◆8 こんなことで大丈夫なのか、世界……
神暦八三五年の初夏に差し掛かった、五月五日ーー。
国教ドゥッカ教会の教皇リンネが大勢の聖魔法の使い手ーー聖職者(司教や修道士、修道女ら)を皇城内聖堂に集めて、半年に一度の説教をした。
「『悪神の訪れ』の季節がやって参りました。
皆、気を引き締めるように。
善神アフラのご加護のあらんことを」
夏の始まりの頃、雹や嵐を伴いつつ、悪神がやって来る。
穀物が生育する時期なので、これを好き放題にさせると、果樹園や畑の作物が台無しになって、秋の収穫に大きな悪影響が出る。
だから悪神の活動を止めるために、聖魔法の使い手は総動員される。
教皇や枢機卿、大司教といった教会の重鎮から、修道女見習いや民間の祈祷師までが善神に祈りを捧げ、悪神によって発生した瘴気を浄化する。
ちなみにポーションや回復薬が大量に消費されるのもこの頃で、薬剤師や医師も例年、大忙しになる。
だが、毎年、この「悪神の訪れ」を経ないことには作物が実らないことは常識であった。
だから、特に農園が近くにない都会の子供たちにとっては、「悪神の訪れ」も、それに対抗して聖職者が出張るのも、どこかお祭り騒ぎのようにしか感じられなかった。
瘴気を生み出し、悪くすると魔物や魔獣までも産み出す存在を「悪魔」や「魔王」などと呼ばずに、「悪神」と呼称するのは理由がある。
彼らは人類にとって被害をもたらすものの、同時に、作物を実らせ、季節を移りかわらせる存在でもあるため、「魔王」や「悪魔」ではなく、「悪神」と称されるのだ。
ちなみに、「魔物」とは昆虫型や小動物などに瘴気が入り込んだ状態のものを指し、「魔獣」は猪や狼、熊といった大型動物や、鷲や鷹などの大型鳥類が瘴気をまとっている存在を指す。
そして「瘴気」はあらゆる生物に影響を与えて、狂わせる働きがある。
だから、なんとしても瘴気の蔓延を防がねばならない。
それが聖職者の勤めであった。
瘴気によって狂わされるのは人間も例外ではない。
大量の瘴気を吸い込んで、両眼が血走った者は、破壊衝動を抑えられなくなるばかりか、悪神から何かを命じられるらしく、統一的な動きで人間に対して攻撃を始める。
そうした瘴気をまとって紫色の肌となった人間を「魔人」と称し、その種類は多く、狼に変化する「狼人」もいれば、人間の血を吸って言いなりにさせようとする種族「吸血鬼」になる者もいる。
だから、悪神の働きを聖職者たちが抑え損なうと、森や海から大量の魔物や魔獣が発生し、さらに瘴気が蔓延すると都市では魔人が出現して、いわゆる「暴走状態」が発生し、悪くすると領地や国家が滅亡する。
しかし、そうした事例は滅多となく、数百年に一度の割合であり、特にネビール帝国にとっては史上、一度も「暴走状態」を経験したことがなかった。
それゆえ、暴走状態よりさらに酷い、最悪の事態ーー「神々の黄昏」、つまり「世界の終末」は古文書に記されているだけで、現代の人類で体験した者は誰もいなかった。
「神々の黄昏」とは、漆黒の空間(魔空間)が無数に発生し、そこから多くの悪神が顕現する状態を指し、そうなると大地や森林を荒廃させ、ついには太陽や月までもが欠けてしまうという。
そのように聖典に記され、それをドゥッカ教の教会や修道院では教わり、そうならないよう善神アフラに祈ることが、聖職者たちの毎日の日課となっていた。
だが、誰もそのような事態が起こるとは、聖職者ですら、本心では信じていなかった。
そのせいで、実際に起こってしまったのかもしれない。
千年ぶりの「神々の黄昏」が、これからすぐ先の未来にーー。
そしてその「世界の終末」とも言える状態に成り果てる予兆ーー前哨戦ともいえる戦いが始まるのは、今日から五日後、神暦八三五年五月十日であった。
それなのに、大勢の聖職者を集めて説教する教皇様ですら、今年から何年にも渡って「神々の黄昏」が展開するとは思っていない。
聖堂内には、まったく緊張感がない。
年中行事が始まったぐらいにしか、居並ぶ聖職者たちは思っていなかった。
しかも、今世のこの世界には、以前の私、イニティウムのような「大聖女」がいない。
浄化や治癒の魔法を特に尊ぶ風潮から、使役の聖魔法を使える者は殆どいないうえに、その浄化力、治癒力も、「大聖女」と比較すれば、ほんの僅かしか持たない「聖女」が数十人いるだけだ。
これはマズい。
今にも一柱目の悪神が顕現するというのにーー。
「どうしたの、お師匠。
難しい顔をして」
オリガが碧色の瞳をキラキラさせながら、私、フィーニスの顔を覗き込む。
彼女は、私のことを「お師匠」と呼ぶ。
いつも聖魔法の使い方を、私がコーチするからだ。(考えてみれば、私本人は聖魔法を使えないのに、その指導に素直に従ってくれるのだから有り難いことだ。それだけで、オリガとナタリアス皇女の性格の良さが伝わってくる)
私は真剣な面持ちで喉を震わせた。
「ついに始まるのよ。
神々の黄昏がーー」
身震いする私と違い、オリガはキョトンとするだけだった。
「マジ?
教皇様も司祭様も、ちっとも緊張しておられないのに?」
私は口を固く結んだまま黙って頷く。
聖典にしか記されていないことが、これから起こると言われても、誰にとっても実感が湧かなくて当然だ。
私は「神託を受けた聖女」として、皇宮に出入りできるようになってから、口を酸っぱくして「神々の黄昏が起こる」「世界の終末が近い」ーーなどと口にしてきた。
だが、そうした発言も、オリガやナタリアス皇女を聖魔法の使い手に鍛え上げるための口実として口にしているだけだ、と私以外の誰もが思っていて、発言内容を真面目に取り合ってくれなかった。
フェルトン皇太子殿下だけは、それなりに興味を持ってくださって、
「ならば帝国全土の騎士団を統一的に動けるように各貴族家に通達し、法律も変えねばならんな。
それに食糧の備蓄と、農村や郊外地域の警備体制の強化を進めねばならん。
だが、宰相が応じてくれるかどうか……」
などと言って、顎に手を当て、思案するばかりだった。
起こってもいない未来に、あらかじめ備えるということは、たしかに難しい。
いくら「交易船の沈没」や「第三皇女の誘拐事件」を予言したからといって、私の言う「神託」だけを根拠に、大幅な法律改正と、大規模な動員命令を発することもできまい。
仕方ない。
まずは、できる範囲で対処していくしかない。
いずれは皆も、恐慌状態になっていくのだから、そのときには、私の予言が正しかったと思われて、言うことを聞いてくれるに違いないのだから。
今は予言者として聖女認定されただけでも有り難いと思うことにした。
私は主人である聖女候補オリガの両肩をガシッと掴んで訴えた。
「私はこれから教皇様に許可をもらって、養家のワルトチェル伯爵家に戻って、事態に備えるつもり。
貴女にも来てもらうから覚悟してね。
貴女の聖魔法だけが頼りなんだから!」
「もう。
怖い顔、やめてよね。
私がまだ碌に聖魔法を使えないことぐらい、お師匠が一番、知ってるじゃない?」
「それでも、貴女に期待するしかないの。
ワルトチェル伯爵領の騎士団は動員できたとしても、魔物や魔獣の退治しかできない。
瘴気を発生させる根源である悪神を撃退する力を持っている人は、貴女しかいないの。
無理にでも、本格的な聖女に覚醒しなさい!」
「無茶言わないでくださいよ、お師匠ぉ!」
オリガは笑いながら私に抱き付く。
駄目だ。
オリガはマジ受けしてくれない。
これから私は彼女を伴ってワルトチェル伯爵領へと向かうつもりだが、郊外へピクニックに行くぐらいにしか、オリガは思っていない。
(こんなことで大丈夫なのか、世界……)
私は暗澹たる気分になっていた。
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