第4話 未知への第一歩
2011年11月13日 午前8時16分
東京都千代田区・日比谷公園
黒い門の前に昨日よりも広い作業区域が設けられていた。
規制線の内側には陸上自衛隊の車両だけではなく、警視庁、東京消防庁、厚生労働省、文部科学省の関係者が集まっている。
未知の病原体や有害物質、人体への影響に備え、厚生労働省の担当者も加わっていた。
簡易テントの数も増えていた。
発電機が回り、机の上には測定器や採取容器が隙間なく並べられている。
森本直哉はその一つ一つを確認していた。
放射線測定器。
酸素濃度計。
ガス検知器。
温度計。
気圧計。
方位磁石。
携帯型の衛星測位端末。
映像記録装置。
土壌と植物を採取するための器具。
昨日までの調査とは明らかに規模が違った。
黒い門の向こうには森があった。
青い空が広がり、太陽が輝いている。
鳥の鳴き声が聞こえ、地面には草木が生えていた。
片桐が持ち帰った映像はわずか十秒ほどだった。
それでも日本政府が初めて手にした“向こう側”の記録である。
片桐が帰還した直後から次の調査に備えた人員と装備の手配は始まっていた。
政府の要請を受けた関係機関と専門家は一晩かけて映像を解析した。
その一方で関係省庁と現場部隊は調査計画の作成、参加者の選定、装備や除染・隔離設備の準備を夜を徹して進めていた。
映っている植物。
空の色。
木々の形。
記録された鳥の鳴き声。
地面の状態。
専門家たちは映像を一コマずつ確認し、必要な箇所を拡大して、映り込んだ情報を拾い上げていた。
一方で片桐自身も必要な事情聴取を受けていた。
映像には映らなかった感覚。
風の強さ。
身体への違和感。
見回した順番。
視線を向けた方向。
わずかな記憶でも映像と照らし合わせれば新たな情報になる可能性があったからだ。
滞在時間は十秒。
周囲を見回し、異常がないことを確認して戻ってきた。
映像と片桐の証言を合わせても分かったことは限られている。
地面がどこまで続いているのか。
森の広さはどれほどなのか。
空は本物なのか。
そこが地球上のどこかなのか。
何も分かっていない。
分からないものを分からないままにしておく。
それが今できる最も正確な報告だった。
午前七時過ぎ政府は夜間に組み立てられた第二次有人調査計画を最終承認した。
目的は内部環境の確認と試料の採取。
予定滞在時間は三十分。
進入するのは六名。
片桐を含む陸上自衛官四名と文部科学省の要請で招集された植物学者、地質学者が各一名。
境界を越えれば外部の専門家から指示を受けることはできない。限られた時間で採取対象と方法を決めるため、野外調査経験のある二人が本人の同意を得たうえで同行することになった。
二人は未知環境へ進入する危険性について説明を受け、防護装備の使用方法と緊急時の行動について短時間の事前訓練を受けていた。
黒い門から離れる距離は最大五十メートル。
異常を確認した場合は直ちに帰還する。
命綱は使用しない。
六名分のロープを森林内へ延ばせば、木々や隊員同士に絡まり、移動や緊急帰還を妨げる可能性が高かった。
境界の外から内部の状況を確認できない以上、外部側の判断でロープを引くこと自体が内部の隊員を危険にさらしかねない。
今回は全員が完全に向こう側へ入る。
「最終確認を行う」
調査隊長を務める一等陸尉が言った。
六名が黒い門の前に並ぶ。
全員が防護服、防弾チョッキ、空気呼吸器を装着していた。
自衛官は拳銃を携行している。
小銃は二名だけが持っていた。
昨日の段階では未知の存在を敵性対象とは認定していなかった。
その判断は変わっていない。
だが複数人が内部へ入り、一定時間とどまる以上、最悪の場合に備えないわけにはいかなかった。
「内部では各自の機器が動作するか確認する」
一等陸尉は一人ずつ顔を見た。
「ただしこちら側との通信は期待するな。昨日と同じであれば境界に入った時点で途絶する」
森本は手元の受信機を見た。
片桐が昨日持ち込んだ無線機もカメラも回収後に故障は見つからなかった。
映像記録装置には境界を通過する瞬間の乱れとその後に片桐が見た森の映像が約十秒間残されていた。
片桐が向こう側にいた約十秒間こちら側では映像も音声も受信できていない。
機器そのものは向こう側へ完全に入った後は正常に動いていた。
一方境界を通過する瞬間には記録が乱れ、境界を越えた通信も成立しない。
少なくとも昨日の記録からはそう考えられていた。
今日は同じ機器を複数台持ち込む。
予備の電池もある。
機械式の腕時計まで用意されていた。
電気を使う機器だけに異常が起きる可能性を考えたためだった。
「進入後、全員の状態を確認する。機器の動作確認を優先。その後予定地点まで前進する」
「了解」
声が重なった。
片桐が先頭に立った。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ黒い境界。
だがその背中は昨日よりも落ち着いて見えた。
一等陸尉が腕を上げる。
周囲の声が止まった。
「進入開始」
片桐が右足から黒い境界へ踏み込んだ。
身体が順に黒の中へ消えていく。
胸元のカメラが境界を越えた瞬間、映像が乱れ、受信機から音が消えた。
心拍数の表示も停止する。
最後に残った左足が境界を越え、片桐の姿が完全に消えた。
残る五名も続いた。
一人ずつ黒い門の向こうへ消えていく。
六人目の姿が見えなくなった。
門の前には誰もいない。
森本は受信機を見つめた。
雑音すらない。
電波が弱いのではない。
つながっていない。
向こう側が遠いのか。
遮られているのか。
それとも距離という考え方自体が意味を持たないのか。
答えはなかった。
片桐が黒い境界へ踏み込むと耳元の無線が沈黙した。
視界が一瞬暗くなる。
次の瞬間目の前が明るくなった。
森。
昨日と同じ景色だった。
濃い緑の葉。
茶色い幹。
足元を覆う草。
木々の隙間から差し込む光。
空は青かった。
一瞬遅れて後ろから隊員たちが現れる。
黒い門はこちら側から見ても同じ形をしていた。
周囲の森とはまるで関係がないように平らな黒い面が立っている。
最後の一人が境界を抜けた。
一等陸尉がすぐに周囲を確認する。
「全員、異常は」
「ありません」
「異常なし」
返事が続く。
植物学者と地質学者も緊張した表情でうなずいた。
「機器確認。片桐、無線を試せ」
「了解」
片桐は無線機を見る。
電源表示に異常はない。
試しに送信ボタンを押す。
「片桐より調査隊各員。受信できるか」
『受信している』
すぐ隣に立つ隊員の無線から返答があった。
ほかの隊員からも声が届く。
内部にいる者同士では通信できる。
一等陸尉が映像記録装置を確認した。
録画を示す表示が点灯している。
温度計も動いていた。
酸素濃度計も数値を示している。
放射線測定器に異常はない。
機械式の腕時計も電子式の腕時計も動いていた。
「GPSは」
隊員の一人が端末を見た。
「衛星を捕捉できません」
「位置情報は」
「表示されません。地図データ自体は開けます」
一等陸尉はうなずいた。
故障ではない。
ここから受信できる衛星が存在しないだけかもしれない。
「記録を続けろ」
携行した測定器で確認できる範囲では大気に重大な異常は見つからなかった。
酸素濃度は約二十一パーセント。
有毒ガスは検出されない。
気温は十八度。
湿度はやや高い。
気圧にも人間の活動を直ちに妨げるような異常はなかった。
片桐は昨日感じた風を再び防護服の表面に感じた。
弱い風だった。
木の葉が揺れている。
上空から鳥の声がした。
短く、高い鳴き声。
一度。
少し間を置いてもう一度。
全員が顔を上げた。
姿は見えない。
「予定どおり前進する」
黒い門を背に六人は歩き始めた。
二番手の隊員は数メートル進むごとに自立式の反射標識を地面へ置いた。未知の植物や木には触れさせない。
最後尾の一名は入口と標識列が見えていることを確認しながら進む。
方位磁石の指示、歩数、移動距離、進行方向も記録された。衛星測位が使えない以上、帰還経路を目でたどれるようにしておく必要があった。
足元は柔らかかった。
踏むたびに靴の裏へ土が沈む。
枯れ葉のようなものも落ちている。
だが形は地球のものと少し違って見えた。
葉の先が妙に長い。
縁に細かな切れ込みがあり、中心から何本もの葉脈が放射状に伸びている。
片桐には種類までは分からない。
植物学者がしゃがみ込んだ。
「止まってください」
隊列が止まる。
植物学者は地面に生えている草へ手を伸ばした。
手袋越しに一本をつまみ、折らないように持ち上げる。
写真を撮った後、採取器具で根元の土ごと掘り取り、採取袋へ収めた。
「知っている植物ですか」
一等陸尉が尋ねた。
植物学者はすぐには答えなかった。
葉の裏側を見る。
茎を見る。
周囲に同じものがどれほど生えているかを確認する。
「少なくとも私は見たことがありません」
慎重な言い方だった。
「既知の種ではないと?」
「ここで断定はできません。似た特徴を持つ植物はあります。ただこれと同じものを私は知りません」
採取袋に番号が書き込まれた。
採取場所。
時刻。
周囲の温度。
すべてが記録される。
地質学者も土壌を採取した。
表面。
深さ五センチ。
深さ十センチ。
それぞれ別の容器に入れる。
「どうですか」
「見た目だけなら普通の土です」
地質学者は答えた。
「有機物も含まれているように見えます。詳しいことは持ち帰らないと分かりません」
普通。
森も土も風も光も。
どれも普通に見える。
だが地球上のどこにも存在しないかもしれない。
片桐は昨日よりもそのことを強く感じた。
五十メートル先の予定地点まで異常はなかった。
最後尾の隊員が振り返り、標識列と入口方向を確認した。
木々は続いている。
地面には緩やかな起伏がある。
遠くまでは見通せない。
森林の奥からは時折枝葉が揺れる音が聞こえた。
風のせいかもしれない。
小さな生き物がいるのかもしれない。
だが姿は見えなかった。
「上」
誰かが小さく言った。
片桐が顔を上げる。
木々の隙間を一つの影が横切った。
鳥だった。
大きさは鳩ほど。
二枚の翼を広げ、枝から枝へ移った。
身体の色は暗い青。
尾の先に白い羽が三本伸びている。
ほんの数秒で葉の向こうへ消えた。
複数のカメラがその姿を追っていた。
「撮れたか」
「記録しています」
一等陸尉は腕時計を確認した。
進入から二十二分が経過していた。
「これ以上は追わない。予定どおり帰還する」
誰も異議を唱えなかった。
調査は始まったばかりだった。
未知の生物を追跡することは今回の任務に含まれていない。
六人は黒い門へ戻った。
採取した試料を確認する。
映像記録装置の保存表示も確認する。
全員が門の前にそろった。
「帰還する。境界通過後、外部との通信が回復するか確認しろ」
片桐が先頭で黒い面へ入る。
視界が暗くなる。
一歩。
二歩。
身体が境界を抜けた。
耳元の無線に突然声が戻った。
『片桐二曹、応答せよ』
森本の声だった。
片桐は反射的に送信ボタンを押した。
「片桐より森本。聞こえる」
周囲が動いた。
待機していた隊員たちが近づく。
医療班が前へ出る。
片桐の後ろから調査隊員が一人ずつ帰還した。
六人全員が戻った。
六人はそのまま厚生労働省の担当者と医療班が管理する隔離区画へ誘導された。
防護服と装備の外表面を測定し、所定の除染処理を行う。防護装備は手順に従って脱衣された。
採取試料は密閉状態のまま二重の専用容器へ移され、管理区域へ運ばれた。試料容器が開かれることはなかった。
急性の異常や怪我は確認されなかったが、六人は経過観察の対象とされた。
持ち込んだ機器にも目立った異常はなかった。
表面処理を終えた映像記録装置だけが解析用の簡易テントへ持ち込まれ、記録が再生された。
黒い境界を抜ける瞬間だけ映像は乱れていた。
だがその先には記録が残っていた。
森。
青い空。
揺れる木々。
採取される土と植物。
そして木々の間を飛ぶ青い鳥。
機械式時計と電子式時計、映像記録装置の時刻も外部の記録と照合された。
今回の短時間調査に限れば日比谷の内外で時間経過に大きな差は確認されなかった。
集まった者たちは誰も口を開かなかった。
森本も画面を見つめていた。
昨日はわずか十秒の映像でしか確認できなかった景色が今は調査の記録として画面に映っている。
測定値も残っている。
試料も持ち帰ることができた。
向こう側は幻ではない。
人間だけが見る夢でもない。
観測できる。
記録できる。
持ち帰ることもできる。
植物学者が管理区画の観察窓越しに密閉容器へ収められた試料を見ながら言った。
「地球上の既知の生態系かどうかはまだ分かりません」
全員の視線が集まる。
「ですが少なくとも調べることはできます」
黒い門はテントの外で何も変わらず立っていた。
昨日まではわずか十秒の映像と一人の証言しか得られない境界だった。
今は違う。
あの先には歩ける地面がある。
風が吹いている。
植物が育ち、生き物が空を飛んでいる。
そして人類の機械はそこでも動く。
ただし境界を越えて外側と情報をやり取りすることだけはできない。
人類はその日初めて知った。
黒い門の向こうにあるものは見るだけの景色ではない。
調査することのできる未知の世界だった。




