四人目 灰水の聖徒、ニナ・グラント①
「四人目です」
セリアは、四枚目の聴取録を神官長の前に置いた。
神官長は、表題より先に、途中の一行で目を止めた。
灰谷地方。
水害後の井戸汚染。
清水配給、百十四名。
救命者、百十四名。
その横に、セリアの筆で別の数字が書き添えられている。
救命者、百十二名。
「これは?」
「本人の訂正です」
「清水配給は百十四名のまま、救命者だけが百十二名になっている?」
「その通りです」
神官長は、そこで初めて四枚目の表題を読んだ。
「灰水の聖徒、ニナ・グラント」
ニナ・グラント。
地方神殿推薦。水質浄化の奇跡持ち。
王都での名は薄い。
だが、洪水、井戸の濁り、避難所の水場では、彼女の名が何度も残っている。
医師や薬師が着く前に、飲める水を戻す。
救済の分野では、本命候補と見てよい人物だった。
机の上には、すでに三枚の聴取録が並んでいる。
一枚目。白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。
二枚目。群青の祈り子、エステル・ノーラ。
三枚目。黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン。
三枚の末尾には、同じ名があった。
マルタ。
神官長は、四枚目の末尾へ視線を落とした。
そこにも、同じ名があった。
「四人目も、この名ですか?」
「同じ名です」
セリアは答えた。
「四人とも、次代聖女になる意思があります。四人とも、他候補との申し合わせを否定しています」
「そして四人とも、候補者名簿にない人物を推薦している」
「その通りです」
神官長は、もう一度、灰谷地方の記録を見た。
「十分な実績に見えます」
「記録上は、そう見えます」
「本人の証言では違うのですね?」
「違います」
神官長は、四枚目の聴取録をセリアへ戻した。
「続けてください」
「本人の証言から参ります」
◇
聴取室へ入ってきたニナ・グラントは、薄い灰色の修道服を着ていた。
年は二十歳前後。
髪は短くまとめられ、飾りはない。
袖口は、何度も洗われて色が薄くなっている。
椅子へ座る前、彼女は扉の脇に置かれた水差しを一度見た。
セリアは、確認票の一行目に指を置いた。
「ニナ・グラント。あなたは、次代聖女になる意思がありますね?」
「あります」
ニナはすぐに答えた。
けれど、次の息で言い直した。
「……いえ。聖女になりたい、とは少し違います。候補から逃げる気がない、ということです」
望みます、ではない。
逃げる気がない、だった。
「救済の場に立つ意思も、同じですか?」
「水場には戻ります」
「戻る?」
「呼ばれれば行きます。井戸でも、川でも、避難所でも」
ニナは、扉の脇の水差しを一度見た。
「水が濁った場所で、私だけ綺麗な部屋にいるわけにはいきません」
セリアは、その言葉を記録した。
「他候補から、辞退や推薦を求められたことはありますか?」
「ありません」
「特定の人物を推薦するよう、誰かから頼まれたことは?」
「それもありません」
そこで、ニナは少しだけ眉を寄せた。
「頼まれて出す名ではありません。そういうものは」
答えは短い。
けれど、雑なのではなかった。
余計な言葉を足さない。
違うものは、違うと言う。
そういう短さだった。
セリアは、最後の欄へ移った。
「他に、次代聖女にふさわしいと思う人物はいますか?」
ニナは、そこで初めて黙った。
早く答えられるはずの問いだった。
それでも、すぐには口にしなかった。
「います」
「誰ですか?」
「マルタ先生です」
「確認します。聖イリア孤児院の、マルタ院長ですね?」
「マルタ先生です」
同じ言い方だった。
訂正ではない。
譲らない、という声だった。
「院長ではなく?」
「院長なのは知っています」
ニナは、膝の上で手を組み直した。
「でも、私が推薦するのは肩書きではありません。マルタ先生です」
「この名は、四人目です」
ニナの目が、わずかに揺れた。
「……私だけでは、なかったのですね」
「回答を変えますか?」
「変えません」
「あなた自身が聖女になる意思は?」
「候補から逃げる気はありません」
「そのうえで、マルタ先生を推薦する」
「そうです」
ニナは、まっすぐセリアを見た。
「そのうえで、マルタ先生です」
セリアは、確認票を開き直した。
「理由を聞かせてください」
ニナは、すぐには答えなかった。
「調査官殿は、三年前、灰谷地方で起きたロウ川の氾濫をご存知ですか?」
「記録では確認しています。水害のあと、村の井戸が汚染された件ですね」
セリアは、別紙を引き寄せた。
灰谷地方。
水害後の井戸汚染。
清水配給、百十四名。
救命者、百十四名。
「この件ですね。井戸が使えなくなった村で、ニナ様が水を清め、多くの村人を救った記録と承知しています」
「水を清めたのは、事実です」
ニナは、記録の一行を指さした。
「ただ、ここは違います」
セリアの視線が、指先を追った。
救命者、百十四名。
「百十二名です」
ニナの膝の上で、重ねられた手に力が入った。
薄い灰色の修道服に、小さな皺が寄る。
「二人、救えませんでした」
◇
灰谷地方は、王都から馬車で三日かかる山間の村だった。
三年前の春、ロウ川があふれた。
雨は二日でやんだが、家畜小屋の汚水が村の井戸へ流れ込んだ。
最初に腹を壊したのは子どもだった。
次に老人が倒れた。
村の神殿だけでは手が足りず、近隣の神殿へ救援要請が出た。
ニナが到着した時、広場には水を求める人が集まっていた。
「聖徒様が来たぞ!」
「水を、早く!」
「子どもが吐いてるんだ!」
誰も順番を待てない。
待てる者から倒れていく。
神官が井戸の周りを空けた。
ニナは井戸の縁に両手を置いた。
泥と家畜小屋の匂いが、下から上がってくる。
釣瓶の底で揺れる水は、灰色に濁っていた。
「すぐに飲めるようになりますか?」
神官が聞いた。
「量が多いです。最初の水は捨ててください」
ニナは井戸の底を見たまま言った。
「匂いが戻るなら、まだ飲ませないで」
広場の向こうで、子どもが吐いた。
母親が、その背を抱えている。
「早くしてくれ!」
誰かが叫んだ。
ニナは返事をしなかった。
井戸の石に額がつきそうなほど身を寄せ、短く祈った。
水面の濁りは、すぐには消えなかった。
底から黒い筋がほどけるように沈んでいく。
泥の色が薄くなる。
家畜小屋の匂いが、少しずつ遠のく。
一度目に汲み上げた水は、まだ濁っていた。
「捨ててください」
二度目も、木椀の底に細かな砂が残った。
「まだです」
神官の顔が焦りに変わる。
広場では、器を持った手がいくつも伸びていた。
三度目。
木椀の水から、嫌な匂いが消えていた。
神官が先に口をつける。
一口飲んで、息を止めた。
それから、喉が動く。
「飲める!」
その声で、広場が動いた。
器を持つ手が前へ出る。
泣いていた子が、母親に支えられて水を飲む。
老人が、こぼしながら喉を鳴らす。
若い男が、桶を抱えて走っていく。
ニナは井戸の縁から手を離した。
立っているつもりだったが、膝が先に落ちた。
それでも、広場の声は変わった。
「助かった」
「これで水が飲める」
「聖徒様だ」
神官が、ニナの隣で息をついた。
「これで百名以上は救えます」
ニナは、井戸を見た。
さっきまで濁っていた水が、釣瓶の中で揺れている。
水は清まった。
清まった水が、次々に木椀へ移されていく。
神官が名前を確認し、救護員が印をつける。
清水配給。
一人。
二人。
三人。
泣いていた子が、水を飲んだ。
倒れていた老人が、少しだけ顔を上げた。
記録の数は増えていく。
ニナは井戸のそばに座り込んだまま、差し出される桶に手を伸ばした。
水の匂いを確かめ、まだ濁りが残っていれば戻す。
飲める水だけを、前へ送る。
広場の端に、空の木椀を持ったまま座っている子がいた。
ニナの目は、次に差し出された桶へ移った。
その日の夕方、神官は最初の報告を作っていた。
清水配給、百十四名。
神官は、そこで一度、筆を止めた。
「これだけ飲めれば、ひとまず命はつながります」
ニナは、井戸の縁に手を置いていた。
返事をする力は残っていなかった。
広場では、水を飲んだ者たちが日陰へ移されていた。
母親が子の背をさすり、若い男が桶を抱えて走り、神官たちが次の井戸の有無を聞いて回っている。
水は、飲めるようになった。
その日の記録には、そう書けた。
◇
神官長は、聴取録から顔を上げた。
「ここまでは、救済の記録に見えます」
「記録だけなら、そう見えます」
セリアは、四枚目の聴取録を閉じなかった。
「ですが、本人は救命者を百十二名と訂正しています」
「二名について、次頁にあるのですね?」
「あります」
セリアは、次の頁をめくった。
次の頁の最初の行には、こうあった。
『翌朝死んだ二人は、救命者の欄に残っていました』




