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「端的に言えば四次元曼荼羅みたいなものだと思うんだよね」
それは猫型ロボットの秘密道具か何かですか? 思わずそう尋ねたくなる不思議言葉だけれど、それを言った海は至って大真面目だったので(しかも聖一さんもレネ君も、涼子さんも!大真面目に聞いているし)突っ込みづらく、私は何だか突っ込みを入れたくて仕方ないのに言葉を出せず、うずうずしている。ちょっと苦しい。突っ込みたい。ものすごく突っ込みたい。そんな微妙な葛藤を抱える私を置き去りにして、気づけば、他のみんなは何だかすんなりポケットの親戚みたいな不思議ワードを受け容れているではないですか。
「確かに。的確な表現だね」
しかも聖一さんは普通に納得しているし! レネ君も涼子さんまでも頷いているし! みんなで美味しい夕食を聖一さんの家で頂きながらの話題に、私だけがついていけていない様だった。
「一瞬でばっと把握するみたいな知覚というか体験の様なもの──それを表象したくて、伝達したくて曼荼羅を描いてみたり、図形にしてみたりして、人々は何とか表現してきているのだと思うんだけれど──それって言語化するなら、熊楠が言った立体構造なだけではなく、そこに時間(過去・現在・未来)の次元も足した、四次元の曼荼羅を見るとか直接体験するみたいな感覚に近いと思うんだよね」
海がそう言うと、レネ君が言った。
「そういう感覚的な知性に、元来この国の人達はとても優れているよね」
涼子さんは少し考えてから、
「私、小さい頃から思春期にかけて自分の考えていることを話すのがとても苦手だったのだけれど、それって、その感覚が常にあるから、言葉にするのがいつも難しく感じていたからなんだよね。言葉にするには一部分を強制的に切り取って、あえて粗削りな状態に短絡的に恣意的に見えているものの粒度を粗くしないとできないから──それって当時の私からすると嘘をついている感覚に近くて──でもなるべく公正に誠実に丁寧に表現しようと言語化しようとすると、展開していく関係性や変化、その流動性まで拾わないとうまく説明し切れないのだけれど、それを相手に分かる様に簡単に説明するのは私の語彙的にも言語化能力的にも無理というか、それで上手く言葉に出来ないままでいる事が多かった。でもそれだとコミュニケーションに支障をきたすし、仕方なくある程度単純化したり粗くして知覚したものを劣化させる事で言葉にしていく事に慣れるまでに結構時間が時間がかかったんだよね」
私はちょっと興味を惹かれて尋ねた。
「嘘をついている感覚ですか?」
涼子さんは頷いた。
「うん、そう。当時の私からしたら、恣意的にあえて短絡化して粒度を粗くした表現や言葉、話に落とし込んでしまう事自体が、何となく不誠実の様な、公正ではない様な気がしていたんだよね。私がそこで瞬間的に感覚的に見て考えているものは境界領域がある事象の塊の分布の様なもので、それは確固としてここからここまでと厳密に線引きできない上に、どんどんその関係性の中で展開している現在進行形の動きのあるもので、それを言葉にする事自体が追い付けないみたいなところがあって、もし言葉にしようとするなら、強引にその一部分を恣意的に切り取って、固定して、あえて解像度を粗くして取り出すしかないみたいなところがあったから、それが嘘をついている感覚に近い様に思ってしまったの」
「その関係性や境界領域の流動性や変化も含めて展開している事象を一瞬で掴み取る知性や感覚、体験や知覚の事を、レンマ的知性とも言うんだよ」
聖一さんが私にそう言って、簡単に説明してくれた。
「レンマ(lemma)は、サンスクリット語のチャトゥシュ・コーティカ(catuskoti)のギリシア語訳の名詞で、『つかんだもの』、『受け取ったもの』、『前提として取るもの』、『仮定』、『直観的に把握されたもの』を意味していて、哲学用語(意味は『律』や『句』)の一つ。そもそも古代ギリシャでは、知性には二種類あるとされていて、ロゴスとレンマがあったんだ。※
ロゴス(logos:語源「集める・並べる・話す・数える」動詞 λέγωから派生)は、事物を集め、区別し、順序立てて整理し、言語で言説する能力。
レンマ(lemma:語源「つかむ・把握する・取る・手に入れる・受け取る」動詞λαμβάνωから派生)は、直観的に把握する能力。言葉で分析する前に「まるごとつかむ」働き。
後にレンマは背景に退いて、線形的・分析的論理のロゴスが西洋哲学や科学の主流になる。そして、1947年に著書『ロゴスとレンマ』で、この国の哲学者、山内得立(やまうち・とくりゅう、1890–1982)が、
Aか非Aか、肯定が否定か、の二価的な西洋の論理を、『ロゴスの論理』
肯定でも否定でもない、の両非的、肯定でもあり否定でもある、の両是的な東洋の論理(特に大乗仏教)を、『レンマの論理』
として、 東西思想の対比と東西思想を統合する可能性を探った。それを、この国の人類学者・思想家の中沢新一がさらに発展させ、線形・分析的・言語的・因果的な西洋思想の知性であるロゴスと、非線形・直観的・全体的・縁起的な東洋思想の知性であるレンマ──レンマは大乗仏教の『般若』に相当し、『華厳経』の法界縁起・事事無礙法界にその最高達成を見る、として、『全体的に一挙に丸ごと把握するレンマ的知性』の概念を体系化したんだ」
海が付け足すように言った。
「南方熊楠の粘菌研究、無意識、量子論、現代数学なんかもリンクさせて、ロゴス偏重の現代文明を補完する【レンマ学】を提唱しているんだよ」
次いで、レネ君が付け足すように言った。
「レンマ(lemma)は単なる『直観』ではなく、ロゴスとは異なる『もう一つの理性の様式』で、『全体のつながりを捉える知性』として、現代において再評価されている概念なんだよ」
「へえ、そうなんだ」
私が感心していると、涼子さんが言った。
「レンマの概念についてはよく知らないけれど、言いたい事は感覚的によく解る。これって子供の頃からあったから、みんながもっている知覚だけれど、多分現代では発達過程のどこかで言語化や損得勘定優先の、現実や関係操作志向に切り替えてしまうことで忘れていったり、鈍化したり、廃れてしまう感性のひとつなのではないかなって思うんだよね」
「みんなが本来持っているんだけれど、埃をかぶっている、とか、ちゃんと手入れされていない、とか?」
私が尋ねると、涼子さんが頷いた。
「そんな感じ。大人になると大抵はきちんと伸ばしたり育まれていないので主流思考の背景に退いてはいるけれど、その能力自体がなくなっているわけではなくて、気づかずに使っている潜在能力や無意識的な能力としてみんなが持っている感性のひとつだと思うんだよね」
「他の人がそれをきちんと伸ばしたり育まれていない状態だと、どうしてわかるの?」
私が疑問に感じてそう尋ねると、涼子さんはちょっと笑った。
「あ、なんか傲慢だったかも。ごめんなさい。でも、多分そうかな?程度になら何となく分かる事があるんだよ。たとえば、恣意的に偏った思考や信念を絶対的真理みたいに信じてしまっているとか、そのまま行動してしまうとか、短絡的な対立構造をそのまま疑わないでいるとか──それって、全体性に丸ごと触れたり把握する知覚をあえて意図的に無視するか、恣意的に操作しようとしているとかの、嘘や誤魔化し、虚偽や不誠実さの様なものがその人のどこかにあるか、あるいは全くそれを感じ取ることが出来ていないか、だと思うから」
「──なるほど。そう言われてみれば、確かにそうですね」
「少なくとも、自分自身の知覚や考えている事に正直ではない、誠実ではない、あるいは、そうした知覚や感性自体が鈍磨しているとか、遮断されているか、だと思うんだよね」
「何となく違和感として感じていても、自分自身の感覚に自信がない場合もあるよね」
聖一さんがそう言って、私はなるほど、と頷く。涼子さんも頷いている。
「こうした知覚や感性が遮断されているとか、抑圧されているとか、未発達だったりすると、ロゴス的な知性だけで世界を見る事になるから、全体性や関係性の重要さとか、境界領域の流動性や、変化、非線形的・直観的・縁起的思考をいくら言語を尽くして説明されても、その基盤になる感性や知覚自体が働いていないから、全てが絵空事や綺麗事、空理空論に聞こえてしまうのは、ある意味仕方ない事なんだよ。その当人はわからないんだよ。知覚できないから。本当にわからないし、理解できない。その断絶に橋を架ける概念として、自律性や恒常性、動的平衡の概念も使ってみているんだけれど、特に自律性については、それ自体が認められないというか、認めたくない(支配や操作、権力、力の崇拝に固着している)段階の人もいるから、解らない人には解らない事をそのまま受け容れて、その上でどうするかを将来的には考えていく必要があると思うよ」
聖一さんの端的な説明で、私はだいぶ納得した。
「その人自身の器質的・器量的な問題もあるから、もうそれは仕方ない場合もあるって事だよね。その上で対処していくのが現実的だし、解らない人に解らない事を無理に理解させようとしても不毛だったり、ある意味虐待的になってしまったりする事もあるかもしれないから、それはもうそれとして受容していくしかないのも理解できる──ただ、もう少し、それ相応に自分自身の立場をわきまえてほしいかなとは思ってしまうけれど。特に、自律性を尊重せず、他者を犠牲にしたり、危害を加えたり、収奪や搾取を正当化したり、選民思想や優越・階級思想から犠牲者や他の存在を踏みにじる事で分不相応な自尊心や不健全な自己愛や自我を得ている様な思い上がった人達にはね」
涼子さんのお話を昼間に聴いたばかりの私としてはごく自然な感想だったのだけれど、海が隣で少し驚いていた。かなりきつく、偉そうに聞こえたかもしれない。でも、私としてはごく正直で率直な感想だったので、特に言い訳も説明もしなかった。独断と偏見も込みでの、単なる私の個人的な感想でしかないのだし。
「……私自身、妹や他の人達が何故そんなに物事や他の事について、そんなに自信をもって言い切れてしまうのかについて、根本的に誤った解釈をしてしまっていたから──それを一つの事象として他者にわかりやすく切り取って言葉や話に決めてしまえるだけのものが彼等彼女等には明瞭に見えて『解っている』からなんだろう、と思っていたの。私にはそれはとても難しい事で、そんなにすぐに言葉や話に落とし込んで他者にまでわかりやすく伝える事が出来なかったから。
でもそれは、簡単に言葉や短絡的な対立構造の話に落とし込んでいる妹や他の人達が、そもそもこの複雑な関係性や境界領域や流動性自体が理解できていなかったからだった──そもそもそれに気づいていない、見えていない、知覚できていなかったんだ──と知るまでは、彼等彼女等の方が自分よりもずっと優れた知覚能力と明晰な識別能力や言語化能力を持っているのだと本当に思っていた。
それが前提から間違っていた事が、結局、ここまで大きなことになるまで私は気づけなかったから、それが本当はどれだけ関係性や集団、共同体、社会にとって危険な事か、身に沁みている。
自分よりもずっとずっと優秀で、明晰で、とても自信があるかのように見えるその人達の言う事を、そのまま鵜呑みにして信じ込んでしまうのは、本当にとても危険で──彼等彼女等は、そもそも見えるべきものや、知覚できるべきもの、理解するべきものに気づいてすらいない──本当に理解できていない可能性があって、それがどんなに危険な事か、私達はちゃんと知る必要があると思う。
少なくとも私みたいに、本来は危険で有害な相手の正体を見誤って相手を増長・増殖させてしまって、本当に取り返しのつかない致命的な事態に逃れられず巻き込まれてしまう前に」
「本当は両方の知性の眼でしっかり見えているべきものが、片方の知性の眼のみでしか見えていないから、短絡的に物事を捉えるし、偏ったものをそのまま先鋭化させて実行し、行動化してしまう──調和やバランスが崩れていてもそれがどんな意味をもつものなのかが、そもそも理解できていない、知覚自体出来ていない──目の前の人が言う事に対しても、僕らはそうした可能性をいつも念頭に置いておくべきだよね」
レネ君が淡々とした調子で言い、涼子さんが、「本来なら両輪で機能すべきものだから」と一言。そんな私達を黙って見ていた聖一さんが言った。
「マインドフルネスや禅の修行がその人の中に気づきの燈火を灯すのは、こうした知覚や感性にありのままで気づいていく注意力を高めていく効果があるからで、それ自体が高度なバランス達成や調和をとる働きであって、自分自身の生命力の働きを清明に智慧の燈火で照らし出す事でもあるからなんだよ。
この働きが、一方では未熟だったり不健全な自我境界の溶解と原始的衝動への退行を惹き起こしてしまうのは、こうしたレンマ的知性の知覚の膨大な情報量に圧倒されてしまって、それをきちんと着地させることが出来ず、脆弱な自尊心や自己愛、自我境界の問題を元々抱えていた人がそれを見失い溶解させてしまうとか、それ自体が吹き飛ばされてしまうという面もあると思う」
レネ君が後を継いで言った。
「つまり、その個人の器の問題はそれだけ大きいって事なんだよ」
涼子さんも頷いた。
「私もそれは無視できない大きい問題だと思う。私に対してずっと隠れた攻撃を仕掛け続けて殺人未遂や傷害事件なんかの犯罪行為まで正当化して手を出していた妹や家族自身、信仰を熱心に持っていて、そうした禅的な瞑想の修行にも昔から私よりもずっと熱心だったの。だから私は、そうした事をしながらも犯罪行為や陰湿な嫌がらせ行為なんかの加害侵害行為が出来てしまうその矛盾がどうしても理解できなくて、自分の方に問題があると思ってしまった。全く信頼できない人間のその個人的性質や資質に関しても気づいていたし、嫌というほどに知っていたのにもかかわらず、その宗教や信仰や瞑想なんかの大きな善性や徳性の象徴的な威光や権威への絶対的な盲目的信頼のせいで、疑う自分の方に問題があるかと思い、かえって見誤ってしまったから」
レネ君が頷いて、聖一さんが言った。
「その個人の器質的・器量的な問題や、精神内界構造の問題は、本当は無視できない大きな問題なのだけれど、それについてきちんと指摘したり責任を追究する事が意図的にはぐらかされたり、焦点をずらされたりして、今の今まで温存されてきてしまった結果、そうした人間の集団が惹き起こす問題が既に取り返しのつかない程により深刻に拡大・拡散されてしまった。
目先の利便性や功利性に魂を売り渡して全く別物に変質してしまったような安易な寛容さや愛や優しさ等の虚偽からもそろそろしっかり目を覚ます時期にきていると思う。その虚偽に気づいていく事、それは決して、本物の寛容さや愛や優しさを損なう事はないし、むしろ、偽物や虚偽に覆い隠されて隅に追いやられ疎外され隔絶されてしまっている本来の本質や真実、その力を掘り起こし、取り戻していく事にもなる。
集団や社会やシステムの問題を指摘することはできても、それを現実に構成している個人の問題を指摘しないのは、ある意味で、それも大きな虚偽や詐欺だからね」
それまで黙って聴いていた海が、聖一さんに尋ねる。
「レンマ的知性が優位でロゴス的知性が未発達な場合もあるよね」
「そうだね、その問題もあるよね」
「そもそも古代の智慧の伝統でもロゴス的な知性とレンマ的知性、これらは両方ともちゃんと使われていたのに、何故それが分割されてしまうかのように人々の知性のバランスが崩れてしまったんだろう?」
「その方が都合がよい何らかの理由や勢力があったからだろうね」
「……そうだけれど、それを自分自身が受け容れてしまわなければそもそも問題にすらならないのに?」
「さっきリョウコが言ったように、全体性に丸ごと触れたり把握する知覚をあえて意図的に無視するか、恣意的に操作しようとしているとかの、嘘や誤魔化し、虚偽や不誠実さの様なものがその人のどこかにあったからじゃない?」
レネ君が言って、聖一さんが続ける。
「ロゴス的な知性はその性質から、恣意的に切り取って先鋭化する事も簡単でしょう。他者を欺いて搾取したり、罠にかけたり、人々を支配する為の詐欺や詐術に適していたし、損得勘定や対人操作や欲望衝動の正当化や収奪にも都合がいい。こうした社会的な勢力が優位になるとそれが更に優先的に選択されていくのも自然な事だし──それに苦手意識をもってしまうだけでは、その実際的な力に敵わないところがあるから、レンマ的知性が優位でロゴス的知性が未発達な人々や、ある意味でレンマ的知性を大切にした人達や集団はどんどん周辺化されて隅においやられて、自分自身でも主流から退いてきてしまったのかもね。それに、厭世的だったり遁世的だったり、それを好む人々もいたから」
涼子さんが面と向かって聖一さんに言った。
「どちらかというとせーちゃんもそうだよね。でも、せーちゃんの場合はロゴス的な知性を忌避したり苦手意識があるわけではないし、むしろそれも得意としてもいるけれど、志向性としては遁世的というか、仙人や隠者みたいだよね」
「……元々僕はそうした性質が強いと思う。二十代前半までは世俗的・経済的な駆け引きやゲームも楽しんだりしたけれど、それに飽きて虚しくなるのも早かったからかな。あと、単純に疲れるからもあるけれど」
私は何となく、相談業務の後によく仮眠に入っていく彼の姿を思い出していた。
「僕は元々そんなに体が丈夫でもないからね」
そう言った聖一さんに、レネ君が淡々とした調子で言った。
「セイは優しすぎる所があるからね。自分自身のエネルギーを相手に分け与えたり、相手の不調を吸い取ったりして無意識的にヒーリングをしてしまうから、だから疲れやすいんだよ」
「へえ、そうなんだ」
海が興味深そうに言うと、レネ君は海に言った。
「カイにも少しだけ似たような性質があったから、弓道でセイの指導を受ける様に言ったんだけれど、海の方が若いし、いい意味で利己的な面も強いから、今は海の方がセイよりも影響を受けにくいかもね」
何となく胸がざわめく様な気分で私はレネ君の話を聞いていた。
「相談業務の後で、聖一さんがよく仮眠に入るのもそのせい?」
私がそう尋ねると、聖一さんは少し困った様に笑った。
「僕もまだまだ未熟で修養中の身だからね」
「……」
黙ったまま私が彼を見つめると、彼はますます困った様に笑った。
「何怖い顔してんの?」
海が私に言って、私はむっとした。
「怖い顔って何よ、これが元々の普通の顔だよ」
「怒るなよ」
「怒ってないよ」
ちょっとむっとしただけだし。そう思いながら、私と海のやり取りを見ている聖一さんを見ると、彼はちょっと微笑んでからレネ君に視線を移して言った。
「レネにここに来てもらったのは、僕に足りない面でレネの方が熟達しているから、それを教えてもらう為でもあるんだよね」
「うん、そう」
※ロゴスとレンマ表




