第5話 八人で帰る
藤堂は、すぐに移動を命じなかった。
久我が太い根の外へ半歩出て、曲がり道の奥へ灯りを向ける。大崎たちが守っていた場所へ八人分の呼吸と装備音が重なっても、周囲の湿った暗さは変わらない。離れた水音だけが、根と岩の隙間を通って低く続いていた。
「まず、帰れる形を作ります。大崎さん、いくつか確認させてください」
藤堂は大崎の正面へしゃがんだ。相沢がその横に残り、三田村も応急用品をまとめながら顔を上げる。南雲は少し離れた位置で端末を開き、到達時刻と四人の状態を記録し始めていた。
「受け答えはできますか」
「できます。意識もはっきりしています」
大崎は自分で答え、藤堂へ目を向けた。声は通っている。武器も手の届くところに置かれ、柄へ伸ばそうと思えば伸ばせる位置にあった。ただ、太い根の内側に腰を下ろしたまま、痛めた側の脚だけは前へ投げ出している。
「大きな出血は見えていません」
三田村が応急対応をした箇所へ視線を落とした。
「ここへ移ったあとに確認して、保護して動かないようにしてあります。受け答えと出血は、その後も何度か見ました。私が確認できた範囲では、急に変わった様子はありません」
三田村の説明は、自分が見たことと行ったことの範囲で止まっていた。康一が見ても、外から傷の種類までは分からない。大崎の意識があり、会話ができ、大きな出血が見えていないこと。それ以上をここで決める必要もなかった。
「ここへ来るまで、大崎以外に大きな負傷はありません」
相沢が榎本と三田村を順に見てから補った。
「大崎は足を痛めてから、俺たちで支えてこの位置まで動かしました。それ以上は無理に動かしていません」
「分かりました。大崎さん、支えがあれば立てますか」
「立てます。ただ、こっちの足には体重をかけきれません」
大崎は痛めた側を顎で示したあと、地面へ片手をついた。相沢がすぐ腕を差し出し、反対側には三田村が立つ。
両脇から支えられて、大崎の身体が根元からゆっくり持ち上がった。上半身は自分で起こせている。両足が地面へ触れたところで、大崎は一度息を止めた。痛めた側へ体重を移しきる前に膝が固まり、肩がわずかに上がる。
「そこまでで大丈夫です」
藤堂が手を上げた。
「歩けるかどうかを、ここで何度も試す必要はありません」
「助かります」
大崎は息を吐き、二人に支えられて腰を戻した。額に浮いた汗を手の甲で拭う。立っていた時間は短い。それでも、腰を下ろすまでの動きは立ち上がるときより遅かった。
「短い距離なら、支えてもらえば動けると思います。長く普通に歩くのは無理です」
「移動中に武器を使うのは?」
「立ち止まって、身体を預けられるなら上は動かせます。歩きながらは期待しないでください」
大崎は強がって使えると言わなかった。自分ができることとできないことを、康一たちへ渡している。その答えを聞きながら、久我も警戒の向きを変えずに片手を上げ、了解を示した。
藤堂は次に榎本を見た。
「榎本さん、ここまで戻ってきて、足の状態に変化はありますか」
「歩けます。走るのは無理です。さっきよりは、少し足が重いですけど」
榎本は仲間三人の前でまっすぐ立とうとしていた。だが、痛めた足へ体重を移すときだけ動きが慎重になる。仲間の待つ位置まで戻ってきた分、歩幅も狭くなっていた。
「大崎を支えるのは俺たちで回す」
相沢が先に言った。
「榎本は自分で歩くことに集中してくれ」
「分かった。悪い」
「悪くない。先に戻って救援を連れてきたのはお前だ」
相沢の返事は短かった。榎本は一度だけ目を伏せ、それからうなずく。三人の声を無線越しではなく同じ場所で聞けるようになった安堵は、その横顔に残っていた。それでも彼の足が治ったわけではない。
「榎本さんは自力で歩いてもらいます。ただし急がせません。大崎さんの補助には入らないでください」
藤堂が確認すると、榎本は今度は迷わず「はい」と答えた。
南雲が端末から顔を上げる。
「八人の合流、生存、負傷者二人。大崎さんは支えが必要、榎本さんは歩行可能で走行不能。ここまでを記録しました。正式救援隊は、引き続き出入り口側からこちらへ接近中です」
三人の生存が確認できたことは、南雲の記録にも加わっている。けれど、五人と三人が同じ場所に集まっただけでは救援は終わらない。むしろ、帰りに必要な条件がようやく目の前へ揃ったのだと康一には思えた。
大崎を支えれば、少なくとも一人の手が塞がる。足場が悪ければ二人必要になる。榎本は自分で歩けても走れない。八人になって増えたのは人数だけで、八人全員が自由に武器を持って動けるわけではなかった。
「相沢さん」
藤堂が呼びかけると、相沢は大崎の隣から顔を上げた。
「帰還中は、こちらで全体の進行と停止を調整します。そちらの三人に変化があれば、すぐ教えてください。これで進めていいですか」
「お願いします。大崎と榎本の様子は、俺からも見ます。警戒にも入ります」
相沢は判断を預けきるのではなく、自分の仲間をもう一度見てから答えた。藤堂もうなずき、八人の立つ位置を見渡す。
「久我さんは先頭で前を空けてください。南雲さんは経路と記録、それから後方側の確認を。相沢さんは中央寄りで自班を見てもらえますか」
「分かった」
「大崎さんは中央です。最初は伊東さんに片側をお願いします。もう片側が必要なところでは、三田村さんか相沢さんに入ってもらいます。固定ではなく、足場と負担を見て交代しましょう」
「はい」
康一は大崎の身体つきと自分の肩の高さを見比べた。支えるなら、大崎の痛めた側とは反対に入った方が動きを合わせやすい。だが片手が塞がれば、普段と同じ構えは取れない。
「大崎さん、最初は俺が支えます。止まりたいときは、我慢せず言ってください」
「頼む。そっちも無理なら言ってくれ。俺一人のために二人倒れたら笑えない」
「その前に止まります」
康一が答えると、大崎はわずかに口元を緩めた。冗談にするほど軽い状況ではないが、支えられる側もただ運ばれるつもりではない。その確認だけで、腕を回すときの遠慮が少し減った。
移動の前に、荷物を開いた。
留め具を外す音が狭い場所に続く。大崎と榎本の荷物から水、通信機器、応急用品を取り出し、すぐ使えるものを上へ置く。回収済みの素材や、今の帰還には直接使わないかさばる物は別にまとめた。
「こっちは置いていく。持って帰るために動けなくなる方が高くつく」
久我が大崎の荷物から回収物の包みを抜き、重さを手で確かめて言った。稼ぎを捨てることを喜んではいない。ただ、八人が帰るために何を残すかを、仕事の損失として現実的に測っている。
「記録します。所有者と内容が分かるようにして、あとで確認できる形にします」
南雲は荷物をまとめた位置と時刻を端末へ残した。相沢も包みの結び目を確かめ、目印が外れないよう締め直す。
「水は分けて持ちましょう。応急用品は三田村さんと私で持ちます」
藤堂の言葉に、三田村が必要な分を自分の荷物へ移した。康一は自分の回収物を一つ外し、その空いたところへ大崎の水と通信機器を収める。背負い直すと重さの位置が変わり、肩紐がさっきまでとは違う場所へ食い込んだ。
大崎の武器は放棄せず、相沢がすぐ手の届く側へ吊り位置を直した。移動中に振るうことは難しくても、停止中まで何もできないわけではない。榎本の武器も自分で抜ける位置に残し、代わりに荷物の重い部分を相沢と南雲へ分けた。
「立たせます」
三田村が声をかけた。
康一は大崎の腕を自分の肩へ回し、腰の横へ腕を添えた。反対側には三田村が入る。二人で呼吸を合わせると、大崎は健側の足と上半身を使って立ち上がった。
預けられた体重が康一の肩から足裏へ落ちてくる。先ほど相沢が支えたときに見ていたより重い。当然だった。人ひとりの重さは、荷物のように背中へ固定されてはくれない。
「大丈夫ですか」
「立ててる。痛めた方は、地面に触れるくらいにする」
大崎は自分の足元を見て、置き方を確かめた。康一も腕の位置を少し上げる。これなら平らなところでは三田村が外れても、大崎と二人で一歩ずつ進めそうだった。
久我が防御位置の外をもう一度確認し、手で進行可能を示す。南雲は端末を閉じて後方へ回った。相沢は榎本と三田村の位置を見たあと、大崎のすぐ後ろへ立つ。藤堂は先頭と中央の両方へ声が届く位置を選んだ。
三人を探す時間は終わった。
けれど、安堵のあとに残った仕事は、三人を連れ出すだけではない。痛めた足でここまで戻ってきた榎本も、支えがなければ長く歩けない大崎も含めて、八人全員を出入り口側へ戻すことだった。
「では、八人で帰還を始めます」
藤堂の声で、久我が前へ出る。
大崎が最初の一歩を置いた。康一は肩へかかる重さに合わせ、自分の歩幅を半分ほどに縮めた。
*
八人分の足音は、来たときよりも多いのに遅かった。
久我が先頭で曲がりの先を確かめ、藤堂がその後ろから全体の間隔を見る。中央では康一が大崎を支え、そのすぐ後ろに相沢と三田村がついた。榎本は急かされない位置で自分の足を運び、南雲は最後尾寄りから通ってきた経路と背後を交互に確認している。
広い場所では、大崎と康一が並んでもまだ余裕があった。だが根がせり出したところでは、二人の肩幅だけで通路を使い切る。康一が先に身体を斜めへ入れ、大崎の足をどこへ置くか確かめてから進まなければならない。
「次、右に根があります。痛めた方を上げられますか」
「上げる。少し待ってくれ」
大崎が健側へ身体を預ける。重さが一度に康一の肩へ移り、腕の付け根が引かれた。痛めた足が根を越えるまで、二人の動きは止まる。
「越えました」
三田村が後ろから足元を見て告げる。大崎が息を吐き、康一も肩の位置を戻した。
普段なら一歩で済む段差に、三人分の確認が必要になる。大崎を急かさないためには、その前後にいる五人も同じ速度へ落とさなければならなかった。
榎本は自分で歩いている。誰かに体重を預けてはいないが、痛めた足へ移るたびに靴底が地面へ残る時間が長い。曲がりのたびに相沢が振り返り、遅れていないことを確かめる。
「まだ大丈夫だ」
榎本は聞かれる前に答えた。
「大丈夫じゃなくなる前に言え」
「分かってる」
相沢はそれ以上急かさず、前へ向き直った。仲間同士の短いやり取りが、進行の速度を決めていた。
康一の右手は大崎の身体を支えたままだ。左手は空いているが、武器を使うには一度大崎を誰かへ預ける必要がある。三田村が近くにいるのはそのためでもあった。
人数が増えたことで、前後へ向けられる目は増えている。けれど、接敵した瞬間に同じ人数が動けるとは限らない。大崎を支える一人、足場次第でもう一人。榎本も走れない。八人という数は、そのまま八人分の余裕にはならなかった。
「前、狭くなる」
久我の声が届く。
藤堂が手を上げ、八人を止めた。足音と装備音が消えると、湿った空気の中で大崎と榎本の呼吸が近く聞こえた。少し離れた水音が、さっきより大きい。
「伊東さん、いったん交代できますか」
「できます」
三田村が大崎の反対側へ入り、相沢も背後へ手を添えた。康一が肩を抜くと、押しつけられていた箇所へ遅れて熱が戻ってくる。指を開閉しながら前を見た。
狭い区間の向こうは、帰還経路側へ続く低地だった。そこへ降りる手前で、久我が足を止めている。
「水が来てる。ここから先、いつもと違うぞ」
久我の灯りの先で、地面が鈍く光っていた。
普段なら土と細い根が露出している低地に、水が広がっている。水面は天井の灯りを揺らして返し、見えている根の下側を暗く隠していた。通路全体を塞いでいるわけではない。だが、乾いたまま歩ける地面は片側へ細く残るだけだった。
水音が大きくなったのは、流れが激しいからではない。八人が黙って止まり、靴音が消えたせいでもある。康一には、目の前の水がどこから来て、どこへ抜けているのかまでは分からなかった。
「ここ、いつもはもっと乾いています」
南雲が前へ出る。水際へ寄りすぎず、端末の記録と目の前の地形を交互に見た。画面を一度拡大し、位置を合わせてから、露出している根を指で示す。
「水が溜まること自体はあります。でも、私の手元にあるこれまでの記録では、この根のところまで広がっていた例はありません」
「記録した時期は?」
藤堂が聞く。
「複数です。全部が同じ条件ではありません。ただ、少なくとも平常時との比較材料にはなります。今見えている範囲は、普段より広いと考えていいです」
端末が水の原因を教えたわけではない。南雲が自分の記録から比較に使えるものを選び、どこまでなら事実として言えるかを分けていた。
康一もこの低地を何度か通っていた。これまでは、湿っている場所を避けても二人が並べる幅が残っていた。足元を一歩ごとに確かめる必要もなかった。今は水を踏まないよう進めば、ほとんど一列になる。
中層側へ向かう途中で見た細い水路では、水が減っていた。
ここでは、普段乾き気味の低地へ水が広がっている。
二つとも今日確認した事実だった。しかし、一方の水がこちらへ移ったのか、同じ原因で起きたのか、それとも別々なのか。康一たちの手元には、どれかを選べる材料がなかった。
「内部連絡拠点へ共有します」
南雲は現在位置をもう一度確かめた。
「普段より水の範囲が広いことと、乾いた通行幅が狭くなっていること。原因については推定をつけません」
「それでお願いします。八人、負傷者二人を伴っていることも添えてください」
藤堂の返事を受け、南雲が送信内容を読み返す。位置、現在確認できる水の範囲、通行できる乾いた幅、八人の状態。短い無線音のあと、情報が内部連絡拠点へ送られた。
返答を待つ間も、久我は水際と曲がりの奥から目を離さなかった。相沢は大崎の肩を支え、榎本は濡れた地面を見て足の置き場を探している。
「受領。正式救援隊にも共有するそうです」
南雲が告げた。
「通れないとは言われてない。実際、端は残ってる」
久我は乾いた部分へ灯りを滑らせた。
「ただし、この幅で何か来たら、すぐ横へ開けない。大崎を支えたままじゃ、なおさらだ」
「ここを越えた先に、一度止まれる幅があります」
南雲が現在位置の記録を追って言う。
「今確認できる範囲では、水が広がっているのはこの低い部分です。その先が同じ状態かどうかは、まだ分かりません」
藤堂は水際まで出ずに地面の傾きと残った幅を見た。それから大崎と榎本へ視線を戻す。
「この区間は、一人ずつ進みます。大崎さんには二人ついて、三人で通りましょう。先に久我さん、そのあと私。渡った側で前を確保します。南雲さんは最後に後方確認を」
「大崎は俺と伊東で行く」
相沢が言った。
「三田村は榎本の後ろについてくれ。必要ならすぐ支えられるように」
「分かりました」
さっきの役割が、その場の足場に合わせて組み替わる。固定した隊形ではない。誰の手をどこで塞ぐかを、目の前の地形に合わせて決め直している。
久我が乾いた端へ靴を置いた。泥の柔らかさを踏んで確かめ、一歩ずつ進む。水面が小さく揺れ、灯りの反射が根の陰へ散った。
藤堂が続き、曲がりの向こうまで進んで手を上げる。通過可能の合図だった。
榎本は一人で乾いた幅へ入った。腕を広げるほどではないが、身体の重心をいつもより慎重に移している。濡れた土へ靴底が少し滑ったところで三田村の手が背中近くまで伸びたが、榎本は自分で踏み直した。
「大丈夫」
「そのまま、急がなくていいです」
榎本が抜けると、三田村もあとへ続いた。
次は大崎だった。
康一が片側へ戻り、反対側に相沢が入る。大崎の腕が二人の肩へ回った。三人で並ぶと、残された乾いた幅より身体の方が広い。
「水へ入る側は俺が持つ」
相沢が位置を変えた。
「大崎、痛めてない方を先に置け。次に身体を送る」
「分かった。伊東、重くなる」
「受けます」
大崎が健側の足を細い地面へ置く。痛めた足を浮かせると、康一の肩へ体重が沈んだ。靴底の下で湿った土がわずかにずれる。康一は踏み直さず、足指へ力を入れて止めた。
「一歩、出します」
相沢の声に合わせ、三人で身体を前へ送る。大崎の痛めた足は地面をかすめるだけに留める。水へ入ればただちに危険だと決まっているわけではない。それでも、見えにくい足元へ負傷した足を置く理由はなかった。
一歩進むたび、止まる。置く場所を確かめる。体重を移す。康一の肩と腕に、大崎の身体が少し遅れてついてくる。
途中で通路がさらに細くなり、相沢の片足が浅い水際へ入った。水が靴の周りで揺れ、泥が濃く浮く。
「俺は大丈夫だ。大崎を先へ」
相沢は足を引かず、支える位置を維持した。前方の藤堂が間隔を詰めすぎないよう榎本たちを先へ送る。
「あと二歩です」
康一は見えている乾いた場所を数えた。
「一、二」
大崎が声に合わせて足を運び、三人は低地の向こうへ出た。
広い地面へ着いてからも、すぐには腕を外さない。大崎の両足の位置を確認し、藤堂が立ち止まれる場所を示すまで支えたまま進む。安全な幅へ入ってようやく、大崎が長く息を吐いた。
「すまない。助かった」
「まだ途中です」
康一の返事に、大崎は「そうだな」とうなずいた。
最後に南雲が低地を越え、通過した位置と時刻を記録する。八人が揃ったことを確認してから、藤堂は大崎を一度座らせ、榎本にも壁際で足を休めるよう促した。
水はモンスターのように襲ってこない。それでも、足を置ける場所を減らし、八人の幅を一列へ近づけ、負傷者を支える二人の手と時間を奪った。接敵がなくても、帰還する八人の速さと自由は確実に小さくなっていた。
*
低地を越えた場所で、八人はしばらく動かなかった。
立ち止まると、今度は水音より呼吸の方が近い。康一は腕を下ろし、手首を回した。大崎の重さを受けていた肩には鈍い張りが残っている。相沢の片方の靴は水際へ入ったため、泥が濃くついていた。
大崎は壁際へ腰を下ろし、藤堂の問いに一つずつ答えた。受け答えに変化はない。痛めた側へ十分に体重を乗せられないことも変わらない。榎本も立っていられるが、休止を告げられると壁へ肩を預け、痛めた足をわずかに前へ出した。
「二人とも、今の区間を通る前と比べて変わったことはありますか」
「痛いのは同じです。歩き方を変えた分、反対側が少し疲れました」
大崎が答える。
「俺は、歩けます。ただ、同じ幅のところを急いで抜けろと言われたら無理です」
榎本の言葉に、久我が低地を振り返った。
「急がせる前提の道は選べないな。何も来ないなら通れる。来たときに横へ逃がせないのが問題だ」
康一も同じ区間を思い返した。大崎を支えている間、片手は完全に塞がっていた。相沢も同じだ。前後の誰かが対応している間に負傷者を守ることはできても、普段と同じ速さで離脱するのは難しい。
南雲が端末上の帰還経路を開いた。画面には、ここから出入り口側へ続く通常帰還路が表示されている。
「通常帰還路には、この先にも低い区画があります。そこまで水が広がっているかは、今の時点では確認できません」
「いつもなら、そっちで戻る」
相沢が画面をのぞき込みながら言った。
「俺たちも通行経験があります。大崎を支えていても、普段の状態なら一番分かりやすい」
「はい」
南雲は通常帰還路の線を指で追った。
「距離が短く、標識が多い。管理側が持っている通行情報も多く、私たちにも通行経験があります。正式救援隊が出入り口側から接近しているのも、この方向です」
「つまり、いつも通りなら第一候補だ」
久我が言う。
「そうです。今見つけた増水だけで、使えない道になったとは言えません」
南雲は即座に別の道を勧めなかった。通常帰還路が持っている利点を一つずつ残したまま、確認できていない部分も分けている。
通常帰還路は、突然危険な道へ変わったわけではない。短く、標識があり、情報が多い。正式救援隊との距離も縮めやすい。平常時なら、負傷者を連れていることはむしろ、その道を選ぶ理由になったはずだった。
だが、今日は平常時の条件だけで決められない。
康一は、朝から重なった事実を順に置き直した。モンスターとの接触が増えていた。普段と違う位置や方向に動く個体がいた。すべてが同じ向きに押し出されているという説明は下げたままで、全体の原因は分かっていない。
さらに、途中の細い水路では水が減っていた。今越えた低地では水の範囲が増えていた。この二つを結びつける理由はないが、水系に普段と異なる観測が二つあることは消えない。
そのうえ、八人のうち大崎は支えなしで長く歩けず、榎本は走れない。大崎を一人で支えれば康一の片手が塞がる。足場が悪ければ、さっきのように二人必要になる。狭い場所で何かに接触すれば、前後へ開ける人数はさらに減る。
どれか一つだけなら、通常帰還路の利点を覆さないかもしれない。しかし、今日の八人が同時に抱える条件として見れば、普段の最短経路をそのまま選ぶだけでは足りなかった。
「内部連絡拠点から、通常帰還路のこの先について追加情報は?」
藤堂が南雲へ聞く。
「今届いているのは、私たちが送った観測を正式救援隊にも共有したという返答までです。この先の水の状態や、新しい接触情報はまだありません」
「正式救援隊の現在位置は」
南雲は最新の連絡時刻を確認した。
「出入り口側から接近中です。こちらとの間にどの区画が残っているかは共有されています。ただ、合流までの距離を、この場で短いと言い切れる状態ではありません」
正式救援隊が動いていることは、通常帰還路の大きな利点だった。それでも、救援隊が向かっているからといって、こちらが目の前の条件を考えず進んでよいことにはならない。
「今の低地が、この先も続くとは限らない」
相沢が言った。
「ただ、同じような場所が続くなら、大崎を一人で支えるのは難しい。二人つけば、周りを見られる人数が減る」
「遠い道へ変えれば、その分だけ二人の負担時間も増える」
久我が続けた。
「短い道が悪いと決まったわけじゃない。けど、狭いところで接触したときの余裕は数字ほどない。何を比べるにしても、稼ぎじゃなくて八人を運ぶ条件で見る必要がある」
久我の視線が、まとめ直した荷物から大崎と榎本へ移る。回収物を置いてきた判断と同じだった。距離だけ、危険だけ、荷物だけを一つずつ切り離して決めるのではなく、帰還全体で失うものを考えている。
「大崎さん、今の速度でどのくらい行けるか、ここで決められますか」
藤堂が尋ねる。
「時間までは分かりません。支えてもらえば進めます。でも、今みたいな場所が続けば、平らな道より止まる回数は増えます」
「榎本さんは」
「同じです。歩ける距離を先に言うのは無理です。ただ、走れないことと、段差で遅くなることは変わりません」
二人とも、自分の状態を数字で約束しなかった。藤堂も約束を求めず、聞けた範囲でうなずいた。
康一は通常帰還路の表示を見る。何度も通った線だった。短く、標識も多く、管理情報もある。いつもの探索なら、出入り口側へ戻るために立ち止まって考えるような道ではない。
けれど、いま隣にいる大崎の体重は、画面上の線には現れない。榎本の一歩ごとの遅れも、狭い乾いた幅も、接敵したときに塞がる康一と相沢の手も、平常時の経路情報だけでは決まらなかった。
「通常帰還路を使えないと決まったわけではありません」
藤堂は全員が聞ける声で言った。
「短さ、標識、管理情報、正式救援隊との接近方向。利点はそのままです。一方で、今日確認した接触と水、それから二人を伴う八人の動き方も無視できません」
大崎は座ったまま顔を上げ、榎本も壁から肩を離した。久我は前方警戒を続け、南雲は経路表示を閉じずに待つ。三田村は応急用品の位置を確かめ、相沢は自分の班の三人を見渡した。
「平常時の条件だけで進まず、ここで経路を比較します。分かっている危険と、まだ分かっていない部分を分けて、選ぶための材料を並べましょう」
藤堂はそこで言葉を切った。
康一も、いつもの道を選ぶことと、今日の八人に合う道を選ぶことを分けて考えた。通常帰還路の価値は下がりきっていない。ほかの経路が安全だと分かったわけでもない。ただ、何も比べずに進めるほど、今日の条件は平常と同じではなかった。
いつもの道へ入る前に、八人で帰るための選び直しが必要になっていた。




