8
「久しぶりだね」
屋上から一人で中庭を見下ろしていたら、葉月が声をかけてきた。
「しばらく見なかったね」
私がそう言うと、
「あれ、言ってなかったっけ。交換留学でホームステイしてきたんだよ」
「そうだったんだ。いいな」
「楽しかったよ」
色々現地でのエピソードや留学についてのあれこれを聞いていたら、チャイムが鳴ったので、
「お昼一緒に食べない?」
私が言うと、彼女はいいよ、と言って二人で屋上から建物の中に入った。
「またあとで。屋上で待ってるよ」
言って去っていく彼女の後姿に手を振って、私は自分の教室に戻った。
お昼休みに葉月と二人屋上でランチをとりながら、私は彼女に尋ねていた。
「ねえ、男女の駆け引きって自覚なくつかうもの?」
葉月は私をきょとんと見てから笑った。
「何いきなり。そんなのいちいち考えてしないでしょうよ」
「そう? 意図的にしているんじゃないの?」
「そうだけど、半分無自覚、半分自覚しているみたいなものかも。でも、男女の駆け引きに限らずに、人間関係ってみんなそんなものでしょう。たいていはみんないちいち頭でこうしようああしようなんて全部考えて何かしてないでしょう。何となく動いていたりしていたり。その中にはっきりと自覚的な意図が混じるくらいなもので、自覚から無自覚までがグラデーションになっている。それで半分夢のなかにいるみたいに無自覚なんじゃない?}
「そっか、男女の駆け引きって特別に区切るから、わかりづらくなるんだ」
「何があったのか知らないけど…んー、そうだな。神奈はあまりそういう駆け引きめいたことしないよね」
「駆け引きには大なり小なりあると思うけれど、それって結局は自分の思い通りにする為の取引だよね。そこには必ず、自分の思い通りに相手や物事を動かしたいっていう意図があるでしょう。それがいいか悪いかというよりも、そうして囲い込んでいく強引な感じがあまり好きではないんだと思う」
「うーん、そうだなあ。互いにそれを合意の上でゲーム感覚で楽しむ分にはいいけれど、こっちの都合お構いなしにそれやられたら、確かに鬱陶しいよね」
言ってから葉月は笑った。
「でもさ、かくかくしかじかこれこれについて私たちは合意します、なんて契約書交わすわけでもなし、やっぱりそれも阿吽の呼吸みたいなものでやりとりするから、その線引きはもう各自のセンス次第だよね」
「なるほど、センスがないって、そういう意味でも言うんだ」
「そうそう」
おかしそうに葉月は笑った。
「それにぶっ飛んだセンスの持ち主に出会うのもまた面白いじゃん。基本的に悪意があるのはいらないけどさ。面白いのは刺激になるし、こっちの感覚も磨かれるってものでしょう」
あっけらかんと笑っている葉月と話しているとなんだかほっとした。小さく縮こまっていた何かがほどけてく。シリアスになりすぎないで楽しもうよ、という気持ちになってくる。
「もしかしたら神奈は、自分で思うよりも、自分の意図を通そうとすることに対して悪いことだみたいな気持ちがあるのかもよ? それでアレルギー反応みたいに敏感に反応しちゃうの」
「そうなの?」
「そうなのって、自分のことじゃん。ただなんかそんな風に思ったから言っただけだよ」
「そうなのかなあ、わからないや」
「それか、それでものすごく嫌な思いしたことがあるとか」
言いながら葉月が、あ、という表情をして
「だってつい最近までそれですったもんだしてたじゃん。そりゃ、嫌気もさすって! ばっちりトラウマにもなるさ」
そう言われて私は、ああそうか、と気づいた。
亜実ちゃんや一連の騒動のなかで私が見てきた彼女たちの姿が、そういう強引に自分の都合を通すような駆け引きめいたへんな取引に満ち満ちたものだったからだ。不愉快な嫌な思いをさせることで自分たちの要求をのませようとしたり、譲歩させようとしたり。こちらの都合などお構いなしに、ただそれを通すために、相手にこちらの領域に侵入されて、何かを奪おうとされたり壊そうとされたりした。そうして散々土足で踏みにじられてきたからだった。
「そうか、思ってたよりも、ダメージ受けてたんだ」
そう言えば静香さんが言っていた人格特徴の概念の一つにマニピュレーターとかあったな。関係操作ってこういう感じの事なのか。
一連の出来事を思い返すとなんとも不快な気分になる。不快な酩酊感のような軽い眩暈。軽い吐き気──考えるよりも先に身体が反応してしまう──理性ではどうしようもない、生理的などうしようもない嫌悪感、気持ちの悪さをずっと抱えていたことに私は今、改めて気づいた。そうして自分の中で何かが一瞬で切り替わった事にも気づいた。
──なるほど。自分の中でもやもやして漠然としていた感覚や感情を一旦認めると、それまでのものも別の角度から見ることが出来るので、また少し感覚や気分が変わるんだ。空気が一新されるみたいに風通しがよくなる。それをどう扱うか自分で決めることが出来るからなのか、余計な気が抜けて余裕が生まれるみたいにして気分が楽になるんだ……
なるほど。聖一さんが言っていた事ってこういう感じの事か。
「そう言えば、例の子、まだライブハウスに来ているけれど、今は特に神奈のこと訊き回ったりしてないよ。ただなんか、ちょっとした揉め事は起こしているっぽい」
「ふーん」
「あまりよく知らないけれど、噂だから。なんか自己啓発系のサークルみたいなものにはまってるとか。それで周囲の友達にも声かけているとか。なんかその勧誘にまつわるトラブルが起きているみたいだよ」
「もう好きにして、こっちに関わらないで、って感じ」
「そりゃそうだよね」
私は青い空に広がる真っ白な大きな入道雲を見上げた。澄んだ青と白の鮮やかなコントラストがとてもきれい。すかっとした夏の空だ。からっと短時間で湿気を吹き飛ばしてしまう。
「なんかありがとう。葉月と話したら、何となく霧が晴れたみたい」
「そう? ならよかった」
「うん」
「あー、きれいだね。空が青い。気持ちいい」
葉月も空を見上げて、うーんとその華奢で長い腕を思いきり伸ばした。
伸びやかな肢体を、さらに伸び伸びと夏の空に解放するみたいに。
それを何かきれいだなと思いながらとてもいいものを眺めるように私は見ていた。
「海がけっこうまじでへこんでるぞ」
迎えに来た陸に開口一番に言われて、私は言い過ぎたかも、と思い直した。
「ちょっと神経過敏になって、過剰反応していたのかもしれない」
そう言って、葉月と話したことをちょこっと陸に話した。
一連の出来事でアレルギー反応を示しているんじゃないかっていう話。
陸は黙って隣を歩きながら聴いていた。そしてそのまま黙りこんでしまったので、私も何となく黙ったまま彼と一緒に歩いた。
マンションに着いてから
「海もそうなのかも。逆の意味でだけど」
陸はぼそっと言った。
「どういう意味?」
「変に影響を受けたってこと。でも海の方は、自分がしたいことや大切にしたいものを奪われたり壊されたりするかもしれないってことに対して過剰防衛みたいに攻撃的になってる。それでたまに自分でも歯止めがきかない」
私が黙りこんだのをしばらく見ていた陸は、何か飲む? と冷蔵庫を開けた。
氷を入れたグラスに炭酸飲料を注いで、二人で黙って飲んだ。
陸は一気にグラスの炭酸飲料を飲み干してから派手にげっぷをしたので、なんか一緒に笑っていたら、もう一杯をグラスに注ぎながら彼は言った。
「階堂は、俺たち二人にファンレターみたいなの送ってきてたけど、中等部の時に海と同じクラスになった時に、海に特に熱を上げていたみたいだ。海って面倒見がいいだろう。教えるのうまいし。それでクラスメートの何人かに解らないところを聞かれたり頼まれたりして、ミニ勉強会みたいなことをちょっとしていたらしい。そのときによく海に質問に来ていたのが階堂だったんだって。海はふつうに誰にでも親切に教えてたから、それでわりと仲良くもしてたみたい。俺と階堂とは同じクラスだったことはあっても直接にはそんなに接点がないから、あの事件の時、海の方がけっこうぴりぴりしていたし、ショックも受けていたんだよ。それでなんか変に影響も受けたんじゃないかなーって。推測だけど」
私は手元にある泡の昇ってくるグラスの中を見ていた。
「人って、思っているよりも怖いね。関わることで自分でも気づかないところで変な影響を深いところで与え合っていたりして。それに本人も気づいていないのに、しっかり影響は受けているとか」
私がそう言うと、陸は私を見た。
「そうだけど、でも、それだけでもないだろう。嫌なことばかりでもないだろう? 神奈も俺らも嫌な思いしたし、思わぬところで影響も受けているけれど、だからって俺たちがそれで互いに関わることを変に怖がったり避けたりしたら、ますますその変な影響の方が大きくなるだけじゃないか」
真っ直ぐにこっちを見ている陸に私は、そうだね、と頷いた。
「とりあえず始めるか」
その場の空気を変えるように陸がそう言って、リビングに移動したので、私も後に続いて二人でそのままそれぞれの思いを馳せながら黙々と勉強した。その日の課題が多かったのもあり、私は次第に集中していきしばらく時間を忘れた。ふと気づいたら、陸がこっちを頬杖ついて見ていたので
「どうしたの?」
と尋ねると
「真面目にやってんな~と思って」
「ふーん」
「コーヒー淹れるけど飲む?」
「うん、ありがとう」
陸がコーヒーメーカーをセットしに行ってからこっちに戻ってくると
「粉が切れかかってる。ちょっと散歩がてらに買いに行かない?」
「いいよ」
外の空気を吸いたかった私はすぐに立ち上がった。
それでサイフだけ持って、私たちはマンションから出た。
明るい夕方の道を二人で手をつないでお喋りしながら歩いて、近くのスーパーでコーヒーの粉を買って、また手をつないで来た道を戻っていたら、なんだかこうやって一緒に買い物に出て、一緒に家に帰るっていいなあ、と思った。夕方のまだ明るい光のなか帰宅する人たちに混じって自分たちも家に帰る。手にスーパーの袋をぶらさげて。なんだか家族みたいだ。
「いつだったか部屋割りのエピソードを話したことあったじゃん?」
陸が歩きながらそう言ってきたので、私はうんと頷いた。
「神奈はあのときのこと、あまり覚えてないの?」
「うん。陸から聞いてへえ、って思ったけど、まったく覚えてない」
「そうか」
陸はそう言って黙った。
「私がごうつくばりだったってことでしょ」
「そうそう」
陸は笑った。
私はちょっと陸を見上げながらなんとなく訊いてみた。
「私ひとりのスペースに、海と陸の二人を押しこめようとしてるっていうの、それはいいの? 本来ならそれぞれにパートナーがほしいものなんじゃないの?」
陸はちょっと黙って私を見た。
それから言った。
「なんかそれ、やらしいなあ」
「え?」
言ってから、私はかッと赤くなった。変な意味にもとれることに気づいたので、パニックになって焦って、ますます赤くなって、のたうち回りたくなった。ひー、もう死にたい!
「ち、ちがう、そんな意味で言ったんじゃない!」
「わかってるよ、落ち着け。落ち着け。ちょっとした冗談だから」
陸と私は目を合わせ、もう笑うしかなくて笑い出した。げらげら笑っていたら、ここのところの妙な空気が吹き飛んでなんか気が楽になった。そうして軽口をたたくように冗談を言い合いながらマンションに帰ると、陸は笑いながら私に言った。
「さっきの話の続きだけどさ、何か気づかない?」
「続き?」
「このマンションの間取り、あのときのセットの家の間取りと似てるんだよ」
言って陸は私に、自分の部屋のドアを開けてみせた。
「ほら、こっちに俺と海の部屋。同じ大きさのがふたつ。広いダイニングキッチンに、大きなリビング」
陸は私の手を引いて、部屋を移動していった。
「それで、こっちにも部屋があるんだよね」
そうしてリビングをはさんで向こうにある部屋のドアを開けてみせた。
広い洋間で、陸と海の個室の倍よりは少し小さいけれどそれに近いくらいの広さだった。でも何も置いてない。がらんとした空間だった。カーテンだけがかかっていて、今はレースのカーテンがひかれていた。掃き出しの窓から夕陽が入って室内を照らしていた。
「ここ、神奈の部屋にしてもいいよ」
陸はそう言って、私を部屋の中に入れて
「みんなでずっとここで一緒に暮らそうよ」
と言った。
「そんな無茶な」
「何で? 別に誰にどう思われてもいいだろう?」
私は陸を見上げて
「……これじゃあ、私がごうつくばりのままじゃない。それに、この家に私の部屋はいらないよ」
「じゃあ、三人の部屋にするのは?」
陸が握った手にぎゅっと力を込めて私を見つめるので、黙ったまま目を合わせていたら、海が帰ってくる音がした。それで私たちも部屋を出てリビングへ移動した。海はこっちには顔を出さずに直接浴室に入って行った。
「すぐにとは言わないけれど、考えておいてよ」
陸はそう言って、私を置いてキッチンにコーヒーを淹れに行った。
海が着替えを済ませてキッチンへ来て冷蔵庫を開けている音を聞きながら参考書に目を落としていたら、陸が
「ちょっと、海の部屋に行ってくる」と席を立って、海に声をかけて海の部屋に一緒に行った。しばらくして戻ってきてから私に
「ちょっと海のところに行って二人で話して来てよ」
と声をかけてきたので、
「何話すの」
「過剰反応したって言ってただろう。俺からも少し話したけど、神奈の口から海に言ってよ」
陸に手を引っ張られて海の部屋に連れてかれたので、私はドアをノックした。
「海、入っていい?」
海がドアを開けて私を見たので、目でいい? と訊いたら、彼は黙ったままで頷いたので私は彼の部屋の中に入った。
「ごめん、こないだは言い過ぎたよ」
私がそう言うと、海は私を見つめてから
「謝らないでいいよ。陸からも聞いた」
海はそう言って、座る? と勉強机の前の椅子を引いて、私を座らせた。そうして自分はベッドに腰掛けた。だいぶ距離をとって互いにしばらく黙っていた。気まずいような沈黙が続いて困っていたら、海が自分の手元を見つめながら言った。
「影響を受けていようとどうだろうともう、たぶん神奈も俺も変わったんだよ。全部なかったことにして以前のように戻ることなんてできないんだし。今の神奈にとっていやなものなら、それが今の神奈の正直な気持ちだろう? それが過剰反応だろうと何だろうと、それが今の本当の気持ちなんだから、無理に違うことにしたらまたそれでおかしくなるんじゃない? 少しそれと距離をとることができるくらいで、基本的には今の自分が感じることがもう今の自分にとっての真実なんだから、それを受け容れていくほかないんじゃない?」
海は私を見つめてから、ふいと視線をそらして立ち上がった。
「陸も待っているから、向こうに行こう」
私は立ち上がらずにそのまま海を見つめていた。
海が私を振り返って
「行かないの?」
と尋ねてきたので
「海はどう思っているの」
「今話したよ」
「私のことではなくて、自分のこと」
「同じだよ。基本的にもう今の自分が感じることが自分の真実だって思うし、それを受け容れるしかないって思ってる。それで嫌われるなら仕方ない。神奈が止めてって言うなら、止めるようにするけれど、でもそのときにどうなるかなんて、自分でもわからないよ。自分がしたいようにしちゃうかもしれない。気づいたらもうしてるかもしれないんだし」
そう言ってから、海は私をじっと見た。
「あと、神奈はなんか勘違いしてるみたいだけど、俺は別に駆け引きして遊んだり面白がったりなんてしてない。だから以前関係のあった誰かと同じように神奈に接してゲームを仕掛けるみたいなことはしてない。確かに神奈に駆け引きめいたことはしていたけれど、それは自分がしたいようにしていただけで、誰かと同じように扱ったとかそういうことはないよ。遊びやゲームじゃなくて、本気で自分のものにしたいからしてただけ。そのやり方が神奈を傷つけていたなら謝るし、気をつけるけど」
なんかほっとしている自分が居た。
何となく緊張が解けた気がしていたら、海はまだ私をじっと見ていた。
「俺のことなんだと思ってたんだよ」
私は失礼かな、と思いながら
「なんか怖くて、得体が知れない、知らない男のひとみたいって思ってた」
「俺が神奈のことを面白がって弄んでいるみたいに思ってたの?」
「少し」
「今は?」
「以前の海とは違うけれど、でも海は海なんだなって思ってるよ」
「まだ怖い?」
「ちょっと」
「俺のことまだ好き?」
「うん」
「男として見てる?」
私はちょっと黙って彼を見つめた。
「だから怖かったんだよ。知らない男のひとみたいに思えて」
海は、少し息をついて、
「わかった。もういいよ」
そして私のそばに来て手を差し出したので、その手を取った。彼に手を引かれるようにしてリビングに戻ったら、陸が顔を上げて
「仲直り?」
「とりあえず和解した」
「そうみたい」




