第2話 重なる違和感
樹甲獣が頭を下げた。
前脚が根の床を踏むたび、硬いもの同士を擦り合わせるような音がした。樹皮状の外皮に覆われた肩がゆっくり沈み、低い巨体の重みが四本の脚へ集まっていく。突進の前に見せる、見慣れた予備動作だった。
康一は短槍を握り直した。休憩を終えてから温まり始めた手のひらに、柄の硬さが戻る。正面には藤堂、その右寄りには久我、少し距離を取った後方に南雲がいる。樹甲獣だけを見ていれば、味方の動線を塞いでしまう。康一は巨体の向こう側と、三人の足元を視界の端へ入れた。
「正面を空ける。久我、右へ」
「任せろ」
藤堂の声が短くなる。久我は返事と同時に長柄斧を低く構え、樹甲獣の進行線から右へ開いた。刃先を大きく振り上げず、根の盛り上がりを避けながら側面へ回る。南雲も二人の背後から外れ、弓を引ける角度を取った。
康一は反対側へ半歩ずれた。短槍の穂先を樹甲獣の前脚へ向ける。倒すために正面から受けるのではない。突進の向きを藤堂と二人で狭め、久我が脚へ入れる時間を作る。
樹甲獣が地面を蹴った。
巨体が動いた瞬間、根の床が鈍く鳴った。康一の靴底にも振動が届く。藤堂は正面に残らず、踏み込みに合わせて外へ退いた。盾の面ではなく縁を頭部の横へ当てる。衝撃で盾が低く鳴り、腕と肩が押し戻された。それでも足を止めて力を受けず、一歩を引きながら進路だけを横へずらしていく。
康一は反対側から短槍を差し入れた。穂先で前脚の進む先を塞ぎ、樹甲獣が首を振るより先に引く。硬い外皮を貫く必要はない。槍が残っていれば、自分も巻き込まれる。
樹甲獣は穂先を避け、空いた側へ体を向けた。重い胴が横へ流れ、久我へ側面を見せる。
「そこだ」
久我が低い姿勢のまま踏み込んだ。
長柄斧の刃が後脚の関節へ落ちる。乾いた外皮を打つ音のあと、柄を通して返った衝撃が久我の両腕を揺らした。久我は刃を押し込もうとせず、すぐに引いて次の位置へ移る。
樹甲獣が向きを変えようとしたところへ、南雲の矢が側面から飛んだ。矢は樹皮状の外皮を浅く削り、細かな破片を散らした。致命傷にはならない。それでも樹甲獣の頭が南雲へ向き、注意が一瞬だけ外れる。
「南雲、下がれ」
藤堂の声に、南雲は次の矢へ固執しなかった。弓を保ったまま根の陰へ二歩下がり、射線と退路を取り直す。
樹甲獣が南雲を追おうとした。康一はその前へ短槍を置く。穂先を突き込まず、巨体が進めば前脚へ触れる位置に留めた。樹甲獣は槍を嫌って首を振り、再び向きを変える。
「もう一度、脚を取る」
久我が横から斧を振るった。
傷んだ後脚が沈んだ。樹甲獣はなおも前へ出ようとしたが、藤堂が盾で進む側を狭める。康一も反対から短槍を突き入れ、前脚が踏み込む瞬間だけ穂先へ力を乗せた。
手のひらへ硬い衝撃が返った。康一は息を止めず、そのまま槍を引く。体勢を崩した巨体へ久我の追撃が入り、樹甲獣の腹が根の床へ近づいた。
最後に藤堂が正面を閉じる。樹甲獣は立て直す場所を失い、重い胴を横へ倒した。
根の重なりが大きく鳴った。湿った土と細かな植物片が跳ね、康一のすね当てへ当たる。四人は倒れた音だけで構えを解かなかった。樹甲獣の脚が止まり、硬い外皮の端から黒い粒子がほどけ始めるまで、それぞれが周囲と巨体を見続けた。
粒子は根の間へ積もらず、暗い空気へ紛れるように消えていった。戦闘の音が途切れると、遠くの水音が戻ってくる。康一は自分の呼吸が思ったより大きいことに気づき、一度ゆっくり息を吐いた。
「周囲、動きありません」
南雲が弓を保ったまま後方まで見て言った。
「こちらも大丈夫です。各自、その場で確認してください」
藤堂の口調は戦闘中より長く、丁寧なものへ戻っていた。
康一は短槍を下げすぎないまま、手首と指を開閉した。突き入れたときの衝撃は残っているが、痛みや動かしにくさはない。穂先、槍身、接合部を目で追い、手でも緩みを確かめる。探索を止める傷みは見つからなかった。
久我は斧の刃を布で拭い、柄を両手で持ち替えた。
「こっちは問題なし。ちょっと手が痺れたくらいだ」
「動かして残るようなら言ってください」
「もう戻ってる。あの硬い背を叩いたわけでもないしな」
南雲も弓身と弦を見てから、使った矢を別に扱う。藤堂は盾の表面についた土を落とし、腕の固定部と片手剣を順に確かめた。
「伊東さんは」
「槍も手も問題ありません」
康一が答えると、藤堂は四人をもう一度見回してうなずいた。
樹甲獣が消えた場所には、魔石が一個残っていた。先ほどの根穿虫から得た分と合わせれば、今日二個目になる。
「二戦で二個なら、今のところ素直だな」
久我が警戒を解き切らないまま言った。
「二戦目は四人ともかなり働きましたけど」
南雲が周囲を確認しながら返す。
「それでもゼロよりいい」
「それ、さっきも聞いた気がします」
康一が言うと、久我は斧を肩へ戻しかけて、まだ移動前だと思い直したのか低い位置へ持ち直した。
「得になる話は何度してもいいだろ」
「回収して帰るまでは、まだ収入ではありません」
藤堂が魔石を示した。康一は手袋についた土を払ってから回収し、袋の内側へ収める。小さな重みが底へ落ち、先に入れた魔石へ触れて乾いた音を立てた。
「藤堂さんの方が厳しいですね」
「帰るまでが仕事ですから」
「そこも朝に聞いたな」
久我が笑い、張っていた空気が少しだけ緩んだ。
藤堂は時刻を確認した。戦闘に入る前の予定と、現在位置、戻るために残している余裕を順に見比べる。南雲も記録を開き、樹甲獣との接触位置と時刻を加えた。
「予定より遅れていません。負傷も装備の問題もなし。続けられます」
「異論なし」
久我が先に答え、南雲と康一もうなずいた。
少し早く樹甲獣に会えた。それも無理なく倒し、魔石を回収できた。ここで見るには普段より出入り口側に近い気はしても、単独の通常個体が一体いただけだ。今日の仕事としては、探す手間が省けたとも言える。
康一は回収袋の位置を直し、歩いたときに中身が揺れないよう荷物を締めた。短槍を持ち直す。呼吸も手の感覚も戻っている。
「行きましょう」
藤堂の声で、四人は樹甲獣と戦った場所を離れた。
今日は運がいいという感覚は、まだ崩れていなかった。
*
盤根回廊から続く隣接経路へ入ると、根の重なりが少し低くなった。
天井近くまで張り出していた太い根が減り、壁際には葉に似た薄い構造が乾いたまま重なっている。足元も湿生窪地ほどぬかるんでいない。靴底が土へ沈む感触は薄く、硬い表面を踏むたび、四人分の足音が短く返った。
湿気がないわけではない。岩と根の隙間には水分が残り、空気には土と古い植物の匂いがある。ただ、先ほどまで肌へまとわりついていた冷たさは弱く、手袋の内側にこもった熱が逃げにくくなっていた。
康一は歩きながら一度だけ肩のベルトを持ち上げた。樹甲獣戦のあとに締め直した回収袋は動いていない。二個の魔石が増えた程度で荷物が急に重くなることはないが、戦闘後は肩や腰へかかる位置が少しずれることがある。
「さっきので矢はどうですか」
康一が後方の南雲へ声を落として尋ねた。
「使えるものと、分けるものは整理しました。残りに問題はありません」
「なら、今日の稼ぎはまだ減ってないな」
久我が前を向いたまま会話へ入る。
「消耗品は使っています」
「細かいところまで引くと気分が悪くなるだろ」
「換金前に足す方が早いです」
「南雲はこういうときだけ厳しいな」
「こういうとき以外も同じです」
返事はいつもの淡々とした調子だった。藤堂も振り返らなかったが、二人の声が聞こえていることは歩調で分かる。周囲へ意識を残せる程度の短いやり取りだった。
しばらくは何も出なかった。
四人は予定していた経路を外れず、根の裂け目と曲がり角を一つずつ確認して進んだ。久我が前方と足元の新しい傷を見て、藤堂が隊列と進路を保つ。康一は左右の根の陰と、前を行く二人の間隔を交互に見た。南雲は最後尾寄りから位置を確かめ、ときどき端末へ視線を落とす。
装備が歩調に合わせて小さく鳴る。水音は先ほどより遠い。代わりに、乾いた葉のような構造が擦れ合う音が、頭上のどこかから断続的に落ちてきた。
先頭の久我が足を止めた。
「羽音だ」
会話が途切れた。
康一も呼吸を抑えて耳を澄ます。最初は葉同士が擦れる音に混じっていた。だが同じ調子ではない。硬く薄いものが空気を打つ音が、根の陰から幾つも重なってくる。
葉に似た翅が散るように現れた。葉翅虫の小群だった。
乾いた表面の上を、硬質な翅が鈍く光る。小さな胴体が根の間から次々に浮き、一定の隊形を作らないまま四人の顔や肩の高さへ寄ってきた。
「近づけさせません」
藤堂が盾を上げ、顔の前へ飛び込む進路を塞ぐ。葉翅虫が盾へ当たり、薄い金属板を小石で叩くような音が続いた。
南雲は弓を引ける距離の個体へ矢を放った。先頭の一体が軌道を崩す。ほかの個体が近づき、射線が藤堂や久我へ重なり始めると、南雲は次の矢へ移らなかった。弓を下げて距離を取りながら、腰の片手剣へ持ち替える。
康一も短槍を大きく振り回さない。穂先と柄を使い、顔へ飛び込もうとする個体だけを外へ払う。硬い翅へ槍身が触れるたび、軽いが鋭い振動が手に返った。狭い経路で追い回せば、味方と武器がぶつかる。
久我は長柄斧の刃をむやみに振らず、柄を短く持った。まとまって寄ってくる側へ柄を当て、動きが散ったところだけを刃で仕留める。
「右、二つ寄る」
康一が声を出す。
「見えてる」
久我が半歩だけ位置を変えた。藤堂も盾の角度をずらし、康一が払った個体を正面から外へ流す。南雲の片手剣が、低く回り込んだ一体を切り払った。
対応は長くかからなかった。
最後の羽音が根の奥へ遠ざかり、経路に静けさが戻る。四人はすぐには武器を下ろさず、見える範囲と頭上を見直した。散った葉のような構造が一枚だけ揺れている。それが止まってから、藤堂が盾を少し下げた。
「負傷は」
「ありません」
南雲が露出している手元と防具を確かめる。康一も頬や首筋に痛みがないか意識を向け、短槍と手袋を見た。久我は肩へ触れ、付着した細かな欠片を払った。
「こっちもなし。けど、ここで葉翅虫か」
久我は戦った場所ではなく、周囲の根と足元へ目をやった。
表面は乾いている。ところどころに湿り気は残るが、葉翅虫をよく見かける場所ほど水気が多くない。翅の音が消えたあとには、遠い水音さえほとんど聞こえなかった。
「湿った側なら、もう少しよく見るんだけどな」
「隣接する経路から出てくることはあります」
南雲は端末を開いた。現在位置と時刻を確かめ、葉翅虫と接触した事実だけを記録する。断定する言葉は加えない。
「経路そのものが完全に乾いているわけでもありません。一件だけなら、少し珍しい程度です」
「同じ意見です」
藤堂は根の奥と戻る側を見てから、全員へ視線を回した。
「装備と行程に問題がなければ続けます。ほかに気になることはありますか」
「今のところはない」
久我が答える。
「こちらもありません」
康一にも、それ以上の材料はなかった。葉翅虫がこの経路へ出たことだけなら、あり得ないことではない。普段より乾いた側で見た。それは記録しておく価値のある事実だが、何かが起きていると決める理由にはならない。
南雲が端末を収める。
「戻るときに同じ場所を通るなら、周囲の状態も見ます」
「お願いします」
藤堂が応じた。
「葉翅虫にも、乾いたところを通りたい日があるんだろ」
久我の言葉には、まだ軽さが残っていた。
「理由は分かりません」
「今のは理由を聞いてない」
「では記録もしません」
南雲が片手剣を収める。康一は二人のやり取りにわずかに息を漏らした。樹甲獣戦のあとの緊張はすでに下がっている。葉翅虫への対応にも、四人を止めるほどの問題はなかった。
隊形を戻し、探索を再開する。
足元の乾き方も、根の表面も、歩き始めれば先ほどまでと変わらない。四人は通常の仕事として、次の区画へ進んだ。
*
葉翅虫と接触した場所から、さほど進んでいなかった。
会話は一度途切れ、四人の足音だけが続いていた。康一は曲がり角の先を確認し、根の張り出しを避けて足を置く。葉翅虫の羽音が聞こえた場所を離れても、空気の乾き方は大きく変わらない。
根を削る乾いた音がした。
硬いものを少しずつ噛み砕く、不規則な音だった。康一は足を止める。先頭の久我もほぼ同時に長柄斧を低く構えた。
「右の重なりだ」
久我の視線の先で、削られた細かな欠片が根の陰から落ちた。
根穿虫が低い姿勢で出てくる。硬い背をこちらへ向け、六本の脚で根の段差を越えた。顎を開く動きにも、脚の運びにも、見慣れないところはない。
「またか。今日は間が短いな」
久我の声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
康一も同じことを考えた。最初の根穿虫と戦ってから、休憩と樹甲獣、葉翅虫との接触を挟んではいる。だが、実際に経路を歩いた距離は普段の周回ほど伸びていない。同じ種へ再び出会うなら、もう少し区画を進んだあとになることが多かった。
それでも、目の前の根穿虫が強くなったわけではなく、行動もこれまで知っている範囲に収まっている。
「来ます」
藤堂が盾を斜めに出した。
根穿虫が顎を開いて近づく。藤堂は真正面から押し止めず、盾の面を傾けて進路を外へ向けた。硬い頭部が盾を擦り、康一の耳に低い音が届く。
康一は短槍で前脚を牽制した。穂先が関節へ触れる前に根穿虫が向きを変える。その先へ久我が回り、斧の刃を脚の付け根へ落とした。
南雲は近距離で無理に弓を使わなかった。片手剣を抜き、藤堂と康一が作った空間から側面を押さえる。根穿虫が南雲へ向き直ろうとすると、康一が反対から槍を入れて動きを戻した。
戦闘は短く終わった。
根穿虫の輪郭が黒い粒子へ変わる。康一は消えていく場所より、虫が出てきた根の重なりを見た。削り跡は新しいが、それだけで個体がどこから、なぜここへ来たのかは分からない。
「周囲を確認します」
藤堂の声に、四人はそれぞれの方向を見る。
次の個体は現れない。康一は短槍の状態を確かめ、手首と足元にも問題がないことを確認した。久我は斧の刃を見てから、根穿虫が出てきた側へもう一度目を向ける。南雲は後方を見終えると端末を開いた。
「前の根穿虫から、普段より短いです」
南雲は今日の接触記録を時刻順に並べた。
「休憩と戦闘は挟んでいますが、移動した区画は多くありません。いつもの周回で同じ種に再接触するときより近いです」
「俺の感覚だけじゃないってことだな」
「記録上も、近いと言えます。ただし、根穿虫自体は通常の個体でした」
久我はうなずき、奥側へ目を向けた。
「樹甲獣、葉翅虫、根穿虫」
南雲が表示を順に指で追う。
「樹甲獣は普段より出入り口側に近い位置。葉翅虫は比較的乾いた経路。根穿虫は、前回との接触間隔が短い。どれも一件だけなら、通常範囲から外れたとは言えません」
「けど、今日は同じ行程で三つ続いた」
久我が言った。
康一も三つを順に思い返した。
休憩後、普段より少し早く出会った樹甲獣。比較的乾いた側へ出ていた葉翅虫。そして、さほど進まないうちに再び現れた根穿虫。
樹甲獣は通常個体だった。葉翅虫が隣の経路へ出ることもある。根穿虫との間隔が短くなる日もあるかもしれない。一つずつなら、仕事の中で起きる小さな振れとして扱える。
今日は、その小さなずれが同じ行程の中で重なっていた。
藤堂はすぐに結論を言わなかった。まず時刻を確認し、それから康一たちを順に見る。
「全員、負傷はありませんか。戦闘中に気になったことも含めてお願いします」
「なし。斧も使える」
久我が答える。
「私もありません。弓、片手剣、残りの矢に、探索を止める問題はありません」
南雲は記録画面から顔を上げた。
「こちらも負傷なしです。短槍にも問題ありません」
康一は接合部へ手を当てて答えた。
藤堂自身も盾と片手剣を確かめる。樹甲獣の衝撃を受けた盾にも、直前の根穿虫への対応にも、探索を打ち切る損傷は見つからない。
「出てきたのは、すべて知っている種類です」
藤堂が言った。
「個々の対応にも問題はありません。帰還に必要な時間も残っています」
「だから、今すぐ戻るほどじゃない」
久我が確認するように続けた。
「はい。ただ、普段どおり奥まで進む理由もありません」
藤堂は南雲の端末に表示された行程へ目を向ける。
「次の予定地点までにしましょう。そこまで周囲を見て、戻るかをもう一度決めます。今日はそれより奥へ進みません」
藤堂は結論だけを押しつけず、四人が確認した材料を揃えたうえで、進む範囲を一段狭めた。
「その辺がいいな」
久我が先に同意した。
「今の歩調なら、次の地点で確認しても帰還余裕は維持できます」
南雲も時刻と経路を見比べて答える。
藤堂が康一を見る。
「伊東さんはどうですか」
「賛成です。原因を考えるには材料が足りません。決めた範囲を越えない方がいいと思います」
康一はそう答えた。
何が起きているのかを、今ここで説明する必要はない。小さなずれを見つけたからといって、答えまで得たことにはならない。今できるのは、見た事実を混ぜずに残し、行動範囲を調整することだった。
「では、それで進みます」
藤堂が決める。
南雲は記録へ、進行範囲を次の予定地点までに絞ったことを加えた。久我は長柄斧を持ち直し、前方を確認する。康一も短槍の握りを整えた。
四人は歩き出した。
同じ探索の続きではある。けれど、さきほどまでのように獲物を探しながら奥へ進む足取りではない。次の地点までに限り、周囲の状態と戻る余裕を確かめるための進み方へ変わっていた。
しばらく、誰も雑談を始めなかった。
足音と装備音が、乾いた経路へ小さく響く。康一は前方の根の陰を見て、次に足元の段差を確かめた。後ろでは南雲の靴底が一度滑りかけ、すぐに踏み直す音がした。
「大丈夫です」
尋ねられる前に南雲が言う。
「了解です」
藤堂は歩調をわずかに落とした。止まるほどではない。四人の間隔が崩れない速さへ戻しただけだった。
根の表面は乾いていても、陰には湿り気が残っている。場所によって靴底へ返る感触が変わる。遠くで細い水音が聞こえ、曲がり角を越えるとまた弱くなった。
久我が新しい削り跡を見つけても、今度は立ち止まって追う価値を話し合わなかった。予定経路から外れない範囲で視線を向け、先へ進む。獲物の痕跡を収益へ結びつけるより、周囲の状態を確かめる方が優先されていた。
「次の地点まで、まだ少しあります」
南雲が声を抑えて告げる。
「時間は」
「予定内です。帰還余裕も変わりません」
「分かりました」
会話はそれで終わった。
何も起きない移動時間が続く。モンスターと続けて接触したあとに、しばらく何も出ないこともある。四人が話さないのも、周囲への注意を上げた結果にすぎない。
それでも、朝や休憩中のような用事のない言葉は戻らなかった。
*
次の予定地点へ向かう途中、前方の根の間に人影が見えた。
康一は最初、奥へ向かう別の探索者だと思った。だが、人影はこちらへ近づいてくる。出入り口側へ戻る方向だった。
歩き方が一定ではない。
片足を着くたびに上体がわずかに傾き、根の段差を越える前には必ず速度が落ちる。数歩進んでは周囲を見て、また歩き出す。急いでいるのに走れない者の動きだった。
「前方、一名」
康一が声を落とす。
「見えています。止まります」
藤堂が片手を上げ、四人の進行を止めた。
人影までにはまだ距離がある。相手が一人に見えても、周囲の安全が確認できたわけではない。
「久我さん、前後の警戒をお願いします。南雲さんは位置と通信を」
「了解」
「確認します」
久我は人影だけに背を向けず、奥側と後方の経路を見渡せる位置へ移った。南雲は現在位置を確かめ、無線を受信できていることを見てから顔を上げる。
藤堂と康一が人影へ近づいた。
康一は短槍をすぐ使える位置に保つが、穂先は相手へ向けない。近づくにつれ、相手の装備と顔が見えてくる。成人の男性だった。防具には土が付き、呼吸は遠目にも速い。片足をかばいながらも、自分で荷物を背負っている。
「こちらは探索中の四人です。聞こえますか」
藤堂が、相手へ届く声量で呼びかけた。
男が顔を上げた。四人を認めると足を止め、根の壁へ手をつく。返事をする前に一度息を整えた。
「聞こえます」
受け答えははっきりしている。意識を失いかけている様子ではない。外から見える範囲に大きな出血もなかった。
「藤堂です。同行は伊東、久我、南雲。大丈夫ですか」
「榎本です。榎本拓海。足をやりました。でも、歩けます」
男―榎本は、痛めた側へ体重をかける時間を短くして立っていた。額と首筋には汗が浮かび、呼吸もまだ落ち着いていない。足のどこを、どの程度痛めているのかは、見ただけでは分からない。康一に判断できるのは、榎本が片足をかばいながら自力でここまで歩いてきたことだけだった。
「近くに、ほかの方はいますか」
藤堂が尋ねる。
「三人と組んでました。今は、はぐれています」
榎本は答えながら奥側を振り返った。視線だけでなく上体まで向けかけ、痛めた足に力がかかって顔をしかめる。
「動かなくて大丈夫です」
康一が言う。
榎本は小さくうなずき、根の壁へ置いた手に体重を逃がした。
「何がありました」
「樹甲獣を避けたとき、根に足を取られました。転んで、それから走れません」
「負傷したあと、三人とは連絡を取れていますか」
「無線はつながります。連絡拠点には救難通報済みです」
南雲が少し離れた位置から通信状態を確認する。ここで管理側との詳しいやり取りを始めるのではなく、榎本が使っている無線が現在も受信できているかを外から見られる範囲で確かめた。
「最後に三人と連絡した位置は分かりますか」
南雲が尋ねる。
「分かります。記録もあります。三人は中層側です」
榎本は端末へ手を伸ばしたが、すぐに操作を始めず、藤堂たちの反応を待った。必要な順番で答えようとしているように、康一には見えた。
「榎本さんは、なぜ一人で出入り口側へ」
藤堂の問いに、榎本は一度息を吸った。
「俺は走れなくなりました。このまま三人と一緒に動くより、出入り口側へ移動して救援と接触するように言われました。無線はつながるので、位置と状況を伝えながら戻っています」
無謀に一人で逃げてきたわけではない。事故のあとに連絡を取り、救難通報を行い、走れない自分ができる範囲で出入り口側へ移動してきた。少なくとも、榎本の説明からはそう分かった。
久我は会話へ割り込まず、前後の経路を警戒し続けている。葉翅虫のときまで残っていた軽い表情はない。南雲も端末を開いているが、まだ榎本の記録を勝手に移さず、現在位置と通信だけを見ていた。
藤堂は榎本の立ち方と呼吸を見てから、声を落として確認した。
「三人は、こちらへ戻っているんですか」
榎本の表情が固くなった。
「いいえ」
奥へ続く経路から、返ってくる足音は聞こえない。
遠くで水が一度、根の下へ落ちる音がした。誰もその音の方を見なかった。
「三人、まだ戻っていません」




