三人目 黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン②
「その夜のことを、聞かせてください」
セリアが言うと、ヴィオラ・ローゼンはすぐには答えなかった。
「知らせが届いたのは、夕食のあとでした」
「聖イリア孤児院からですね」
「はい」
ヴィオラは、白い手袋を見なかった。
「子どもたちが吐いている、と」
◇
その夜、ヴィオラは寝室へ戻るところだった。
昼に見た孤児院の庭が、まだ頭に残っていた。
白パンを抱える子。
果物を見て笑う子。
乳菓子を頬につけた子。
あの子たちが、今日だけは腹いっぱいになった。
そう思っていた。
廊下の向こうから、使用人が走ってきた。
「お嬢様!」
「何事です?」
使用人は、頭を下げたまま早口で言った。
「聖イリア孤児院から使いが参りました」
「孤児院から?」
「子どもたちが、何人も吐いているそうです」
「……吐いている?」
ヴィオラは、聞き返した。
「腹の痛みもあると。小さい子も、病み上がりの子も……」
そこで、言葉の意味が入ってきた。
乳菓子。
昼の陽気。
長机の上に置かれた白い皿。
マルタの声が、遅れて戻ってきた。
乳を使った菓子は、先に中へ入れます。
「お父様は?」
「もう書斎に」
ヴィオラは、廊下へ出た。
父の書斎の扉は開いていた。
ローゼン伯は、外套を羽織りながら使用人へ命じていた。
「医師を呼べ! 薬草庫を開けろ。馬車も出せ」
「はい!」
「神殿にも知らせろ。費用はこちらで持つ」
屋敷の者たちが走った。
ローゼン家の名を出せば、夜でも人が動く。
医師も、薬草も、馬車も動く。
ヴィオラは、それを知っていた。
「わたくしも行きます」
「来るな」
「行きます!」
「ヴィオラ」
父の声が低くなった。
「これは家で処理する」
「わたくしの名前で出した食事です」
「だからだ。お前を出すわけにはいかない」
「子どもたちは、今、吐いているのでしょう!?」
父が黙った。
ヴィオラは、自分の声が廊下に響いたことに気づいた。
けれど、下げなかった。
「わたくしが見ないで、どうするのですか」
父は、すぐには答えなかった。
廊下の向こうで、馬車の用意を命じる声がした。
薬草庫の鍵を探す音も聞こえる。
父は短く言った。
「馬車へ」
◇
夜の聖イリア孤児院は、昼とはまるで違っていた。
前庭の長机は片づけられていた。
白い布もない。
食事の皿もない。
建物の中から、泣き声が聞こえた。
玄関へ入った瞬間、すっぱい匂いがした。
床に桶が置かれている。
布を抱えた寮母が走っていく。
別の部屋から、子どもの声がした。
「おなか、いたい!」
「みず……」
「やだ、やだぁ……」
ヴィオラは口元を押さえた。
それでも、父の後ろへは下がらなかった。
昼に笑っていた子どもたちだった。
白パンを抱えていた子。
果物を見ていた子。
乳菓子を食べていた子。
その子たちが、今は布団の上で丸くなっていた。
「医師は!?」
ヴィオラは、近くの職員に聞いた。
「呼びに出ています。まだです!」
「薬草は?」
「湯を沸かしています。薬にするには時間がかかります」
「桶と布は?」
「足りません!」
昼にも聞いた言葉だった。
昼は、食べ物が足りなかった。
今は、桶と布と人の手が足りなかった。
ヴィオラは、すぐに言った。
「ローゼン家の馬車を使ってください。医師をもう一人呼びます。薬草も運ばせます。布も、桶も、湯も、必要なものはすべて出します」
「お願いします」
返事をしたのは、マルタだった。
当時、マルタはまだ院長ではなかった。
聖イリア孤児院の寮母長だった。
昼と同じ灰色の前掛けをしている。
けれど、袖はもう汚れていた。
髪も乱れている。
マルタは、ヴィオラではなく、布団の子を見ていた。
「伯爵様は、医師を。薬草と馬車もお願いします」
「分かった」
父はすぐにうなずいた。
「使える者は全員出す。必要な物は、屋敷から運ばせる」
「では、急いでください!」
父と使用人たちは玄関へ戻った。
医師を呼ぶ者。
薬草を取りに戻る者。
神殿へ知らせる者。
ローゼン家は、動いていた。
マルタは次に、ヴィオラを見た。
「ヴィオラ様は、こちらへ」
「わ、わたくしが!?」
「この子の背中を支えてください」
父が振り返った。
「娘は」
「伯爵様は、医師を」
マルタは父へ言い、それからヴィオラへ向き直った。
「ヴィオラ様。そこにいられるなら、手を貸してください!」
小さな女の子が、寝台の上で体を丸めていた。
顔色が悪い。
口元に布が当てられている。
「吐きそうになったら、顔を横へ。水は一口だけです。飲ませすぎないでください」
「でも、わたくしは」
「手を貸してください」
今度の声は、短かった。
ヴィオラは膝をついた。
白い手袋のまま、女の子の背中に手を添える。
細かった。
驚くほど細かった。
「顔を横へ!」
マルタの声が飛んだ。
ヴィオラは慌てて、女の子の肩を支えた。
女の子が吐いた。
布が汚れた。
ヴィオラの袖にもかかった。
「……っ」
ヴィオラは口を結んだ。
「水を」
「一口です」
「でも、欲しがっています」
「だから一口です。吐いたばかりでしょう!」
ヴィオラは、器を受け取った。
手が震えて、水が少しこぼれた。
「急がないで」
「……はい」
女の子は、水を一口だけ飲んだ。
また苦しそうに目を閉じた。
「おなか、いたい」
「……はい」
ヴィオラは、何と返せばいいか分からなかった。
大丈夫です、と言いそうになった。
でも、大丈夫ではなかった。
この子は今、痛がっている。
ヴィオラは、背中を支えたまま言った。
「ここにいます」
女の子の指が、ヴィオラの袖をつかんだ。
◇
部屋の中では、マルタの声が何度も飛んだ。
「その子は横向きに!」
「水は少しずつ!」
「吐いた布は外へ」
「桶を洗って戻してください」
「泣くならあとです。手を動かしてください!」
寮母たちが動く。
職員が走る。
「神殿の方、その桶を外へ!」
「ローゼン家の方は、布をこちらへ」
「手が空いた方は、湯を運んでください!」
マルタの指示は、神殿の者にも、ローゼン家の使用人にも飛んだ。
部屋の外では、父の声がしていた。
「薬草はまだか!」
「医師をもう一人探せ」
「馬車を止めるな。戻ったらすぐ次を出せ!」
父は外で、人と物を動かしていた。
ヴィオラは中で、女の子の背中を支えていた。
最初は、言われた通りにするだけだった。
吐いたら顔を横へ。
水は一口。
布を替える。
背中をさする。
それだけで、時間が過ぎていく。
医師はまだ来ない。
「医師は、まだですか?」
「向かっています」
「薬は?」
「作っています」
マルタは、別の子の口元を拭きながら答えた。
「今は、この子の顔を横へ!」
女の子がまた体を丸めた。
ヴィオラは、先に動いた。
肩を支え、顔を横へ向ける。
「そこの布をください!」
近くにいた使用人が、新しい布を渡した。
ヴィオラは受け取り、女の子の口元を拭いた。
汚れた布を見て、使用人が手を伸ばす。
「お嬢様、私が」
「だめ!」
「お嬢様」
「……次の布をください。この子、また吐きます」
ヴィオラは、汚れた布を離さなかった。
使用人は一瞬黙り、すぐに新しい布を取りに走った。
マルタが、こちらを見た。
何も褒めなかった。
ヴィオラは、汚れた布を握ったまま、次の布を待った。
◇
夜が深くなるころ、医師が到着した。
薬も届いた。
追加の布も、桶も、湯も届いた。
ローゼン家の名は、確かに役に立った。
医師は子どもたちを診て、薬を分けた。
重い子から順番に手当てが始まった。
ヴィオラにも、戻るように言う者がいた。
「お嬢様、ここからは医師と寮母の仕事です」
「屋敷へお戻りください」
「旦那様も、そのように」
ヴィオラは、女の子の寝台の横にいた。
女の子は、少しだけ眠っている。
まだ顔色は悪い。
でも、さっきより息が落ち着いていた。
ヴィオラは、自分の手を見た。
白い手袋は、もう白くなかった。
袖にも汚れがついている。
指先には、水と薬の匂いが残っていた。
「戻りません」
「ですが」
「この子が起きたら、水を一口飲ませます」
ヴィオラは、寝台の横から動かなかった。
「それまでは、ここにいます」
別の寝台で、男の子が苦しそうに咳き込んだ。
マルタは、まだ別の子を見ていた。
手が足りない。
ヴィオラは立った。
桶を取る。
布を取る。
男の子の横へ行く。
「顔を横へ」
さっきマルタに言われた言葉だった。
今度は、ヴィオラが言った。
男の子が吐いた。
ヴィオラは逃げなかった。
背中を支えた。
布で口元を拭いた。
水を一口だけ飲ませた。
「また、飲める?」
男の子が、小さな声で聞いた。
昼、菓子を口いっぱいに詰め込んだ子だった。
ヴィオラは、器を持ったまま答えた。
「飲めます」
男の子は、まだ疑っている顔をしていた。
ヴィオラは、もう一度言った。
「今は一口です。でも、また飲めます」
男の子は、少しだけうなずいた。
◇
聴取室で、ヴィオラはしばらく黙っていた。
セリアは、聴取録から顔を上げた。
「医師は間に合ったのですね」
「はい。夜半には」
「薬や布も届いた」
「届きました」
ヴィオラは、そこは迷わなかった。
「ローゼン家のものは、役に立ちました。医師も、薬も、布も、桶も、必要でした」
「ローゼン家の慈善が、間違いだったとは思っていない」
「思っておりません」
ヴィオラは、はっきり答えた。
「お金で助かる命はあります。家の名で開く扉もあります。それは、今も変わりません」
セリアは、筆を止めた。
「それでも、あなたはマルタ院長を推薦する」
「はい」
ヴィオラは、そこで初めて白い手袋を見た。
「あの夜だけの話ではありません」
セリアは、何も挟まなかった。
「あの夜から、わたくしは物を渡したあとを確認するようになりました」
ヴィオラは、はっきり言った。
「食べ物を届ける日は、子どもたちが食べ終わるところまで見ます。小さい子に多すぎないか。病み上がりの子に合っているか。急いで口へ詰め込んでいないか。そこまで確かめます」
セリアの筆が、紙の上で止まっていた。
「毛布なら、誰の寝台に届いたかを見ます。薬草なら、誰が煎じるのかを聞きます」
「その確認を、マルタ院長に続けていたのですね」
「はい」
ヴィオラは、まっすぐ答えた。
「寄付の前に、何度も聖イリアへ行きました。何度も止められました。何度も直されました」
少しだけ、声が低くなった。
「食べ物を出すなら、食べる子の顔を見てください」
「マルタ院長の言葉ですか」
「はい」
ヴィオラは続けた。
「薬草を送るなら、煎じる人の手も見てください」
「はい」
「毛布を送るなら、積まれた数ではなく、寝ている子の肩を見てください」
セリアは、何も言わなかった。
「わたくしは、足りない物を集めることはできます。でも、その物を誰が使うのか、誰には合わないのか、そこまで見ることを、マルタ先生に教わりました」
セリアは、三枚目の聴取録へ視線を落とした。
「だから、マルタ院長を推薦した」
「はい」
ヴィオラは、迷わなかった。
「わたくしは今も、寄付の前に確認します。誰が使うのか。誰が配るのか。誰には合わないのか。そうするようになったのは、マルタ先生に何度も止められたからです」
そこで、はっきり言った。
「だから、わたくしはマルタ先生を推薦しました」




