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「こうしないといけないって思ってそうするようなこと……本当にその人を信頼してもいないのに信頼しないといけない(疑ってはいけない)と思い込んでしまうとか、好きでもないのに好きだと思い込もうとするとか、本当に心を開けるような相手でもないのに自分を開かないといけないとか、思い切って飛び込んで自分をゆだねなければいけないとか、どう考えたってそれは危険だし、そもそも本当にそうしたいと思ってもいないのにそうしないといけないように思ってそうするのも違うし、でもそれが本当に自分で自分を大切にする姿勢や土台がしっかりしていなかったら、わからない。簡単に都合よく支配されたり操作されてしまう。食い物にされてしまう。
逆に言えば、自分をちゃんと大切にするという事は、簡単に都合よく誰かや何かの為に支配されたり操作されにくくなるという事でもあるから、都合よく使い物にしたいひとたちからしたら、それは我が儘だとか、自己中心的だとか、協調性がない、我が強いだとか色々干渉して、そうさせない様にするのも当然の事なんだって知っておくべきだと思う。
健康的な土台を自分自身の為にしっかり育んでいく事(本当に基本的な、しっかり睡眠をとるとか、食事や身体を動かす等をきちんとする:その為の時間を確保する事も含めて)は、その人自身の生命力を高めて潜在力を引き出していくことでもあるし、健康的な自我の強さや境界をしっかり持つという事でもある。それがないと、健康的な自尊心も自己愛も育めないし、健全な関係性と不健全な関係性を識別したり、取捨選択する事自体が難しくなる」
──沙羅が以前話してくれた彼女の生い立ちや抱えて来た色んな葛藤なんかについて思い出しながら聴いていた私は、ふと、美術館のレストランで静香さんと沙羅と三人で話していた事(※第三章 22参照)を思い出した。
「以前、静香さんと沙羅と三人で話したときに、静香さんが幼なじみの男の子の話をしていたよね」
沙羅はちょっと考えてから「あ、覚えているよ。蓮君だっけ?」
「うん、亜美ちゃんが昔、その蓮君のプライドを打ち壊そうとしていたって話を思い出した」
沙羅はすぐにぴんときたらしく、続けて言った。
「わざと貶めたりして、プライドを打ち壊したり、ひびを入れようとしたりして、そこから自分の要求を通す為の入り口にしようとしていた、って言っていたよね」
私は頷いた。
「あの時、静香さんは健康的な自尊心は大切な尊いものだって言っていた。自分と相手の間にきちんと境界線を引いて、思考を機能させる能力にも関係しているんだって──これを健全に機能させたくない人達もいるって事だよね。結局は。支配したり都合よく操作したり、搾取したりするには、どうしても邪魔だもの。
それを踏まえた上で、人の話を聴かないといけないし、政治的なマニピュレーションも関係しているから、そうした虚偽があらゆるものに含まれている可能性を考慮しておかないといけない──宗教的な思想哲学の中や教義の中にもそれは入っているし、それは時の権力者に潰されずに経典や聖典を次世代に渡す為に必要な事だったのかもしれないし、時代的な世界観もあるのかもしれないけれど。でも今は、人間の研究は色んな分野でも知見が積み重ねられてきているから、それを総合的に参照していく事(例えば四象限の地図を使ってみたりして※第五章 13参照)でそうした虚偽もある程度は何となくわかるものではないかと思う。
自我を超えた大きな叡智に触れるには、先ずは、そこへ跳躍する為の足場として健康的な強度のある自我の枠組が必要で、その枠があるからこそ、その枠を外した叡智を持ち帰る事も健全な形で現実に着地させる事も出来るという事や、同じように健康的な強さを持った自尊心や自己愛が、健全な倫理観の足場や土台にもなる事も大切な事で、人が本当にその潜在力や生命力を発揮できるように成熟していく為には、こうした事はとても大切な事だけれど、それは自律性をもったバランスを達成していく事でもあるから、個性としても共同性としても自律していく事になる。こうした人たちは、支配する側からしたら都合よく使い物にできないから都合が悪い──特に、不要な争いを常に惹き起こして、人々が本当に大切な事に気づいたり協力しづらくして、その力を削いでおきたい人達からしたら、人々を都合よく支配したり操作できるようにしておきたいわけだし」
沙羅は少し考えるようにしてから言った。
「元々他者を操作したり、抑圧したり、貶めたり虐待するために囲い込んだり、支配していないと自分自身を保てない種類の人もいると思うんだよね。私の母や妹がそうだったし。本来は尊重されるべき他者の領域へ不正に侵入したいとか、監視したい(覗きとか盗聴とか盗撮みたいな欲望が抑えられない)とか、いじめや嫌がらせを使って他者の選択や行動を支配したり制御したり干渉したいとか──そうした欲望や衝動が抑えられない、正当化したりしてうまく隠してでもやり続けずにいられない、みたいな? もうこれって正真正銘の変質者だよね」
「そうした種類の問題のある人達が多くいる共同体や組織もありそうだよね」
カルトを想定しながら私がそうつぶやくと、沙羅は頷いた。
「あるある。そうした共同体は私から見たら地獄だよね。それに馴染んでいる人はいいんだろうけれど。でも今は外部の情報を遮断する方が難しい場合もあるから、そうした異常な集団や関係性も可視化されやすくなってきているけれど、虐待したい人達は自身に何らかの必要性を持っているから、その為に犠牲者や被害者を取り込む詐術にも長けていて、うまく騙したり誤魔化したり正当化しながら続けているよ──個人主義の人が増えるのも、共同体主義や共同体そのものを忌避したり嫌悪を示す人が増えるのも、そうした人達が生み出す歪んだ関係性があるからだと思う」
「聖一さんも同じようなこと言っていたかも……不健全な関係性とか共同性の問題があると、その反動で不健全な独立性の反応が出る事もあるような事を言っていた」
私が思い出しつつそう言うと、沙羅は頷いていた。
「あるだろうね」
「先ず不健全な共同性の問題を解決する事で、その反応として出ている行き過ぎた独立性の問題も解消されやすい。その為にはその個人や集団にある程度の健全な土台が在る事が前提だけれど。逆の場合も同じで、不健全な独立性の問題を解決する事で、それへの反応として出ていた不健全な共同性の問題も解消していきやすくなる──少なくとも、その個人や集団の土台にある程度の健康的なものがあれば、それで単に自然な反応や反動として出ているだけの問題は解消されていきやすくなる。建設的な対話も可能になるし良い循環が生まれるからバランスの問題も解消していきやすいんじゃないかな」
「それは当然だろうね。協力関係や共同性は大切なものだけれど、それを健康的に機能させていく為には、それを歪んだ形で利用したりするような病んだ種類の関係性を切り分けていかないといけないもの。ある程度の強さがあって健康的な個を確立した人達ときちんとした協力関係や共同性を築くには、それは必須だと思う。
一旦そうした汚れたものを出していかないと問題は解消しないし、健康的な個や共同体を育むのが難しくなるし、何よりも、関係性や共同性自体に生理的な嫌悪感を催させてしまって、ますます忌避させたり、そもそもそうしたものは必要ない、と結論付けさせるのも理解できるし、きちんとした切り分けが必要だよね。
個人の自律性や基本的な人権が尊重されないと、当然だけれど健康的な協力関係を築くのが難しくなるから、共同性や共同体が健康的に機能するのも難しくなるし、社会性もきちんと発揮されにくくなる。個で在る事と共で在る事は本来は対立するものではなくて、それは双方の健全性の問題とバランスの問題だと思う──つまり、双方に不健全な在り方、専横性とか支配性とか操作性等の病んだ個性や共同性の在り方の問題があって、それを先ず切り分けていく必要があって、その上でバランスの問題に対処していく必要があるんじゃないかな」
「それって色々な面で言えそうだね。身近な問題から大きな問題にまでフラクタルに存在していそう」
「本来不要な問題や争いが絶え間なく存在しているのも、その問題が根底にあると思うよ」
沙羅はそう言ってから、続けて言った。
「私は幸か不幸か家族関係からそれを嫌と言うほど学んだことで免疫があるけれど、それが分からない人もいると思うんだよね。そもそも個人としても集団としても問題がある、特にその存在様式や関係性に不健全な何かがある、そういう場合には、先ず健康的な人達と同じ健全な理論が通じない。だから切り分けて考える必要がある。特にいじめや嫌がらせ、虐待なんかを正当化する特徴が見られるなら要注意で、それはその個人や集団に確実に問題が在る事を示しているから。逆に言えば、ある程度その存在に健康的な強度がある人達や集団は、そうしたものを【必要としない】。この差異は見過ごされがちだけれど、本当はすごく大きい」
「個人や集団として、それを【必要とする】事自体が不健全性の表れだから、ってことだよね」
「そう。私の妹や母がそうだった。簡単に言えば、犠牲者や被害者の本来尊重されるべきもの、人権とか境界とか尊厳、選択や行動の自由を侵害したり、貶めたり、壊したりする必要が本人自身にあって、その為に本来は許されない行為を正当化する必要もあるから、マッチポンプ式で問題や罪を捏造したり、不要な問題や争いを惹き起こす。そして被害者や犠牲者に押し付けて、虐待や犯罪行為でも正当化しようとするんだよ、被害者を装ったりして。そうして次々と問題を創り出すし、エスカレートさせるけれど、それもすべて犠牲者や被害者に押し付けてやり続ける。
こうした種類の人は、決して本当に自らの行為や在り方を反省する事はないよ。殊勝そうな反省している様な振りは上手だけれど」
私は沙羅の話に頷きながら
「わかるよ。カルトのテロリズムを実践している人達がそうだもの。自分達で問題や罪や争いを捏造しては、いじめや嫌がらせや虐待、犯罪行為までも正当化して周囲に拡散させている。共同体や組織、社会の協力関係を低劣な病んだものに変容させて、歪んだ関係性や腐敗した関係性を次々と生み出しているもの」
「一旦腐敗した関係性は基本的に棄て去るしかないから個を確立していく人達から、そうした低劣な関係性から離れていくのも忌避するのも当然なんだよね。本来は健康的に機能すべき共同性や関係性を破壊しているのは、健康的に個を確立して共同性や関係性から離脱していく人達ではなくて、不健全な問題を抱えている個人が関係性や共同体を使ってそれを低劣なもの、腐敗したもの、歪んだものにしているからなんだよ。
特にいじめや嫌がらせを正当化して人権侵害や犯罪にまで手を出すような人達がそうした共同体の中で関係操作による支配力、権力を持ってしまったら、共同体自体や協力関係自体に生理的な嫌悪感を抱くのは当然だし、個を確立してそこから離脱するだけの力を持った人達はそこからどんどん離脱していくし、そうしたものを無駄なもの、不要なものとして切り捨てた方が得なら迷わずそうするでしょうし、行き過ぎた独立性や個人主義が出て来るのも当然という気がする。
社会的な機能が健全に機能しなくなっているのは、そうした関係性や共同性の腐敗があるからであって、これを何とかしないと本来は機能するべきものも機能させられない。
社会的なシステムの問題を解決する必要もあるだろうけれど、同時に根底にあるこの問題を何とかしないと、システムだけ変えても意味がない。社会や共同体を形作っているのも一人一人の個人だし、その不健全な在り方と健全な在り方の切り分けはどうしても必要だと思う」
「時代的なものとか段階的なものもあって、その段階や時代に於いては役に立ったり、適切だったり、そんなに問題がない場合もあるけれど、今は大抵の場や時に於いてはそれは忌避される在り方であったり、反社会的だったり、低劣なもの、未熟なもの、病んだものであると認識されるような在り方と、ある程度の健康的な倫理性とか社会性や成熟性を実現している在り方との差異はやはりあるよね。これは差別と言うよりも、現在の実際の在り方の差異や問題だから、その区別は当然必要だと私も思う。特に不健全な在り方には強い悪性の関係感染性がある(秘密の共有による一体感、選民性、優越感、安易に得られる快楽、ファシズム、カルトテロリズム、犯罪や人権侵の正当化等から、自我肥大や集団的自我肥大、より原始的な衝動へと退行する)から、尚更必要だと思う」
世界観やその発達段階によるものもあるって聖一さんも言っていたし、と何となく思い返しながら私がそう言うと、沙羅は「いじめとか嫌がらせや虐待を正当化をする様な空気汚染が集団内にあると、あっという間に集団感染していく共同体とか集団もあるもんね。元々その成員自体が個人的に問題や不安定さを抱えていたからでもあるのだろうけれど」そう言ってから、携帯端末の中に保存してあるレポート用の資料をいくつか私に見せてくれた。
「政治とか公共システム、集団の倫理性について考える時、こうした問題って無視できないと私は思うんだよね。集団を統治支配する為にこうした手法を使うのは昔からあるけれど、そもそもこうした手法に頼る必要があると考えるその在り方そのものについて問題視するとか、メタ認識するとか、その健全性や信頼性について再評価するとか」
私は沙羅が見せてくれたレポート用の資料の中から、学校の教師がそうした手法を使っていじめや嫌がらせを扇動したりしてコントロールしている例や企業などでそれを行なう例を黙読していたが、
「端的に言って、こうした人は組織や集団の管理者として健全な意味で統治する能力がない事になるんじゃないかと思うんだけれど」
私がそう言うと、沙羅も頷いた。
「そうだよね。うまく誤魔化す事や騙す事に長けていく事はあっても、建設的な協力関係を築く事や個人の才能を伸ばす意味でも邪魔をしている様に思うし。低レベルな段階にまで人々を退行させて統治支配を実現しているわけだし」
「その個人や集団としての潜在能力を健全な形で育み発揮させるというよりも、単に自分が扱いやすい様に抑圧して低劣な状態にまで退行させてコントロールしているだけだから、その共同体や組織の統治者や管理者としては才能がないことになるんじゃないかな。本来の目的とか問題解決に繋がらないやり方で、問題を誤魔化したり逸らしたりしているだけだし。それよりも、もっと建設的なやり方や健康的なやり方で個人や集団の潜在力を育んで高めたり、引き出したり、問題解決をしている本当に才能のある人達もいるのだから、そうした人達の在り方に焦点を当てる方が建設的に思うし、そうした在り方を実現している人達に道や席を譲っていくべきだと思う。少なくともそうした人達や実例から真摯に学ぶとか教えを乞うとか、そうした姿勢は必要なんじゃないかなって思う」
「時代にあったやり方や在り方ってあるよね」
「そうだよね」




