2
海が付き合っていた女性を妊娠させたらしい、と陸から情報が入ったときにはさすがにショックだった。そういう関係の女性がいるらしいのはわかっていても、実際にそれが紛れもない事実だとわかるのとではだいぶ違うものなのだということを改めて知った。どこか遠い国の物語のような遠い世界の出来事のように思われていた物事がはっきりと顕わになると、現実に向き合わざるを得ない事実となって立ち上がって来て、それにまず衝撃を受けたのだった。
これはもう二人の関係をきちんと清算するべきときが来ているんだな──そう覚悟を決めていたところ、海から連絡が来たのでそのつもりで私は彼らのマンションで彼に会った。
陸から伝えてくれるように言っていたのは彼自身だったので、隠すつもりはないけれど、私には直接話しづらいみたいな感じだったようだ。
マンションには海が一人でいた。陸はどこかに出かけていたので不在だった。
「陸から聞いてるよ」
私がそう言うと、海はなんだか暗い瞳をしていて、私をじっと見ていた。
後ろめたいように思っているのかなあ、と何となく気の毒に思いながら(責めたい気持ちは何故かまったくなかった。自分でも不思議なほどに)、どうやってこのいつの間にかややこしくなってしまった関係を清算させる話を切り出そうかと考えていたら、海の方から相手は年上で以前から関係を持っていて、それで向こうが妊娠したので結婚を迫られているというようなことを話し出した。私はただ黙って時折頷いたりして彼の話を聴いた。
彼の言い分としては、妊娠と結婚は別物で、彼女がどうしても生みたいのなら責任をとって認知はするけれども結婚までは考えていないとのことだったが、彼女や彼女の家族が納得をせず、そうして自分の両親にもそれが伝えられてしまったので、双方から入籍をしてきちんと責任をとるように言われている、とのことだった。
どうしても生みたいという彼女の意志が固いので、それならもう籍を入れてきちんとするように、というのが彼の両親の言い分で、海本人は認知をしてその後の費用も子供が成人するまで自分にできる限りは負担するつもりはあるけれども入籍まではしたくない、とのことらしい。
何でこんな人生相談まがいの話を、まがりなりにもまだつきあっている恋人から私は聞かされているんだろうか。しかもこの年で。私たちはまだ18歳で、成人すらしていないというのに。何なんだこの展開は。
奇妙な気分になったが、何だかあまりにも自分を置いてけぼりにしたかけ離れた世界の話を聴いているようで現実感がどうしても湧かなかった。ガラス越しの景色のように、それに対する質感が殆ど感じられないのだ。そんなわけで私は妙に冷静だった。
別に怒ってもいなかったし、悲しんでもいなかった。
後からそれらが嵐のように襲ってくるだろうことは何となくはわかっていても、とりあえずその場では、それらの情動は殆ど感じられなかったのだ。どこか遠くのほう、胸の奥で何かが騒いでいるような気配は感じる程度にしか、感じられなかった。
「海の話はよくわかったけれど、それは海自身の問題でしょう。周囲がどう言うとかではなくて自分で決めるしかないよ」
私が淡々とそう答えると、彼は何故か傷ついたような表情をした。
そうして私に訊いた。
「神奈はそれでいいの?」
それで私はやっと、彼は私の気持ちを測っているんだ、と気づいた。
ぐるぐると何か言いたいような言葉が頭を駆け巡ったが、それのどれもがとりとめのないようなものばかりで、私は何を言っていいのかわからなくなった。軽くパニック状態になったのか、本当に何を言っていいのか、自分が何を考えているのか、自分でもよくわからなくなったのだ。
黙りこんだ私を海はじっと見つめていた。
私の表情や目の動きの一つも漏らさないように、観察するみたいな瞳で。
それで私は何となく、ああ、もうだめだ、そう思った。
海はどのような状況にあっても、私をコントロールしようとする野心は絶対に手放さない、何となくそれがわかったからだった。考えてみたら、この状況は私がもの凄く傷ついていても不思議ではないような状況なのだった。それなのに、その状況を使ってまで、彼は私の心を測ろうとしていた。
それがもう無理だ、と私の決め手になった気がした。
「私がいいとかだめとかではなくて、海が自分で決めて。それから、私たちに関しては、もうきちんと終わりにするときが来ているんだよ」
私ができるだけ静かに、彼を傷つけないように、責めるのではなく、と心掛けて優しい声で言うと、彼は私の目の前で静かに泣き出した。
本当に静かに涙を流しだしたので、私が驚いた。
この状況で泣きたいのはこっちなのではないか。
なんだかそんな事もちらっと思ったが、実際には私は泣きたい気持ちにすらなっていないし、彼は目の前でただ黙って静かに泣いていたので、どうしようもなかった。
何だか目の前の彼を抱きしめてあげたい気持ちにすらなっていて、私よ、しっかりしろ、と自分で自分を励ます始末だった。
こういうときに情にほだされてはいけない。
誰に教わるでもなく、確信のように降りてくるそれがなかったら、私はそのまま彼を抱きしめて彼の気持が済むまでそうしていたくなったかもしれないけれど、それでは余計に傷が深まるだけだとも何故かはっきりとわかっていたので、自分で自分を叱りつけるようにして私は何故かそこで耐えるほうを選んだ。
うっかりここで手を伸ばしたら、そのまま彼の情動に巻き込まれて、自分を見失いそうでもあったのもある。それで私は距離を保ったまま、ただ彼が泣きたいだけ泣くのを見つめていた。
海がひとしきり一人で涙を流すのを見つめて、それから私は彼に言った。
「私は海のことが本当に好きだったよ。今も別に嫌いになっていない。でも私たちのこの関係はもう終わりにするときが来ているんだよ。海がこの先どういう決断をするのかは、私には解らないけれど、それはあなたにとって必要な決断なんだから、それを私の気持ちでどうこうしようとするのはやめて。あなたの問題に無理に私を巻き込もうとしないで。ちゃんと自分で決めて。あなたはそれをちゃんと解っているはずでしょう?」
彼は私をじっと見て呻くように言った。
「解っているんだけれど、どうしても気持ちが追いつかない」
「慣れ親しんだ関係から新しい関係に移行するまでの過渡期みたいなものだって考えたら?」
私がそう言うと、彼はじっと私を見つめた。
「神奈はそれでいいの?」
「いいも何も、そういうものだって私自身が本当に思っているから、言っているんだよ」
「俺のこと怒っている?」
「怒ってない」
「嫌いになってない?」
「言ったでしょう。嫌いになってなんかないよ」
「じゃあ、まだ好き?」
それで私はちょっと黙った。
彼は私をじっと見つめていた。
それから言った。
「ちゃんと答えて」
私は黙ったまま頷いた。
そうしたら、何故かそこで初めてぽろっと涙が出てきた。
そのまま黙ってぽろぽろ涙を流している私に、彼はそっと手を伸ばして、優しくためらいがちに抱きしめてきた。
ああ、これでここまでせっかく耐えてきたのに、全部だいなしじゃないか。
何やってんだよ、私は──
そんなことを思いながらも、一度泣き出してしまったらもう自分では止められなくて、抱きしめてくれている海にしがみついて私は泣いていた。ただ泣きたいから泣く為だけに泣いているみたいな涙だった。
「お願いだから、今日はもう帰らないで。ただそばにいてくれるだけでいいから。ずっとここに一緒に居てほしい」
海に言われるままに、私はそのままマンションに泊った。
何も余計なことは考えないようにして、ただ以前のように一緒にご飯を作ったり、陸が帰って来てからは三人でまた仲良くゲームをしたりDVDを観たりして過ごして、できるだけ(必死に)楽しく過ごした。それは何だか痛いような時間だったけれど、久しぶりに楽しかったのも事実だった。陸は私と海のそんなあまりの痛々しさに耐えられなかったのか、出かけてくると言ってそのまま翌日の夕方まで戻って来なかった。
海と私は夜眠るときには別々の部屋におやすみ、と言って別れたけれど、夜中に海は私の泊っている部屋に入ってきた。物音で目を覚ました私に、既に入室していた海が静かに近づいてきて
「抱きしめて眠りたい。それだけでいいから」
と言ってベッドにそのままするりと入ってきた。私は疲れていたので、そのまま海の胸に押しつけられるように抱きしめられながら、すぐに眠り込んでしまった。海が私を抱きしめながらまた泣いているのに気づいてはいたけれど、気づかないふりをした。本当に疲れていて、眠かったのもある。
翌朝、彼の腕の中で目を覚ましたら、隣で彼はすうすうと健やかな寝息をたててぐっすりと眠っていた。しばらくあたたかいその胸に頬を押し当てるようにして彼の心臓の鼓動を聴いていた。規則的に響く彼の心音を聴いていたらまたすぐに瞼が重くなり、私はまたそのまま眠った。
結局私たちはものすごくぐっすりとよく眠ったようで、ベッドから起き出したのは午後の陽射しが少し傾き出してきてからだった。
何でこんなことになってしまったのか、いつしか距離ができていたはずの私と海はまた離れがたいように一緒に過ごす時間が増えていた。でもそれはある意味で私にとっては生き地獄みたいなものだった。一緒に過ごしている時はできるだけ何も考えずに、お互いに穏やかに楽しく過ごせるように心がけたし、実際に楽しかったけれど、その分離れた後に襲ってくる色々な自分自身の複雑な感情に私は苦しめられた。
海の内側に燃え盛るような得体の知れない暗い情熱に引きずられるようにして、彼の問題に深く巻き込まれていくような不快な感覚も私にはあった。でもどうしようもなかった。自分からそこを脱け出すことができずに、むしろ自分からそこに巻き込まれに行っているようなもので、天国と地獄を一日に何度も行ったり来たりするような、そんな感じだった。海とその相手の女性のことに関しては、私は何も知りたくなかったし、聞きたくなかった。海が自分から私に話してくる以外は自分からは聞かなかったし、それについて考えたくなかった。
以前のように海と陸のマンションに泊まりに行って、一緒にご飯を作って食事をしたりして、私にあてがわれた部屋で海と一緒にただ眠る。彼は私との間を特に詰めてこようとはしなかった。抱きしめてキスするとかそれ以外では何も手は出さなかったし、何だかそれが当たり前のようになっていたので私もそんなものかと思ってその関係に慣れてしまっていたのもある。
でもそんな中で、私は少しずつ確実に消耗して疲弊していった。
食欲が落ちてだいぶ痩せてきた頃に、心配した陸から、もう海とは別れるようにと諭される始末だった。海の相手の女性は着々と出産に向けて準備を進めていて、海がどんなに抵抗しても、結局は押し切られるだろう、それほどに向こうは揺るぎない構えでいて、仮に海の言うとおりに認知だけで済ませたとしても、そこから先も何らかの関わりを持ち続けることになる。どうしても私の方が分が悪すぎる、との意見だった。
だいたい、まだ何も決着がついていない進展してない段階から私自身が既にこんなに消耗しているのが何よりの証拠だと言われた。一旦別れて、お互いにそれぞれすっきりとしてから、また考えてみたらどうか、とまで言われてしまった。
それでさすがに自分でもこのままではまずい、お互いに良くないと思いたち、海と別れようと決心してその話を切り出そうとすると、不思議なことに彼はその雰囲気だけで察するのか、それとも本当に偶然なのか、その度に彼はかなりの高熱を出して寝込んだ。それでその日からしばらくはとにかく看病することで時間が過ぎてしまう。あまりに何度もそのようにタイミングよくそうなるので、神様がまだその時期ではないと言っているんだろうか、とかまで真面目に考えてしまったほどだった。
その頃から私は、不思議な奇妙な夢を見るようになった。
どこか深い森のなかで誰かと待ち合わせをしていて、その為に少し早足で、ちょっと待ちきれないような気持ちで、その場所へとわくわくしながら向かっている。どきどきして自然に駆け足になる。そうしてその相手と会えたとき、それは手を振って微笑んでいる見知らぬ少年の姿をしているけれども聖一さんであることが何故か私にはわかった。私たちはお互いにまだあどけない子供の姿をしていた。男の子どうしでとても仲良しのようだった。そうして何か私たちは一緒に熱心に色々なことを語り合ったりして、別れる時に、「また明日の朝ここで」と言って別れる。そうしてお互いに森のなかの小径をそれぞれに手を振って別れて元来た道を歩いて戻る。
ただそれだけなのだけれど、ものすごく色々なことを語り合ったような満足したような気分だけが残る。内容が何だったのかはすっかり忘れているにもかかわらず。ただ自分の言葉にできないような日常の気持ちの全てをわかってもらっているような、そんな安心感があったのだった。
そんな奇妙な夢を見ていることを聖一さんに話したことはなかった。
夢を見ると、ああ、またあの夢だ、とすぐにわかるけれど、夢から醒めて日常に戻るとすぐに忘れてしまうのもあったし、それほどそれを気に留めていなかったのもある。何といっても現実の方が悲喜こもごも含めて、物凄い勢いでどんどんと新しい何かを次々に私に迫ってくるような毎日だったので、それで精一杯という感じだった。起きてくる出来事に対して自分がそれについてどう感じているのかどう考えているのか、それすらじっくりと考えるひまがないくらいに、毎日どんどん押し寄せてくる波を何とか乗りこなして毎日が過ぎていく。今となってはあの頃に自分は一体何を考えて何をやっていたのか殆ど記憶にないくらいだ。ただ必死だった、それだけの毎日。でも楽しいこともあったし、悲しいこともあった。ただそれらのすべてが過ぎ去った今では、いったい何だったのだろう、と夢を見ているみたいな気分で、何だか遠い見知らぬ人の出来事のようだ。
ただ繰り出される現実からの要請に応え続けるだけの毎日。そんな時期が過ぎ去って、気づいたらもう以前と全く違う地点に自分はいつの間にか押し出されている。何かがそこで終わって、次のステージに気づいたらもう立っている。始まっている。そんなような感じだった。
色々と面白い人たちとも知り合ったし、仲良くなった。彼ら彼女らとの関係はそれほど深まることはないけれども新鮮で楽しいものではあった。何というかカルチャーショックから価値観の思わぬ転換まで幅広い(?)交友関係ではあったので、視野が広がったり、今まで苦手と思っていた物事や人を好きになったり、今まで良いと思っていた物事がつまらないように感じたり、自分自身の内面でも変化の多い時期だったように思う。




