第3話 境界の向こう側
2011年11月12日 午後4時27分
東京都千代田区・日比谷公園
黒い門の前に一本の白い線が引かれていた。
境界から三メートル。
それより先へ進むことを許された者はまだ誰もいない。
午前の調査を終えたあとも森本直哉たちは日比谷公園に残されていた。
測定機材を再点検し、同じ場所で同じ数値を測り続ける。
放射線量に変化なし。
有毒ガス、検出なし。
気温、湿度、気圧にも目立った変化はない。
黒い門は朝から何一つ変わっていなかった。
何も出てこない。
音もしない。
ただそこにある。
それだけだった。
公園の外では報道陣が朝よりも増えていた。
規制線の向こうに並ぶカメラの数は時間が経つほど多くなっている。
国内だけではない。
海外の報道機関も到着し始めていた。
昼過ぎには東京以外でも同じような構造物が現れたという情報が現場へ次々と入っていた。
大阪。
札幌。
福岡。
仙台。
いずれもまだ現地確認の途中だという。
さらに海外からも形状の似た黒い構造物が現れたという情報が相次いでいた。
ニューヨーク。
ロンドン。
北京。
モスクワ。
シドニー。
報道映像と政府発表、未確認情報が入り交じり、正確な数は分からなかった。
各国政府も情報を整理できていなかった。
少なくとも日比谷公園だけで終わる事件ではなさそうだった。
世界中で同じ現象が起きている。
その疑いが急速に現実味を帯び始めていた。
森本はその事実を聞いても目の前の門が急に大きくなったようには感じなかった。
もともと十分すぎるほど大きかった。
「集合」
小隊長の声に森本は測定器から顔を上げた。
隊員たちが車両の脇へ集まる。
小隊長の隣には午前中にはいなかった男が立っていた。
迷彩服の上に防弾チョッキを着けている。
階級章は一等陸尉。
腰には拳銃の入ったホルスターがあり、背後には小銃を持った隊員が二人控えていた。
朝とは違う。
午前の無人機調査と並行して結果が得られなかった場合に備えた有人進入案も政府と関係機関の間で検討されていた。
新たに集められた人員と装備を見れば、準備が無人機の回収後に始まったわけではないと森本にも分かった。
「政府内で有人による内部確認を実施する方針が決まった」
一等陸尉が言った。
誰も声を上げなかった。
驚きがなかったわけではない。
午前の結果を見れば次に何が行われるのかは全員が想像していた。
「実施主体は陸上自衛隊。警視庁、東京消防庁の支援を受ける。現場の指揮は私が執る」
一等陸尉は手元の紙へ目を落とした。
「第一段階では隊員一名が命綱をつけた状態で境界を越える。滞在時間は十秒。時間内に帰還しなければ、命綱を使って即時回収する」
十秒。
森本は頭の中で数えた。
短い。
だが向こう側で何が起こるか分からない以上、長すぎるとも言えた。
「携行装備は防護服、防弾チョッキ、無線機、映像記録装置、照明、空気呼吸器、拳銃。小銃は携行しない」
武器の携行は防衛省と政府内の協議を経た例外的な措置だった。
隊員の一人が手を上げた。
「拳銃の使用基準は」
「自己または他人の生命に対する急迫した危険があり、ほかに手段がない場合に限る。未知の存在を敵性対象と認定したわけではない」
「向こう側ではこちらと連絡が取れない可能性があります」
「分かっている」
一等陸尉は即答した。
「危険を感じたというだけで発砲することは認められない」
「明確に攻撃された場合は」
一等陸尉は一瞬黙った。
「その場合も生命に対する危険の程度とほかに手段がないかを判断する」
現場にいる誰もその答えで安心したようには見えなかった。
向こう側に何があるのか分からない。
襲われるとはどういう状態なのかも分からない。
相手が人間に似ているのか。
動物なのか。
そもそも生き物なのか。
それすら分からなかった。
「進入する隊員は二等陸曹の片桐」
一等陸尉が名前を呼んだ。
列の端にいた男が一歩前へ出た。
「はい」
森本は片桐の顔を見た。
午前中無人機の通信ケーブルを引いた隊員の一人だった。
年齢は三十代半ば。
森本より少し上で、体格は大きく、普段から余計なことを話さない男だった。
小隊長が尋ねた。
「本人の志願ですか」
片桐は答えなかった。
一等陸尉が代わりに口を開いた。
「適性、経験、本人の意思を踏まえて決定した」
それ以上の説明はなかった。
森本は片桐と目が合った。
何か声をかけるべきだと思った。
だが言葉が出てこない。
頑張ってください。
気をつけて。
必ず戻ってきてください。
どれもひどく軽く感じられた。
片桐はわずかに口元を動かした。
笑ったようにも見えた。
「森本」
小隊長に呼ばれ、森本は姿勢を正した。
「お前は測定担当として前へ出ろ」
「了解」
「境界通過の前後で片桐二曹の状態と周辺数値を確認する」
森本は返事をし、測定器を持ち直した。
白い線の内側では装備の準備が進められていた。
片桐の防護服の上から太い安全帯が取り付けられる。
背中の金具に登山用よりもはるかに太いロープが接続された。
ロープは滑車を通り、後方に停車した車両へ固定されている。
さらに数人の隊員が途中のロープを直接持つ。
機械だけに任せないためだった。
無線機。
小型カメラ。
心拍数を計測するセンサー。
体温計。
血中酸素飽和度計。
すべての動作が確認された。
映像は正常。
音声も届いている。
心拍数は一分間に九十八回。
高い。
だが異常と呼べるほどではなかった。
「片桐二曹、音声確認」
無線担当者が呼びかけた。
『聞こえる』
片桐の声が近くのスピーカーから返ってきた。
本人は十メートルほど先に立っている。
直接聞こえる声とスピーカーの声がわずかにずれて重なった。
「境界通過後、十秒を数える。合図がなくても十秒で後退しろ」
『了解』
「自力で戻れない場合、こちらで回収する」
『了解』
「命綱に異常を感じた場合も即時帰還」
『了解』
同じ確認が何度も繰り返された。
誰もそれを無駄だとは言わなかった。
午後四時三十八分。
警察の規制範囲がさらに広げられた。
消防隊員が除染設備の前で待機する。
救急隊が担架を準備する。
小銃を持った自衛隊員が黒い門の左右へ配置された。
銃口は地面へ向けられている。
片桐は白い線の前に立った。
黒い入口まで三メートル。
「前進」
一等陸尉が命じた。
片桐が歩き始めた。
一歩。
二歩。
ロープが地面を滑る。
森本は測定器の画面を見た。
異常なし。
視線を片桐へ戻す。
入口の手前で片桐が止まった。
黒い面が顔のすぐ先にある。
照明を向けても内部は見えない。
光が吸い込まれているのか。
それともそもそも光が届いていないのか。
判断できなかった。
「状態を報告」
『異常なし』
「音は」
『何も聞こえない』
「風は」
『感じない』
「臭いは」
『分からない。空気呼吸器をつけている』
無線担当者がうなずいた。
当たり前の答えだった。
それでも確認する必要があった。
「片桐二曹」
一等陸尉が言った。
「境界を越えろ」
『了解』
片桐が右足を上げた。
黒い入口へ踏み込む。
右足から身体が順に黒の中へ消えていった。
午前の無人機と同じだった。
何かに押し返される様子も水面のような揺れもない。
ただ黒い部分へ入ったところから見えなくなっていく。
最後に残った左足が境界を越え、片桐の姿が完全に消えた。
ロープだけが黒い入口へ延びていた。
同時にスピーカーから雑音が鳴った。
映像が途切れる。
心拍数。
体温。
血中酸素飽和度。
位置情報。
すべての表示が同時に消えた。
「片桐二曹、応答しろ」
返事はない。
「片桐二曹」
無線担当者がもう一度呼ぶ。
雑音すら返ってこなかった。
「計時開始」
一等陸尉が言った。
「一」
誰かが声に出して数え始めた。
「二」
ロープは動かない。
「三」
森本は測定器を見た。
周辺数値に変化はない。
「四」
入口から何かが出てくる気配もない。
「五」
ロープを握る隊員の腕に力が入る。
「六」
森本は息を止めていることに気づいた。
「七」
まだ戻らない。
「八」
一等陸尉が右手を上げた。
「九」
回収の合図を出す直前だった。
ロープが動いた。
「待て!」
黒い入口から片桐の左手が突き出された。
境界を探るように腕を伸ばし、続いて肩、頭、胴体が現れた。
片桐は自分の足でこちら側へ戻ってきた。
二歩進み、その場に膝をつく。
「片桐二曹!」
救護員が駆け寄ろうとした。
「待機!」
一等陸尉が制止した。
森本は測定器を片桐へ向けた。
放射線量、異常なし。
有毒ガス、検出なし。
表面温度、正常。
防護服に破損は見えない。
「状態を報告しろ」
片桐は返事をしなかった。
肩で息をしている。
拳銃はホルスターに収まったままだった。
「片桐二曹」
一等陸尉がもう一度呼びかけた。
片桐はゆっくりと顔を上げた。
空気呼吸器の透明なマスク越しに目が見えた。
恐怖で混乱しているようには見えない。
負傷している様子もない。
ただ何をどう説明すればいいのか分からない。
そんな顔だった。
「向こうに何があった」
片桐は黒い入口を振り返った。
それから短く息を吐いた。
「森です」
誰も言葉を返さなかった。
片桐は続けた。
「向こうには森がありました」
森本も黒い入口を見た。
こちら側から見えるのはどこまでも深い黒だけだった。
「空もあります」
片桐の声が震えた。
「太陽も見えました」
日比谷公園の上空をヘリコプターが旋回している。
日没直後の赤い残光が黒い門の柱を照らしていた。
だがその向こう側にはここではない別の空が広がっている。
人類はその日初めて知った。
黒い門は何かを隠しているのではない。
この世界とは異なる場所へつながっていた。




