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キイナと克己くんがなんかいい雰囲気なので、また気をきかせたお邪魔虫が早めに帰ろうとしていたら、聖一さんに呼び止められた。今度はちゃんと学生鞄をしっかり持っていた。
「また早めに帰るの」
「そう。お邪魔虫は意外に気が利くのです」
私がそう言うと、彼は楽しそうに笑っていた。
「また寄っていかない? 今度はハイビスカスのお茶と美味しいケーキもあるよ」
「行きます。あ、本を借りっぱなしでごめんなさい」
「ああ。結構分厚いから、ゆっくり読めばいいよ」
「もう読んでしまったんだけれど、読み直したくて」
彼は笑って頷いた。
「そっか、気に入ったんだね」
「うん。むずかしいけれど、なんか、読んでいるとすごくスッキリする感じで。全部わかっているわけではないと思うけれど、何となく言っていることはわかる。不思議な本。それで何度も読み返したくなるの」
「どうぞ、好きなだけ持っていていいよ」
「ありがとう」
彼に借りた本は高度に抽象的なもので、哲学や心理学、社会学、物理学、言語学……etc の総合的な集大成みたいなもので、とにかく面白いけれど分野が多岐に渡っていて、最初はとりあえずわけわからないままでも通して読んでみてから、次には一つ一つの注釈をじっくり参照しながら読む、というようにして読んでいた。気になったことは日記にメモ代わりに書き出したり、時間をかけて楽しんでいたのだ。
それはちょうど、このところわけのわからないことに巻き込まれ続けていた私の精神安定剤のような役割をしていた。殆どカオスといってもいい現実の中で、この本にひたすら向き合っている時は、不思議と心や頭の中が静かだった。まるで静謐な空間を漂っているみたいに時間を忘れていられた。
彼の家のリビングで宝石のルビーを溶かしたように鮮やかな色のハーブティと紅茶のシフォンケーキを頂いて、最近あったことやなんかをかいつまんで話した。キイナから少し聞いていたらしく、彼の方から訊いてきたからだ。
彼は私の瞳をじっと見つめてから、
「同情したりしないように気をつけたほうがいいよ。君やお友達の優しさにつけこまれないように気をつけたほうがいいと思う」
「だいじょうぶ、全然そんな気ないから」
私が笑ってそう言うと、彼はちょっと逡巡した様子で口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「お節介だったらごめんね」
「ううん、別にそんな風に思っていないよ」
「気になることがあるから、言ってもいい?」
彼がじっと私を見つめてそう言うので、私は頷いた。
「君は自分で思っているよりもずっと、優しいというか、同情しやすい。その場の空気に感応しやすいんだよ。それで気づかないうちにそこにあるものに寄り添うようなところがあるんだ。理解しようとする場合もあれば、なんとなく黙ったまま受け入れる場合もあるかもしれない。根が親切なんだよ。でもそれは、相手の問題を自分の中に入れてしまうことにもつながるんだよ。人が君に期待することは、君にとって本当はどうでもいいことなんだから」
彼が淡々とそう言うのに、私は驚いていた。
そんな風に見られているのか、と驚いたのもあるし、直接関わることがそれほどなかったから、そんなところまで見ていたのか、とも。
「その嫌がらせの犯人の子、きっとそれだけでは終わらないと思う。君が少しでも優しさや甘さを見せたら、それにつけ込んでくると思う。相手の問題は相手の問題、しっかり自分と切り離すようにした方がいいと思う」
自分でもなんとなくまだ何かありそうだなあ、と思っていたので、その不安を彼の口からきかされ、少し不快な気分になった。口答えするように私は彼に言った。
「彼女に対する優しさなんてひとかけらも持ち合わせていないから。たとえあったとしても、ひとつもあげるつもりないし。大丈夫だよ」
「それでも絞り取ろうとするひともいるんだよ。感情恐喝って言葉があるのを知っている? 相手が逃げられないように罠を仕掛けたりして、無理やり脅すようにそれを収奪しようとするひともいるんだよ。たとえば、罪悪感を刺激して、相手が自分の要求に応えるのがあたかもそのひとの義務であるかのように思いこませたりしてね」
何となくそれは彼女から受けた印象として思い当たるような気もしたけれど、それでも、自分が彼女に同情するとは思えなかった。まったくそんな気がないのに? 彼は少し私を買いかぶっているのではないのか、とも思った。はっきり言えば、私はそんなに優しくも親切でもないからだ。
ちょっと不満気な私に彼は、静かにはっきりとした口調でこう言った。
「これから君にはある種の冷酷さが必要になってくると思う。まずはそれを自分自身に許すこと。まだ迷いがあるんだよ。それが甘さとなり、つけこまれる隙になる。その迷いを捨てていくことが鍵になる。そして自分を尊重しない人間を救おうとはしないこと。これから何があろうと、相手がたとえどうなろうとも、きっぱりと情けを切り捨てることも必要なことだよ。特に、相手が犯罪や人権侵害、いじめとか嫌がらせ、虐待なんかに手を染めている場合はね。きちんと境界線を引くんだ。たとえ酷いことになるってわかっていてもね。本人に責任をとらせるしかないんだよ」
わけがわからないままに気圧され、気づいたら私は素直に頷いていた。
なんとなく、それは私にどこか深くこだまするように響いたからだった。
彼はまたあの独特の間と透明な眼差しで私をじっと見つめていた。
ほんとうの私は、いったいなにものか、なんのためにこうして生れてきているか、それを覚えてるか、思い出せるか──何だかそんな風に問いかけられているような不思議な気がした。




