19
風がさあっと吹いて、どこからか薄紫色の小さな花びらがベランダの手すりにかけていた左手の甲にふわりと落ちた。うわあ、かわいい。なんとなく嬉しくなって、それをそうっと右手でつまんで光に透かして色んな角度から眺めていたら、陸がいつの間にか隣に来ていた。
「いないから帰ったかと思った」
「勉強道具も鞄もあるじゃない」
「置いてったのかと思った」
「何でわざわざそんなことするのよ」
陸は黙った。
お風呂上がりの彼からは清潔ないい匂いがしていて、髪がまだ濡れたままだったので
「乾かしてきなよ。風邪ひくよ」
「うん」
素直に室内に戻っていく陸を見送ってから、私は持っていた花びらをふうっとベランダの外へ飛ばした。ひらひらと風に舞いながらゆっくりと降りていく薄紫色を目で追い、それからまた公園の木々の緑をしばらく眺めていた。特に何も考えてはいなかった。ただきれいな風景に溶け込むようにぼうっとしているのが気持ち良かったのだ。それで風景も十分堪能して機嫌よく部屋に戻ると、ちょうど陸がコーヒーを淹れたマグカップを二つ持ってリビングに入ってくるところだった。
「あ、忘れてた」
「少し煮詰まってるかも。淹れ直す?」
「いいよ、それ飲むから。陸こそ新しいのがいいなら淹れ直そうか?」
「いや、これがいい」
「じゃあ、それで」
香が飛んでしまった苦いコーヒーをすすりながら二人でリビングで勉強した。しばらくして海が帰って来てリビングに顔出してから浴室に行ったので、それを見送ってから陸が教科書に目を落としながら静かに低く落ち着いた声で言った。
「正しいも間違いもないと思う。俺たちがいいならそれでいいんじゃないの」
私が顔を上げると、陸も顔を上げてこっちを見た。
「海から聞いた。俺たちが自惚れているからとかじゃなくて、実際、神奈は俺たちのこと、もう十分好きだと思うよ。恋愛の対象として見ていると思う」
「何でそう思うの」
「じゃあ何で、海に煽られて泣いたの?」
私はちょっと言葉に詰まった。
「ちょっとからかわれたくらいで神奈が泣くか? 普段のお前なら100倍にして言い返すとかするだろう?」
「ちょっと失礼じゃない?」
「でも、そうだし。煽られて泣いたんだったら、それが本当のことだったからじゃないの? これは単なるカンだけど。認めたくないか認めづらい真実か何かがそこにはあったから、理性よりも先に感情が爆発したんじゃないの?」
そんなの知るか。
私は心の中であくたいをついていた。
口を引き結んで黙りこんだ私に、陸は続けて言った。
「神奈がそうやって黙りこむのは、なんか都合が悪いことがあるか、自分でもまだよくわからない何かがあるからだろう。昔からそうだったじゃないか」
陸は静かにそう言った。
それから少し優しい声になって
「別に責めてないよ。煽ってもない。ただよく考えてみてよ。神奈は何で、そうまでして踏みとどまろうとしているのか、何が障害になっているのか。それが単に世間一般の何か基準から外れているからとかそれだけのことなら、それって、そんなに大切なもの? それで誰かや何かにどんな迷惑がかかるの? たとえそうだとしても、それってそもそも、俺たちや神奈がそこまで面倒見ないといけない類のことだったりする?」
何だか諭されるようにそう言われている間、私は陸を見つめていた。彼も私を見つめたままで、なんだか話しながら私の反応を目の微かな動きまで逃さないで捉えられているみたいな気分になった。
「そんなふうに見ないで」
私が言うと、陸は
「なんで?」
「何か落ち着かない」
「じゃあ、神奈が目を閉じたら? 俺が見えなくなればいいんだろ」
「そういうことじゃないよ」
それでもまだ陸が私を見ているので、私は立ち上がってキッチンにコーヒーを淹れに逃げた。なんかもうだめだ、逃げたい。耐えられない。もうやだ──でも、なんで? なんでこんなに落ち着かない気分にさせられるんだろう。私は、海が指摘したように怯えているんだろうか? でも何に? 誰に?
古いコーヒーの残りを捨てて新しく淹れ直していたら、海が着替えを済ませて出てきた。
「おまえ昨日どこ行ってたんだよ。男と帰って来ただろう」
開口一番にもんくつけるように言ってきたので、むっとして言い返した。
「バイトだよ。キイナのお兄さんのところでバイトしてるって言ったでしょ。遅くなったから送ってくれたんだよ」
「ふーん」
海が私をじっと見ているので、また落ち着かなくなって私は言った。
「なに?」
「もしかしてそいつって、前に話してた憧れてる人ならいるとか言っていたやつじゃないの?」
「そうだけど。何が言いたいの」
海は私をじっと見下ろすようにして見ていた。
「なに?」
「陸ならいいけど、他のやつはだめだからな」
「なんでそんなこと決められないといけないの。それにいいって何がよ」
「男として見ること」
「そんな風に見てないよ」
あきれて私が言うと、海は
「ならいいよ」
言って冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、そのまま大きなペットボトルから飲んだ。
「何で許可制になってるのよ」
「何でも」
言って海は飲み終わったペットボトルを冷蔵庫にしまう。
「俺や陸が神奈のことを好きなの知ってるんだから、それくらいしてくれてもいいだろ」
むちゃくちゃなこと言ってるなーと思いながら黙ってたら、
「純情な俺たちのいたいけな心をもてあそびたいのかよ」
「だれが純情なのよ」
笑いながら海は自分を指さし、そのままのんきに鼻歌を歌いながらリビングに行ってしまった。
どこまで本気なのか冗談なのかわからないやつだ。
なんだか海とのやり取りでちょっと気が抜けた私はマグカップを回収し、コーヒーを淹れ直してリビングに戻った。三人分のマグカップを置いて、それで静かに三人で勉強をした。
「夕飯どうする? 作り置きは揚げ物だったけど」
「なんかカレーが食べたいなあ」
海と陸が言っているそばで、私は黙々とノートにペンを走らせていた。私の家のカレーは刻んだセロリと玉ねぎをじっくり炒め、野菜や果物、ココナツミルクなどを入れて、そのときにある肉やシーフードでカレー粉は市販の物を二種類以上使って作る。それは口当たりは甘いと同時にのどの奥でかなり辛いというシロモノで、海と陸は何故かとても気に入り、リクエストされて私はよく作ったのだ。
「じゃあミックスフライとカレーでいいんじゃない」
海が言って、私に
「それでいい?」
ときいてきたので、いいよ、と返事した。それできりがいいところで立ち上がって二人に訊いた。
「材料あるの? 足りないもの買ってくるよ?」
「じゃあ一緒に行く」
「いいよ、一人で行くから。それにちょっと一人になりたい気分なの」
私がはっきりそう言うと、彼らは私を見上げた。
「じゃあ、頼むよ」
そう言って海は私に買い物代に五千円札を渡した。
「別にいいのに」
「じゃあ、あとよろしく。待ってるからな」
「金持って逃げるなよ」
「人を泥棒みたいに」
むっとする私に二人は笑って行ってらっしゃいと手を振った。
マンションを出るとちょっとほっとした。
なんだかんだと緊張で肩が重くなっていたのに、外に出てみて気づいたからだ。こきこきと首や肩を回しながら近所のスーパーに行き、かごを持ってメモしてきた材料をぽいぽい入れていたら
「あらまた会ったわね」
顔を上げると雑貨屋さんのお姉さんがカートを押しながら微笑んでいる。
「お夕飯のお買い物?」
「そうです。材料が足りなかったので買い出しに」
「自分で作るの?」
「あ、はい。勉強の合間にみんなで作って食べるのも楽しみなので」
「へえ、えらいわねえ」
言ってお姉さんはお惣菜やお菓子が自分のカートに入っているのに目をやり
「私も見習わないとね。でも明日からにする!」
私が笑うと、彼女も笑った。
「お兄ちゃんたちにもよろしくね」
彼女は私に優しく微笑んで手を振り去って行った。
──そういうことにしたら、三人でずっと一緒にいても誰にもモンク言われないだろ?
体裁のいい嘘や誤魔化し、受け入れてもらいやすいように相手を騙すことによって手に入れる、好意や受け入れてもらうことのメリット──それはとても魅力的なものかもしれない。特に、いわれのない詮索やあることないことを言われたり妄想じみた罵詈雑言を受けることに比べたら。雲泥の差ではないか。
でもそれはそもそも人に説明したり証明したり開示しなければならないことなのだろうか? そうまでして受け入れてもらったり手にしなければならない好意ってそもそも何だ? それはそんなに大切なもの必要なものなのか? そもそも人からあれこれと詮索されたり指示されたりしないといけないようなものでもないのに、何でそれを気にしないといけないようなことになってしまうのか?
あれこれ詮索したり指示したり言いたいことを言う人は、そうすることが自分にとって都合がいいから勝手にそうしているだけなのに。そんなことまでこちらが面倒を見る必要などないのに。
咲良だったら、ばっかじゃないのぉ? って笑って一蹴してしまうだろう──
レシートとおつりをビニールの小袋につっこんで、食材の入った買い物袋に投げ入れ、なんだかのしのしと夕方の帰り道を歩いた。明るく照らされた日の名残り。日常の義務からのちょっとした解放感。帰宅する人々のゆるんだ顔や家族の待つ家へと帰っていく子供たちの遊び疲れて満足したような表情を私は夢の中の景色のように眺めた。
途中、真っ直ぐに二人の待つマンションへは帰らず、高台にある街を見下ろせる丘に寄り道した。手すりに腰掛け、肉などのすぐに傷む食材があったわけではないので、そこで人々が息づく街をやさしく照らす夕陽をぼんやりと眺めた。ちょっとしたエスケープ。夕陽に照らされた街はいつもよりほんのりとあたたかく、そしてちょっと淋しい感じがした。私はそのまま不思議な光の色彩で美しく彩られた夕焼け雲をただひとり満足するまで眺めていた。これから沈んでいく太陽が最後に圧倒的な光で織りなす美しい光景は、いつの間にか小さく小さく身を守るようにかたくなになっていた私の心までもあたたかくやさしく照らし、そしてなにかおおきなものへとゆるやかに解放していった。
「なんか一周まわって戻ってきたみたいだけど、螺旋を描くようにちょっとレベルアップした感じ?」
そうひとりでつぶやいて、私は二人の待つマンションへ帰った。
悪魔だ下品だビッチだのと言われても私が平気だったのは、実際にはそんなことをしていなかったからだった。二股かけているわけでもないし、つきまとってもいないし、誘惑してもいない。だいたいまず異性として見ていなかったから。
でも、その一線を越えたら──細かい事情はどうであれ結果としてそれが事実になってしまったら──それでも平気でいられるかわからなかった。あれこれ好きなことを言うひとたちには全く関係のないことだと分かっていても、動揺したりするかもしれない。傷つくかもしれない。実際に本当になりそうになってきて、へんな罪悪感をちょっと感じ始めたくらいだから、影響を全く受けないでいるのは難しいかも。なんかそんな不安が自分にあったみたいだけれど、あれもそれもこれもなんでも、なんかどうでもよくなってしまい、気づいたらあっけなく霧散してしまっていた。むしろ一体なんだったのだ、あれは? と自分でも何故そんな事を気にしていたのかわからなくなるほどだった。気分が変わる、ってこういう事? 本当にいつの間にか、気づいたらすっかりすっきり気分が切り替わってしまっていて、少し前の気分を思い出す事も朧気だった。別に特に何もしていないし頑張ってもいないのに自然に解決してしまったみたいだ。
「霧が晴れるってこういうことを言うのね!」
なんだか晴れ晴れとして帰宅してきた私に、海と陸は
「なんかあったの?」
「べつに。ただ目が覚めただけ」
つやつやしてころんとした可愛いらしいニンジンや玉ねぎを愛でながら機嫌よく言う私に、二人は顔を見合わせていた。
「まあいいや、機嫌なおったみたいだし」




