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結局昨日は海にも陸にも何も言えなくて、本当はもうここで終止符を打とうと思っていたのに、なんだかずるずるとうっかり仲良く楽しく過ごしてしまった。目の前の快楽に人間って弱いものだ。別に肉欲とかそっちじゃなくても、人間はやっぱり好きな人と仲良くしていたいし、楽しく笑ってあたたかな交流をしていたい。大切な人の笑った顔を見ていたい。好きな人たちの楽しそうな顔を見ていたい。幸せそうな様子をみていたい──それ以上の快楽ってあるだろうか?
別れを切り出すって難しいんだな。
私はため息をついて、さくさくと手を動かしていた。スキャナーが画像を読み取った合図の音を自分のお気に入りの音にカスタマイズしたりして、小さなところに楽しみを見つけて仕事をしているのは楽しかった。きゅらりん☆と魔法の杖を一振りするような音を響かせて機械が合図を送ってきたのでノートパソコンの画面でファイルを保存していたら、聖一さんがひょこっと顔を出した。
「少し休憩しない?」
「いいですよ」
きりのいいところで切り上げて私は彼と一緒にキッチンへ移動した。
これにしようかな、と言って彼はガラスのティポットに茶葉を入れてお湯を注いだ。ガラスの中で美しい明るい緑色が広がった。
「わあ、すごいいい香り」
「これ緑茶なんだけど、マスカットの香りがするんだよね」
「ほんとだ」
リビングでフレーバーティーを美味しく頂きながら他愛無い話をして、私たちはいつも通り何事もなかったように過ごした。特に無理してそうしたのではなく、本当に何も変わらなかったからだ。でもその日の帰りも彼が車で自宅まで送ってくれた。
「以前嫌がらせをしてきた犯人はおとなしくしているの?」
前を向いて運転しながら彼が訊いてきたので、私は何となく口ごもった。
今回のケースは話が話だけに、海と陸と私だけの間だけで他の誰にも話したりしていなかったのだ。
ついでに言えば、集団に紛れたいじめ嫌がらせネットワークも健在で、実は相変わらずだった。
今でもちょこちょこと変な嫌がらせを受けている。何処から湧いてくるのかと思うほどに次々と湧いてくるからだった。しかもいつの間にか女子だけでなく何故か男子まで加わっているみたいだった。いじめ嫌がらせ部でもあるのか。ひまなのか。単にいじめや嫌がらせが好きで面白いからか。あることないこと噂で拡散されたこともあって、それでそうした趣味の人たちを、もはやある種の誘蛾灯のように集めてしまっているみたいだった。こっちは海にも陸にも話してはいない。私より彼らの方が傷つきそうだし。
「まだ粘着されているみたいです」
「そう」
そのまま彼は黙ったので、私も黙った。
窓の外を流れる景色を見ていたら、不思議な気持ちになった。すごいスピードで周りの景色だけが流れて変っていくのに自分は全く動いていないように思うけれど、実際は私がすごいスピードで動いているから景色がどんどん流れて変わっていっているんだよね。
──私はどこへ向かっているんだろう?
「……なんだか周りが勝手にどんどん動いていって私は置き去りにされてきた気がしていたけれど、本当は私がすごいスピードでどこかを目指していたのかもしれない気がしてきました」
何となく私がそう言うと、彼は前を向いたまま
「うん、そうだろうね」
と言った。
「君は色んな意味で今成長期のまっただ中にいるから」
私は自分で言っといたくせに、ちょっと驚いて彼を見つめた。
「こんなわけのわからない話をとうとつにしたのに、会話が成立してしまった」
彼は笑ってちょっとこっちを見た。
「わけわからなくはないよ」
「そうですか」
「そうですよ」
愉快そうに笑ってから彼は私をちらっと見た。
「全身全霊ってよく言うでしょう。身体も、心も、魂や霊もすべてひっくるめての君自身が、今よりももっと遠くへ、先へ、そうやって進んで成長したいから、色んな出来事を磁石のように惹き付けてもいる、とも考えられるかもね」
不思議なこと言うなぁ、相変わらず。
「でも、私、ほんとうに心の奥底から、嫌がらせするような人たちとお近づきになんかなりたくないし、惹き付けたくなんかもない」
「それはそうだろうね」
「むしろ消えていなくなってほしいよ」
死ねばいいのに──本当に、心からそう思うくらい、嫌悪感があるし、はっきり言って気持ち悪い。たとえようもないほどに鬱陶しい。邪魔で邪魔で仕方ない。そう思ったからっていっても全く罪悪感も感じない。消えていなくなれ、消え去れ、死んでしまえ──そうやって呪いみたいに唱えたいくらいだし。
さすがに言葉には出さず、むすっと黙りこんだまま心で毒づいていた。
「煙草吸っていい?」
聖一さんがそう言ったので、
「窓開けてもらってもいいですか?」
「うん」
彼は運転席側から操作して助手席側の窓を開けてくれた。
風が入ってきて私の髪や頬や額なんかをどんどん通り過ぎていくので、無駄な熱を奪っていってくれるようで気持ちが良かった。
「なんか気持ちいいね」
煙草に火をつけて彼は
「もう少し開ける?」
「全開でもいいくらい」
笑って彼は窓を全部開けてくれた。
窓の外をどんどん流れる景色をしばらく眺めてから、のぼせかけていた頭を心地よく冷やしてくれる風に頬や額をあずけるようにして目を閉じた。
あー、気持ちいい。
このまま私ごと全部吹き飛ばしてほしいくらい。
このまま風の中に溶け込んで消えてもいいくらい。
うっとりと目を閉じていたらあまりに気持ち良くてなんだかそのまま眠りそうだったので、目を開けて前に向き直った。
「眠かったら寝ててもいいよ」
「うん」
返事しながらも、私はなるべく眠くならないように気をつけていた。でも、どんどん流れ去る景色を見つめていたら、ちょっとした催眠状態みたいに起きていても半分眠っているような状態になってしまったようだ。自分も周囲のものもすべて輪郭が溶けていくような、不思議な夢心地──私も彼も飛び去る風景も、通り過ぎていく風も、走る車のスピードさえも、みんな夢のなかのように、やさしくうっとりと互いに溶け合っていくような、そんな心地の良さだった。黙ってその心地のよさに身を浸して時間を忘れていた。
彼がウィンカーを出していつもと違う道に入って行くのに気づいて、私はあれ、と思って彼に目をやると
「ちょっと寄り道していい?」
そのまま前を見たまま車を走らせて埠頭のようなところに出た。
「外の風の方が気持ちいいよ」
そう言って彼が車を降りたので私も降りた。
「暗いから気をつけて」
言って手を貸してくれたので、そのまま手を引かれるようにして堤防を越えて暗い海岸の近くへ降りた。向こう岸には街の明かりが暗やみのなか明るく光っていた。少し痩せた月が照らす夜の闇にすぐ慣れて、近くのテトラポットやなんかもはっきり見えていた。
海から潮のにおいのする風が吹き抜けていて、ちょっと肌寒いけれど気持ちが良かったので、風に髪を洗わせるようにして向こう側を見ていたら、聖一さんは隣で煙草に火をつけていた。
彼の指先にある火のついた煙草から上る煙をなんとなく眺めていたら
「君を悩ませる人たちやその嫌がらせの犯人のような部分は大なり小なり誰の心にもあるものだよ」
と彼は言った。
私はちょっとむっとした。
お説教されてるみたいに思ったのか、とにかく反発心をその瞬間感じた。
「別に彼らのことを理解しろとか受け容れろとか言ってないよ」
ちょっと笑って彼は言った。
それで私は口答えするように
「そうだよね。聖一さんは前に私に同情するなって言ってたしね」
彼は頷いた。子供をあやすみたいに笑みを含んだ優しい目でこっちを見ているので、何となく毒気を抜かれたようになって、私は彼に言い訳をするみたいに言った。
「思わぬところでダメージを受けていたりして、その影響からなんとか立ち直りかけていたところだったから。またしつこく絡んでこられるとさすがに鬱陶しくて。相手のことがなんだか精神にできる癌細胞みたいに忌々しいものに思えてきていたんだ」
「それはそうだろうね」
ふーっと煙を吐き出してから彼は言った。
私は彼の指先にある火のついた煙草から煙が上へのぼりながら空気に解けていくのをなんとなく眺めていた。
煙の動きにも軽い催眠効果があるのか、私はなんだかまた白昼夢をみているみたいな気分になってきた。明晰な白昼夢の中にいるような。自分や周囲の輪郭が溶けて混じる汽水域を漂うようにそこにふっと意識が入りこむように。
今よりももっと遠くへ、先へ、そうやって進んで成長したいから、色んな出来事を磁石のように惹き付けてもいる──彼はそう言ったけれど、それは、私自身が彼女たちを必要としているということなのだろうか? あんなに鬱陶しくてまるで精神にできる癌みたいなひとたちを? 心からお近づきになりたくないようなひとたちなのに?
言葉にすればするほど嫌悪感が増してますます否定したくなるのに、どこかでそれも真実だと既に知っていたような、妙な気分になってきた。
彼はただそれを私に、あえて言葉にして見せただけで、それは本当は私の中に既にあったものかのような──
「君はただでさえ根が親切なところがあるから、相手と自分をしっかり切り離すように、冷酷さのようなものを身につけていった方がいいしね。本気で怒ったり嫌だとはっきりさせるのも大切だと思うよ。自分の意思を鮮明にしていくいい機会でもあるんじゃない?」
そう言って、
「恒常性って知ってる?」
「何それ?」
彼はふーっと煙を吐き出してから、
「僕らの細胞は常に生まれ変わり死に変わりして入れ替わっているでしょう? 一つ一つの細胞は前と同じものではないのにもかかわらず、それでも組織として一定の機能を保っている。僕たちの体としてひとつの同じものが存在しているかのように在り続けている。そうやってある種のバランスを保ち続けているのでこうしていられるわけでしょう」
「言われてみたらそうだね」
「でも、あるとき、そのバランスが崩れるような何か──毒されたり傷つけられたりして──が起きると、何とか元のバランスに戻そう回復させようという働きが起きる。そうした《何とか回復させようと努力している過程》が現象として顕れているのが《病》なんだよ」
「ふーん。ちょっと面白いね」
何だろう、ちょっと視点を変えてみた感じ?
「考え方のようなもの?」
私が尋ねると
「そう」
そう考えると、病にも意味があることになるのか。というより、病というものに対しての価値観そのものが反転するくらいの視点の転換にもなるかな。何となくそんなことを考えていたら、彼が私をじっと見ていた。目が合うと、彼はにこっとした。それでつられてにこっとしたら、彼はくっくっとちょっと笑った。
「何がおかしいの」
何となく恥ずかしくなりながら私が言うと
「いや、べつに。可愛いらしいね、神奈ちゃん。素直な子供のままなんだね」
子ども扱いされた、と不本意に思いながらも、まあ彼からしたら本当にそうだから仕方ないか、とも思っていたら、彼は言った。
「褒めているんだよ。影響を受けているところがあっても、君自身の本質は汚されることはないから、安心していてもいいと思うよ?」
「そうかな」
「うん」
どうかな、私も海も陸も、すごく嫌な影響を受けているけどな──本当に精神にできる癌細胞みたいだ──自分でも気づかないような奥深くに侵食されて、巣食うように根を張られて、内側からどんどん腐食させられていくような、この不快な嫌悪感や気持ちの悪さは決して消えない。考え方はわかるけれど。
何となく黙っていたら、彼は言った。
「君の言うとおり──」
私が顔を上げると、彼は続けて言った。
「考え方の問題」
「それはなんとなくわかるよ」
彼は私をじっと見ていた
それからこんなことを言った。
「《病》を単にただ取り除けばよいというのではなくて、そもそもそれは、何らかの要因で毒されたり傷つけられたりした結果、崩れてしまった本来のバランスを《回復させようと努力している過程》がひとつの《病》としてかたちに顕れているのであって、回復過程の努力がうまくいってそれなりのバランスを達成できれば、結果その《回復させようと努力している過程》自体が終わる、というかその事態が解消されるから、その現象としての《病》も解消されている。もしくは今までとは違ったそれなりのバランスを取ることで緩和された状態になったりするんだよ
僕らの体はそうした働きを休むことなく常にしているけれども、いちいちそれを頭で認識したり考えてそうしたりしているのではなくて、血液や細胞や微小環境の中のいろんなものが僕らという生命体の宇宙の中で自律的に働いてそれをしてくれているってわけでしょう。そうした自律的な働きがあるからこそ、こうして生きていて、それについて考えることもできるってことをもう一回考え直してみるって必要じゃないかな?
その細胞の一つ一つの中にも分子や原子の中にもまたそのミクロコスモスがあって、自律的な働きをしている。それらのすべてを把握して理解して何がそれにとって良いか悪いかどうか決めてコントロールするなんてこと到底無理な話でしょう?
つまり、それぞれに適切な対処をさせること、その自律性をできるだけ阻害しないで、それぞれのバランスのとり方や在り方、その達成の仕方があるということを尊重することは、とても大切なことなんだよ。
考え方の基本としてとても重要なことだと思う。
表層の部分で良い悪いが判断できたとしても、その奥には連綿とつながるミクロコスモスが在って、何がその表層の良い悪いという現象として顕れているかどうかなんて全部はわからないし、それらをすべて完璧に理解して解明し、それらの働きより良いもの優れたものを提供できるのでそれらすべてを制御下に置くとかコントロールすることができるなんて考えるとしたら、それは子供がもつ万能幻想とたいして変わらないよ。
つまりそれ、それ自体に、自らの責任をとらせることを邪魔しないことが、それにとっての最良の手助けでもあるってことに気づく必要があるってこと。
何故なら何がそれにとっての適切な対処なのか、バランスの取り方や在り様なのか、達成の仕方なのか、本当には誰にもわからない。でもそれ自体が自らそのように在ることそれ自体を尊重していくのであれば、自ずとそれは自らにとって適切な対処やバランスの達成をしていくしかないのでそうする。
それが森羅万象のバランス、宇宙の大きなリズムに乗ることなんだよ」
私をまっすぐに見つめている彼の独特な透明な眼差しに、目を合わせていたら、自分がなんだか奇妙な空間を漂っている気がしてきた。これは何の話だ。焦点を(癌細胞のような)亜実ちゃんを始め嫌がらせをしてきたひとたちのことに合わせて聴いていたけれども、彼の焦点はそれだけでなく、波紋を広げるようにもっと大きく捉えていて、存在や関係性や全体の大きな変化についてまで言及しているみたい。
波紋を呼び、広がり、全てが波及していくような空間を漂ってその残響に耳を澄ませているみたいな気がしてきた。
私自身が水面に拡がる波紋に溶け込んで、水の分子の中を泳ぐように、波にのるように、そうして旅をしていくような──本当はこうやってずっと長い長い旅をしてきたような──
彼は私をまっすぐに見つめながら言った。
「取り除けばそれでいいってことでもない。なんにでも意味がある。取り除いてはいけないといっているのではなく、それにはそれの仕事がある、ってこと。細菌には細菌のウィルスにはウィルスの仕事があるんだよ。癌細胞だって同じ。取り除いてはいけないとも言っていないし、取り除いてなくせばいいと言っているのでもなく、ただバランスをとるためにこれを言っている。あまりにもこうあるべきだという刷込みや思い込みが強すぎて呪縛になっているから、それを解くために、そうしてバランスをとるために」
僕の言っていること、わかる?
そう彼は私をじっと見つめていた。
「私はどうすればいいの?」
「まずは自分を縛っている思い込みとか刷込みとか、呪縛になっている、そこから脱け出すことじゃないかな」
「でもそれって、その中にいる時はなかなか見えないものなんじゃないの?」
「だから、揺さぶられるように、色々なものを見せられたり聞かされるんだよ。嫌なこともあるかもしれないけれど、それも本当の君を思い出すための、call なんだよ。君を縛る呪縛を解いていく為の招待状のようなもの。呼び声だったり、召命だったりする」
何となく私はみなちゃんの部屋でラジオをつけた時のことを思い出していた。
「刺激を受けて、自分の中から応答する反応そのものの中に、ヒントがあるということ?」
「そうだよ。よくわかっているじゃない」
優しい声でそう言って、彼は私に言った。
「感覚がキャッチした情報を信号として受け取ることをもっと微細なレベルまで深めていくことで、君の新しい能力が拓かれていくかもしれないでしょう。それは君が生きていくための新しい力になると思うよ」
そうして彼はじっとまた私の瞳を見つめた。不思議な透明な眼差し。独特の間。心ごと遠くへと連れ去って行くみたいな彼のこの眼差しこそ、何かの呼びかけ―― calling ──そのものみたいだな、となんとなく思う。
――君の真実の名は? それを思い出せる? 覚えている?──
彼は煙草を消して携帯灰皿に捨てていた。
「風が強くなってきたみたいだし、そろそろ戻ろうか」
私はまた彼に手を引かれるようにして元来た道を戻った。
「足元、気をつけて」
「うん」
手を引かれて月明かりの夜道をたどり、私は彼の車に戻った。そうして家まで送ってもらった。




