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「あの地図(※第5章 13参照)が役に立つんじゃない?」
それまで話を聴いていた海がそう言った。迎えに来てくれた海と共にいつもの様に夕食をご馳走になっていた食卓で、昼間の私の質問、『どうしたら本物と偽物に気づくか、感覚や感性がきちんと働くようになるのか』についてが話題になったときのことだった。
聖一さんが「確かに、自分のバランス達成のために役に立つ地図だから、海の言う通りだね」そう言うと、海はちょっと嬉しそうにした。
「四つの象限の地図だよね。本物と偽物を見分けたり、感覚や感性をきちんと働かせるのに、あれが役に立つの?」
私が尋ねると、聖一さんがちょっと考えてから言った。
「使い方だよね。そもそも自分のバランス達成課題を分かりやすく認識する為にとても役立つものだから、具体的に四つの象限の視点から見る為に役に立つ。例えば個人や集団の感覚や感性がきちんと働かなくさせられて本物と偽物の識別が出来なくなっていたとしても、右側の象限は客観的な事実を確認する為に役に立つから、その視点を意識的に持つことでバランスがとれるでしょう。具体的には、行動、身体、脳の活動や生理的な状態を知るとか(右上 個人の外面:科学・医学・行動分析の領域)、制度や経済システム、技術、社会構造や環境の状態を知るとか(右下 集団の外面:社会学・システム理論の領域 )」
海が後を継ぐように「虚偽があらゆるところに蔓延しているから、完全にとは言い難いけれど、なるべくバランスよく物事の見るようにする事で自分の位置を知る為のツールだし」。
それまで黙ってデザートを食べていたレネ君が顔を上げて、私達に言った。
「この国の人達は、本来はバランスよく物事を感知して捉える感性に優れていると思うよ」
「そうなの?」
レネ君は私に簡単に説明してくれた。
「たとえば、西洋的な客観的・分析的なものを二つに分ける対立構造による見方ではなくて、分ける前の直接的・感情的・主観的な感知を重んじるようなところ。自然にしても、西洋の nature とは異なっていて、元々は自然──『自ずから然る』ものとして本来は捉えていたところがあったり」
私とレネ君のやり取りに、海が「今はだいぶ西洋化されてきているけれどね、良くも悪くも」。
「本来は微細な感覚や感性に優れているはずだから、西洋的な客観的・分析的思考も採り入れることで更にバランスよく物事を捉えることのできる潜在能力は充分あるんだよ。ただ当のこの国の人達自身がそれに気づいていなかったり、蔑ろにしているだけで」
淡々とした調子でそう言うレネ君に、何故か私達が照れてしまう。そ、そうなのか。そういう風に見えているのか。でも、こうした事を、みんながちゃんと知る必要もあるよな。
「この国は色んな意味で恵まれていて、地理的な条件もあって独自の文化や発達を遂げて護られている面もあるから、それを大切にする事だと思うよ。それが蔑ろにされている一番の原因は、人が時間をかけることやすぐに利益に繋がらないようなもの事に価値を見出すことが出来なくなってきているからかもしれない。盲目的に即効性の在る利得を追い求める様に誘導されて不毛な競争に巻き込まれているけれど、海外の資本を使ってそうやって入り込んでくる物事に目を眩まされて巻き込まれていくのではなくて、地味だったり地道だったりすることでも大切な事に、地に足をつけて、こつこつと一人一人が取り組んでいくことだよ。たとえば、山や森に木を植えて育てていくとか、生態系を護っていくとか」
「そういえば、神社やその土地の森や山がいつの間にか市場経済の中に組み込まれて乗っ取られていたり、開発されていたりする事が沢山起きているんだって、沙羅の従弟の和也君が言っていた。海外のやくざが宗教団体を買い取ったり乗っ取ったりして、そうした本来なら護られているはずのこの国の土地も自分達のものにしたりもしているとか」
私がそう言うと、レネ君は頷いた。
「そうした事は、これからもどんどん起きて来ると思うよ」
え、そうなの……ちょっとショックを受けていたら、聖一さんが言った。
「この国の人達が持つ優れた微細な感性の能力は、この国の風土とも関係が深くて、特に全国各地にある神社仏閣が昔から守って来た森や山には古来からのその土地特有の土壌菌なんかも護られていて木々や植物のネットワークを繋いでバランスをとる為に重要な役割を担っているんだけれど、こうした菌の働きが植物や動物や人へも実は大きな影響を与えているんだ。そうした場所がパワースポットとして親しまれているのも、そこに昔から在る物や樹木や植物、土壌の中にいる微生物が関係しているんだよ。生命体としての氣を整えるのにも、そうした目に見えない微細な生命が関わっているんだ。そうした微細な生物との関りがあるからこそ、生態系の中でうまくバランスをとって何となくでもやって来れたり、環境を含めた生命や存在への愛着や思い遣りを持てたりもして、自分を生かしたり護ってくれるものとの関係のバランスをとっていたところがあるんだよ。
でもそれを破壊されてしまったら、そうした感性もどんどん廃れていくから、本来なら働くべき生命体としての本能や感性もきちんと働かなくなってしまう。身近な自然環境が破壊されてしまう事と人の感性が鈍くなってきていることには関連がある。自分達がそうした多くの生命が連なる大きな円環のネットワークの中で生かされていることを忘れてしまうし、それを利己的に利用してもいいと思うようになってしまうのも、自分達を生かしてくれている食物を生産している存在を低く見て蔑ろにしていくのも、生命の本質としては本当は劣化した状態にあるんだよ。自分達を生かしているものを育み協力や共生をしているのではなくて、寄生しながら破壊しているだけの存在になってしまって、その寄生先を失うことで自分達も滅んでしまうわけだからね」
「人間だけの社会の中で一見は強者の様に優れている様に見えていたとしても、生態系も含めた大きな視点から見たら本来の生命体としては劣化した存在で、いなくてもいい、もしくはいない方がいい存在だったりすることもあるから。癌細胞みたいに、ただエネルギーを収奪して全体の生態系を破壊しながら増殖していくだけであれば、その生態系全体からしたら邪魔なもの、負担をかけているだけの存在でしかないし」
手厳しいレネ君の意見に、私も海も固唾を呑んで黙って頷くしかなかった。
「この国に古来からある神社仏閣が自然環境を護る装置として働いていたこともあって生態系も護られ、その風土によって人間の感性も育まれて護られていたところもあったのだけれど、今は環境や生態系を破壊して化学物質なんかによって内分泌代謝もかく乱されているし、食物連鎖による累積暴露もあるから、感覚や感性が鈍くなっているのもある意味では仕方のないところもあるんだけれど、自然に親しむことやそれらを育んだり護ることで自分たち自身も育まれて護られるから、そうした行動を日常生活の中に取り入れていくのもいいかもね」
聖一さんの言葉に何となく救われる様な気分で私は頷いた。
「南方熊楠がそういう事を言っていたよね」海がそう言って、私が「何か聞いたことがある気がするけれど、誰?」と尋ねると、
「近代和国の先駆的なエコロジストとして知られた独学の博物学者・民族学者・思想家で、比較宗教学や哲学、民俗学、生物学なんかを横断する知を築いた人。南方曼荼羅に興味があって調べたんだ」
「へえ、そうなんだ」
「彼は粘菌の研究や神社と杜(社叢・鎮守の森)、山、生態環境についての先見的な意見を表明して、明治政府の神社合祀政策(一町村一社を標準とし、小規模神社を廃止・統合)に猛反対したんだよ。この国で早くからエコロジー(植物生態学)という言葉を使って環境破壊が生む鳥獣減少、害虫増加、農業被害の連鎖や地域の信仰・風俗・史跡・共同体の融和が失われる事を指摘したんだ。
熊楠は自身の研究から、人間・自然・精神の相互浸透を重視した包括的な世界観を先見的に持っていたから、自然の景観はこの国の曼荼羅でもあり、人間と自然は分離せず、精神・社会・生物が連関する生態系そのものだと考えていた。神社の森は菌類や昆虫などの多様な生命の宝庫で、人々の信仰や風俗、人々の心の拠り所でもあるとして、現代的な環境思想の先駆けであるだけでなく、単なる自然保護を超えた社会や精神のエコロジーとしての視点も含んでもっていた。
結果として、不合理な合祀は収束に向かい、神島などの一部は天然記念物指定になったんだ」
「南方曼荼羅って何?」
「彼が書簡に描いた図形と言うか線描画があって、無数の直線や曲線がランダムに交差して所々に点が打たれ、イ・ロ・ハ・ニ……と記号が付されているんだ。熊楠はこのたくさんの線が最も重なり集まる点を萃点と言って、諸々の事象や理が集まる場所であり、ここが色々な物事の理を見出す為のポイントであるとした。これは平面に描かれているけれど熊楠は立体の物として見よ、とも言っている」
「……海が自分で考えていることをまとめるために幾何学模様の図形を描いていたり、星の地図はもっと立体的なものだったって聖一さんが言っていた事なんかも重なって来るみたいで、ちょっと面白いね」
私がそう言うと、レネ君も頷いた。聖一さんも頷いてから、言った。
「熊楠は粘菌の様な、生と死、動と静、個と全体が相即相入する生命実相から得た二元論を超える流動的な生命観や世界観を持っていたから、それらを基盤にして、神社や杜(社叢・鎮守の森)、山、その生態環境を、『萃点』的な『交差や交流の場』として、人間や自然、環境、生態系、精神の相互浸透性を護る事を重視していたんだよ。彼にとっては、山や森での採集・観察自体が哲学的思索の実践でもあったからね」
「それって、すごく現代に通じるというか、むしろ現代においても先進的な生命観や世界観なんじゃない?」
私が思わず感嘆の吐息をついて、しみじみとそう言うと、海は頷いて言った。
「二元論を超越して包摂した、包括的で流動的な視点や世界観を持つことは、現代において特に必要とされていることだと思う」
「イデオロギー的なものは都合よく恣意的に一部を取り出して先鋭化させていくことが出来るけれど、コスモロジー的なものはその全体性や包括性からもそうした事がしにくいから、そうした包摂的な視点や世界観を基盤に持つことは大切だと思う。本物と偽物の違いを見極めるので言うなら、偽物は、こうした包括性や流動性を意図的に無視して、都合よく一部を切り取って『偏った思想を先鋭化させ人々を扇動していく』という特徴を見るのもいいかもね。少なくとも、そうしたものには注意が必要だって事を知っておくだけでも違うだろうし」
聖一さんがそう言って、レネ君が続けて言った。
「バランスを欠いた状態と言うのは、そもそも、あまり健康的な状態とは言えないからね」
そうだよね、と私が黙って考えていると、海が言った。
「意図的に人々のバランスを崩して不安定にさせておく方が、支配したり操作したり搾取したい側からしたら、やりやすいから。これが力や時間を搾取する為の支配の常套手段だってことは、嫌と言うほど俺達は知っているだろう?」
「……短絡的な対立構造に押し込めてしまうのも同じだものね」
私がそう言うと、レネ君が私達に言った。
「自然と共に生きる智慧や感性は、本来この国の人々はとても優れているし、その美しさを愛でたり、日常に取り入れて楽しむことにも、とても秀でていたんだよ。それが太古からこの国の人々の霊性というものの根幹をなしていたし、そのおかげで自然と闘うよりも共に生きることを大切にして来たからこそ、今まで護られてきたものが沢山あるんだ。
競争や闘いはごく一部のものでしかなくて、それを全体の普遍的な真実とまで引き上げてしまうのは、そうした方が自分達に利得があるからそういう事にしておきたい勢力がいて、実際にその様にしているのだ、という事を、よくよく心に留めておくことだと思う。それは、【蠱毒】という呪術の手法を世界規模で創り出しているのと同じことなのだと考えておくといいと思う」
私はぞうっとして、思わず確かめてしまった。
「ええ、蠱毒って、毒を持った虫を一つの器の中に閉じ込めて、互いに殺し合いさせて、最後に勝ち残った虫を使って呪いをかけるという、アレだよね?」
「そう」
レネ君は事も無げに言う。
「ちょっとー、怖いこと言わないでよ!!」
ひえええ、とおののきながら私が言うと、レネ君は、何言ってんの、というクールな態度で答えた。
「だって本当の事だし。実際にそれが行なわれているのは、現実をよく見ていたらわかるはずだし。それに知らないで気づかないでいる方がよっぽど怖いことなんじゃないの?」
「ひょっとして、それもカルト関連?」
「その通り」
しれっと怖い事を言う。
レネ君は淡々とした調子でとても怖い事をわかりやすく説明してくれた。
「本当に競争原理を信じて闘い、敗者や弱い立場のものを踏みにじって勝ち残って来たものは、その中に鬱屈した怒りや憎悪、恨み等を山積させ続けているものだよ。それが彼等彼女等をそこまで駆り立てた原動力でもあるし。問題は、彼等彼女等はそうした自分自身のサディズム的衝動や破壊衝動こそがパワーの源泉であると信じていること。自身の立場や得たものを維持したり拡大する為に、それが必要だと信じていること。そしてそれを、自分達以外の他の存在の犠牲を使ってしようとすること。彼等彼女等にとっては、殺人衝動に任せた残虐な行為も、パワーの源泉に触れるための行為であり儀式でもあるから。大量虐殺なんかの殺戮もそうだし」
笑い事ではない。もう何も言えなくなり、私は閉口してしまう。
「力の崇拝の段階にある人の歪んだ信念がカルト化するとこうなるんだよ」
聖一さんがそう言って、簡単に説明してくれた。
「そうした儀式的なものも多分、世界中で密かに行われていると思うよ。人身売買も関わっている。性と暴力も。より低い段階に在る原始的な衝動へと誘導して、その衝動の中に自己が溶解していくことこそが、彼等にとっての崇高さにすり替えられてしまうんだ。そこで味わう強烈な倒錯的な快楽。原始的な衝動に退行して溶解する解放感や、無境界の感覚への耽溺。こうしたものが彼等彼女等の力の源泉だと信じているから。多分薬物なんかも使用されていると思う」
「悪魔崇拝みたいなもの?」
海が尋ねると、
「象徴的にはそうかもしれないけれど、根幹にあるのは歪んだ力の崇拝の段階にある人間の信念で、それが悪魔を含めて色々な表象を持つだけ」
「他の血を流すこと、殺戮や虐待、性と暴力、倒錯的な快楽。大抵はここに根幹がある」
レネ君がそう付け足す。
閉口してしまう私と海に、聖一さんが言った。
「肝心なのは、そうした原始的な衝動や怒り、憎悪、恨み、破壊衝動や殺戮衝動自体は、単なるエネルギーでしかなくて、本当は善も悪もない。それを悪だとしてただ単にすべて抑圧するだけの方がかえって問題がある。それをどう扱うか、その器の問題なんだよ。器量、もしくは器質の問題」
そうして、彼は私を見つめて、「神奈ちゃんも、それがよく解ると思うよ。理屈ではなくて、体の感覚としてね」。
「私が?」
「君はエネルギ-の源泉にアクセスしてそれを錬り上げ、生命力の根源である爆発的なそのエネルギーを、生きることの全てを肯定するような歓喜の智慧に昇華することが出来るでしょう」
白日夢で見たような龍の様なエネルギーの事を言っているんだな、とすぐに分かった。
「体の奥に潜んでいる龍の様な力のこと?」
「そう。龍は天と地を繋ぐもの、バランスや調和をとるものでもあって、君はここ」
そう言って、彼は私の下腹部を指さす。
「ここにマグマ溜まりの様な混沌の深淵──地獄の灼熱の海の様なもの──を抱えているけれど、その地の底にある混沌のマグマの中でとぐろを巻いて潜んでいる龍の力を、真っ直ぐに、天まで繋げることができるんだよ。龍は天と地を繋いで調和をとるもので、バランスを司るエネルギーでもあるからね。少なくとも、一度は、そうして天と地をしっかり繋げたことがあるはず。自分自身の体でそれを味わって、知っているはずだよ」
「……あるかもしれない」
「君が龍の力を使って天地を繋いだように、そんな風に、悪や負に布置されている様なエネルギーであっても、善も悪もない様々な力が混沌とした地獄の火焔の海の様に分離せずドロドロと渦巻いている様な根源にある生命力を、『漏らさない』で、時間と力をかけて、『錬り上げ』、『錬成していく』──その核のエネルギーを扱うという事は本来はそう言う事なのだけれど、安易にその力を都合よく恣意的に使おうとするものは、そこまで出来ないし器自体が育っていないから、それを外道の方法をとって扱おうとするんだよ」
レネ君が次いで言った。
「それが他の犠牲に頼る、ということでもある。犠牲のシステムは、自身のバランスをとることや調和のエネルギーを顕現する事に失敗したり、それ自体が、器量や器質の問題で出来ない、困難、それを放棄した人間が使うものなんだよ」
そして、聖一さんが続けて言う。
「それは本物か偽物か以前に、本質から外れて外道に墜ちた人間が使うものなんだ」




