもあれば、それを解放的なものにすることもできるのかも? でもそれは海と心も身体も魂も全部を使って全身全霊みたいなコミュニケーションをとっていくうちに、彼が教えてくれそうな気がした。
「神奈の目が昔みたいになった」
笑いながら海は私を抱きしめた。なんか喜んでる。
「なにそれ」
「俺を見る目がきらきらしてる」
私は笑った。
「なにそれ、マンガみたい」
「ちゃんと俺を見てる。そういう目だよ」
意外に真面目に海はそう答えた。
「ふーん?」
自分でどんな目をしているのか今この瞬間に見ることができないのでわからないけれど、何となく自分の瞳に力が戻ってきたのは自分でもわかった。しっかり今を見よう、という力。これから見れるものが何なのか、何となくわくわくしているような力。それに関心を持って楽しもうとしている力。それは私の今の心境そのものだから。
「今までの神奈はなんとなく本当の魂が抜けた抜け殻みたいだった。身体だけはそこにあるけど」
海はそんなことをぽつりと言っていた。




