第1話 いつも通りの仕事
伊東康一が第六号北関東ダンジョン管理特別区域に着いたとき、藤堂圭介は中型盾の留め具を確かめていた。
人の出入りが増える時間帯だった。入場を待つ探索者の話し声に、金具を締める乾いた音や、床へ荷物を置く鈍い音が重なる。外気はまだ朝の冷たさを残していたが、装備の下まで着込んだ者たちは、入る前から額に薄く汗を浮かべていた。
康一は背負ってきたケースの位置を直し、人の流れを避けて三人のいる側へ寄った。
「おはようございます。待たせましたか」
「いえ、時間どおりです。こちらが少し早かっただけです」
藤堂は短く答え、盾を腕から外した。片手剣と合わせた動きに引っかかりがないか、最後にもう一度見ていたらしい。留め具を指で押し、腕を通す角度を変えてから、盾をいったん荷物の脇へ立てかける。
「その留め具、前も見てませんでしたか」
康一が聞くと、藤堂は盾へ目を落としたまま小さくうなずいた。
「見ました。ただ、装備を着けた状態で少し当たり方が違ったので。中で気になってから直すより、今の方が楽です」
「それはそうですね」
康一にも覚えがある。小さな違和感を見送ったまま歩き始めると、必要のないときほど気になり、必要なときには直す余裕がなくなる。問題が起きると決まったわけではなくても、入口の外で済む確認を後へ回す理由はない。
少し離れた場所では、久我直人が両手用の長柄斧を肩に立てていた。大振りに見せびらかすような持ち方ではない。刃先を人のいない側へ向け、柄の固定を順に確認している。金属部を布で一度ぬぐうと、刃先を光へ傾けた。
「これで四人だな。今日は稼がせてもらいたいところだけど」
「その前に、無事に帰るまでが一日です」
南雲美咲がそう返し、弦と弓身を手で確かめてから弓を下ろした。まだ矢はつがえていない。腰には、狭い場所でも扱える短めの片手剣が収まっている。端末の表示へ目を落とし、時刻を確かめてから画面を閉じた。
「分かってるって。帰らないと換金できない」
「久我さんは、そっちで納得するんですね」
「納得できる理由は多い方がいいだろ」
久我は長柄斧を持ち上げ、肩へ収まりのいい位置を探した。南雲は否定も同意もせず、わずかに口元を緩める。
何度か一緒に潜っていれば、挨拶の次に長い説明はいらない。それでも、顔を合わせた直後の数分で分かることはある。眠そうにしている者はいない。装備を乱暴に扱っている者もいない。康一は三人の様子を順に見てから、自分の確認へ移った。
背負ってきたケースを床へ下ろす。留め具を外し、分割した短槍を取り出した。金属は朝の空気を吸って冷たく、つなぐたびに手のひらへ硬い感触が返ってくる。各部を順に合わせ、固定する。最後まで回した感触はいつもと同じだった。
接合部へ意識を向ける。
解析。
視界に文字や数値が現れたわけではない。槍身と接合部の輪郭に沿って、現在の負荷と摩耗の偏りが認識の中で分かれた。片側にごく薄い偏りがある。だが前に確かめたときから大きく増えてはいない。
そこまでが【解析】で得た事実だった。だから安全だという保証ではない。見えた偏りの意味を康一が取り違えている可能性も、能力では拾えない不具合がある可能性も残る。
康一は接合部を両手でひねり、がたつきを確かめた。固定部を指でなぞり、爪が引っかかる傷がないかを探す。続いて穂先から石突までを目で追い、床に対して軽く角度を変えながら曲がりも見た。
「問題ありそうですか」
南雲が聞いた。自分の装備確認を終え、こちらの手元を見ている。
「普段と大きくは変わりません。念のため手でも見ましたが、緩みはなしです」
「なら、こっちもよし」
久我が斧の柄を軽く持ち上げた。
「伊東さんの確認が長い日は、久我さんも一回多く見ますね」
「暇だから見てるだけだ」
「いいことです。待っている間に確認が増えるなら、待ち時間にも意味があります」
藤堂が丁寧にまとめると、久我は眉を上げた。
「そういう言い方をされると、俺がずいぶん真面目に聞こえるな」
「真面目に仕事をしているのでは」
「稼ぎたいだけだよ」
三人のやり取りを聞きながら、康一は剣鉈の留め具も確認した。抜きやすさと収まりを確かめ、短槍を分割してケースへ戻す。人の多い場所で長物を持ち歩く必要はない。必要な場所で組み直すのは、いつもの手順だった。
入場手続きの列が一つ進んだ。前の班が荷物を持ち直し、空いた分だけ人の流れが動く。四人も装備をまとめて列へ入った。
「帰還の区切りは、前に確認したところでいいですか」
南雲が歩きながら端末を見せた。時刻と行程の目安が並んでいる。
「はい。進みが良くても、戻る余裕は削りません」
藤堂は画面をのぞき込み、全員の顔も見回した。
「今日の目的はいつもどおりです。中層で無理のない範囲を回り、狩れる相手を狩って、回収できるものを持って帰ります。戻る余裕は削りません。途中で条件が変われば、その時点で相談します」
「了解」
答えが重なった。
「できれば、相談するほど何も起きない方で」
康一が付け足すと、久我が鼻で短く笑った。
「何も起きないと稼げないぞ」
「ほどほどに起きて、予定どおり帰れるのが一番です」
「南雲のそれが正解だな」
手続きの順番が来る。四人は必要な確認を済ませ、荷物を背負い直した。ケースの重量が肩へ戻り、ベルトが服の上から胸を締める。康一は一度深く息を吸い、歩き出した三人に続いた。
今日の稼ぎを求めて、四人は仕事場の境界へ向かった。
*
境界を越えると、外の空気が背後へ切れた。
温度が急に変わったわけではない。それでも、風の抜け方と匂いが違う。外にあった乾いた埃や車の気配が薄れ、湿った石と土、古い植物をまとめたような匂いが鼻に残った。人工の灯りが作る明るさも、日差しとは違って影の輪郭が硬い。
康一はその感覚を確かめるより先に無線へ手を伸ばした。境界内へ入ったときの確認を、雰囲気に気を取られて飛ばすわけにはいかない。
藤堂が内部連絡拠点へ呼びかける。耳元で短い雑音が鳴り、無線担当の声が返った。藤堂と南雲が順に受信を告げる。
「伊東、受信できています」
「久我も受信できてる」
康一と久我の返答まで聞き届け、藤堂がうなずいた。四人とも受信に問題はない。
「外で話すときより、久我さんの声が近いですね」
南雲が無線の音量を一段下げた。
「聞こえないよりいいだろ」
「近いと言っただけです。大きいとは言ってません」
「同じ意味じゃないのか」
返事をしながらも、久我は自分の受信状態をもう一度確かめていた。康一も音量を調整し、手袋越しに操作できることを見てから手を離す。
内部連絡拠点では、無線担当が別の班の帰還連絡を受けていた。重なった声の中から、地点と班の確認だけがはっきり聞こえる。その近くでは装備を整えた要員が通路側を見張り、中継設備の表示を確かめる職員の横を、回収物の入った容器を運ぶ探索者たちが通った。
人が歩くたびに靴底が床をこすり、容器の持ち手が鳴る。どこかで金属製の留め具が落ち、拾い上げられた音がした。汗と湿った装備の匂いに、機械の熱を含んだ空気が混じっている。
外へ戻る者と、これから奥へ向かう者が同じ場所ですれ違う。泥の付いた防具。中身を出して軽くなった運搬袋。まだ肩に疲れの出ていない班。帰還した探索者の一人が道を空け、藤堂も片手を上げて応じた。誰も立ち止まって見物はしない。それぞれが自分の仕事を続けていた。
「あの袋、ずいぶん軽そうだな」
久我が通り過ぎた班の背を見て言った。
「使い切ったのか、回収が少なかったのかは分かりません」
「だから軽そうとだけ言った」
「なら、記録する必要はありませんね」
南雲が淡々と返す。久我は「そうだな」と言い、すぐ前へ視線を戻した。用事のない会話はそれで終わったが、四人の歩調は少し揃った。
通行の流れを外れないように進み、内部連絡拠点を抜ける。康一は背中のケースが人に当たらないよう、狭いところだけ体を斜めにした。肩へ食い込んでいたベルトを持ち上げると、一瞬だけ重量が逃げる。
やがて機械音が岩壁の向こうから響いてきた。低く続く振動に、短い金属音が不規則に混ざる。立入制限線の内側では、作業員が互いに見える位置で合図を交わし、掘削を終えた区画から鉱石が運び出されていた。搬送設備の脇には、導脈石を含む鉱石がまとめられている。
通路には細かな粉が残り、靴底が踏むたびにざらついた。機械に近いところでは空気がわずかに温かく、金属と砕けた岩の匂いが強い。康一は目を細めたが、足を止めて見ることはしなかった。採掘は今日の目的ではなく、制限線の向こうは作業中の区画だ。
「ここ、声が持っていかれるな」
久我が機械音に負けない声で言った。
「通過するまで間隔を詰めすぎないでください。前の班もいます」
藤堂は前方の通行を見たまま答える。
「分かってる。南雲、今日の進みは」
「まだ予定内です。ここで立ち話を続けなければ」
「厳しいな」
「時間を聞かれたので」
南雲は分岐の標識と手元の記録を照合し、画面を閉じた。康一は二人の会話を聞きながら、足元の幅と前を行く作業者の荷物を見て歩調を調整する。判断することの多くは、特別な発見ではない。ぶつからない、遅れない、余計なところへ入らない。その積み重ねで奥へ進む。
採掘区域を抜けるにつれ、機械の振動は岩壁の向こうへ遠ざかった。人工の灯りと設備も少なくなる。代わりに、岩の間を這う太い根のような構造が増え、壁と床の境目が曖昧になっていった。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、奥から流れてくる冷たさが汗の浮いた首筋を撫でる。
足元の凹凸は深く、硬い岩の上へ土と細かな植物片が薄く重なっている。踏む場所によって、靴底へ返る感触が違った。四人の足音も、岩の上では高く、土の上では鈍くなる。
「ここから切り替えます」
藤堂の声で四人が止まった。
前を行く別の班との距離はすでに開いている。立ち止まっても通行を塞がない位置を南雲が示し、四人はそれぞれ荷物を下ろさずに装備を切り替えた。
久我は長柄斧を両手に取り、握りを確かめる。南雲は弓をすぐ使える状態へ移した。藤堂は盾を腕へ固定し、片手剣の柄へ一度触れる。康一もケースから短槍を出して組み、接合を手で確かめた。
「今度は長くないな」
久我が言う。
「同じ状態かを見るだけなら、さっきより短く済みます」
「じゃあ、さっき長かった分、取り戻したな」
「数分も違いませんよ」
南雲が返すと、藤堂が四人の装備と立ち位置を見渡した。
「準備ができたら進みます。ここからは会話より周囲を優先してください」
返事は短く揃った。
管理された通路の先に、盤根回廊が口を開けていた。
*
盤根回廊へ入ると、水がどこかを伝う音が近くなった。
見える範囲に大きな流れはない。岩の割れ目や根の陰から、滴が落ちる音だけが途切れず続いている。太い根は壁から張り出し、別の根と重なって道の形を作っていた。表面の乾いた部分は木肌に似て見えたが、湿ったところは光を鈍く返す。
四人は一列になりすぎない間隔で進んだ。前を行く藤堂の盾が根へ触れないよう少し傾き、その後ろで久我の斧の柄が装備へ当たらない角度を保つ。康一は足元を見てから前へ視線を戻し、最後尾寄りの南雲が通れる幅も視界の端で確かめた。
何も起きない時間がしばらく続いた。
装備が歩調に合わせて小さく鳴る。呼吸はまだ乱れていない。康一は踏みやすい場所を選び、根をまたぐたびに短槍の穂先をわずかに上げた。手袋の内側には、少しずつ熱がこもり始めている。
「二体いる」
最初に足を止めたのは久我だった。
斧を持つ手がわずかに上がる。続けて、乾いたものを削る音が根の重なった陰から聞こえた。一定ではない。硬い顎が根の表面へ当たり、引っかかり、また削る。康一も音の方向へ顔を向けた。
四人は声を増やさず、間隔を広げた。藤堂が一歩前へ出られる空間を残し、南雲の射線を塞がない位置へ分かれる。
六本脚の影が二つ動いた。根穿虫だ。硬い背を根へこすりながら、一体が通路へ出る。もう一体も少し遅れて頭を向けた。脚先が岩を掻き、細かな土が跳ねる。削りかすと湿った土の匂いが、動いた空気に乗って届いた。
南雲は端末に触れず、矢をつがえた。藤堂が盾を前へ出す。久我は長柄斧を低く構え、右側の一体へ斜めに踏み込んだ。
根穿虫が顎を開く。硬い部分が擦れ、短く耳障りな音がした。
久我は正面に残らなかった。虫が頭を向けるより先に踏み込みを外へずらし、振り上げた斧の刃を前脚の付け根へ落とす。
鈍い衝撃音が回廊へ響いた。刃が硬い背を外し、関節に近いところへ入る。久我の腕と肩が衝撃を受け止め、靴底が土を削った。虫の体が傾いたところへ、久我は柄を押し当てる。顎の正面を避けたまま姿勢を崩し、もう一度側面へ回った。
残る一体が、空いた四人の間へ進もうとする。藤堂は突進を真正面で止めず、盾の面を斜めに当てた。虫の頭が盾を擦り、硬いもの同士がぶつかる音が腕へ返る。藤堂は一歩を引いて力を逃がしながら、その進路を外へ流した。片手剣が前脚を払う。
「伊東、左を閉じる」
「はい」
康一は藤堂と南雲の位置を視界の端で確かめ、短槍の穂先を低く入れた。根の盛り上がりを踏まないよう一歩を選び、踏み込んでくる虫の前脚を刺す。
槍身へ硬い反発が返った。深く入りすぎる前に腕を引き、穂先を抜く。深追いはしない。もう一度、今度は虫が進もうとした側へ先回りして穂先を置く。根穿虫は槍を避けて藤堂側へ向き直り、狙った通り通路の中央へ戻された。
息を吐く間に、弦が鳴った。
南雲の矢が硬い頭部を避け、脚の付け根へ刺さる。根穿虫が身を振って間合いを詰めると、南雲は次の矢に固執しなかった。弓を下げ、動きながら片手剣を抜く。鞘から刃が走る音が、虫の脚音に重なった。
「そっち、終わるぞ」
久我の声と同時に、斧が関節部へ食い込んだ。刃を振り回すのではなく、崩れた体へ短く確実に力を入れる。久我は斧を一度だけ引き、開いた関節部へ追撃を入れた。六本の脚が止まった。
久我が止めた個体を確かめるより先に、康一は藤堂側へ意識を戻した。
残る根穿虫が顎を持ち上げる。藤堂の盾がその進路をわずかに押しずらした。康一は一歩詰め、伸ばした槍で前脚の内側を突く。南雲の剣が反対側から脚を払う。左右から支えを失った虫の胴が傾き、硬い背が根へぶつかった。
崩れたところへ藤堂の剣が入る。
振り下ろすのではなく、開いた位置へ必要な深さだけ刃を通す。虫の脚が一度大きく引きつり、それから動きを止めた。
戦闘は長く続かなかった。
それでも、終わった瞬間に体から力が抜けるわけではない。康一は短槍を構えたまま、まず正面を見た。藤堂は盾を下げず、久我も斧を戻さない。南雲は片手剣を持ったまま背後と根の陰を順に確かめた。
四人の荒くなった呼吸だけが、戦闘前よりはっきり聞こえる。康一の手のひらには、槍へ返った衝撃が鈍く残っていた。額から落ちた汗が眉の脇を伝い、目へ入りかける。拭うのは周囲を見終えてからにした。
二体の輪郭が黒い粒子へほどけていく。粒子は地面へ積もらず、暗い空気へ紛れるように消えた。一体は何も残さず、もう一体がいた場所には魔石が一つ残る。
「周囲、問題ありません」
南雲が背後を確かめ終えて言った。
「こちらも大丈夫です。各自、装備と負傷を確認してください」
藤堂の声は戦闘中より長く、丁寧な調子へ戻っていた。
「一個か」
久我が周囲への警戒を解き切らないまま、残った魔石を見た。
「ゼロよりいいです」
南雲は片手剣を収める前に刃を確かめ、付着した汚れを布で拭った。弓と矢の状態も見てから、使った一本は別にして扱う。
「二体働いて一個だぞ」
「久我さんが二体分の賃金を払うわけではありません」
「そう考えれば得か」
「その考え方でいいのかは知りません」
南雲の返しに、康一は息を整えながら笑った。緊張で固くなっていた肩が、ようやく少し下がる。
康一は魔石へ近づく前に、短槍の穂先と接合部を見た。折れや緩みはない。手袋越しに固定部を押し、戦闘前と感触が変わっていないことを確かめる。それから魔石を拾い上げ、汚れを払って回収袋へ収めた。袋の中で、硬いものが底へ触れる小さな音がした。
その間に藤堂は全員の状態を見る。
「痛むところはありませんか」
「なし」
「私もありません」
康一も手首を回し、足の置き方に違和感がないかを確かめた。
「こちらも問題ありません」
盾、剣、斧、弓、短槍にも探索を止める問題は見つからなかった。久我は斧の刃を布で拭い、柄を握り直す。藤堂は盾の表面へ付いた跡を見たが、留め具まで確認してから腕を下ろした。
「さっき見ておいてよかったですか」
康一が尋ねると、藤堂は盾の留め具へ目をやった。
「ええ。少なくとも、今の衝撃のあとに気にせず済みます」
「確認の利益が一つ出たな」
久我が言った。
「換金はできませんけどね」
南雲が返した。
藤堂は時刻を確認した。戦闘に入る前の予定と、現在の時刻を比べる。
「予定より遅れていません。このまま続けます。ただし、最初の数分は歩調を戻すことを優先しましょう」
「了解」
康一は回収袋を荷物の内側へ収め、重さが片寄らない位置へ入れ直した。魔石一つで大きく重くなるわけではないが、歩くたびに中で動くと気になる。
四人は隊形を戻した。南雲がもう一度後方を確認し、藤堂が進行方向へ視線を移す。久我は先ほどよりわずかにゆっくり歩き出し、康一も息が落ち着くまで歩幅を合わせた。
戦闘は終わった。四人は次の収益を探して、また歩き始めた。
*
盤根回廊では、戦っている時間より歩いている時間の方がずっと長い。
曲がり角を一つ越えても何もいない。根の陰を確認しても、土と古い削りかすがあるだけだ。足音を抑えて進み、止まって音を聞き、問題がなければまた歩く。その繰り返しが、短い戦闘より長く続く。
久我が根の表面についた新しい削れ跡を見つけても、すぐに獲物が出てくるとは限らない。久我は手を触れずに跡の向きと深さを見たあと、少し先の土へ視線を落とした。
「通ったのはいる。近いかどうかまでは分からないな」
「追う価値はありますか」
藤堂が尋ねる。
「このままの経路で見られるなら見る。わざわざ外れるほどじゃない」
「では、予定の経路を維持します」
久我はうなずき、立ち上がった。収益の手掛かりではあっても、見つけた跡をすべて追うことが仕事ではない。戻る時間と体力を使ってまで確かめる価値があるか、その都度選ぶ必要がある。
南雲は分岐ごとに現在位置と戻りの経路を確かめた。端末を見る時間は短い。表示と周囲の形を照合し、確認が済めばすぐ顔を上げる。藤堂は進んだ時間と帰還に必要な余裕を比べ、足場が悪い区間では歩調を落とした。
康一も周囲を見る。足を置ける場所、音が通りにくい根の重なり、別の班が残した通行の痕跡。目立つものだけを探すのではなく、安全に進み、狩れる相手を見つけ、予定どおり帰るために視線を巡らせた。
ある区間では、細い水音がずっと右手側についてきた。別の区間へ入ると音が遠ざかり、代わりに葉のような薄い構造が擦れ合う音が頭上から落ちてくる。風は弱いのに、どこかで空気が動いている。湿気を含んだ冷たさが防具の隙間へ入り、汗の乾きかけたところだけを冷やした。
「汗が冷える前に、次の広い場所で止まりませんか」
康一が言った。疲労が限界に近いわけではない。だが、喉の渇きと装備のずれを自覚したまま先へ進むより、余裕のあるうちに直した方がいい。
「私も賛成です。予定していた休憩位置まで、あと少しです」
南雲が位置を確認する。
「そこで休みましょう」
藤堂が決めた。
「獲物がいれば、そのあとだな」
久我は不満というより、順番を確かめるように言った。
「休憩中に向こうから来た場合は別です」
「それは休憩にならないだろ」
しばらくして、根の張り出しが少ない場所へ出た。四人は周囲と出入りできる方向を確かめてから、短い休憩に入った。
見張りを保てる位置へ分かれ、全員がまず水分を取る。康一は水筒の口を傾けすぎず、何度かに分けて飲んだ。冷たすぎない水が乾いた喉を通る。飲み終えると、背負ったままだった荷物を少し持ち上げ、肩のベルトをずらした。圧迫されていたところへ血が戻り、鈍い痺れが広がる。
藤堂は盾を手の届く位置に置いたまま腕を回した。朝に気にしていた留め具の当たりをもう一度確かめている。久我は長柄斧を倒れないよう足元へ置き、手袋を片方だけ外して指を開閉した。南雲は弓を湿った床へ触れさせず、端末へ現在位置と時刻を残してから水筒を出した。
誰も急いで話し始めなかった。
遠くの水音と、四人の呼吸だけが聞こえる。携行食の包みを開く小さな音がして、康一も荷物から一つ取り出した。食欲が強いわけではないが、帰りまで動くなら今のうちに少し入れておいた方がいい。口の中の水分を持っていかれないよう、水を交互に飲む。
「今のところ、魔石一つ。消耗は矢一本だけか」
久我が指を開閉しながら言った。
「装備の損傷と負傷はなしです。それで時間には余裕があります。悪くはないですね」
南雲が戻り経路を表示したまま答えた。
「悪くない、か。魔石一つを四人で割ると、まだ昼飯が豪華になるほどじゃないな」
「具体価格は換金してからです」
「分かってる。今のは気分の話だ」
「気分なら、消耗なしの分も入れてください」
南雲は画面を閉じ、ようやく水を飲んだ。
「負傷なしもな」
康一が言う。
「それは最初から一番大きい」
久我は即座に返した。稼ぎを気にしていても、そこを軽く見る人物ではない。康一はその返事を聞き、手にしていた携行食の残りを口へ入れた。
藤堂は先の分岐へ目を向けていた。全員の会話を聞きながら、進む時間と戻る時間を組み直しているのだろう。康一にはそう見えたが、答えを急かさなかった。藤堂が時刻を確認し、南雲の表示にも目を通すまで待つ。
「もう少し進めます。ただし、次の区切りで再判断します。獲物の痕跡が薄ければ戻りましょう。成果が出ても、帰還の余裕は削りません」
「賛成です」
康一は水筒をしまいながら答えた。獲物を求めて奥へ行きすぎれば、帰還の余裕が利益を食う。何も得られないまま引き返すこともあれば、早い段階で十分な成果が出る日もある。今日がどちらになるかは、まだ決まっていない。
「久我さんは」
藤堂が確認する。
「異論なし。痕跡がなければ、歩いた分まで取り返そうとはしない」
「南雲さんは」
「問題ありません。今の歩調なら、予定どおり戻せます」
四人の方針がそろったところで、会話が一度切れた。
休憩時間はまだ少し残っている。だからといって、誰かが新しい話題を探すこともない。久我は外した手袋の内側を乾かし、藤堂は盾の縁についた土を落とした。南雲は端末をしまい、首の後ろの汗を布で拭う。康一も短槍を膝の上へ置き、穂先と接合部についた汚れを落とした。
「朝の確認、結局全員増えましたね」
南雲が言った。
「伊東さんが長かったからですか」
藤堂が尋ねる。
「久我さんが暇だったからです」
「まだ言うのか」
「事実の確認です」
康一は口を挟まず、布を折り返した。ここで南雲に同意すれば久我が返し、久我を助ければ南雲が記録すると言い出す。どちらでも構わないやり取りだったし、放っておいても険悪にはならない。数度組んだ仕事仲間の休憩として、そのくらいの距離がちょうどよかった。
休憩を終える前に、別の班が出入り口側へ戻ってきた。先頭が手を上げ、藤堂も応じる。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
互いに道を譲り、必要以上に足を止めない。向こうの装備には泥が増えていたが、歩調に大きな乱れはない。最後尾の探索者が軽く会釈し、そのまま遠ざかった。
四人は荷物を背負い直した。ベルトを引く音、弓を戻す音、盾を腕へ固定する音が順に続く。立ち上がったとき、康一の脚には休んだあとのわずかな重さがあった。数歩進めば消える程度のものだ。
「再開します」
藤堂の声で、四人は再び歩き出した。
その後もしばらく、何も起きなかった。
分岐を確認し、根をまたぎ、狭い場所では一人ずつ通る。久我が足を止めて削れ跡を見ても、古いと判断すれば追わない。南雲が記録と周囲を照合し、康一が後ろを振り返る。藤堂は一定の間隔で時刻を見る。誰かが喉を潤し、誰かが荷物を持ち替える。その間にも時間だけは進んでいく。
探索者の仕事は、敵を倒した瞬間だけで決まらない。何も起きない場所で注意を切らさず、何も得られない区間に見切りをつけ、得たものを持ったまま帰れるように余裕を残す。康一は前を歩く三人の位置を見ながら、自分の呼吸と足の運びを一定に保った。
今の収益だけで大当たりとは言えない。それでも負傷も装備損耗もなく、時間は残っている。魔石は一つ確保した。次の区切りまで進み、何もなければ予定どおり戻れる。
今日は悪くない。
*
次の曲がりへ近づいたところで、久我の手が上がった。
四人が止まる。
康一は前を見たまま呼吸を浅くし、足を置いた位置から動かさない。背後で南雲の装備が一度だけ小さく鳴り、それも止んだ。
「前。重いのがいる」
久我の視線の先で、根の影がゆっくり動いた。
硬いものが床を擦る低い音がする。太い根の向こうから、低い影が幅のある場所へ出ようとしていた。肩から背にかけて樹皮のような硬い外皮が重なり、頭も正面から見れば厚く覆われている。樹甲獣が一体だった。
根穿虫より大きな体が動くたび、足元の土が押される。湿った樹皮に似た匂いが強まった気がしたが、康一は匂いだけで距離を測ろうとはしなかった。目で位置を追い、四人が動ける幅と、根の張り出しを確かめる。
康一は距離を取り、短槍を構え直した。ここで見るには少し早い。普段の感覚より出入り口側に近い気もする。けれど、単独の一体なら、それだけでおかしいとは言えない範囲だった。樹甲獣がこちらへ突進したわけでも、見慣れない動きをしているわけでもない。
「探す手間が省けたな」
久我の声には警戒と同じくらい、収益を見つけた手応えがあった。長柄斧を持つ手はすでに下がり、振り始める前の位置へ収まっている。
「さっきの休憩で、獲物が向こうから来た場合は別だと言ってましたね」
康一が小声で言う。
「休憩はもう終わってる。だから都合がいい」
「久我さんに都合よく解釈されています」
南雲は言いながらも、すでに周囲と後方を確認していた。
藤堂は樹甲獣だけでなく、周囲の根と足場を見た。正面から受け止めるのではなく、進路をずらす余地があるか。四人が互いの動きを塞がずに位置を変えられるか。目で追える範囲を確認してから、時刻にも目を落とす。
「時間はあります。ここなら動けます」
「接触、記録します」
南雲が現在位置を確かめ、必要な操作だけを済ませた。入力のために視線を落としている時間は短い。すぐに端末を収め、弓へ持ち替える。
康一は目の前の樹甲獣へ意識を戻し、短槍の穂先を据えた。【解析】は使わない。今必要なのは特別な答えではなく、見えている相手と足場、三人の位置を確かめることだった。
藤堂が盾と片手剣の位置を整えた。久我は長柄斧を低く構え、南雲は射線を探す。康一も二人の間を塞がず、樹甲獣が動いたときに横へ逃がせる位置へ移った。
手袋の内側で、指が槍の柄を握り直す。休憩で落ち着いた呼吸が、また少し深くなる。汗の乾いた首筋へ、回廊の湿った空気が触れた。
樹甲獣はまだ突進していない。低い体をこちらへ向け、重い足を一歩だけ前へ出した。
「準備は」
藤堂が短く問う。
「できてる」
「問題ありません」
久我と南雲が答える。
「こちらも」
康一も短く返した。
魔石一つを得て、時間にも余裕がある。四人とも動けて、装備にも問題はない。そのうえ、次の獲物は向こうから現れた。
今日は獲物に恵まれているらしい。




