第1話 世界が変わった日
2011年11月11日 午前10時43分
東京都千代田区・日比谷公園「かもめの広場」付近
最初に聞こえたのは地鳴りではなかった。
乾いた木の小枝を巨大な手でゆっくりと折るような音だった。
ぱきり。
そんな小さな音が今田の足元から響いた。
彼は立ち止まり、片足を持ち上げた。履き慣れた革靴の底にも灰色の舗装路にも変わったところはない。
前を歩いていた同僚の佐々木が振り返った。
「どうした?」
「いや、今変な音しなかったか」
「工事じゃないの」
日比谷公園の周辺ではたいていいつもどこかで工事をしている。重機の音も金属を叩く音も珍しくはなかった。
今田は曖昧にうなずき、再び歩き始めた。
午前中の打ち合わせが予定より早く終わったため、二人は昼食にはまだ早い時間に公園を抜けようとしていた。
空はよく晴れていた。風は冷たかったが陽の当たる場所ではコートを脱いでもよいほどだった。
ベンチではサラリーマンが仕事の資料を眺めていた。喫煙所には人が代わる代わる訪れては短い休憩を終えて去っていく。
普段通りの広場の風景だった。
二度目の音は先ほどより少しだけ大きかった。
ぱきん。
今田の足元がわずかに揺れた。
「地震?」
佐々木が立ち止まる。
カモメの噴水の水がかすかに震えた。木の枝に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
だが揺れはすぐに収まった。
スマートフォンを取り出す人が何人かいた。今田も画面を確認したが緊急地震速報は表示されていない。
「震度二くらいか」
そう言いかけた瞬間、地面が突き上げられた。
腹の底に響く衝撃だった。
公園全体が一度だけ大きく跳ね、遅れて低い轟音が追いついてきた。
立っていられず、今田は片膝をついた。近くで悲鳴が上がり、ベンチが倒れ、あちこちから泣き声が聞こえた。
木々が激しく揺れていた。
しかし奇妙だった。
周囲を見渡しても高層ビルは揺れていない。
公園の外を走る車も止まっていなかった。道路の向こう側では信号待ちをしている人々が何が起きたのか分からない様子でこちらを見ている。
揺れているのは日比谷公園の一角だけだった。
「おい、あれ」
佐々木が指を差した。
日比谷公園大音楽堂の方角で地面が盛り上がっていた。
土が膨らんでいるのではない。
何かが下から地面を押し上げている。
土が割れ、舗装路には黒い亀裂が走った。街灯が傾き、水道管が破裂して白い水柱が上がる。
「離れろ!」
誰かが叫んだ。
その声を合図に人々が一斉に走り出した。
今田も立ち上がろうとしたが足が動かなかった。
揺れは弱まっている。
それなのに目をそらせなかった。
地面の裂け目から黒い何かが姿を現し始めていた。
岩に見えた。
だが岩ではなかった。
濡れた黒曜石のような表面を持つ構造物が音もなく地上へせり上がってくる。
二階建ての建物ほどの高さまで現れたところでそれは止まった。
形は古い神殿の門に似ていた。
左右に太い柱があり、その上にひび割れた梁が渡されている。幅は大型トラックよりも広いが奥行きは異様なほど薄い。
柱には文字らしき模様が刻まれていた。少なくとも日本語の文字には見えなかった。
門の内側には光がなかった。
ただの暗闇ではない。
昼間の光をそのまま飲み込んでいるような黒だった。
地面の振動が止まった。
街灯が倒れる音と人々の叫び声だけが残った。
今田は立ち尽くしていた。
目の前にあるものを頭が理解することを拒んでいた。
建物ではない。
地下施設でもない。
少なくとも数分前までそこには何もなかった。
「撮れ、撮れよ」
佐々木が震える声で言った。
いつの間にかスマートフォンを構えていた。
周囲でも多くの人が撮影を始めていた。逃げながらカメラを向ける者。電話で状況を説明する者。泣いている子どもを抱き上げる者。
今田も無意識にスマートフォンを取り出した。
画面の中に黒い入口が映った。
ピントが合わなかった。
門の輪郭ははっきり映っているのにその奥は黒く潰れていた。画面を指で押しても自動焦点は入口の縁と背景の間を行き来するばかりだった。
そのとき今田は奇妙なことに気づいた。
暗すぎて映らないのではなかった。
門の周囲には陽が差し込み、黒曜石のような柱の表面には景色が鈍く反射している。それなのに門の内側だけは光を返していなかった。
今田はスマートフォンから目を離し、黒い入口を直接見た。
平らな壁のようにも見える。
だが見つめていると、その黒の奥に果てしない空間が続いているようにも感じられた。
どれほど目を凝らしても距離を測る手掛かりがない。
床もない。
壁もない。
天井もない。
濃淡も影も何一つ見えなかった。
今田は無意識に一歩横へ動いた。
見え方は変わらない。
見る位置を変えても入口の黒は同じ形のままそこにあった。
奥行きがあるなら見える範囲が変わるはずだった。
ただの黒い壁なら日の光をいくらかは返すはずだった。
だが目の前のものはそのどちらでもなかった。
佐々木が小さく息を呑んだ。
「これ……中、どうなってるんだ?」
その声だけが妙にはっきりと聞こえた。
入口の向こうからは何の反応もない。
物音もない。
風もない。
匂いすらしない。
そこに何かが存在することを示すものは一つもなかった。
それでもその黒がただの空白だとは思えなかった。
見えていないのではない。
こちら側からでは見ることができない。
そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
近くで誰かが耐えきれなくなったように叫んだ。
その声に弾かれ、今度こそ今田の体は動いた。
佐々木の腕をつかみ、二人で走った。
背後から複数の叫び声が上がる。振り返る余裕はなかった。転倒した女性を近くの男性が抱き起こし、警備員が笛を吹きながら出口へ向かうよう叫んでいた。
公園の外へ出たところで今田はようやく振り返った。
黒い構造物はそこにあった。
東京の中心に昔から存在していたかのように立っている。
門の内側は変わらず黒い。
何も出てきてはいない。
だが何もいないとは思えなかった。
数分後最初のパトカーが到着した。
続いて消防車と救急車が現れ、警察官が人々を公園の外へ誘導し始めた。
やがて規制線が張られ、周辺道路が封鎖された。
正午を過ぎる頃にはテレビ局の中継車が集まり始めていた。
映像は瞬く間に拡散した。
正午のニュースでは、
「日比谷公園で局所的な地震が発生し、正体不明の構造物が出現した」
と報じられた。
午後には誰かがその入口を「ダンジョン」あるいは「ダンジョンゲート」と呼び始めた。
ゲームや小説に登場する言葉だった。
専門家は現時点で根拠のない不適切な呼称だと批判した。
政府関係者は地下空洞の崩落や何者かによる大規模な工作の可能性を否定しなかった。
地質学者は自然現象として説明することは困難だと答えた。
警察は構造物内部への立ち入りを禁止し、安全が確認されるまで近づかないよう呼びかけた。
だがその日の夜までに呼び名は定着していた。
日比谷ダンジョン。
翌朝、封鎖された公園で外部調査が始まった。
公園周辺は完全に封鎖され、近隣施設にも避難指示が出された。
日比谷の黒い構造物が現れてから二十四時間も経たないうちに海外でもよく似た現象が確認された。
その後も報告は増え続け、一週間を待たずに各大陸へ広がった。
形も大きさもそれぞれ異なっていた。
後の調査で内部の構造にも一つとして同じものがないことが判明する。
共通していたのは出現時に局所的な揺れを伴うこと。
そしてその入口の先が地球上のどこにも存在しない空間へ続いていることだった。
後に人々はこの日を境に時代を分けるようになった。
ダンジョン発生前。
そしてダンジョン発生後。
けれど2011年11月11日の朝。
日比谷公園を歩いていた人々はまだ知らなかった。
突然現れたあの黒い入口が災害でもただの建造物でもないことを。
その奥に人類が知らない空間と生物が存在することを。
そこで得られるものが国家の在り方を変えるほどの価値を持つことを。
そしてダンジョンへ入ることが一つの職業として扱われる時代が訪れることを。
その日世界は終わらなかった。
ただそれまでの世界が静かに終わった。




