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「久しぶりに日曜日どこかに行かない?」
マンションへ帰る道で海が私にそう言ったので、
「今度の土日はキイナと聡子と一緒に海に行く約束しちゃった。泊りがけで行くの」
「そうか、じゃあ夏休みに入ってからにしようか」
「そうだね。海はどこか行きたいところある?」
「うーん、そうだなあ、俺も泳ぎに行きたいなあ。神奈は?」
「特にないかな。楽しめればどこでもいいよ」
「陸にも訊いてみるけど、俺らも海に旅行に行くのもいいかも。一週間くらい行くのもいいな」
「……私たちもう高校生だし、さすがにそれは親が許さないんじゃない?」
「大丈夫じゃない? 今まで別にへんに詮索されたことないし」
言いながら海は私の肩を抱いて車道側から歩道側に移動させた。ガードレールのない歩道を歩いていたので対向車が海のすぐ近くを走り去って行った。
「旅行、いや?」
訊かれて、私は彼の顔を見てちょっと黙った。
「考えといてよ」
「うん」
何となく気まずいまま私は黙ってそのまま海と一緒にマンションに帰った。
リビングで一緒に勉強していると、私がちょっと詰まっているのに気づいた海が、すっと参考書のページを開いて出して簡潔に説明してくれたりする。海はよく気がつくというか、視野が広いのかよく周囲を見ている。私が目の前のことに夢中になっていると、いつもさり気なくフォローしてくれる。陸もそうだけれど、陸が声をかけてからなのに対して、最近の海は何も言わずにするので、たまに驚いてどきっとする。それでお礼を言いそびれたりもするのだけれど。
参考書をペンでなぞりながら説明してくれる彼の、伏せた眼を縁取る長いまつ毛をなんとなくきれいだなと思いながら聞いていたら、不意に彼が眼を上げて目が合った。海はそのまま黙って私をしばらく見つめてから、ゆっくりと顔を近づけてきて軽く唇を合わせて、静かに離れた。そうして何事もなかったようにまた説明し始めた。
こういうときってどう反応していいのか、本当にわからなくて困る。この知らんぷりモードに合わせるしかないから、妙に落ち着かない気分になる。
今までの海ならからかってきたり冗談を言ったりしていたところで妙に無口になっているし、かと思えば、今までのんきにしていたところですぐ怒ったり、強引になったりするし。
知らないうちに息を詰めているみたいに、ちょっと息苦しくなる。
でも海は、なんだかそういう私の反応を見ているみたいで、知らんふりしながらも、いつもこっちの反応を観察しているみたいだった。なんだかわざと落ち着かない気分にさせているみたいに。
この頃はどっちかと言うと、陸と一緒にいるほうが私は気が楽だった。
丁寧に海が教えてくれたところはとてもわかりやすくて、お礼を言ってまたそれぞれの課題に向き合っていたのだけれど、私は妙に落ち着かなくて、キッチンにコーヒーを淹れに立ち上がった。
「新しいの淹れてくるね」
そう言って自分のマグカップを手に取ると、海は顔を上げずに教科書に目を落としたまま
「うん」
とだけ返事した。
コーヒーメーカーをセットしてほっと息をついていると、なんかここにこのまま居座って陸が帰って来るまでリビングには戻りたくないような気がしてきた。
ああ、酸素、酸素を私にくれ。
空気を求めて水中から浮かび上がり、水面から顔を出してぱくぱく口を開けて空気をとにかく吸いこもうとしているみたいな気分だった。
違和感の殆どは陸よりも海のふるまいだったりするのだけれど、それをどう言っていいものかわからない。しいて言うなら知らんぷりモードに違和感がある、という感じか。でも別に何かする前にいちいち声をかけろとか言いたいわけでもないし、した後になんか喋れ、というのも違う。では私は何を求めているのか?
──空気。とにかく息がつきたい。
はあ、とため息をついていたら、海がいつの間にか来ていて、
「何でため息ついてんの」
「なんとなく」
「ふーん」
ダイニングチェアに座っている私のそばに立って、海は私を見下ろしていた。その眼差し。目の動きや微かな表情も捉えて逃さないような──
「何でそんな風に見るの」
「そんな風って?」
「まるで観察されているみたい」
「気のせいじゃない?」
海がそう言ったので、私はかちん、ときていた。
こいつ、とぼけやがった──
「うそ、絶対わざとだよ。そうでしょう?」
海は黙ったまま私を見下ろしていた。
「考えすぎじゃないの?」
──その瞬間、私はパズルのピースがハマるように理解した。
ああ、そうか、海はまるでゲームの手を進めるように、私を観察しながら自分の範疇に入れようとしているんだ。これは詰め将棋とか囲碁とかみたいに相手を追い込んでいくような戦術みたいなものなんだ。だから逃げたくなるし、息が詰まるんだ。これは私を自分の思い通りにする為の、彼のゲームなんだ──
「海は私を自分の思い通りにしようとしすぎだよ」
私がそう言うと、海はちょっと反応した。ポーカーフェイスの隙間に、少しだけ、何かが見えたように。今や私も彼を観察していた。その表情や瞳や眉の動き、微かな声のトーンに至るまでセンサーでチェックしているように。
「何か怒らせるようなことした? いやな思いさせてたなら謝るよ。ごめん」
海はちょっと傷ついたような表情でそう言った。
私はそれを見ながら、幼い頃に彼らが自分たちで表情や角度をチェックし合いながら演技の練習に勤しんでいたことをぼんやりと思い出していた。
今までもそういうことはあったけれど、でもまだ冗談めかしていたり、可愛らしいものだったのに、今の海はもう違う。無邪気な遊びを超えていて明らかにやりすぎだった──違和感の正体はこれだったのか──私は彼を見上げながら、
「海、あなたは、大人の男のひととしてそれをしているでしょう。今までの可愛らしい子供同士のじゃれあいやふざけあいの延長みたいなものとかではなくて。女性を自分の思い通りにするために使うテクニックみたいなものを私に使っているんじゃない? そうしてそれをしてもいいって思っているんでしょう?」
海は私をじっと見ていたけれど、開き直ったように言った。
「そうだよ」
「それがいやなんだよ。それで怒っているんだよ。わからない?」
そこまで言ったら、ぶわっと涙が出てきた。
私が突然泣き出したことで、海はちょっと驚いていた。
「何で泣くんだよ」
「知らないよ。勝手に出てきたんだから」
ちくしょう、泣くつもりなんかなかったのに。これではなんか悔しい。闘う前から負けたみたいじゃないか。なのに涙が止まらず、困っていたら海がティッシュを持ってきたので、それで涙を拭いて鼻もかんだ。なんか口惜しかったので思いきり音をたてて。用意のいい海がゴミ箱も差し出したのでそこにそれをぽいっと捨てた。でもまだ涙が流れ続けているので、またティッシュをとってそれで目を押さえた。
そこに陸が帰ってきた。キッチンに入ってきて、
「なんだ、また泣かせてんのかよ。けんか?」
「ちがう」
「そう」
同時に反対の答えを口にしたので陸は海と私を見比べていたが、海に言った。
「神奈はけんかだって言ってるぞ?」
「けんかしていたつもりはないけど」
海はちょっとため息をついた。
それから私のそばにしゃがんで、私の顔を見て言った。
「ごめん、また追い詰めたみたいだ。神奈の言うとおりだよ。悪かったよ」
それはいつものよく知っている海の、困惑したような表情だったので、それでほっとしてまた泣けた。
「あ~、また泣かしてるし」
「うるさいな」
海と陸が言い合っているのもいつもの海と陸だったので、またなんかさらに泣けた。結局、ああ言おうかこう言おうかとぐるぐる頭悩ませていた言葉よりも、突然ぶわっと溢れてきた涙の方が雄弁だったみたいだ。あれこれ何とか冷静にやりとりしようとしても、結局は海に言いくるめられていたかもしれないし。
「とりあえず仲直りしといてよ」
陸はちょっとため息をついてからそう言ってシャワーを浴びに浴室に行ってしまった。
さめざめと泣いている私の頭を、海は子供の頃にしていたように、なでていた。
「思い通りにしようとして、ごめん」
「もうしないで」
海はちょっと黙った。
「またするかも。気づいたらしちゃってるし。でも、神奈が止めてって言ったら止めるようにするよ」
私は顔を上げて海を見た。
海は謝っているけれど、本当には悪いと思っていないんだな、そう彼の表情を見て何となく思った。
困惑しているけれど、私の様子をまだどこかで測っているのが、よくわかったから。
「海が今までどんなことを他の女性たちとしてきたのか知らないけれど、そういう駆け引きやゲームが面白い人もいれば、それにふつうに傷つく人もいるんだよ。私はあなたがそういう遊びで慣れていたようなひとたちとは違うんだよ。そういうのはいやなの。騙しているのと同じだからふつうに傷つくんだよ」
「そんなことしてないよ」
「しているよ」
海は私をじっと見ていた。
「それは焼きもち?」
「そう思いたいならそれでもいいよ。でも私を騙して、その領域をゲームみたいに侵略していくみたいなやり方はしないで」
「そんなにおおげさなこと?」
「海は麻痺しているんだよ、きっと」
陸の方がまだちゃんと話が通じる。でも、海は──私はまたなんか涙が出てきた。
「このままいったら、本当に、海のことが嫌いになる。嫌いになりたくないけど、でももういやだ。息が詰まる。今の海はやりすぎだよ」
さすがに泣きながらそこまではっきりと言ったら、海も驚いていたけれど、神妙な表情になった。
「わかった。気をつける」




