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「黄菜に聞いたんでしょう」
日曜もバイトに入っていたので午後にキイナと一緒に桜澤家へ向かい、何だか気まずい気分で聖一さんのところに行ったら、私の顔を見るなり彼は笑った。
私は何だか恥ずかしくなりつつ、うん、と頷いた。
「桜澤家の秘密を聞いてしまいました」
彼は冗談めかして言った。
「黄菜がお世話になりました」
「いえいえ」
そんなやりとりをしていたら気分もほぐれたので、いつも通りに仕事にとりかかった。彼も普段と変わらないのでいつの間にか桜澤家の秘密を見た! みたいな気まずさは忘れていった。それでその日の帰りにまた彼に車で送ってもらっていた帰り道、
「君はまた仏心を出そうとしているでしょう」
とうとつに彼は言った。
「え?」
何のことかわからずに私が訊き返すと、彼は前を向いたままで言った。
「自分に必要なことをきちんとすることだよ。相手がどんなに同情すべき状況にあったとしても、君の真実を相手の為に歪めたり遠慮したりする必要はないってこと。君はただ自分に正直でいればいいんだよ。そうでなければ、自分がしたことがどういうことだったか、相手は本当に知ることができないでしょう」
亜実ちゃんのことを言っているんだな、とわかったので、私は彼をなんとなく見つめたままそれを黙って聴いていた。
「仏心を出して手心を加えようとしないでいいんだよ。それに君の仏心に、今まで何度も相手はつけこもうとしてきていたんだから。それで自分が何度傷ついてきたか、よく考えてごらん。君の中には、相手のことを理解しなくてはいけない、たとえその相手から自分がどういう扱いを受けたとしても思いやりを持たないといけない、という思い込みや呪縛が自分でも思うよりもずっと根深くあるんだよ。君が別に相手を理解したり受け容れたりする必要はないし、君は自分に必要な事をすればいい。そうして自分に正直でいればいい。別に相手を許したりする必要なんてないんだから。それよりも君は自分自身を許すことだよ」
生理用ポーチに入れっぱなしになっている手紙をなんとなく思いながら、私は彼に言った。
「怒りにまかせて何かを言ったりしたりしてはいけないような気持ちがどうしてもあるから、つい抑えてしまって、そうして時間が経つと、もう済んだことだしいいかな、ってなんか勝手に思ってしまったりしてきたけれど、もしかしたら、それが増々相手をつけあがらせてきたみたいなところがあったのかもしれない」
彼は私をちらっと見てから前を向いて淡々とした口調で言った。
「君が本気で怒っているなら、それを相手に君が正直に伝えることがなければ、相手は自分がしたことが君にとってどういうことだったかを本当に知ることはないでしょう。衝動的に何かすることを恐れるあまりに、君の真実を歪めてしまったら、それは相手に正しく伝わることもないでしょう」
「そうだね」
「相手に対して誠実であろうとする前に、先ず自分自身に誠実であることだよ」
「そうだね。言われてみたらそうなんだよね。どうしてだろう、いつの間にか、自分よりも相手を優先にすることの方が大切ないいことみたいに思ってしまうことってあるよね」
「そういう刷込みがたくさんあるから。本来なら自己のために自分を変えていくべきところで、他者|(自己以外の何か)のために自分を変えていき、本来なら自らの責任として引き受けて自らが変容していくべきところで、他者の責任にすり替え他者を変容させようとする──そうした顛倒がまかり通ってしまっているんだよ」
「てんどうってなに?」
「逆さま」
「あ、なるほど」
「本当に自分自身を大切にすることでひとが支配や操作の呪縛から脱け出していくのを快く思わないひとたちもいるから、そういう思い込みや刷込みがたくさん良いこと素晴らしいことだとして社会に出回ってしまっているんだよ。宗教の世界でも同じ。でも本当に自分を大切にできない人は本当に相手も大切にすることはできない。これは真理。自らをちゃんとありのままに尊重できない人は、他者をありのままに尊重することもできない。だから表向きでは善行に励み、陰ではこっそりと陰湿な嫌がらせやなんかに勤しんだり他者を支配したり抑えつけたりして搾取できるところから搾取しないと自分自身のバランスをとることができなくなっていくんだよ。そういう人たちを君も沢山見てきたはずだ。そしてこれはそうした人たちとの関係性の中で、負の連鎖として繰り返されていくことになってしまう。この負の連鎖を断ちたいなら、先ずはありのままの自分自身を自分が尊重すること。自律した存在としてのあるがままの自分自身を先ず尊重し、その感覚や感情もすべて尊重していけば、自ずとそれは真実の他者理解へと拡張されて深まるものなんだよ。ひとの世界観はそうやって深化し進化する。君の足を引っ張る物事や人の言い分に、あまり耳を貸し過ぎたり仏心を起こそうとしないこと。自分で責任をとらせること。それがそのものにとっての最良の手助けなんだから」
彼にお礼を言って別れ、自宅に帰ってからお風呂に入っていた時のことだった。
湯船につかってぼーっとしていたら、湯気の中でまたふっと白昼夢の中に入りこむような感じになった。明晰な夢見のような状態に入って、私はそこで映画を鑑賞するかのように意識の不思議な汽水域を漂っていた。
子供の世話をする母親の姿がみえた──そして彼女は食事に何かを混ぜている。薬のようなもの。それは神経を麻痺させる種類の毒で、自分の子供を制御しやすくするためにそれを適宜与えているので、子供には軽い神経の障害がある、もしくはこれからそれを持つ可能性があるような感じだった。たとえば、嗅覚とか、触覚とか、何かそうした感覚的な麻痺──がその子に残り、その子供はそれを一生背負って行かなくてはならないような種類の毒なのだけれど、彼女はたいして悪いことをしているとは思っていない。
そうして毒が効き過ぎたときには、弱って具合の悪い子供を熱心に看病し世話をするので、周囲の人たちはその母親を子供想いの熱心な母親だと認識している──何かそういうような感じのイメージが通り過ぎていった。
それからまたふっと日常の意識に戻った。
断片的な夢の映像の中で、私はそれが亜実ちゃんやその母親やそうした種類の人たちのやっていることの総合的なイメージなんだな、となんとなく認識していた。
実際に物理的な毒物を混入しているかどうかまではわからないけれど、少なくとも精神に毒を流し込み、自分の子供を始め制御したい人間に対して害を与え、相手を都合よくコントロールする手段として何のためらいなくそれを使う。それによって相手は本来は負わなくてもい傷害を負わされ、しかも、その良くない影響はその人生全般に及ぶことまであるのをきちんと認識もしているし、そうすることで自分の支配下に置くことが出来るのであえてそうしている。そしてたいしてそれを悪いとも思っていない、そういう種類の人間の在り様なのだな、と何となく思っていた。
結局私は亜実ちゃんから来た新しい手紙を海や陸に見せて、静香さんから聞いた話も聞かせた。手紙はそれだけでもかなり悪質なので、それも弁護士さんに預けることになった。対処は全て弁護士さんに任せることにしたのだ。
海と陸のマンションで夜遅くまでDVDを観ていた時のことだった。リビングのソファに私と陸が座っていて、海が絨毯の上にクッションを置いて寝そべっていた。しばらくして海が眠り込んでいるのに気づいた私と陸は、彼があまりに気持ちよさそうに眠っているので風邪をひかないようにと毛布をかけてあげて、ついでに私が持っていた眉墨で落書きして遊んでいた。陸が眠っている瞼の上に目を描いて、私が頬に渦巻き模様を描いた。
「写真を撮っておくか」
そう言って陸はすやすや眠る面白い顔の海を携帯で撮影していた。
「あ、何か可愛いね。それ私も欲しい」
「いいよ」
勝手に人の写真をやりとりしていたら、海が身じろぎをしたので起きたかなと思ったが、ちょっと体勢を変えてまたすーすーと気持ちよさげに眠っていた。
しばらく二人でその姿を見ていたが、ふいに陸が顔を上げて私を見た。
「神奈はバイトいつまで続けるの」
陸に訊かれて、私は彼を見た。
「それ、前に海にも訊かれた」
陸は私を見ていた。
「当分やめるつもりないよ」
「なんでそんなに一生懸命バイトしてるの?」
「勉強になることが多いし、面白いから」
「ふーん」
「それに、今の私にとって必要なものだから」
「何でそんなに必要なの?」
私は彼を見つめた。
「二人にとって居心地がいい私でいるのは、今の私の周りのバランスがいいからでもあるんじゃないかな。そのバランスが崩れれば、私はあなたたちにとって、不愉快な人間になるかもしれない。例えば私が亜実ちゃんのようになりふり構わず他者の愛や優しさにしがみつくようにして奪い取るようになったら、あなたたちは対処に困るはず。たまらずに逃げ出したくなるはす。今の私に必要な関係のバランスがちょうどよくて、うまくいっているから、たぶん私は今の私でもいられるんだよ」
陸は顔をしかめるようにして怪訝そうに言った。
「神奈とあいつは違うだろう」
「たとえばだよ。それに誰だって絶対にそうならないとは言えないんじゃないかな。人間って実は不安定なものだよ。いつも変化の途上にあるみたいに」
聖一さんとの関係を人に説明するのは難しい。そこに流れている雰囲気も。それは当人同士にしかわからないものだった。私が彼に支えられているのは確かだったし、それを私も必要としていたのでそう言うしかなかったのだけれど、陸はそれ以上は何も言わなかった。
つきあっているからといって互いのプライヴァシーを全て開示しないといけないとは思わないし、それにもしそんなことをしたら、そのつきあい自体がおかしくなっていくと思う。相手への誠実さは大切だけれど、それと互いのすべてを知り、理解し合う、みたいなことは違うと思う。相手のことを全て知って理解したい、というのは形を変えた支配欲や征服欲だと思うから。
なんとなく私たちの下ですうすう眠っている海の髪に触れていた。さらさらと指の間を冷たい髪の感触が通り抜けていくのが気持ち良くてそうしていたら、陸が「なんかそれいいなあ。気持ちよさそう」と見ていたので、
「触る?」
と、自分の髪でもないが言ってみた。
「いや、違う、海の方。ちょっと俺にもしてみてよ」
と頭を差し出すので、なんかおかしくて笑いながら彼の髪に触れた。
「寝転がってもいいよ」
私がそう言うと、陸はガラスのテーブルを少し押しやってその場に寝転んで私の膝を枕にして頭をのせてきたので、そのまま彼の髪に触れていた。
「気持ちいい?」
言いながら、さらさらと陸の髪の冷たい感触が指のすきまを通り抜けていく感触を私が楽しんでいたら、
「うん」
と言って、陸はそのまま目を閉じて本当にうとうとしだしだしたので、海の毛布を少し引っ張って海の身体が毛布から出ないように陸にも何とか被るようにした。
なんか子供みたいな寝顔だな、二人とも。
そう思いながらすうすう眠っている二人の無邪気そうな寝顔を眺めた(海はかなり面白い顔だったが)。
骨格とか大きさとかはもちろん昔とは違って、彼らはもう十分大人の男性で、その違いに時々改めて気づいてはっとしたようにもなるけれど、眠っていると、何だか本当に子供のままみたいだった。
まだまだ大人と子供の間にいる私たち。
これからまたそれぞれに、新たな扉も開いていくだろう、私たち。
いつまでこうしていられるんだろうなあ──何となく思いながら私は二人をいつまでも眺めていた。
夜明けの扉 “Gates Of Dawn” 2章 終り




