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 出国する智也さんの見送りの為に空港まで沙羅と私はついて行った。出発ロビーへのゲートをくぐる前に智也さんが私達に笑って手を振って、沙羅は泣き笑いみたいな顔で手を振る。智也さんはちょっと心配そうに沙羅を見て、それから、私達の元にゆっくりと歩いて戻って来た。沙羅は彼を見上げてから、ぎゅっと彼のシャツを掴んで俯(うつむ)いた。涙が床に落ちている。


「大丈夫だよ。ちゃんと帰って来るから」


 智也さんはちょっと困ったように笑ってそう言って、沙羅を抱きしめた。子供をあやすみたいに、背中をぽんぽんとたたいて。


「絶対に、無事に戻って来てね」


 沙羅は泣きべそで笑ってそう言った。


「もちろん」


 智也さんは笑って沙羅の頭に軽くキスして、それからゲートへ歩いて行く。直前で私達を振り返って、笑顔で手を振って、それからゲートをくぐる。彼が荷物検査を受けたりしている様子を見つめていた沙羅に、もう一度、智也さんが振り返って手を振った。そして人波の中に見えなくなった。




「何でこんなに、淋しいんだろう」


 高く突き抜ける様に透き通った青い空をぼうっと見上げながら、沙羅は独り言(ご)ちた。誰に言うとも聞かせるともなしに。


 屋上から智也さんの乗った飛行機を見送って、ぼうっと空を見上げている沙羅のそばで、私は黙って一緒に空を見上げていた。すっきり晴れ渡った青い空がきれいで、爽やかな風が気持ちよくて、ぼうっとしているのにもちょうどいい。キーンという飛行機独特の高い機械音が辺りに響いている。これから飛び立つ飛行機に接続された移動通路の窓から、これから飛び立つ乗客の姿がちらちらと見える。沙羅の気が済むまで私はそうしているつもりだった。秋の空は空気が澄んでいて、とてもきれいで、ちょっとさみしい。

 

「沙羅にとって、智也さんは本当に特別な存在なんだね」


 私がそう言うと、沙羅は頷いた。


「あー、本当に淋しいなあ」


 沙羅はそう言って、「ごめん、もうちょっとここでこうしていていい?」と私に訊いた。私が頷いて、「傍(そば)に居た方がいい? それとも一人にしてほしい?」そう尋ねると、沙羅は「傍にいてほしい」。それで私は、「いいよ」と言って、また一緒にぼうっとしながら空を眺めた。沙羅は隣で鼻をすすっている。ちょっと泣きが入っているらしい。


 空港に到着する飛行機や飛び立つ飛行機をいくつか眺めて、どれくらいそうしていたのか、ぐすぐすと鼻をすすりながら


「ありがとう。もう充分」


 沙羅がそう言って、私達も帰路についた。


 帰りの電車の中で沙羅はずっと黙ってぼんやりしていた。相当こたえているらしい。今回は前回よりも長く一緒に過ごしたから、その分、淋しさもひとしおなのだろう。私も結構淋しかったし。そんなわけで行きと違って帰りはとても静かで落ち着いた時間となったのだった。


 心配と淋しさと帰れない時間への郷愁、追憶──沙羅の雰囲気から私はそんなものを何となしに感じ取っていた。それで私も黙って好きなようにぼんやりとしていた。






「人によるのだろうと思うのですが、私は自然の匂いであれば平気です。お花やハーブの香りもいい香りだと感じます。人工的な香料や抗菌剤や石油系の化学物質の臭いは微かでもとても辛く感じますけれど」


 お出しするお茶を選んで頂く際に質問したら、健康加害テロの被害で急性の化学物質過敏症になってしまった依頼者の方は、にっこりしてそう答えた。大丈夫かな、と思いつつ、いくつかのハーブティーの茶葉の香りを確認してもらうと、どれも彼女は「いい香り」と言って、その中からレモンバームのお茶を選んだ。


 化学物質過敏症や香害患者さんの相談業務に入る際に聖一さんも念の為に無香料の石鹸を使ったり、花も飾らず、普段使っているアロマポットも使わないけれど、大抵の相談者の方は、こうして天然ハーブやお花、100%天然製油であればアロマオイルの香りも平気だと言う事が多かった。そして彼等彼女等は大抵、それらは全く違うのだ、と言う。


「根本的に違うみたいなの」彼女はそう言って、「こうならないと幸か不幸か、こんなにはっきりと香りというものの違いを感じる事はなかったと思うけれど、本当に全く違うの。感じ方が。だから、これだけ有害なものに囲まれて気づかずに過ごしていたのだという事に改めて驚いてしまったし、普段の生活で使用する物の選択を大幅にし直す事になったけれど、逆に気づかないで使用し続けていた事の方が怖くなってしまったくらいで」


 聖一さんが相談業務に入る前に、依頼者の気分をほぐす為の雑談も私が担当していたので、目の前でお茶を準備しながら気分が軽くなるような世間話をするのだ。今日の依頼者は可愛らしい若い大人の女性で、雰囲気も明るい。書類を見る限りでは相談内容はかなり深刻だったのだけれど、こうして相対(あいたい)してみると、当人は可愛らしい見た目に反して何となく肝が据わった感じの不思議な落ち着きと素朴な明るさがあった。ちなみに、こうした場合、総じて女性の方が豪胆な率が高い。何故かわからないけれど、かなり追い詰められた酷い状況に置かれていても女性はけっこう土壇場に強いものなのかもしれない。もちろんこれも人によると思うけれど。


 少し雑談をしてから私は退出して、依頼者には5分程度一人の時間を持ってもらう。それから聖一さんが来る。私もアシスタントして同席するので一緒に。相談は30分~1時間程度。的確でそれ以上でも以下でもない様な彼の淡々とした話を、彼女は姿勢を正して静かに聴いていた。私はその間、書記役としてノートパソコンに会話内容を打ち込む。ボイスレコーダーで録音も同時にしているので、テキスト化したものや音声記録を希望する人に渡す為だ。


 しっかりした瞳で聖一さんの話を最後まで聴いていた彼女は、相談後に私達にお礼を丁寧に言って帰って行った。なかなかハードモードの人生を歩んでいるにも関わらず、瞳に不思議な力が籠っていて、秘めた強さを感じさせる女性だった。いつも不思議に思うのだけれど、ここへ相談に来られる被害者の方たちの多くは、こうした不思議な強さや力を秘めた様な雰囲気の人が多い。これを見ていると、しみじみと考えさせられる。厳しい条件や環境は、必ずしも人を潰したりしない。むしろ、砥石(といし)となる事も多いのだと。その人本来の何か、本質的な力を目覚めさせる通過儀礼なのだろう。魂の錬成の為に必要な何かがそこにあるのだ。


 不幸を不幸として嘆くことも、恨むことも、それを通過儀礼としていくことも、ひとつの目に見えない恩寵や、召命(calling)として、その身に受け止めていく事もできる──それはその人に赦(ゆる)されている。この世界ってそれだけ懐が広いものなんだなあ、と、妙に感動したりして。


「少し仮眠をとって来るから、好きに過ごしていてくれていいよ」


 聖一さんはそう言って、二階にある自室へと向かった。それをリビングから見送っていたら、レネ君が入れ替わりにやって来てTVをつけた。ニュース番組をチェックしている。私はそれを聞き流しながら続きの仕事にとりかかっていた。


「そろそろ休憩しないの?」


 気づいたら、テーブルの向かい側でレネ君が両手で頬杖をついてこちらを見ていた。


「そうだね」


 私が一息ついてそう言うと、レネ君は「セイもそろそろ起きて来るんじゃないかな」。言っている傍から、とんとん、と階段を下りて来る足音がしたので、さすがレネ君と感心してしまう。その日のお昼ご飯はレネ君の希望で外食になったので、私達は聖一さんの運転する車でドライブがてらに植物園の中にあるカフェレストランへ行った。色々な植物がひしめいているガラス張りの不思議な空間に、ちょっとおしゃれなオープンカフェレストランがある。そこは私とレネ君のお気に入りなのだ。


 ガラス張りの多国籍な植物に囲まれた不思議な空間にいると、ふっと、宇宙船の様なものの中に三人でいるみたいな、妙な気分になる。ガラスの向こうが晴れた明るい空ではなくて夜の様な暗い闇だったら──何となく、いつもそんな風に思ってしまうのだ。世界中のあらゆる植物を積み込んだノアの箱舟みたいな宇宙船。ここに来ると、いつもそんなことをふっと思ってしまう。


「旅行は楽しめた?」


 聖一さんに訊かれて色々と旅行中に見聞した事を二人に話していたら、話の流れで今日の依頼者の話の続きに繋がった。智也さんから聴いた香害や化学物質と脳や発達の関係なんかについても。


「そう言えば、沙羅が数年前から無香料や天然ハーブの石鹸なんかに変えた事で、人工香料と自然の香りとの違いに気づくようになったと言っていた。今日の依頼者の方も、幸か不幸か被害に遭ってはっきりとその違いに気づくようになったと言っていたけれど、人によってはその違いに全く気付かない場合もあるのかな?」


 ちなみに、私も何となく違いはわかる。嗅いだときのちょっとした感じが違うので。すごくいい匂いであっても、その奥に、なんとなく気持ちの悪さがある、というか? 自分でもよくわからないけれど、ちょっとした生理的な快・不快がある気がするので、その違いがある。嗅覚を刺激する気持ちよさが違う。ちょっとした差異だけれど。そこまで忌避する事もないけれど、どちらを選ぶかと言ったら人工香料は選ばない、そんな感じ。


 ちなみに、聖一さんのコロンや石鹸、入浴剤などの使用している香りは、本当にとてもいい匂いで好きだ。天然ハーブ100%のアロマオイルが使用されているのが香りでわかる。爽やかでスパイシーだけれど、優しい香り。どれもすごく高級そうだけれど。海外製のものや聖一さんの知り合いの方が手作りしているものを使用しているそうだ。


 海や陸が使用しているのも彼等の母御用達の(こちらも多分お高いものだと思う)100%天然ハーブやアロマオイルが使用されているもので、混ざりもののない気持ちのいい優しい香りで、これもとても好き。私の家で使っているものは、お土産に頂いた海や陸が使用しているものと同じものや、無香料無添加の一般にある市販の物、母の手作りの物なのだけれど、やはり混ざりものがないので、自然と混ざりものがある物や人工香料などとの違いはわかるのだ。


「嗅覚は危険を早期に察知する為の大切な感覚でもあるけれど、その感受性の強弱は人によるのはもちろんだし、その人が普段の生活の中で使用している物によって順応や習慣化もされるからね」


「クロスアダプテーションもあるよ」


 レネ君の言葉の意味を尋ねると、「相互順応のこと。ある成分に順応すると類似の成分への感度も下がる場合があるんだよ」。へえ、そうなんだ。私が感心していると、聖一さんが簡単に説明してくれた。


「同じ香りに長時間曝(さら)されていると、末梢(まっしょう)の嗅覚受容体の反応が低下する(順応:adaptation)し、長期間同じ環境に居ると、脳レベルでそのにおいを無視する為に最初から感じにくくなる(習慣化:habituation)んだよ。特に人工香料などの合成化学物質はその殆どが強い香りの揮発性(きはつせい)物質で、マイクロカプセルも使用されている場合もあるから、それらを普段から使用していれば、その人の嗅覚受容体の感度は低下しやすいかもしれないね」


「なるほど。確かに、人工香料って独特のきつさや強さがあるよね。良くも悪くもその香りの輪郭(りんかく)がくっきりしている感じだし。その奥に、ずっと嗅いでいたり、これ以上強くなると気持ち悪くなりそうな、ちょっとした不快なものもあるのだけれど、最初に感じ取る時には、はっきりした香りの主張がある。こうした強い刺激に日常的に曝されていたら、確かに嗅覚の感度は下がるかも……でも、それって、ちょっと怖いね」


「香水や柔軟剤なんかに含まれる香料成分が、肝臓などの他の臓器よりも、脳の各部位に蓄積されていた量が多い例がマウスを使った経鼻実験で報告されているし、特に合成ムスク等の脂溶性が高くて比較的安定している化合物は、脂肪組織や脳に長く留まりやすい。鼻粘膜や肺からも血液中に吸収されるし、肝臓や他の臓器も含めて、あまりいい影響はないと思う。その毒性に敏感に反応してしまう人は、自然とそれらを忌避する事で曝露リスクを避けるけれど」


「そうだよね」


「そもそも、嗅覚は『忌避行動』を促す重要な感覚の一つだし」


 レネ君がそう言って、淡々とした調子で事も無げに言った。


「意図的に五感の官能を狂わせるものが沢山あるから、自分で取捨選択するしかないよね。獲物の感覚を狂わせて能力を低下させておくのは、効率よく狩りをする為の罠としても常套手段でもあるって事は常に頭に置いておくべきだと思うよ。安易な強い刺激や快楽には、それ相当の対価が隠されているものだって事もね」


「ちょっとー、怖いこと言わないでよー!」


 ぞっとして思わず自分で腕をさすってしまった私に、レネ君は「知らない方が怖いと思うけれど?」ときょとんとして言ったので、更にぞぞっとしたが、確かに、と納得もした。それからすぐに思い出す──ブレインフォグ、だったっけ。


「香害や化学物質過敏症の患者さんの主な症状の一つに、集中力や記憶力の低下があるって、そう言えば智也さんが言っていた。他にも沢山症状があるけれど」


 聖一さんが頷いて応える。


「嗅覚経路は直接脳に信号を送るし、鼻腔(びくう)から脳への直接的な輸送経路を使って香料分子が蓄積されるから、そうした影響は大きいだろうね」


「輸送経路……脳への直接的な?」


「そう。多くの香料は分子量が小さくて、脂溶性が高いから、この経路を利用しやすい性質を持っているんだよ」


 閉口している私に、彼は続けて簡単に説明してくれた。


「香料分子は鼻腔に吸入された後、血液脳関門をある程度バイパスして脳に到達するんだ。血液脳関門を完全に通過しなくても脳に直接到達できる。薬物送達研究(鼻から脳へのドラッグデリバリー)でも同じ経路が利用され、研究されている。


 主な輸送経路は三つで、


 一つ目は、もっとも直接的な嗅神経経路(Olfactory pathway)で、鼻腔上部の嗅上皮にある嗅覚受容体神経細胞(olfactory sensory neurons)に取り込まれる。軸索輸送(axonal transport)によって嗅球(olfactory bulb)に到達し、そこからシナプスを介して(trans-synaptic transport)他の脳領域(嗅皮質、辺縁系など)に広がる。


 二つ目は、三叉神経経路(Trigeminal pathway)で、鼻粘膜の三叉神経終末から取り込まれ、脳幹方向へ輸送される。


 三つ目は、細胞外・傍神経経路(Extracellular / Paracellular)。鼻上皮の細胞間隙を通過し、神経周囲のスペースや脳脊髄液(CSF)に入り、くも膜下腔を通って脳実質に分布する。


 このメカニズムは、香料が『嗅覚情報として脳を刺激する』だけでなく、分子そのものが脳組織に物理的に到達・蓄積し、神経細胞やアストロサイトの機能に影響を与える可能性を示しているんだよ」


 説明の全てが理解できずとも、脳のかなりの広範囲に広まるという事はよくわかった。


「……健康被害を惹き起こす有害物質がそんなに簡単に脳に直接入り込んで、しかも蓄積されてしまうって、そうして神経細胞の機能に影響を与えてしまうって、本当はすごく怖い事だと思うんだけれど」


 ──実際に、患者さんたちは今この瞬間も、多種多様な辛い症状を抱えて苦しんでいるのだし。


「累積暴露(るいせきばくろ)があるから今症状が出ていなくても、将来的に何らかの影響を被る可能性が高いし、環境的な問題もあるし、本当は香害や化学物質過敏症に関して詳細に研究するのと同時に、早期に社会的に規制すべきだと思うけれど、経済市場的な問題や既得権益が絡んで規制が出来ないでいるのが現状なんだよね」


 それまでおとなしく黙って紅茶を飲んでいたレネ君が口を開いた。


「これは何にでも言えるけれど、助けを求める声を聴くこと、今苦しんで声を上げている存在のその声を聞き逃さないで、彼等や彼女等を助けたり(それは人間に限らない)、自分事として真摯に対処していく事自体が、そのまま自分や大切な存在を護る未来への道を切り拓く。犠牲のシステムを終わらせていく事はこうした身近なところ、一人ひとりの、現実の足元にあるんだよ」




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