12
翌朝携帯を見たら二人からの返信はなかった。目覚めたら、なんだかすごくよく眠ったみたいにすっきりしていたので、私は久しぶりに朝食をしっかり全部食べて登校した。そうして授業が終わって放課後キイナと一緒に校門を出たら、海が塀にもたれるようにして待っていた。
キイナは、あれって表情して私と海の顔を見比べてから、
「じゃあ、カンナ、また明日」
とさっさと私たちを残して一人で行ってしまった。
それを見送りながら、しばらく海と二人で黙って立ち尽くしていたら
「なんか用事あるの?」
海が私に訊いたので、
「特にない」
海は私をしばらく見ていたけれど、手をとってさっさと歩き出した。
「じゃあ、いつも通りでいいよね」
そう言って。
死刑執行のために最後の道を歩く囚人ってこんな気持ちかな。
覚悟だけが決まっていて、あとは恐ろしいほどすっきりして何もない。
淡々と思いながら黙って歩いていたら、海が振り返った。
「昨日はいつものバイト?」
「そう」
「そっか」
それだけ言って海はまた前を向いて歩いた。
光の加減で時折青く見える黒くて艶のある真っ直ぐな髪。綺麗な瞳。長いまつ毛。長い指。シャツの袖から出ている引き締まった腕。静かで落ち着いた声。あたたかい手のひら。
この人の髪も瞳も指も声も全部みんなものすごく好きだけれど、なのに何も感じない。私は冷淡なのだろうか。罪悪感の一かけらも感じないなんて。でも、ごめんなさいって言って泣いた方がいんちきだし、そっちの方が侮辱的だろうし、どうしようもないし。
そんなことを考えながら彼を見ていたら、ふいに彼は立ち止まって、こっちを見た。そのまましばらく私を見つめていたけれど、何も言わずにまた前を向いて私の手を引くように歩き出した。
マンションに着いたら陸がもう居て、ダイニングで大きな段ボール箱や梱包材なんかを一人でがさがさとまとめていた。海は私に「先にリビングに行ってて」と言ってから、粗大ごみをまとめるのを手伝っていた。
ダイニングから二人が立てるがさがさという音を聞きながら、私は仕方ないのでテーブルに教科書なんかを出して課題にとりかかりだした。がさがさという音がうるさいのでかえってそれで静かになるというか、私はいつの間にか時間も忘れて課題に集中していた。
ことん、と私の前にコーヒーの入ったマグカップを置いて陸が席に着いたのに気づいたので、
「ありがとう」
顔を上げてそう言うと、彼は頷いた。
しばらくして海も来て、三人で静かにそれぞれの課題に向き合った。静かにかなり私は集中していて、二人のこともいつの間にか忘れていたくらいだった。ここのところの色々な雑事も全部忘れていた。よし、と本日の予定分を全て終えて顔を上げたら、二人がこっちを見ていたので
「どうしたの?」
とふつうに訊いた。何のこだわりもなく。
「夕飯何にする?」
陸が訊いてきたので、
「何でもいいよ。でも何か生野菜が食べたいな。お漬物とかでもいいけど。火を通してない野菜が食べたい」
屈託なく私がそう答えると、海が
「トマトとかきゅうりくらいならあったみたいだけど」
言いながら立ち上がってキッチンへ行き冷蔵庫の中を見ていた。そして
「なんだろう、なんかこんな葉っぱもある」
とクレソンを持ってきたので私は笑いながら
「それクレソンだよ。お肉とか脂っこい料理と合わせるといいよ。ピリッとして美味しいハーブ」
「ふーん」
言って海はクレソンを見てから、冷蔵庫に戻しに行った。
「カレーが食べたい」
陸が私に言って、
「三人で材料買いに行こうよ」
と立ち上がったので、
「いいよ」
そう返事しながら、私は、あれ、なんかすごくいつも通りみたい。ふつうだ。と思っていた。
ここのところのおかしな空気がどこかへ行ってしまったように、いつのまにか平和な日常が戻ってきていた。それで私たちは一緒に近くのスーパーにサイフだけ持って出かけた。外はまだ明るいけれど少し涼しくなっていた。風が少しあるので、気持ちが良かった。
「なんか気持ちいいね」
私がそう言って先に立って歩き、二人が後を歩いてきた。
スーパーでは買い物かごを海が持って、私と陸がメモしてきた材料をぽいぽい入れていった。
「アイスも食べたい」
そう言って陸がアイスクリームのコーナーで立ち止まったので、三人でそれぞれに好きな物を選んでそれもかごに入れた。
「漬物も買う?」
海が訊いてきたので、セロリのお漬物もかごに入れていたら、
「あらー」
と明るい声がしたので顔を上げると、あの雑貨屋のお姉さんだった。
「本当に三つ子なのねえ、お兄ちゃんたちはそっくりだわ」
とにこにこしていた。
「こんばんは」
にこっとして愛想よく海が応じ、陸が会釈したので私も会釈した。
「えらいのねえ」
海の持っているかごを見ながら言って、彼女は私に
「三日坊主で終わっちゃったの」
自分のかごの中のお惣菜のパックを見せた。
二人で笑っていたら、
「何の話?」
と海と陸が訊いてきたので
「ないしょ」
と私たちは言って、笑って手を振って別れた。
「美人だよな」
陸が去って行く彼女を見送りながら言った。
「うん。きれいな人だよね。会うとなんか得したみたいな気分になる」
「俺も」
「目の保養だな」
言い合っている二人は、私とは違う意味で言っている気がしたけれど、まあいいか、と思った。
スーパーの袋を海と陸が持って、私をまた先に歩かせて二人が後を歩くかたちで三人で帰った。まだ明るい日の名残りのなか帰宅する人たちに混じって三人でのんびりと歩いていたら、風も吹いて気持ち良かったのもあって、なんだかすごく幸せな気分だった。二人を振り返ると、海がにこっとして陸が笑いかけた。
「なんか気持ちいいね」
「うん」
「このまま歩いていたいみたいな気分だけど、アイスが溶けちゃうからなあ」
「こうしてたまに散歩に出るのもいいね」
「そうだな」
何だか妙にうまく歯車が回ってしまって、不思議に平和な時間が魔法みたいに私たちを訪れていた。背景にある事情なんてまったくお構いなしにそれが私たちをあまりにも心地よく包んでいるので、このままずっと何の問題もなく平和に幸福にいられそうに思うほどだった。
でも、そうなって初めて、私はちょっと罪悪感のようなものを感じ始めた。
何か二人を騙しているみたいな気分になってきたのだ。
あまりに二人がいつも通りに穏やかに優しく微笑んだりしているので、それを騙してかすめ取っているみたいな気分になってきた。
そうか、こういうとき、こういう幸せを壊したくなくて、人は嘘をついてしまうんだわ──何となく私はそう思っていた。数時間前まではもうどうでもいい、嫌われてもいい、そう覚悟を決めていたのに、いざこうなったら、この雰囲気を壊したくないと思い始めていた。海や陸が傷ついた顔を見たくない、責められるのも嫌われるのも仕方ないけれど、悲しまれるのはつらい、今笑っている二人の顔が苦痛に歪むのを見たくない、とかぐずぐず思いだしていた。奇妙な反転現象だった。
風が少し強く吹いて、街路樹をざわめかせて通り過ぎていった。私は何となくそれを立ち止まって見上げた。そして後から来た陸と海も立ち止まる前に、また歩き出した。




