第8話 倒さずに抜ける
藤堂の制止を受け、誰も倒木の陰から出ないまま、敵の群れの位置を見直した。
葉の重なる上方では、葉翅虫の翅が乾いた音を絶えず返している。その下を二体の根穿虫が太い根に沿って動き、広がりの中央寄りには樹甲獣が居座っていた。大崎の荒い呼吸と、榎本が痛めた足を引き寄せる装備の擦れが、羽音の切れ目に聞こえた。
藤堂は敵のいる広がりから、倒木の陰に身を寄せた七人へ視線を戻した。
「敵を全部倒してから進む形にはしません。大崎さんと榎本さんを含め、八人が向こうへ出られたら離れます」
久我が樹甲獣の側へ目を戻す。倒す力が足りないという話ではなかった。ここで足を止めて戦い続けるほど、負傷者を守る人間の手も、三方向へ向ける警戒も減っていく。
「それなら、あの巨体を中央から外せる場所が要る。正面で受け続けている間に大崎を通すのは無理だ」
樹甲獣の外皮が、低い音を立てて擦れ合った。久我は倒木の端から半身だけを出し、巨体が顔を向ける範囲と、自分が引ける足場を測っている。
南雲は端末の光を手で覆い、地図と目の前の地形を交互に確かめた。
「こちらから見て、樹甲獣の左側は足場が崩れています。右側は倒木との間が狭いですが、その先は出入り口側へ続いています。広がりを抜けた直後に太い根が一本あります」
「通過幅は」
藤堂の問いに、南雲は倒木の端から右側の線を追った。樹甲獣がいる現在の幅ではなく、巨体を中央から外せたときに人が使える空間を見ている。
「平らなところは、大崎さんの横に一人が入れます。根を越えるところも短い区間なら反対側へ一人入る余地があります。ただ、二人が並んだまま長く進める幅ではありません」
南雲はそこで言葉を切り、相沢へ顔を向けた。通れる空間と、実際に大崎を通せるかどうかは同じ判断ではない。
相沢も右側を見た。大崎の腰を支えていた腕をいったん緩め、根までの歩数と、その先で身体を預けられる場所を目で辿る。
「平らな区間は一人で支えます。根へ入る前に二人つけてください。越える瞬間だけ両側から持てれば通せる。向こう側で一度、足と固定を安定させたいです」
三田村は大崎の足元へしゃがみ、固定器の端に指を沿わせた。帯のずれと締まりを確かめ、触れた場所を大崎にも告げてから立ち上がる。
「私が片側につきます。大崎さん、あの根までなら続けて動けますか」
大崎は浅い呼吸を一度吐き切り、倒木の向こうを見た。
「動ける。途中で止められる方がきつい。足を下ろす場所だけ言ってくれ」
「分かりました。越えた先で止まります」
榎本は座った姿勢のまま痛めた足を前へ伸ばし、靴底を地面へつけ直した。立ち上がるための手は借りても、通過中に誰かが腕を取って引ける余裕はない。
「俺は自分で歩けます。走れませんが、前の人との間を空けずに行きます。根で遅れたら声を出します」
康一は敵の群れの位置と、八人が動く順を頭の中で重ねた。
葉翅虫を散らしても、低く回られれば視界を奪われる。手前の根穿虫を一体外しても、もう一体が大崎の側へ入れば、支える手を戦闘へ戻さなければならない。樹甲獣が中央へ戻れば、彼らから見て右側にある狭い通過線そのものが塞がる。
「葉翅虫を上へ散らしている間に、根穿虫二体を通過線から外す必要があります。樹甲獣を倒木側へ向けられれば、その脇を使えます」
「向けられれば、だな」
久我は康一の言葉だけでは決めず、樹甲獣との間合いをもう一度測った。
「最初は俺が前へ出る。こいつを中央から外す。ただ、向きを変えさせても、戻るのが早ければ大崎を通す時間は作れない。根穿虫が寄ったら藤堂が受けろ。伊東は近い方を止める。南雲は上を散らしながら、抜けた先も見てくれ」
藤堂はまだ答えなかった。相沢と三田村が大崎の左右へ入れる位置、榎本が立ち上がってから進行線へ出るまでの距離、南雲が示した根の先を順に見る。大崎と榎本にも視線を向け、二人のうなずきを待った。
「第一陣は南雲さん、大崎さん、三田村さん、榎本さんです。南雲さんは先を見ながら、根を越えるときだけ大崎さんの反対側へ入ってください」
次に、後方へ残る四人を見た。
「久我さんが樹甲獣を外へ引く。私と伊東さんで根穿虫を通過線から外し、相沢さんは第一陣が根を越えるまで後ろを守ってください。第一陣が安定したら、四人とも戦闘を続けずに下がります」
相沢が大崎の脇へ手を入れ直した。
「こちらから見て右側ですね。大崎さんを立たせます」
「はい。樹甲獣へ働きかけるのは倒木の手前。八人が出た後は追いません」
三田村が大崎の反対側へ回り、南雲は端末を収めて弓を構えた。榎本は倒木へ手をつき、自分の足で立つ。康一も肩に残る搬送の張りを確かめ、短槍を持ち直した。
誰がどこを通り、どの時点で戦う手を搬送へ戻すのか。その場で使う順序が決まった。
藤堂は七人の準備を一人ずつ見届け、盾の縁を上げた。
「始めます」
*
南雲の矢が葉陰へ飛んだ。
枝を打つ音に硬い翅が一斉に鳴り、葉翅虫の小群が頭上へ散った。射線を避けて低く回った数体が倒木の前を横切り、康一の視界を細かく遮る。南雲は同じ場所へ射続けず、群れが第一陣の上へまとまらないよう、次の矢で進む向きをずらした。
その下で久我が倒木の陰から踏み出した。
樹甲獣が頭を下げる。厚い前脚が根の床へ入り、湿った土を重く押し潰した。広がりの中央を塞いでいた巨体が、久我へ向く。
「来るぞ」
久我は正面に残らず、倒木から離れる側へ斜めに開いた。樹甲獣は外皮を鳴らして追い、中央から一歩外れる。
同時に根穿虫の一体が太い根を越えた。
藤堂が盾を斜めに当てる。顎が盾の縁を噛み、腕まで衝撃が抜けた。藤堂は押し返して止めるのではなく、踏み込む角度を変え、通過線とは反対へ頭を向けさせる。
もう一体は根の裏を回って康一の側へ出た。
康一は短槍を深く突き込まず、開いた顎の内側へ穂先を触れさせた。突進の勢いへ横から力を加える。硬い顎に穂先を弾かれ、柄を握った手に振動が残った。根穿虫は身体をくねらせ、通過線から半身だけ外れる。
倒すには足りない。それでよかった。大崎の側へ頭を向けさせなければいい。
久我は樹甲獣の前脚の外側へ長柄斧を当てた。
鈍い音が倒木の向こうまで響く。久我は受けたまま止まらず、衝撃を流して一歩横へ退いた。樹甲獣がさらに彼を追う。巨体と倒木の間に、人が抜けられる細い空間が開いたが、次に中央へ向き直ればすぐ閉じる。
康一は根穿虫から目を切らないまま、樹甲獣へ意識を合わせた。
【解析】
得られたのは、樹甲獣の現在の身体負荷だった。前脚にかかる力は均等ではなく、樹甲獣自身の右前脚、その接地側へ偏っている。
負荷の意味も、次にどちらへ動くかも示されない。倒し方や通過線が見えたわけでもなかった。
康一は、久我が樹甲獣を向けた方向と、地面へ深く入る右前脚を見比べた。偏りがある今、同じ側へさらに向ければ、中央へ戻るためには一度余計に踏み直すかもしれない。
「久我さん、今の向きのまま、もう少し樹甲獣自身の右前脚側へ振れますか。負荷がそちらへ寄っています。中央へ戻るとき、踏み直しが増えるかもしれません」
「かもしれない、か」
「はい。次の動きは分かりません」
久我は返事だけで樹甲獣を大きく動かさなかった。
長柄斧の柄で頭部の進む側を短く塞ぎ、相手が追従したところで半歩だけ位置を変える。樹甲獣が右前脚を置き直した。久我が逆へ戻るふりをすると、巨体はすぐには中央を向けず、沈んだ脚を抜き、もう一度足場を取ってから身体を回した。
転ばない。動きを止められるほどでもない。
だが、向けた先から戻るまでに、確かに一手増えた。
「倒れはしない。だが、戻すのに踏み直す。もう一度なら作れる」
久我の確認に、康一はうなずいた。仮説がその場の動きとして使えるかを確かめたのは久我だった。
藤堂は樹甲獣だけを見ていなかった。
南雲の矢で葉翅虫が上へ散っていること。盾の前にいる根穿虫と、康一が根の外へ向けた一体が、まだ通過線へ頭を戻していないこと。相沢と三田村が大崎を立たせ、榎本もその後ろで歩き出せること。狭い根の先に第一陣を受け止める場所があること。
それらを順に確かめ、久我が作った樹甲獣のずれが残る時間を見た。
「採用します。久我さん、倒木側へもう一度流してください。倒し切らなくていい。南雲さんは群れを上へ。相沢さん、第一陣を出します」
「了解」
久我が長柄斧を構え直し、樹甲獣の視界へ入り直した。巨体が追い、負荷の寄った右前脚を踏み替える。土を押す重い音が一つ余分に入った。
藤堂は根穿虫の顎を盾で外へ押し、康一も短槍の柄で二体目の進行方向をずらす。二体を倒すための攻撃ではない。通過線から頭を外し、その状態を数息だけ保つための動きだった。
葉翅虫の羽音が頭上へ持ち上がる。
「今です」
藤堂の声と同時に、第一陣が倒木の陰から出た。
*
南雲が先へ出て、樹甲獣と倒木の間を見通した。弓を上へ向けたまま、足元の根と、抜けた先の空間を交互に確認する。
「前、通れます。大崎さん、右へ半歩です」
三田村が大崎の片側へ入り、腰と腕を支えた。大崎は言われた場所へ靴を下ろし、痛む側へ体重を落とし切らないよう歩く。息が詰まるたびに肩が上がったが、足は止めなかった。
榎本がその後ろにつく。走らず、前との間を空けず、痛めた足を引きずらない幅で進んだ。
通過線の外では、藤堂の盾に根穿虫の顎が再び当たった。
康一の側の一体も身体を返し始める。康一は穂先を甲殻へ滑らせ、根と根穿虫の間へ柄を差し込んだ。深く刺せば抜く時間が要る。押し切らず、顎が大崎へ向く直前だけ進路を外へずらした。
「根です」
南雲の声が前から届いた。
大崎の足元に、通過線を横切る太い根があった。平らな区間では一人分しかなかった横幅が、根の手前だけわずかに開いている。
三田村が大崎の動きを止めず、上げる足を告げる。
「左から越えます。足を根の向こうへ。今、上げます」
大崎が歯を食いしばった。片足が根を越える。上体が傾いた瞬間、南雲は弓を持つ腕を引き、空いた手で反対側の脇を支えた。
二人の手が揃ったのは、その段差を越える短い間だけだった。
大崎のもう一方の足が根の向こうへ下りる。三田村と南雲は身体を前へ送り、根から一歩離れた場所で大崎を安定させた。
「越えました。ここで支えます」
南雲が手を離し、すぐ弓を頭上へ戻した。葉翅虫の数体が低く降りかけている。矢を枝の手前へ通すと、群れは散って距離を取った。
「榎本さん、根です」
「見えています」
榎本は助走をつけなかった。前のめりにならないよう根へ近づき、痛めた足を後から運ぶ。靴底が木肌を擦ったが、倒れずに越えた。南雲は手を伸ばせる距離を保ちながら、本人の歩幅を崩させなかった。
第一陣の四人が根の先へ揃う。
「第一陣、通過。ここで待てます」
南雲の声を受け、相沢が後方から位置を確かめた。大崎が三田村に支えられ、榎本がその隣で立っている。二人とも動けている。
「大崎さん、そちらで安定しています」
相沢の報告で、藤堂が短く答えた。
「後方、離脱します」
その声から戦い方が変わった。
藤堂は根穿虫を押し返すのをやめ、盾で顎の向きだけを固定して二歩下がる。康一も短槍を引き、追ってきた一体の前へ穂先を置き直した。倒すために踏み込まず、近づけば止まり、止まれば距離を取る。
相沢は通過線へ入る前に一度だけ振り返り、第一陣の大崎が立てていることを確かめた。それから根を越え、三田村の側へ移る。
葉翅虫が低く回った。南雲が第一陣の前から一射し、藤堂たちの頭上へ寄ろうとした群れを枝側へ追う。撃ち落とすより、視界と通過線を空けることを優先した矢だった。
藤堂が根を越えた。
康一はその後へ続きながら、追ってくる根穿虫へ短槍を向けたまま後退した。根に踵が触れる。前を見たまま足を上げ、反対側へ下ろす。顎が届く前に、槍先で顔を外へ振らせた。
「伊東、下がれ」
久我の声が飛んだ。
倒木側では、樹甲獣が再び中央へ戻ろうとしていた。久我はもう倒すための位置にはいない。巨体の前へ長柄斧を出して進む側を狭め、最後に一度だけ向きを外へ振り、右前脚が踏み直される間に背を向けた。
康一が根の先へ出る。藤堂が盾を前へ残し、久我の戻る線を空ける。
久我は樹甲獣を追わず、追わせ切りもせず、開いた空間を走り抜けた。巨体が身体を返したときには、久我も根のこちら側へ足を下ろしていた。
「久我さん、通過」
南雲の声に、藤堂が人数を数える。
南雲、大崎、三田村、榎本。相沢、康一、藤堂、久我。
八人。
「揃いました。敵を追いません。出入り口側へ離れます」
誰も魔石を探さず、倒れていない敵の群れへ攻撃を戻さなかった。
背後では樹甲獣の重い足音が続き、根穿虫の顎が根を噛んだ。葉翅虫の羽音も消えてはいない。戦いを終わらせたのではなく、八人が危険の重なる場所から抜けただけだった。
大崎を再び両側から支え、榎本の歩幅に列を合わせる。康一は後ろへ短槍を向けたまま、藤堂の合図で距離を広げた。
*
羽音が木々のざわめきへ紛れ、樹甲獣の足音も聞き分けられなくなるまで進んでから、藤堂は一度だけ列を止めた。
止まった途端、八人の呼吸が重なった。三田村は大崎の足元へしゃがみ、戦闘中もずれないよう押さえていた固定器を指で辿る。相沢が大崎の腕を支える位置を直し、体重を預ける側を確かめた。
「さっきより痛みが増えたところはありますか」
「ない。進める」
大崎は息を整えてから答えた。三田村は返事だけで終わらせず、固定の位置と足の置き方をもう一度見た。
榎本も木の幹へ手をつき、痛めた足を地面へつけ直した。
「増えた痛みはありません。歩けます」
「走らなくていい。次もこの速度で行きます」
藤堂が言い、榎本がうなずいた。
康一は短槍の穂先を布で拭った。指で穂先の根元を押し、柄との接合をひねらずに確かめる。根穿虫の甲殻を滑った新しい擦れはあったが、固定に緩みはない。戦闘を止める損傷が見えないことを、目と手で確認して布を収めた。
久我と南雲は休止中も別の方向を見ていた。背後に追ってくる動きがないことと、進行先に新たな気配がないことを確かめ、藤堂へ短く合図する。
「進みます」
八人は再び出入り口側へ歩き始めた。
大崎の補助を交代する前に、前方から足音が聞こえた。
一人分ではない。装備の重さを含んだ足音が間隔を保ち、木々の向こうからこちらへ近づいてくる。久我が拳を上げ、藤堂は即座に列を止めた。南雲が弓を下げずに進行方向を見る。
やがて、枝の間に複数の明かりが現れた。光は不用意に揺れず、人影は間隔を取ったまま進んでくる。
「こちら、救援協力中の藤堂です。八名で移動しています」
藤堂が名乗ると、前方から正式救援隊であることと、現在位置を確認する声が返った。
南雲が端末の位置情報を照合し、藤堂へうなずく。双方が武器を下げ切る前に人数と進行方向を確かめ、正式救援隊の前衛が藤堂たちの脇を通って周囲警戒へ入った。別の隊員たちは大崎を囲める距離まで進み、搬送の準備を始める。
張り詰めていた八人の列に、外から役割を受け取る動きが加わった。
「救援協力側四名、遭難側四名。全員います。大崎さんは長距離の自力移動が難しく、榎本さんは歩けますが走れません」
藤堂は移動中の状態と、直前まで敵の群れとの距離を取ってきたことを簡潔に伝えた。正式救援隊は話を聞きながら警戒を切らさず、大崎を運ぶ器材を足場の安定した位置へ下ろす。
相沢と三田村が大崎の両側についたまま、引継ぎ相手へ向き直った。
「こちら側から腰を支えてきました。平らな場所は一人、段差では二人です。痛む側へ急に体重を落とさないようにしています」
三田村は固定器を示す。
「固定はここです。移動のたびにずれを確認しています。今のところ、敵の群れの場所を越える前より痛みが増えたという訴えはありません」
正式救援隊側は支える位置と固定を自分の目で確かめ、交代する手の順を相沢たちへ告げた。大崎をいきなり持ち上げず、誰が上体を受け、誰が足側へ入るかを揃えてから本格搬送へ移る。
「大崎さん、ここから搬送を引き継ぎます」
相沢の声に、大崎が短くうなずいた。
相沢と三田村は、正式救援隊の手で大崎の身体が支えられ、固定器にも余計な力がかかっていないことを確かめてから離れた。八人で帰還を始めてから交代しながら受けてきた重さが、そこで初めて康一たちの側から移った。
榎本は自分の足で立ったまま、正式救援隊の見守れる位置へ入る。隊員が歩ける速度と足の状態を確かめ、走らせないことを共有した。
藤堂たち四人も警戒を解き切らなかったが、周囲を見る人数は増えた。大崎を支えるために塞がれていた手も戻り、列の間隔を正式救援隊の案内に合わせられる。
まだ内部連絡拠点には着いていない。ダンジョンの境界も越えておらず、救援が終わったわけではなかった。
それでも、大崎と榎本を含む八人だけで危険域を抜ける段階は終わった。
康一は大崎の本格搬送が引き継がれたことを確かめ、短槍の穂先を下げた。
八人は正式救援隊とともに、出入り口側への帰還を再開した。




