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 聖一(せいいち)さんのもう一つの家に連れて行ってもらったのは春頃のことだった。切り立った崖の上から大きな湖が見渡せるちょっとしたプライヴェートスペースのような場所が裏庭を抜けて森の小道を辿った先にあるので、彼は私をそこに連れて行ったのだ。


 二人で緑の丘の上に立ち、向こう側に開ける大きな湖を眺めていたらなんだか不思議な気持になった。

 低い雲の隙間から光の筋がいくつか差していて、それらは天国への道のように見えた。 


 水面を揺れるさざ波が光を跳ね返してはきらきらと光り、時折風が吹き抜けて周囲の木立を揺すって緑の葉がさらさらと揺れる音が微かにしていた。

 私は風景に溶け込んでしまうような感覚になり、時間を忘れてしまった。

 どれくらいそうしていたのかわからないけれど、隣にいる彼も何も言わずにただ向こう側を眺めているだけだったので、私はそのまま彼も湖も空も雲も光の梯子も風も木々もみんなひとつに優しく溶け合うような不思議な心地の良い感覚をただ漂っていた。


 ふと気づいたら、隣にいる彼が私の手をそっと握っていて、私たちは手をつないでそのまま湖を眺めていた。

 私が彼を見上げると、気づいた彼が私を見て


「ずっとここに君を連れてきたかったんだ」


 と言った。


 光にふちどられて、彼の優しい穏やかな表情はとてもきれいに見えた。優しい光の円環に包まれているように、金色の光が彼を包んでいるみたいだった。私はなんだかそれに見とれてしまって、何も言わずに彼を見つめていた。


「ここに君と二人で立って、こうして一緒にここからの風景を眺めている、そういう夢をよくみたんだけれど、今日現実になった」


 そう言って彼は笑った。


「きれいなところだね」


 私がそう言うと彼はそうでしょう、と言うように微笑んだ。




 湖の見渡せる丘から森の小道を辿り木々のアーケードを抜けて裏庭に出ると、そこにはちょうど彼の仕事場兼住居の拡大版のようなログハウスがあり、そこが彼のもう一つの家(彼はここでずっと副業をしていたそうだ)だった。桜澤家にある彼の仕事場兼住居はここをモデルにして建てられたものだとのことで、確かに中のつくりなどもよく似ていた。暖炉のあるリビング、あたたかみのある空間、ここのリビングの方が少し広いのでアップライトピアノが置いてあったり、個室の数が多かったりしたけれど、ほぼ見慣れた空間のような感じで奇妙な既視感に襲われた。


 一応仕事でここに来ていたので、湖から戻るとすぐに私は倉庫に案内された。ちょっと埃っぽいそこにはたくさんの棚と箱に入れられた物凄い量の資料があり、それもまた仕分けして整理すると同時にスキャンしたりファイルに保存したりするのだが、とにかく量がものすごくてめまいがしそうだった。


「.........こんなところにまだ隠していたんですか」


「いつか整理しようと思っていたんだけれど、いい機会だからお願いしようと思って」


 笑いながら言って、彼はちょっと咳をした。


「埃っぽいから掃除したほうがいいんだけど、今日はとりあえずこのケースの分だけリビングで仕分けしてくれればいいよ。今度来る時までに掃除しておくから」

「またここに来るの?」

「土日を利用してここに来ようかと思うんだけれど、どうかな」

「二日とも一日がかりになるってこと?」

「そうだね。行き帰りの時間も合わせると一日がかりになっちゃうけれど。大丈夫かな?」


 私は目の前の資料の数に圧倒されていたので、むべなるかな、という感じでただ頷いていた。先が思いやられそうになるけれども、目の前のことを一つ一つこなしていけばなんとかなっていくものだ。そう、初めに彼の仕事場兼住居の資料の山を目の前にしたときもくらくらしそうになったけれど、いつの間にかそれらは殆(ほとん)ど片づけられ、残すところあと僅かとなっていた。とにかく手をつけ始めれば、あとはちょっとずつ何とかしていくだけなのだから。

 しかし目の前に膨大な資料の山を積まれているのをこの目で見ると、めげそうにもなるのは仕方ない。なんだか思わずため息をついていたらしく、笑われた。


「そんなにうんざりさせて悪かったと思うけれど、一度に全部やってとは言わないから。本当にちょっとずつ、できるところからやってくれれば助かるよ」

「もちろんやりますとも」

「そんなにはりきってくれなくてもいいから。今からそんなんじゃ疲れちゃうよ。のんびりマイペースにやってくれればいいよ」


 そう言われて、基本的に楽が好きな私は


「そうだね」


 とあっさり納得した。


 リビングで風の音や鳥の声なんかをBGMに、少し離れたところでノートパソコンに黙々と向かっている彼と一緒に仕事をしていると、何だかあっという間に夢中になっていて時間を忘れてしまった。室内は温かく、少し開けているガラス戸からは明るい陽射しが差し込み、風が草木のにおいや鳥の歌声を運んきたりする。雇い主は物静かでうるさいこと言わないし、最高の仕事環境と言ってもよかった。


 ケースいっぱいにある資料を仕分けしてスキャンしてファイルに保存して、と黙々と手を動かしていたら、いつの間にか西日が夕陽に変わりかけていた。


「ちょっと休憩して、散歩に行かない?」


 聖一さんがそう言ってコーヒーをテーブルに置いてくれたので、私は彼を見上げた。彼はコーヒーをすすりながらガラス戸の向こうを眺めていたので、またあそこに行くのかな、と思いながら私は頷いた。切りのいいところで手を止めてコーヒーを飲んでから、また二人で裏庭を抜けて湖の見える丘まで歩いて行った。


「わあ、きれい」


 思わず感嘆の吐息を漏らすと彼は隣で嬉しそうに微笑んでいた。

 夕陽が空を美しく染めていて、揺れる水面にはきらきらと金色の光が反射し、辺りの草波までも金色に輝かせていた。湖に映る黄金の光だまりにそのまま飛び込んでいきたいような、そのままその光の中に溶け込んで消えてしまいたいような衝動に駆られた。自ら火のなかに飛び込んでいく虫はこういう逆らい難いような光源へのどうしようもなく惹き付けれてしまう心で命さえも投げ出していくのだろうか。何だかその気持ちも分かるような気がするなあ、とか考えていた。


 圧倒されるような美しい風景。その光の中に自分のすべてを投げ出して、小さな自分の何もかもその殻のすべてを棄て去り、解放されたい、大きなものへ溶け込んでいきたいという衝動。それは故郷へ還りたいという衝動のようなものなのかもしれない。生まれて来る前にいた場所。私たちがそこからやって来て、そこへと帰る、そんなところへの抑え難い郷愁のような──


 なんとなくそんな奇妙なことを考えていたら、彼が私を見つめていた。

 また、あの透明な眼差しで。

 自分はなにものか、何のためにこうしてここに生きているのか、どこからきてどこへと還っていくのか、それを覚えているか──心のどこかずっとずっと深い奥に響き渡るような、魂の素性を明かすように呼び掛ける不思議なこだま。呼び声──そんな風に私に問うてくるような、不思議な眼差し。


「聖一さんはいつもそうやって私を見るんだね」


 私がそう言うと、彼は私を見つめたままで言った。


「僕がこうやっていつも君を呼んでいるのが、君にはわかるでしょう?」


 私は頷いた。


 ──だから、揺さぶられるように、色々なものを見せられたり聞かされるんだよ。嫌なこともあるかもしれないけれど、それも本当の君を思い出すための、call なんだよ。君を縛る呪縛を解いていく為の招待状のようなもの。呼び声だったり、召命だったりする


 彼は以前そう言ったことがあったけれど、それよりもずっとずっと前から、本当に、初めて会った時から、彼のこの不思議な透明な眼差し――独特の間。心ごと遠くへと連れ去って行くみたいな──彼のこの眼差しこそが、何かの呼びかけ―― calling ──そのものだったのだと今はわかる。


「初めからわかっていた。君にはそれがわかるはずだって。だからいつでも僕は君に呼びかけていたし、君も僕のことを呼んでいたんだよ。気づいているかどうかわからないけれど」


 自分も彼のことを呼んでいる、とは初めて知る事だったので私は少し驚いていた。

 彼はそれに気づいてちょっと笑った。


「僕は君を呼び覚ます呼び声でもあるけれど、君自身も僕を呼び覚ます呼び声だったんだよ」


 そう言って彼は視線を湖の方へ向けた。


「たぶん、僕らは同じ場所に還るための道しるべを互いに贈り合っていたのかもしれない」


 黄金の光だまりが映る水面を見つめながら私はそこに飛び込んでいきたい衝動に名前をつけた。郷愁(ノスタルジー)、と。


 わたしたちが生まれて来る前、それこそ私たちの父母が生まれてくるよりもずっとずっと前にいた場所。私たちがそこからやって来て、そこへと還る、遥かな大きな懐かしい私たちの魂の故郷──もしそんなものがあるのなら──への郷愁。その衝動。


「あの光のたまり場のようなところ。あそこに飛び込んでいきたい、全部投げ出してあの光の中に溶けていきたい、帰りたい──あの光の中に還りたい、どうしようもないような郷愁のようなものを感じるの。それは私の気のせい?」


 私が湖に映る黄金の光を指さして言うと、彼は笑うでもなく


「わかるよ。でも実際に飛び込んだら水の中に沈むだけだけど」

「そのくらいわかるって」

「そのどうしようもないような希求や衝動に駆り立てられて、僕らは自分が誰だったか、真実の自分へと還る道へと歩き出すんだよ。そうして気づいたらもう歩き始めていて、戻ることはできない。だからそのまま歩き続けていくしかない。その道のりはとても孤独なものだから、魂の仲間に出会ってしまうと、協力し合わずにはいられない。お互いの成長のために協力し助け合うことも組み込まれているんだろうと思うよ。きっとその道には」


 淡々とそう言って彼は私の手をそっと握った。

 二人でそうやって手をつないで黙ったまま切り立った崖の上に立ち風に吹かれていると、今がいつの時代でここはどこなのか、なんだかよくわからなくなってきた。何だかずっとこうしていたようなそんな気すらしてきた。何だろう、不思議な感覚。でもこれをあれこれと調べたり名前をつけて分類したりする気はなく、ただその感覚にまかせていた。




 土日のたびに聖一さんが車で午前中に迎えに来て夜に家まで送ってくれる、そんな週末をしばらく過ごした。エスカレーター式に大学生になってからは海(かい)や陸(りく)は実家を出てしまい、マンションで暮らすようになった。お隣には深夜まで両親の仕事関係の来客もいることがあったので、ちょくちょくそれまでもマンションに泊まり込んでいた二人にとってはそれほど生活が変わったという感じではないみたいだった。私は土日はバイトと家の往復で、彼らはマンションにいるためにすれ違う毎日が続いた。


 華やかな周囲と新しい環境で海と陸の周辺では恋愛の駆け引きやゲームが盛んに繰り広げられていたらしい。そうして自然に私たちの間には距離ができていった。お互いに新しい生活に入っていき、環境も時間の使い方も変わっていったために、それはゆっくりと自然なかたちで進行していったので、気づいたらもうだいぶ距離ができていた、そんな感じだった。


 陸には新しい彼女ができていたし、何だか私はその彼女とも仲良く友達になってしまっていたり、海の周辺にも女性の影がちらついているけれども、それはそれで私も干渉しないでいるみたいな、でもまだ友達以上で恋人でもあるような不思議な関係のままでいた。


 海と私は二人の関係にはっきりと何か形をつけることを避けているみたいな感じ。陸の方はわりとあっさりしていてすぐに友達に戻れたけれど、海との関係はちょっと複雑で微妙なままで続いていた。


 彼の方がどうしたいのかはっきりさせたくないみたいな感じで、私はそれに対して自分の立ち位置を決めかねたまま保留にしているみたいな感じだった。明らかに別の女性の影があるのだけれど(これはやはり女のカンというものか)、でもそれに対してどうこうしたいという気もない、自分でも自分の気持ちがよくわからなかった。ちょっとそれで気が楽になるようにすら感じているところもあったから。海のことは好きだし嫌いになったわけでもない。彼が別の女性と深い関係になっているような気配に嫉妬も感じないわけでもない。でもそれは淡い雪のようにすぐに溶けてなくなった。悲しみが降り積もっていくよりも、そのときそのときで私の心に痛みを残しては淡く消えて行くので、次第に私はあまりそれにも自分から関わらないように、彼の事情に関しては切り離すようにしていった。干渉しないという態度で自分のするべきことに集中することを優先にしたかったのもある。


 平日の共同勉強は高校卒業とほぼ同時に終了していて、その頃から彼らから声をかけられる以外は私の方から彼らのところに行くことはなかったので、海と会うのは彼から思いだしたように連絡が来たとき以外はなかった。




 キイナと克己(かつみ)くんは高校三年生の終わりごろには既に家族公認の恋人関係になっていて、聡子(さとこ)と輝幸(てるゆき)さんは順調に付き合い続けていた。大学に進学してからはそれぞれにまた新しい友人関係に入っていったので三人でいることは殆どなくなったけれど、それぞれに連絡はとりあっていたので近況なんかは互いに知っていた。バイトも私は桜澤家の敷地内にある聖一さんの仕事場に行くよりも、彼のもう一つの家の方に行くことが多かったので、自然にキイナとも距離ができていったのだが、聡子やキイナとは大学内で会えば仲良く話す、たまに一緒にランチをとる、そんな感じだった。お互いにそれぞれの新しい生活で忙しくなっていたのもあるし、私たちはそれぞれに楽しんでいた。


 大学に進学してから咲良(さくら)とまたちょくちょく会うようになった。相変わらずもてもてみたいでトラブルも絶えないらしいが、高校時代に比べて彼女は周囲からそれほど浮くこともなく、でも相変わらずマイペースに自由に毎日を楽しんでいた。


 海外に留学した葉月(はづき)とは会うことはなくなったが、たまにメールで連絡がきたので互いに近況を報告し合った。


 平日のバイトも聖一さんと待ち合わせして彼の車でもう一つの家の方に行き、また送られて帰る様な日が続いた。この頃では彼はもう殆ど桜澤家の敷地内の仕事場ではなくもう一つの家の方に住居兼仕事場を移していて、仕事に必要なものは殆ど移し替えていたようだった。


 街の喧騒から離れた自然の多い静かな場所で暮らすことを好んでいた彼にとってはそれは理想的な環境だったようで、何でも末っ子のキイナが高校を卒業するまではそばにいてあげるつもりで、元々はこうするつもりだったとのことだった。桜澤家の複雑な事情も少し知っている私としては微妙な感じだったが、こちらに移ってから彼がずっと快適そうに過ごしているようなのでこれはこれで良かったのだろうと思っていた。




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