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 その暗い情熱を一旦発散させることで、海の私に対しての執着も解消されるのではないか、と内心少し期待していたのだけれど、それはあまり見られなかった。この頃の私は頭ではもう彼との関係は解消して清算するべき、そうしてそれぞれの人生の課題にそれぞれがあたるのがベストだ、とはっきり答えが出ていたのに、心や体は放っておけば彼にくっついていってしまうみたいに、磁力に惹き付けられる様に逆らえない。ものすごく混乱したような状態に陥っていた。自分で自分がどうにもならないのだ。そんな状態になったこと自体が初めてで、自分でもますます混乱した。海は私を自分のものにしたという自信のようなものからか以前よりも余裕があって優しくて、とても丁寧に私に接してくれた。それはとても居心地がいい。愛する人から優しく思いやり深く丁寧に扱われることの心地よさは、まるで麻薬みたいに私の理性の声を痺れさせた。どのような冷静な声も簡単に機能不全のようにしてしまう。でも別に彼は何か酷いことを私にしているわけではない。むしろとても親切で慈愛に深く溢れているといってもいいくらいだった。それでますます私は内面の混乱を深めていった。


 以前のように気難しく支配的な部分は影を潜めるようになり、海の本来の優しい陽気な面も表に出て来て、呑気さはゆったりした余裕のある大人の男性らしい落ち着いた態度になっていた。どこか影のある感じはなくならないものの、それは何となく神秘的なムードや独特なセクシーさになっているみたいで、客観的に見ても彼はとても魅力的な人だと改めて思う。


 しかも彼は自分自身の魅力をよく心得ている。こちらの反応を冷静に観察しながら、自覚的にも無自覚的にも自分の手の内に入れていくし、一旦そうやって自分の手中に収めたらそれをとても大切にするけれど、自分から離しはしない。手綱はいつでもしっかり握っているみたいな、そういう支配的なところは変わらなかった。


 たまに私はそれで息詰まる気がして、彼からどこか遠く離れたところに逃げたくなるような気分にもなったし、優しい声や笑顔で話しかけられると、ずっとこのままでいたいとも思った。とにかく私自身の内面がカオスだった。矛盾する気持ちを同時にいくつも抱えていて、両端に引き裂かれながらも身動きできないでいる。何でこんなことになってしまったのか、考えれば考えるほどによくわからなくなった。


 今までガラス越しの風景を見るようだったあらゆる情動がむき出しの自分に嵐のように襲いかかってきては、何度も何度も心をさらっていくようで、驚くほど自分が感傷的に傷つきやすくなっていたし、それを隠せない。そうして海は私のそんな情動の微細な動きまでじっと見ている。それで私を意図的に傷つけたり弄ぶようなことは決してしないけれど、自分の手中に収めて手綱をより強化するためにはしっかり利用していた。そうしてまるで子供を扱う様に私を扱った。優しくあたたかく保護するように、そうして自分の圏内からは出て行かせないように管理する、そんな感じで。


 海が何か私に悪いことや酷いことをしたというのではない。

 ただ私は自分自身のためにもそこから脱け出したい、そのために、何かきっかけを必要としていた。




 その日は土曜日で、私は湖がある方の聖一さんの家に来ていた。黙々と互いの仕事をこなし、たまに彼が休憩に誘うときに、一緒に散歩に出たり、おやつにしたり、一緒に食事を作ってとったりした。彼は基本的に器用で、料理も上手だったので私はお手伝い専門。殆ど片づけものなどを担当した。


 料理の手順って実は頭を使う。彼が効率よく段取りを組んでささっと仕事をこなしていくのはもはや芸術的というか、私は彼の手際の良さによくほれぼれとした。感心しながらそのそばでアシスタントのように雑用をこなして手伝うのも楽しみでもあった。ほぼ行き当たりばったり俺流の私にはとても真似できないし、真似しようとも思わないけれど、見ているのは純粋に楽しかったのだ。


 その彼の品のよい流儀の一連の動作の流れのなかのはじっこに自分も少し加わって手伝うのも楽しかった。それはダンスみたいだ。流れや動作がある程度決まっていて、彼のリズムに合わせて一緒に動く。踊る。たまに即興が入る。それが思いの外うまくノレばそのまま即興から新しい流れが生まれる。そして美味しくて素敵なものがいつの間にか出来上がる。


 彼はどこまでも冷徹な論理と豊かな感性の両方をうまく使いこなす天才的なバランスの良さがある人だと思う。それが彼のどこか独特で上品な流儀や所作としてすべてに表現されているように見えた。そして、私はそれをもはや一種のアートのようだ、と思わず感心しつつ見とれてしまう。その人が生きているということ自体、その生命が生きていること自体、本当はみんなそうなのかも。その人流のアート。その生命自体のアート。世界は本当はそんなもので埋め尽くされている。


 たまにぼうっとしてそんなとりとめもないことを考えていると、聖一さんは私をじっと見ていて、目が合うとにこっとした。


 うまく説明できないけれども、私の変わり者性(?)を彼は良きもの、祝福すべきものとして、見守り育もうとしているみたいなところがあったので、私は彼のそばにいると、自分のとりとめもなく飛躍しがちな感受性を伸び伸びと解放するようにして過ごすことができた。それはとても心地のよいものだった。不思議なリフレッシュ時空を泳ぐようなもの。



 少し遅めの昼食を食べて、陽射しが入るぽかぽかとあたたかい室内に気持ち良くなってしまい、集中しようと意識を保とうと必死になっても、どうしても眠気が襲ってきて困っていた。濃いコーヒーを淹れて飲みながらなんとか目の前の仕事に向き合おうとしては、うとうとっと一瞬の眠りに入る、そしてハッと目覚める、ということを繰り返していた。そのうち、少し離れたところに居た聖一さんが、くくくっと肩を震わせて声を殺して笑っているのに気づいた。

 私が気まずい恥ずかしさでむっと口を引き結ぶと、彼はもう我慢できない、というように大きく笑いながら言った。


「お昼寝してきてもいいよ。空いてる客室があるからどこでも好きなところ使って」

「でもお仕事中だし」


 そうしたら彼はもうたまらない、というように明るい声であはははと笑い出し、


「だってその仕事中に、しかも雇い主の目の前で、君、居眠りしかけてるんだよ。何度も!!」


 そう言って、真っ赤になっている私を見て、また笑い転げた。

 実は笑い上戸なんだよね、聖一さんって。

 私は目の前で笑い転げている彼を眺めながら、どうしようかなと考えていた。お言葉に甘えて少しお昼寝休憩をさせてもらおうかな。図々しいかな? でもさっきからどうしようもない眠気の急襲と闘いながら何度も負けかけていたので、ここは素直に少し休ませてもらった方がいい気がした。どっちにしろこんな状態では仕事にならないではないか。


「遠慮しないでいいよ。もともと都合のいいときに手伝ってもらえばいい、ってことで神奈ちゃんにアルバイトを頼んだんだし。そんなに無理してくれなくても大丈夫」


 笑いながら彼は立ち上がって、私の手を引いて個室のひとつの前に連れて行ってドアを開けてくれた。ゲストルームらしいそこはベッドとサイドテーブルだけがある簡素な部屋だった。出窓が少し開いていてレースのカーテンがひらひら揺れて、陽射しに透けてきらきら光っていた。


「好きなだけ休んでいていいよ」


 そう言って彼は私をその部屋の中に入るように促し、私の頭をぽんぽんと軽く叩いて、笑って去って行った。部屋に一人残された私は、そのままベッドに倒れ込むようにしてすぐに眠り込んだ。とにかく眠くて眠くてしかたなかったので、実はとてもありがたかったのだ。


 開いた窓から入る風が、どこからか花の香りのようないいにおいを運んできていた。

 私はうっとりと気持ちの良い午後の眠りに自分を委ねた。

 

 目が覚めたら窓の外が真っ暗になっていて、びっくりした。少し室内はひんやりしていた。開いた窓から冷えた風が入ってきていたのだ。私は起き上がって、思いきり眠ってしまったらしいことに今更あせった。今何時なんだろう。室内に時計はなかったので、そろそろとベッドから起き出してその部屋から出てリビングに行くと、聖一さんは黙々とノートパソコンに向かっていた。


「あ、起きたの」


 私に気づいた彼が顔を上げて微笑んだ。


「ごめんなさい。思いっきり眠ってしまった」

「いいよ、気にしないで。疲れていたんじゃない?」


 そう言ってから、彼はちょっと待っててね、と私に言って切りのいいところまで仕事に戻ったようなので、私は暖炉の上にある置き時計に目をやった。なんと夜九時をまわろうとしているではないか。どんだけ眠ってたんだ、私。さすがに自分でも驚いていたら、聖一さんが立ち上がって私のそばに来た。


「ちょっとごめんね」


 そうして私の額に手を当てた。

 私は彼を見上げた。

 彼は私を見つめながら言った。


「なんか赤い顔してるから。ちょっと熱あるんじゃない?」

「そういえば、なんかちょっとふわふわしている感じ」


 微熱くらい出てるかも。そういえば風邪のひきはじめっていつもやたら眠くなったな。そう思っていたら、彼は体温計を持ってきて、私にくわえさせた。ソファに座っておとなしく熱を測っていたら、彼は市販の風邪薬を持ってきて私に尋ねた。


「何か食べれそう?」


 私は特に食欲がないわけではなかったので、体温計をくわえたまま頷いた。


「じゃあ夕食を食べてから薬を飲んでもらおうかな」


 そう言って彼はキッチンに行って用意してあったらしい夕食の料理をレンジで温めだした。私はちょっとぼうっとしながらそれを眺めていた。手伝いたいけれど、検温中なので動けない。ピッと電子音がして体温計を見ると37度8分あった。思った以上に熱があった。それだけでなんだかくらくらして具合が悪いような気分になってきた。うう、見なきゃよかった。予想以上にあるとそれで具合が悪くなる気がするし。病は気からだし。そう思っていたら、彼がそばにいつの間にか来ていて、私から体温計を取り上げて見ていた。


「寒気とかする?」

「大丈夫。特にどこか痛いとかもないよ。ちょっと眠いだけ」

「そう」


 とりあえず彼が温め直してくれた夕食を一緒に食べて、私はその市販の風邪薬の錠剤を彼に渡されるままに飲んだ。ついでに私は薬のビンを開けてキャップに薬を出し、彼に差し出した。


「聖一さんも飲んでおいて。うつるといけないから」


 彼は目の前のキャップに入った錠剤を見つめた。

 それから私を見た。


「いいの?」

「え?」


 私が何のことかわからずに聞き返すと、彼はキャップの中の錠剤を見ていたけれど、それを受け取ってそのまま飲んだ。私はお水を彼に渡してあげた。


「ありがとう」


 お水を飲んでから彼は私にお礼を言った。

 私が使った食器を片付け出すと、彼はそれを止めて私に言った。


「神奈ちゃんは部屋に戻って休んで。今日はここに泊っていきなよ」


 私が彼を見上げると、彼は言った。


「今日はもう送っていけないから。薬飲んじゃったし」


 私が驚いていると、彼は私を見つめた。


「眠くなる成分が入っているから、車を運転できない」


 言って、ふいと目を逸らすと彼は私に部屋に戻るよう促した。私は黙ったまま、それに従った。


 なんか妙なことになった──ベッドの端に腰掛けて、改めて考えてみたら成人男性の家に二人きりで居て、しかも自分でここから出て行く足がないって、警戒すべき状況なんじゃないの? ぼうっとしながらぐるぐる考えていた。その内に本当に具合が悪くなってきて朦朧(もうろう)としてきたので、耐えられずベッドに入って目を瞑(つむ)った。そしてそのまますとん、と本当に眠りに落ちた。


 暑くて目が覚めたら寝汗をかいていて、衣類が体に張り付く不快な感触に気づいた。最悪だ。熱も上がっているみたいだった。どうしよう、と思っていたら、タイミングよくノックの音がした。返事しようかどうしようか考えていたら、そのままドアが開いて彼が入ってきて、目が合った。


「熱が上がってるみたいだね」 


 一瞥(いちべつ)して彼はそう言った。

 私は頷いた。


「着替え、用意しておいたからよかったら使って」


 そう言ってTシャツやパジャマやタオルなどを入れたカゴを置いてくれた。


「ありがとう」


 私はそう言って息をついた。


「大丈夫?」

「うん、ちょっとくらくらするけど、それほどでもない」

「また後で様子見に来てもいい?」

「うん」


 私はそう言って彼にお礼を言った。

 彼が退室してから私はつけている衣類を全部脱いで、彼のものらしい衣類を身につけた。洗濯したてみたいな清潔ないいにおい。当然と言えばそうだけれどさすがに下着まではなかったので、仕方なく私は汗で濡れた下着を身につけるよりは下着なしで清潔な衣類を直接身につけるほうを選んだ。脱いだ衣類をたたんでカゴに入れてほっと一息つく。サイドテーブルに飲み物が置いてあるのに気づいてそれを手に取って飲んでいると、またノックの音がしたので今度は返事した。


「はい」

「入ってもいい?」

「はい」


 聖一さんがドアを開けて入って来て、固く絞った濡れタオルとクーリング材を持ってきてくれたので、お礼を言った。


 彼は濡れたタオルで額の汗や頬なんかを拭いてくれた。気持ちが良くて、目を閉じていたら彼はクーリング材を私の額にはりつけ、私の髪をなでた。朦朧としながら目を開けると、彼は私を見つめていた。私はまた目を閉じた。目を閉じている方が楽だったからそうした。でも眠り込むまででもなく、彼がそばにいて私の髪を撫でているのは感じていた。優しい、感触。それは気持ちが良かった。少しうとうとして目を開けると、まだ彼はそこにいた。目が合ったのでそのまま何も言わずに互いに目を合わせていたら、彼はそっと近づいてきて私の唇に唇を重ねてきた。そうして静かに離れて私を見た。


「うつるよ」


 私が息をつきながら言うと、彼は


「うつしてもいいよ」


 そう言って、また私に静かに近づいて唇を重ねた。さっきより少し長く。そして離れてから、まぶたや頬にもキスした。


「本当にうつるよ」


 私が心配になってそう言うと、


「ゆっくり休んで」


 そう言って彼は私のまぶたに軽くキスして髪を撫でてから部屋を出て行った。

 私は息を整えるように何度かおおきく呼吸をして、そうして深い眠りに落ちていった。


 熱に浮かされて奇妙な夢をいくつかみた。中でも奇妙だったのは、目覚めに見た夢。


 深く暗い樹海の中で子供の姿をした海が迷子になっていて、私はそれを助けなきゃと思ってみていて、そうして彼のところまで行く。彼は私を見つけて嬉しそうに私を抱き上げた。私は一匹の黒猫だった。海は頬をすり寄せて優しく抱きしめてくれて、私はごろごろとのどを鳴らしていた。そうして彼の膝の上から飛び降り、樹海の出口を目指して道案内にとことこと歩いて行く。彼は素直に私と一緒に歩き出した。途中雨が降ってきたので洞穴で雨宿りして、雨がやんで外に出たら虹が出ていた。私と海はそれを一緒に見上げた。


 そこで目が覚めた。


 青い空にかかった虹の橋があまりにきれいで、その光を内包したような美しい色彩が目覚めたあとの余韻に、すごくきれいないいものを持って帰ってきたような不思議な感じを残していた。なんだかよくわからないけれど、ここのところの鬱屈した色々な物事はもうすべて終わったこと、もうあまり気にしないでもいい、というようなすっきりした感じがした。


 もうくよくよと考え込むのはやめよう、もうそんなことしなくていい、流れに任せよう、それだけ何となくはっきりと思っていた。


 熱もひいていて体が軽くなっている感じだったので、私はそのまま起き出して洗面所で顔を洗って口をゆすいだ。用意しておいてくれたらしいコップに入った新しい歯ブラシが彼の分の隣にあったので、私はそれを使わせてもらった。早朝の鳥の声がちょっとうるさいくらい賑やかだった。あまりにも近くでぴぴぴちゅちゅちゅと盛大に鳴いているので、見てみたくてリビングのガラス戸のところに行ってみたら、開け放してあって、裏庭の草の上にパンくずとか刻んだ果物なんかがまかれてあった。それを小鳥たちが来てついばんでいたので賑やかだったのだ。可愛らしい鳥たちの食事を邪魔しないようにガラス戸から少し離れたところからそれを見ていたら、


「おはよう、よく眠れた?」


 聖一さんがコーヒーの入ったマグカップを二つ持って、いつのまにかそばに来ていた。着替えもすませてすっきりした様子だった。

 うん、と頷いて私は彼からマグカップを受け取りお礼を言った。

 彼は私の額に手を当てて、にこっとした。


「熱も下がったみたいだね」

「ありがとう。お世話になりました」


 私がそう言うと、彼は笑った。


「どういたしまして」


 そうして私の額に軽くキスをした。

 何となく彼を見上げていたら、彼は私をちょっと見つめていた。


「何か欲しいものある? 必要なものがあるなら買ってくるけど」


 それで私は下着が欲しい、と思ったけれどちょっと言いづらかったのでどうしようか迷って結局


「ううん、ない」


 と答えた。


「ちょっと午前中に用事があるから出かけてくるけれど、君はもう少し休んでいた方がいいよ。家に在るものは好きに使っていいから」


 ぽんぽんと私の頭を軽くたたいて、そのまま彼はキッチンの方へ行き朝食の準備をしだした。私が手伝おうと思って彼のそばに行ったら、彼は私の手を止めて、そのままもう片方の手を私の肩に置いて身体の向きを優しく変えた。


「休んでいていいよ」


 そう言って、その場からやさしく押し出すように軽くじゃまもの扱いされたので、私はおとなしく部屋に戻った。ベッドに腰掛けてコーヒーをすすりながら窓の外を見ていた。カーテンを開いて大きく開いた窓から森を抜けて早朝の空気を運んでくる風や、そのにおいを気持ちよく感じていた。空はすっきりと青く高く晴れ渡っていて、雲がなかった。風が揺らす木々の緑の合間に見える明るい空の色に溶け込むみたいにして時間を忘れて眺めていたら、少し体が冷えてきたのでベッドにもぐりこんだ。あったかい布団にくるまって窓の外を眺めていたらノックの音がして


「朝ごはんできたよ」


 と彼の声がしたので


「はーい」


 と返事したら、彼は笑いまじりの声で尋ねてきた。


「こっちに持ってきてもいいけどどうする?」

「向こうに行くよ」

「じゃあ、待ってる」


 そう言って彼はダイニングルームの方に行ったようだった。去っていく足音を聞きながら私はベッドから起き出した。着替えたいけれど汗で湿っている昨日の服を身につけるのはいやだったので、そのまま彼に借りたパジャマのままでダイニングルームに行った。


「洗濯機借りてもいい?」


 私が彼に尋ねると、彼はいいよ、と言って洗剤なんかの場所も教えてくれた。それから新しい衣類をまた出して渡してくれた。


「浴室も使いたかったら、好きに使っていいから」


 入浴剤なんかのある棚も開けて教えてくれたので、お礼を言って、私たちは一緒に朝食をとりにダイニングルームに戻った。

 私に朝食をとらせ薬を飲ませてから後片付けを済ませると、彼は車のキィを持って出て行った。

 出かける前に


「午後には戻るから」


 言って彼は私をじっと見つめた。


「ちょっと抱きしめてもいい?」


 とうとつに訊いてきたので目を丸くしていたら、彼は笑いながら私をそっと優しく抱きしめた。びっくりしながら彼に抱きしめられていたら彼の温度に包まれているのがとても気持ち良くて、なんとなくそのままおとなしく身をまかせていた。そのまま眠りそうになったところで、彼は私から静かに身を離し、私に軽くキスをしてから


「行ってくるね」


 と笑って玄関のドアから出て行った。


「行ってらっしゃい」


 と手を振ったら、微笑んで手を振り返した。そうしてドアを閉めて、外から鍵をかけていた。家のなかから車の走り去る音を聞きながら、私はひとりでなんとなくぼうっとしていた。淋しいような。ほっとしたような。でもすぐに現実志向に切り替わって、洗濯機に衣類を運び込み、ついでに今着ているものも脱いで全部入れた。シャワーを浴びてすっきりして新しい衣類を身につけたら更に気分がだいぶ変わった。


 お天気がいいのですぐ乾くかなー。

 リビングのガラス戸を開け放ち風を入れて空を見上げていると、何だかここのところずっと深刻になりすぎていたかも、という感じがしてきた。気持ちが軽く、明るくなって、なんだか元気が戻ってきたような感じだった。


 明るい空の青さとか、晴れ渡って雲ひとつない開けた感じ、さらりとした空気。森のにおいを運んでくる新鮮な風、草木の美しい緑、朝の光の感じ。それらすべてが光を内包して丸ごと世界を祝福しているように、私のこともすべて祝福してくれているような気がして、何だかわからないけれど充電された。そんな感じだった。


 なんとかなるし、なんとかしていくだろう。


 そういうどこかわからないところから湧いてくる不思議な自信が体中に満ち溢れていくような。いつの間にか気力のようなものを私は取り戻していた。


 どうせいつも体当たりしてはすっ転んで、泥だらけになったり傷だらけになって、泣き笑いしては立ち上がるんだ。私は小さい頃からずっとそうだったもの。傷ついても泥をかぶっても別にそれでもかまわない。ガラス越しに見ていたくない。そこにある風をちゃんと感じたい。人に好かれても嫌われてもどっちでもいい。そんなの私はかまわない。私の身体の奥から羅針盤が指している方に、いつでも歩いていけるならもうそれでいい。人からどう思われようとかまわない。結局はみんな私次第なんだ。何でも楽しもう、そう思うならそうすればいいだけだ──何となくそう思いながら空を見上げていた。



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