19
その日のバイトの帰りに聖一さんが車で送ってくれている時のことだった。
「僕は昔からちょっと人よりも勘のようなものが良くて、それで仕事でもうまくやってきたんだけれど」
そう言って彼は煙草に手を伸ばし
「吸ってもいいかな」
と私に訊いたので私は頷いた。
彼は運転席から操作して私の側の窓を少し開けてくれて、自分の煙草に火をつけた。
煙を吸い込んで吐き出しながら彼は前を見つめていた。
「初めて神奈ちゃんと会ったときに、この子は僕のパートナーになる子だなって何となくわかったんだよね。僕はたまに何となくいろんなことがわかるときがあって、それは今まで不思議に外れたことがないんだけれど、君を初めてみた時、この子は僕の《ラストダンス》のパートナーだってことが何故かはっきりとわかったんだ」
「……無いと思うけれど、それはもしや愛の告白?」
私がそう言うと彼はぷっと吹き出して、笑いながら頭を振って私を見た。
違うらしい。
わかっていたけれど。
「最期の贈り物の受け手って意味」
「最後の贈り物?」
なんだろう、と私が彼に尋ねると、彼は窓を少し開けて外に煙をふうっと吹き出してから前を見つめた。信号が変わるのを待っているのだ。信号が青に変わって車が動き出す。
「死期が近づくと、生命は身体に残っている記憶やエネルギーや経験に最後の表現をさせて語らせることがあるんだよ。死が見守る中で人生の最期に追憶をして最後の表現をさせる。そしてそれを贈り物にして遺すことがあるんだけれど、それを先住民族の伝統では《ラストダンス》と呼ぶんだよ。君は僕の最期の贈り物の受け手なんだと思う」
最期の。
私は黙りこむ。
彼の不思議な話には慣れっこになっていたからそれに今更驚いたりはしないけれど、でも、この話は違う。あまりにも不穏な要素がはっきりと言葉にして語られてしまっている──死期、とか、死、とか、最期とか──いきなり心臓をきゅうっと掴まれたみたいに苦しくなっていたら、彼は窓を大きく開けて
「大丈夫? 気分悪い?」
「うん、だいじょうぶ」
言いながらも私はまだちょっと胸が苦しかった。なんだかやたら動悸がしていた。
不安の嵐に全身が突然浸されるみたいな、急に足元がなくなったみたいな気がいきなりしたからだった。まだどきどきしている。
「そんな顔しないで大丈夫だよ。まだまだ先の話のことだから」
彼はちょっと笑って私に言った。
ほっとしていいのか悪いのか、それでも、私はちょっとほっとした。
「そんなに心配してくれなくてもまだ死なないよ」
あまりにも訊きにくいことを彼の方から笑って言ってくれたので、ほっとしていいのか悪いのか、でもほっとしつつ、それでもまだ動悸はしていたので身動きせずにじっとしていた。
彼は煙草を片手に前を向いたまま淡々と話した。
「死が近づき、それに見守られる中で、生命はその炎が燃え尽きる前に信じられないような不思議な振る舞いを見せることがある。大切な何かが進行中であれば死期も延期されて、そこでは何かが凝縮されたような深遠で濃密な時間や空間やエネルギーが生み出され、表現され、顕現する。そうして生命は最期の贈り物を遺して逝くんだよ。僕はそれを君に受け取ってほしいし、しっかりと受けとめて、それを君の生命の環の中に入れていってほしいと思っているけれど、でもそれは君しだいだ。君がどうしたいか自分で決めることだから」
そう言って私をちょっと見てから、また前を向いて言った。
「今すぐにどうこうということではなくて、ただ知っておいてほしかったんだよ。頭の片隅にでも置いておいてほしいなと思って。そういうことが僕や君達が生きているこの世界にはあるんだってことをね」
私はまた苦しくなってきた。動悸がさらに激しくなり、いきなり見知らぬ場所に放り出されたような、そんな所在ないような、心細さのようなものに襲われていた。
「それって──」
これは、目の前にいる彼が亡くなるということを既に前提としている話なの?
彼が亡くなるときに何かを私に伝えるということなの?
いつかは誰もがこの世を去るわけだけれども──
ぐるぐると考えが駆け巡りめまいがしそうな感じだった。なんだかいやな汗が吹き出してきて、手のひらがじっとりと汗ばんでくるようだった。
「まだまだ先のことなんでしょう?」
「そう。まだまだずっと先のことだから、そんなに心配しないでいいよ」
彼はそう言ってから、また前を向いて運転しながらしばらく黙って煙草を吸っていた。火のついた煙草の先から煙がゆらゆらとたちのぼり、空気の中に解けていった。
煙をなんとなく眺めていたら、また白昼夢の中に入りこむ様な感じになった。私と彼と世界の輪郭が溶け合い混じり合うような不思議な汽水域。そこを泳ぐようにして意識の不思議な領域に入りこみ、私はこれらのすべてを見守っているような静かで明晰な場所に導かれる。
透明な眼差しでその全てを見守っているような静謐な空間──時間や世界が停止したような──。そして、次の瞬間には、またふっと意識が日常に戻った感じがした。
動悸はいつのまにかおさまっていた。
夜の闇の中をすべるように一直線に走る車の中で私は黙りこんでいた。
隣では聖一さんも黙って運転をしている。
ガラス越しにどんどん景色が流れ、近づいては遠ざかっていく光が彼の静かな横顔と車内を時折照らし出すのを視界の端に捉えながら私は前を見つめていた。
死とか、死期とか、最期とか、どれもできるだけ遠く離れたところに置いておきたいものばかりだ。あるのは知っているけれど、わざわざ今それを見なくともいいでしょう、そう言って、できるだけずっとないふりをしていたいものばかりだった。でも、いずれはそれをちゃんと見なくてはならないときがくるし、それは避けられない。避けて逃げ続けることも可能かもしれないけれど、そんなことをしても、いずれそれは追いついてくる。
それが平常だっていうくらいにしっかり肚決めして生きていく方がいいな──
海はそう言っていたけれど、そんなふうに、死という決定事項にまで覚悟を定めて生きることも可能だろうか。死期が迫った人は皆そういう心境でいるのだろうか。
それにたとえ自分に関しては覚悟ができたとしても、大切な人をこれから喪う、となるとまた違う気もするし──というより、刻々と迫りくるその喪失の瞬間にいつもきりきりと胸をしめつけられるようなとても苦しい気持ちで、大切な人を喪うための道を伴に歩いていくようなものなんじゃないだろうか。それは……、それはとても苦しい──自分のことよりもずっと苦しい。
きゅうっと胸の前で手を握って、私は思わず眉根を寄せ目を瞑った。
まるでこれから訪れるであろう痛みに備えるみたいにして。
彼はそんな私に、低く落ち着いた声で
「そんなに怖がることないんだよ。死は最高の教師でもあるんだから。僕らはそこらじゅうにそれが溢れている世界に生きているし、いつだってそこから学ぶこともできる。もっと深いところで自信をもって、視野を拓いておおらかに見ていってごらんよ。それが悲しいものや、苦しいもの、嫌なもの、穢いもの、忌むべきものというのも思い込みや刷込みでしかないんだよ。治らない病や絶え間のない苦痛に曝されているひとからしてみたら、死は最後の恩恵で解放でもあるでしょう。それがたとえ自死という形であってもだよ。人間の社会でつくられた道徳規範の呪縛からも脱け出して、もっとおおきく見てみてよ。それも自然のプロセスのひとつで、廻る季節のようなものだと思えばいいんじゃないかな」
そう言ってから、手に持っていた煙草を灰皿で消した。
廻る季節。そう言われると、視点が少し上方へシフトして、鳥のように舞い上がり上空から見ているようなひろいおおらかな気持ちになるような気がしてちょっとだけ楽なような気もした。なんとなく救われる、というとへんだけれど。
鳥の眼差しになってみると、ちょっとしたことだけれど実際に気分が楽だった。楽に息がつける。視点をシフトさせることによる恩恵のようなものかな。そう考えていたら、聖一さんが私を見ていた。いつのまにか車は信号待ちで停車している。彼は私と目が合うと、にこっとしてまた前を向いた。ちょうど信号が変わり、車が静かにスタートした。
「君は自分ですごいスピードで成長しようとしているから、色んなものを見せられたり聞かされたりするだろうけれど、死を自分の中に消化できていけば、何があっても乗り越えていくと思うよ。死と再生の門をくぐって新しい世界に大きく拓かれていくと思う。生と死はコインの裏表で別物ではないでしょう。便宜上対立する概念としているけれど、本当はそれは同一線上にあるものの両端だったり、円環のスタートとゴールでもあるでしょう。自然のプロセスにもっともっと大きく目を拓いていって理解を深めていくことで、君は新たな力を自分の中に生み出すこともできる。どんどん自分にかけた呪縛や思い込みなんかを解いていくことだよ」
彼には同じことを何度も繰り返し言われている気がする。
「思い込みや呪縛ってそんなにたくさんあるの?」
自分ではわからないそういうものがたくさんあるのかな、なんかイヤだな、と思いながら尋ねると
「そうだけれど、でもそれは、ある程度までは揺りかごやガードレールの様な役割もしてくれるんだよ。それに守られることもある。だから規範とか道徳とか、社会で有用なものとして大切にもされるし、実際にそれは役に立っている。でもあまりにもそれが頑なになりすぎたり、硬直化してしまうと、それを簡単に悪用されることに繋がるし、現実に合わないものになっていることすらちゃんと認識しなくなる。そのために、視点を切り換えてそこから脱して物事をバランスよく見れるようになる必要があるってだけ」
ふーん、なるほど。
なんかわかりやすいかも。
「分かるような気がする。これがいいこと、みたいな鉄板のものがあると、かえってそれにつけこまれやすい、みたいな感じ? 例えば愛とか優しさとか」
私がそう言うと、彼は前を向いたままで言った。
「目に見えないものなだけに、そう言い張ってしまえば、本質が異なるのにそれがそうであるかのように通ってしまうこともあるから、騙したり誤魔化したい方からしたら都合のよい口実や免罪符だね」
「本当だね」
私は何となく亜実ちゃんのことを思い出していた。
彼女は私や海や陸から、愛や優しさのようなものを引き出そうとして、そうしてそれにつけこもうとしていた。人が人を想う自然な思いやりや良心、真心とか、そういったものを強引なやり方で無理矢理に引き出して、そこに色々なものを上乗せして、自分の要求を通すための入り口として使おうとしていた。
もし私が彼女に対して愛や優しさや思いやりを持たねばならない、と自分で鉄板の戒律を自分に課していたら、あっさり彼女の手口の餌食になってしまっていただろう(幸か不幸か私にはそんな優しさも思いやりも鉄板的戒律もなかったのでよかったようなもので)。
それは愛や優しさを要求するようにみせかけて、支配や操作の口実をのませるための、コントロールルームへの開錠を要求するようなものだ。本来ならその相手が入ることは許されない、弾かれるべき場所に侵入するために、愛や優しさを口実にして、おまえには人間の血が流れていないのか、思いやりや優しさはないのか、とか罵倒されたり同情を買おうとされたりしたら、規範意識が硬直化している人ほどひっかかってしまうんじゃないだろうか。
こうするべき、こうであるべき、こうしなくてはいけない──それはその人を縛る牢獄にもなるし、そこに囚われて、彼女のような人間に愛や真心や優しさを要求され、その人の心の奥の最も柔らかな部分にまで侵入されて支配されたとしたら、それはその人にとってある意味では生き地獄みたいなものにもなりうるんじゃないだろうか。
そこから逃れるためにはもうすべてを捨てるしかない、自分の命さえも捨てるしかない、そうでなければ逃れられない、そんな風に追い詰められてしまうことだって、あるんじゃないのだろうか。
本当はいい悪いでも善悪でも正誤でもなくただ単に、いやだ、それだけの話なのに。
なんとなくそんなことを流れる景色を眺めながら思っていた。
彼はちらっと私を見てから、また前を向いた。
そして言った。
「運命とか宿命とか、何か自分自身を超えた大きな自然の流れがあると考えてみてもいいし、ただただ状況からそれを切実につきつけられると考えてみてもいいけれど、今まで学んできたことや、誰かや何かに押し付けられたもの、本当にそれが必要なのか自分できちんと考えてはこなかったもの、倣うようにしてきたこと、そんなふうに受け入れて来てしまったものごとの全てを、いずれは棄てていくことが求められる。そうして僕たちは、本当の自分ではないものの全てを棄てていかなくてはならないんだよ。今までの在り方や生き方には限界があるから、今の自分自身の死を受け容れて、新しい在り方や生き方へと自分自身を拓いていくことを促される。それが死と再生の通過儀礼であって、生きることと成長すること、そして死は切り離せないものなんだよ」
魂の錬金術。それは様々な試練をくぐり抜けて錬成される黄金の魂への道程を示す秘密の暗号。その元型は時代を超えてあらゆる物語のなかにも息づいている──そんなことを以前彼が言っていたことをふと思い出した。
「それが呪縛を解いていくということでもあるからなんだね」
「そう。本当に成長することは、知らないうちに身につけてしまった手枷足枷のひとつひとつに気づいて、自分で外していくことでもあるから」
揺りかごやガードレール──なるほど。
彼の言いたいことが何となく具体的にわかってきた気がする。
「ただそれを外して野放図にすればいいってことではない、ってことが肝心なんだろうけれど、それを理解するには、まずその手枷足枷の意味をもきちんと理解していないとならないし、それが単純に邪魔なものや要らないものではなくて必要なものでもあったりすることもちゃんとわかっていないとならない」
「そう」
「なるほど」
「邪魔だから全てをなくせばいいとか、今では適切ではなくなってしまったものや古いものをただ否定すればいいというのではなく、それにはそれの役割がきちんとあって、状況や段階に応じて、関係性によってその役割が変化するだけ」
「つまり、自分がどういった状況や段階にあるのか?」
「その通り、関係性による要素を考慮に入れるってことだよ」
なるほど。点と点がつながって、それは星座のようにひとつの絵を描いた。
「だから、ただなくせばいい、とも、取り除いてはいけない、とも言わなかったんだ。気づかないでいる手枷足枷、自分で自分にかけた呪縛を解いて、よりバランスよく多層的に見れるように、その視点や考え方をもちなさいって教えてくれていたってこと。で、合っている?」
私がそう言って彼を見ると、彼も私を見て頷いた。
「何でもそれがそのようにあるには、そのようにあるだけの理由や役割がある。それがそのようにあることそのもの、その自律性を尊重することは、人が考える以上にずっと大切な事なんだよ。それがそのものに責任を取らせることを邪魔しないことでもあるし、遠回りの様に見えても大きな意味では、過ちを重ねて問題を次々と複雑にしてしまうのを防ぐ最も確実な道だし、結果的には近道への羅針盤になる。少なくともそうした視点をもっておくことは大切なことだから」
それはわかるけれども──
「そうした視点をもつことが大切なのはよく解る。でも、自分がたとえそうしたとしても、相手が次々に間違ったことや過ぎたことを重ねていって、そこに無理やりにこちらを巻き込もうとしている場合はどうしたらいいの?」
彼は端的に言った。
「だからだよ。相手につられて君まで同じように過ちや間違いを繰り返していく事で更に複雑に解決不能な状態にさせられてしまうこと防ぐためだよ」
むう、確かに。ただでさえ複雑怪奇なとんでもないややこしさなのに、そこに自分からまた新たな複雑怪奇さをあえて投入する必要もないと言われれば、確かにそうなのだけれど、そうだよね、そうなんだけれどね……
「そんな殺生な」
ついそんなきめゼリフが口をついてしまった。今まで使ったこともないのに、苦し紛れに勝手に出て来たのだ。彼は、あはははと笑った。そして言った。
「うまいこと言うね」
「なんで?」
「文字通りに君は今まさに死を学んでいる最中なんだよ」
「……(うまいこと言っているのはあなたなのでは)」
私のもの言いたげな視線を爽やかに受け止めて彼は言った。
「与えられた条件を嘆くこともできるし、機会にすることもできる。言ったでしょう、君自身の新しい能力を拓いていくこともできるって。そして君はそれが出来る子なんだよ。君は死と再生の門をくぐり抜けて自分自身を変容させていくことが出来る。とっても強い魂の子だからね」
「そうなのかなあ」
「そうなんですよ」
「そうですか」
飄々とした彼の口調に合わせてそう答えてからふたりで一緒に笑った。そうして彼は続けて言った。
「それがガラス越しに見る風景なら、そこに吹いている風の強さや湿度や温度なんかに直接触れることはできないでしょう。死は生きることの一部でそれは必須項目だけれど、ガラス越しにそれについて考えているだけでは成長することはできないんだよ。でも、死が自分自身に差し迫ったものであったり、愛する誰かに迫るものであれば、ひとはそれを直接受け止めていくしかない。生きることを学ぶためには死ぬことを学ぶ必要があるんだよ」
私は少し考えてから、彼に尋ねた。
「愛する人の死がその人が生きるために学ぶ必要のあることでもあると?」
「そう」
「それは」と私は言ってからちょっと考える。そうしてまた彼に「すごく痛いし辛いし、その人の生きる力を根こそぎ奪いかねないのにもかかわらず、生きる為に、なんだね」と尋ねると、彼は私の方を見た。そうして少しの間、私の目を見つめてから「うん、そうだよ」と静かに答えた。




