第4話 一方向ではない
細い水路を離れても、足元から水音はしばらく追ってきた。根の重なりを一つ曲がるたびに音は遠くなり、代わりに五人の靴底と装備の擦れる音が湿った通路へ残る。
南雲は端末の表示を閉じなかった。減水を確認した位置と、その場で見えた根や石の状態を内部連絡拠点へ送る。送信が終わると、表示を残る三人までの経路へ戻した。
「経路はこのままです。次の分岐を越えれば、榎本さんが最後に確認した位置へ近づきます」
「分かりました。足元を見ながら進みましょう」
藤堂は榎本の歩調を確かめてから前へ目を戻した。
先頭の久我は、曲がりへ身体を出す前に長柄斧の石突きをわずかに浮かせ、根の陰をのぞく。安全を確かめると、後ろへ手を上げる。南雲が経路を見ながら続き、その後ろを藤堂と榎本が進む。康一は枝道と後方を交互に見た。
五人の間隔は、互いの装備が触れない程度に空いている。広い場所なら自然に伸び、根と岩が迫る場所では短くなる。誰か一人が急げばすぐ崩れる並びだった。
榎本は走れない。それでも歩みは止まっていなかった。平らな場所では痛めた足も地面へ置くが、根を越えるときには一度、体重を反対側へ逃がす。そのたびに歩幅が半歩ほど狭くなり、後ろの康一たちも同じだけ速度を落とした。
通路を横切る根の前で、久我が手を上げた。モンスターを見つけた合図ではない。根の向こうが少し広く、立ち止まっても五人が固まりすぎない場所だった。
藤堂が周囲を見回し、榎本へうなずく。
「ここで三人へ連絡しましょう」
「はい」
榎本は待っていたように内部無線へ手を伸ばした。手袋の指が操作部へ触れ、短い送信音が鳴る。
「こちら榎本。相沢さん、聞こえるか」
一呼吸ぶんの雑音が返った。
榎本の肩がわずかに上がる。康一にもその動きが見えた。無線機を握る手へ力が入り、返事を待つあいだだけ、痛めた足が地面から少し離れた。
『こちら相沢。聞こえてる』
雑音の向こうから、はっきりした声が届いた。
榎本が息を吐く。けれど無線を持つ手は下がらなかった。
「そっちは」
『三人ともいる。大崎も三田村も返事はできる。防御位置は維持してる』
背後で、金属が岩へ軽く触れる音がした。声を出している相沢以外も動いている。戦闘音や切迫した叫びは聞こえないが、完全に緊張を解いて待っているわけでもなかった。
「俺は藤堂さんたちと合流した。今、そっちへ戻ってる。正式救援隊も出入り口側から接近中だ」
『了解した。こっちは動かない。接近方向を見て待つ』
榎本は一度、唇を閉じた。
「俺だけ先に離れて、悪かった」
『その話は帰ってからでいい。足を使えるようにして戻ってこい。無理に急ぐな』
相沢の声は強くも弱くもなかった。榎本の謝罪を受け流したのではなく、いま必要なことを先へ置いた声だった。
「分かった。もう少し待ってくれ」
『待ってる。近づいたら、もう一度声をくれ』
通信が切れる。
無線音の消えた通路へ、水音より近い五人の呼吸が戻った。榎本はすぐには装置から手を離さなかったが、やがて留め具へ戻す。先ほどまで久我の肩越しへ固定されていた視線が、いったん自分の足元へ落ちた。
「三人の生存と防御位置維持を確認しました」
南雲が時刻と通信内容を記録する。
「内部連絡拠点にも共有します。正式救援隊との位置関係は変わっていません」
「お願いします」
藤堂は榎本の立ち方を見てから尋ねた。
「このまま進めますか」
「行けます。声を聞けたので、むしろ止まりたくないです」
「急がないことが条件です」
「はい」
久我が前方を確かめ直し、五人は再び動き出した。
根の段差を一つ越えたところで、康一は後ろを振り返る。いま通った経路に動く影はない。前へ向き直ると、久我が次の曲がりへ入るところだった。
考える時間は、足を止めなくても続いていた。
今日、根穿虫を確認した位置が頭へ浮かぶ。普段から遭遇する根の密集した場所だけではない。より出入り口側に寄った経路で、短い間隔のうちに複数回接触した。根や岩陰に留まらず、開けた場所を移動していた個体もいる。
すべてが同じ動きをしていたわけではない。それでも、奥側から出入り口側へ進んでいるように見えた個体はあった。
一件なら、その個体だけの動きで終わる。二件なら、珍しい日だったと考えることもできる。だが、位置の偏りと接触間隔の短さと移動中の個体が、同じ日に重なっている。
康一は足元の根を避けながら、頭の中で観測したことを並べた。
根穿虫が、いつもより出入り口側で確認された。
短い間隔で、次の個体に接触した。
一部は移動しており、そのうち何体かは出入り口側へ向かって見えた。
ここまでが、実際に見たことだった。
その並びへ説明を与えるなら、奥側で何かが起き、そこから離れるように押し出されているという形が考えられる。
減水まで同じ原因だとは言えない。奥側で何が起きているのかも分からない。モンスターが何かから逃げていると確かめたわけでもない。
それでも根穿虫の位置と間隔だけを説明する候補としては、筋が通っていた。
奥側から、一方向へ押し出されているのか。
康一の中に、まだ名前を付けただけの仮説が形を持った。
*
次の分岐を越えたところで、藤堂が一度進行を止めた。
通路は左右へ分かれているが、三人へ続く側は南雲の記録で確認できている。久我は進行方向の曲がりを見に行き、康一は反対側の枝道へ視線を置いた。
藤堂は榎本へ休憩が必要かとは聞かなかった。立ち方と呼吸を見てから、短く尋ねる。
「歩幅が少し落ちています。痛みは変わりましたか」
「増えてはいません。段差で時間がかかっただけです」
「分かりました。次も同じ速度で行きます。変わったら先に言ってください」
「はい」
久我が戻り、進行方向にモンスターがいないことを伝える。五人は再び足を動かした。
康一は前方の曲がりを見た。話すなら、周囲を確認できる今のうちだった。
「根穿虫の動きなんですが」
久我が歩調を変えず、少しだけ顔を横へ向ける。
「どうした」
「奥側から押し出されている可能性はありませんか。何かが起きて、そこから離れるように出入り口側へ動いている」
藤堂も南雲も、すぐには答えなかった。榎本は足元を見ながら聞いている。
康一は言葉を足した。
「出入り口側に寄った確認が続いています。接触の間も短かった。開けた経路を移動中の個体もいました。少なくとも何体かは、奥からこちらへ向かって見えました」
「根穿虫だけなら、そう見えるな」
久我は否定せずに答えた。
前方へ張り出した根の下で立ち止まり、その向こうを確認する。五人が通れると判断してから、腰を少し落として根をくぐった。
「奥で何かあって、逃げてきてる。考え方としては分かる」
根の向こうで長柄斧を持ち直し、後ろの四人が通る場所を空ける。
「ただ、全部が何かから逃げてるにしては、動きが揃ってない」
康一は根をくぐりながら聞き返した。
「方向が、ですか」
「方向もある。俺たちが見たやつだけでも、奥から出入り口側へまっすぐ流れてきたって動きじゃない」
久我は康一が抜けるのを待ち、再び先頭へ戻った。
「何かに追われて一斉に離れるなら、同じ経路へ寄るとか、向きが重なるとか、もう少し共通した動きが出る。少なくとも、俺がこれまで現場で見た動きとは違う」
断定ではなかった。久我は自分が見てきた範囲を越えて、原因まで言おうとはしていない。
「それに、根穿虫にもいつもの位置にいたやつがいる。全部が押し出されてるなら、そこが引っ掛かる」
南雲が端末へ視線を落とした。歩きながら数回、画面と足元を往復してから口を開く。
「今日の記録だけでなく、これまで手元で整理してきた確認位置も重ねたいです。この先に、止まって見られる場所があります」
藤堂がうなずく。
「そこで確認しましょう。榎本さんの足も一度休めます」
五人は短い距離を進み、根が壁際へ寄って床の見える場所で止まった。久我は進行方向、康一は後方と枝道を受け持つ。藤堂は榎本が壁へもたれず立てる位置を選ばせた。
南雲は端末を胸の高さまで上げ、種別ごとに記録を切り替えた。
「まず根穿虫です」
指で今日の確認位置を順に追う。
「出入り口側寄りの確認が目立つ。短い間隔の接触も記録どおりです。移動方向が見えたものの中には、出入り口側へ向かっていた個体もいる」
「そこまでは、康一の言ったとおりだな」
久我が前を見たまま応じる。
「はい。ただし、通常位置で確認した個体もあります。偏りはありますが、全個体ではありません」
南雲は表示を切り替えた。
「次に樹甲獣です。出入り口側へ向かう例だけではありません。横の区画へ移動していた記録があります」
画面を康一たちへ向ける。康一は現在地との位置関係を目で追った。一本の流れに沿って並んでいるわけではない。
「葉翅虫も揃っていません。湿生窪地から盤根回廊側へ横切った例があります。普段あまり通過に使わない経路ですが、向きは出入り口側ではなく横です」
端末に原因が表示されているわけではなかった。
南雲が選んだのは、どの記録を並べれば康一の仮説と比べられるかだった。種別、位置、確認した方向。画面にあるのは、それぞれの場で誰かが見て残した事実だけだ。
「今日の記録から言えるのは、方向が一つに揃っていないことです」
南雲はそこで指を止めた。
「『奥側から押し出された』は記録ではなく推定なので、同じ欄には置けません。比較するなら、推定として分けます」
康一は画面から目を上げ、久我が警戒する前方を見た。
根穿虫だけを見れば、最初の仮説には根拠がある。位置は出入り口側へ偏り、接触間隔も短く、一部はその方向へ移動していた。観測した内容が間違っていたわけではない。
だが、康一はその事実へ広すぎる説明を与えた。
樹甲獣には横へ動いた例がある。葉翅虫にも、出入り口側ではない方向へ経路を横切った例がある。根穿虫でさえ、通常位置に残っていた個体がいる。
奥側から一方向へ押し出されている。
その説明だけでは、今日見つかったずれ全体を収められない。
「根穿虫の偏りを説明する候補にはなります」
康一は自分の考えを、口に出して区切った。
「でも、他の種類まで同じ原因で一方向に動いたと考えるには、反対の材料が多い。根穿虫にも当てはまらない個体がいる」
久我が振り返る。
「可能性を消すのか」
「消すところまではいきません。説明の中心には置けない、という方です」
康一は端末へ残る位置をもう一度見る。
「一方向に押し出されているだけでは、今日のずれ全体を説明できません。最初より優先度を下げます」
間違っていた、と一言で捨てれば、根穿虫の偏りまで見なかったことになる。何も分からないへ戻れば、久我と南雲が増やした材料も残らない。
観測した事実は残す。
自分が与えた説明だけを、一段下げる。
分かったのは、全部が同じ方向へ逃げているわけではないということまでだった。その先を埋める新しい答えは、まだない。
「その整理で記録してください」
藤堂が言った。
「原因を決めるのは後です。今は相沢さんたちへ接触します」
「はい。観測と推定を分けて残します」
南雲が表示を記録画面へ戻す。
榎本も身体を起こした。
「行けます」
藤堂は五人を見渡し、久我へ進行を示した。
答えが一つ減ったわけではない。説明候補の一つが、今日のすべてを背負えなくなった。
康一はその状態を頭へ残したまま、再び中層側へ歩き出した。
*
相沢たちの防御位置へ近づくにつれ、経路は狭くなった。
太い根が左右の岩へ食い込み、その隙間を人一人ぶんの通路が曲がりながら続いている。先を見通せる距離は短い。灯りを向けても、次の曲がりの先は根の陰へ消えた。
久我は曲がりごとに止まり、正面と足元を確認した。南雲は残る距離を見ながら、声を張りすぎずに進行方向を伝える。藤堂と榎本の間隔は先ほどより少し近い。康一は最後尾から、五人の足音とは別の音が混じらないか耳を澄ませた。
榎本の歩幅は狭いままだった。だが、無線で仲間の声を聞く前より、足を置くまでの迷いが短い。急ごうとすると藤堂が前で速度を落とし、五人の並びを戻した。
曲がりを二つ越えたところで、無線が鳴った。
『こちら相沢。そちらから足音が聞こえる』
五人が止まる。
靴底の音が消えると、湿った経路の向こうから別の音が届いた。岩を踏み直す音。装備が触れる、ごく小さな金属音。遠くはない。だが曲がりと根が重なり、姿はまだ見えなかった。
「相沢さん、その場を維持してください」
藤堂が応答する。
「こちらも声を出します。久我さんが先に接近方向を確認します」
『了解』
久我が長柄斧を持ち直し、一人で曲がりの手前まで進んだ。身体全部を出さず、まず奥をのぞく。しばらく動かずに視線を走らせてから、声を送った。
「救援協力で来た。榎本も一緒だ」
久我の声が根の間を抜けていく。
『確認した。来てくれ』
返事は無線より先に、生の声として経路を通ってきた。
久我が後ろへ手を上げる。
「三人を確認。周囲にモンスターはいない。位置はそのまま維持してる」
藤堂が榎本へ目を向ける。
「ここからも急がずに行きます」
「分かっています」
返事は早かったが、榎本は走り出さなかった。
五人は間隔を保って曲がりを抜けた。
根と岩が狭く重なる場所の奥に、灯りが三つあった。
正面から入れる方向は一つに絞られ、横は太い根と岩で塞がれている。奥へ退く余地は少ないが、接近してくるものを正面へ集めて見られる位置だった。通路の外側へ立つ一人が武器を構え、もう一人はその少し後ろから根の隙間と上方を確認している。
残る一人は根元に腰を下ろしていた。片脚を伸ばしきらず、身体の近くへ寄せている。そばには応急用品が散らばらないようまとめられ、武器も手を伸ばせる場所に置かれていた。
ただ待っていたのではない。
立つ二人が接近方向を見張り、動きにくい一人を奥へ置く。逃げ回らず、無線が通じる場所で防御を続ける。その選択が、三人をこの場所に残していた。
先頭にいた男が久我の後ろを見た。
榎本が曲がりから姿を見せる。
「相沢さん。大崎、三田村」
声が途中で少し詰まった。
「榎本」
前に立っていた相沢が、構えていた武器の先を下げる。手から離しはしない。
「そっちも無事だったか」
「足はやった。でも、ここまで戻れた」
「見れば分かる。無理に立って見せなくていい」
相沢の視線が榎本の足へ落ち、すぐに藤堂たちへ戻る。
根際の大崎も顔を上げた。
「榎本、声だけより顔が見えた方がほんの少しマシだな」
「そっちに言われたくない」
短い言葉のあと、大崎の口元がわずかに動いた。榎本も息を吐く。
三田村は大崎のそばを離れないまま、康一たちを順に見た。片手は武器へ届く位置にあり、もう一方で応急用品が動かないよう押さえている。
藤堂が一歩だけ前へ出た。
「藤堂です。管理側から正式な救援協力を要請されて来ました。こちらは久我、南雲、伊東です」
相沢は三人の顔を順に確認し、構えていた武器をわずかに下げてからうなずいた。
「相沢です。こちらは大崎と三田村。来てくれて助かります」
「まず、三人とも呼びかけへ反応できることを確認しました」
藤堂は大崎の前へ急いでしゃがみ込まず、全員の位置と周囲を見た。
「詳しい状態確認は、この位置の警戒を引き継いでから行います。大崎さんが足を痛めている、という理解で合っていますか」
「はい」
答えたのは大崎だった。声は届く。意識も呼びかけへの反応もある。それ以上を、康一が見ただけで決めることはできない。
「三田村が応急対応をしてくれています。俺と三田村は動けます」
相沢が続ける。
「分かりました。久我さん、外側をお願いします。南雲さん、到達位置と三人への接触を共有してください」
二人がそれぞれ動く。
久我は相沢が見ていた正面を引き継ぎ、互いの武器が邪魔にならない立ち位置を選んだ。南雲は通路を塞がない場所で端末を開き、時刻と位置、三人の生存を記録する。
相沢は役目を渡しても警戒をやめなかった。久我が見る方向とは別に、根の隙間を確認している。
三田村も大崎のそばに残り、必要なものをまとめた状態を崩さない。
康一は到達した場所を見回した。
救援側の五人と、待っていた三人が、同じ灯りの中にいる。
相沢、大崎、三田村。
三人とも生きている。呼びかけに応じ、自分たちで選んだ防御位置を維持し、負傷した仲間を守りながら救援を待っていた。
榎本は三人の近くまで歩き、そこでようやく無線から手を離した。
康一たちは、その三人へたどり着いた。
残る三人は見つかった。
だが救援は、まだ終わっていない。




