第2話 境界線の前で
2011年11月12日 午前6時18分
東京都千代田区・日比谷公園
都心とは思えないほど静まり返った空気の中、上空を旋回するヘリコプターのローター音だけが街に響いていた。
三等陸曹の森本直哉は東京の中心からこれほど音が消えるとは思っていなかった。
普段なら車の往来が途切れることのない道路に民間車両の姿はなかった。
交差点ごとに警察車両が止まり、制服姿の警察官が規制線を守っている。歩道の向こうには報道陣が集まり、照明とカメラを公園へ向けていた。
そのさらに奥。
木々の隙間から黒い門の上部だけが見えていた。
昨日の朝何もなかった場所に現れた構造物。
報道ではすでに日比谷ダンジョンと呼ばれている。
「見るな。手を動かせ」
小隊長の声が飛んだ。
森本は視線を戻し、車両から測定機材を下ろした。
彼らに与えられた任務は構造物周辺の安全確認と情報収集だった。
放射線。
有毒ガス。
地表温度。
電磁波。
地盤の状態。
まずは外側から測定し、警察や消防、政府から派遣された専門家へ結果を渡す。
それだけだった。
武器は携行していない。
防弾チョッキもない。
着ているのは迷彩服で、手にしているのは小銃ではなく測定器だった。
それで当然だと森本は理解していた。
これは防衛出動ではない。
治安出動でもない。
災害派遣だった。
倒壊した建物から人を救う。
道路を啓開する。
物資を運ぶ。
必要なら土砂や瓦礫を人の手で取り除く。
災害の多いこの国で幾度も災害派遣を経験してきた森本はその任務の重さを身に染みて知っていた。
だが今回は何を救えばいいのかさえ分からない。
負傷者の搬送は昨日のうちにほぼ終わっている。
倒れた街灯や破裂した水道管も公園管理者と消防が対応を始めていた。
残っているのは災害そのものだった。
「陸自さん、準備できましたか」
濃紺の出動服を着た警視庁の機動隊員が近づいてきた。
肩には無線機をつけ、防護盾を持っている。その後ろには同じ装備の隊員が列を作っていた。
森本より明らかに重装備だった。
「測定班、準備完了です」
小隊長が答えた。
「こちらが先行します。皆さんは指定位置まで。入口には近づかないでください」
「距離は?」
「正面二十メートル。そこで一度停止です」
「了解」
警察が先に進む。
その後ろを消防の特殊災害対応部隊、さらに森本たちが続いた。
警察が規制を行い、消防が救助と危険物への対応を担い、自衛隊がその活動を補完する。
指揮系統は別だった。
だからこそ誰が何をするかを一つずつ確認しなければならない。
勝手な判断は許されない。
黒い門へ近づくにつれ森本は歩幅が狭くなっていくのを感じた。
高さは二階建ての建物ほど。
左右の柱には文字とも傷ともつかない模様が刻まれている。
入口の内側は黒い。
朝日が差しているにもかかわらずその部分だけが切り抜かれたように光を返していなかった。
昨日から何度も映像で見ている。
それでも実物は違った。
大きさではない。
そこにあるという事実そのものが映像より重かった。
「停止」
先頭の機動隊員が右手を上げた。
全員が止まった。
森本は測定器の数値を確認した。
放射線量に異常なし。
酸素濃度、正常。
可燃性ガス、検出なし。
硫化水素、一酸化炭素、いずれも検出なし。
気温は周辺と同じ。
風向計も公園を抜ける北寄りの風を示している。
入口から吹き出す風はなかった。
「こちら陸自測定班。現時点で異常値なし」
小隊長が無線で報告した。
消防からも同様の報告が上がった。
異常はない。
その言葉を聞くほど森本は落ち着かなくなった。
目の前には明らかに異常なものがある。
それなのに機械は何も捉えない。
警視庁の隊員が防護盾の陰から入口を見ていた。
拳銃の収まったホルスターに手を触れてはいない。
だがその存在を確かめているように森本には見えた。
森本は自分の腰を見た。
何もない。
仮にあの黒の中から何かが現れたら。
警察には厳格な要件の下で武器を使用するための法的な枠組みがある。
では自分たちはどうする。
災害派遣で来た自衛官が命令も法的根拠もないまま小銃を撃つことなどできない。
そもそも今日は持ってきてもいない。
それでも国民を守るのが自衛隊ではないのか。
そう考えた直後森本は自分で打ち消した。
守るために武器を使わない。
それもまた日本の自衛隊だった。
相手が何者かも分からない。
敵意があるかも分からない。
生物なのか、現象なのかさえ分からない。
分からないものを敵と決めつけて撃つことは防衛ではなかった。
「無人機を出します」
技術担当者が言った。
持ち込まれたのは車輪のついた小型の遠隔操作機だった。
先端にカメラと照明、温度計が取り付けられ、後部から細い通信ケーブルとそれとは別系統の回収用ワイヤーが延びている。
爆発物処理で使う機材を応用したものだと聞いていた。
機動隊員が盾を並べ、その間から無人機が前へ出た。
小さな車輪が舗装路を進む。
十メートル。
五メートル。
一メートル。
誰も声を発しなかった。
無人機の先端が黒い入口へ触れる。
森本には何かを突き破ったようには見えなかった。
水面へ沈むような抵抗もなかった。
機体の前半分が音もなく黒の中へ消えた。
操作員が息を呑んだ。
近くに置かれたモニターでは入口直前まで鮮明だった映像が突然途切れていた。
黒い画面ではない。
信号そのものが失われている。
「停止。そこから動かすな」
現場指揮官が命じた。
無人機は半分だけ入口へ入った状態で止まった。
後部は確かにこちら側にある。
通信ケーブルも切れていない。
それなのに映像も温度も音声も届かなかった。
「引き戻します」
操作員が後退の操作を行った。
だが境界を越えた部分は反応しなかった。
機体後部の表示灯は点灯したままだった。それでも境界の向こう側へ操作が届いている様子はなかった。
「回収用ワイヤーを引け。通信ケーブルを巻き込むな」
数人が回収用ワイヤーをつかみ、別の隊員が通信ケーブルへ力がかからないようたるみを確保した。
回収用ワイヤーへゆっくりと力を加える。
最初は動かなかった。
さらに人数を増やし、全員で引いた。
機体が突然こちら側へ飛び出した。
隊員たちがよろめく。
無人機は舗装路を滑り、横倒しになって止まった。
「近づくな!」
機動隊員が盾を構える。
誰も動かなかった。
無人機から煙は出ていない。
変形もない。
表面に液体や粉末が付着した様子もなかった。
測定器にも変化はない。
技術担当者が防護服のまま近づき、機体を調べた。
「損傷なし」
「記録は?」
「入口を越えた瞬間から全部途切れています」
「内部の映像は」
「一フレームもありません」
現場に沈黙が落ちた。
何も出てこなかった。
何も漏れてこなかった。
送り込んだ機械にも目に見える異常はない。
だが入口の向こうで何が起きたのかは何一つ分からない。
森本は黒い入口を見た。
こちら側からでは観測できない。
機械を入れても情報は返らない。
ならば次に試すことは限られてくる。
その考えに至ったのは森本だけではなかったらしい。
警視庁の現場指揮官が低い声で言った。
「無人での内部確認は困難と報告します」
消防の責任者が黒い入口を見たまま答えた。
「次は命綱をつけた人間ですか」
「現場では決められません」
機動隊員の一人が口を開いた。
「中から何か出てきた場合は」
指揮官はすぐには答えなかった。
「人命に危険が及ぶなら、警察として対処する」
「射撃も含めてですか」
「相手も状況も分からない。今ここで答えられる話ではない」
森本はその返答が正しいと思った。
同時に恐ろしくもあった。
誰も答えを持っていない。
法律も組織も装備もこれまでに起きた事態を前提として作られている。
目の前にあるものはそのどれにも当てはまらなかった。
守るべき国民はいる。
使える力もある。
だが力を使ってよい相手なのかが分からない。
そして分からないという理由で何もしなければ、その結果として誰かが死ぬかもしれない。
「撤収準備」
小隊長の命令に森本は黒い入口から目を離した。
午前の調査は失敗ではなかった。
現時点で危険な物質は検出されていないこと。
外部から内部を観測できないこと。
現在の方法では境界の外から無人機を操作し、内部の情報を受け取ることができないこと。
三つの事実が判明した。
それでも森本には何も分からなかったという結果だけが残った。
その日の午後政府内では次の調査方法が検討された。
現時点で内部の状況を確認する最も現実的な方法は有人調査だった。
人間があの黒い境界を越える。
誰を入れるのか。
何を持たせるのか。
そして向こう側で何かに襲われたとき、武器を使うことを認めるのか。
日本は初めてその問いに答えなければならなくなった。




