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五十歳、聖女候補です。(他薦)  作者: あゆと


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6/8

三人目 黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン②

「その夜のことを、聞かせてください」


セリアが言うと、ヴィオラ・ローゼンはすぐには答えなかった。


「知らせが届いたのは、夕食のあとでした」

「聖イリア孤児院からですね」

「はい」


ヴィオラは、白い手袋を見なかった。


「子どもたちが吐いている、と」



その夜、ヴィオラは寝室へ戻るところだった。


昼に見た孤児院の庭が、まだ頭に残っていた。


白パンを抱える子。

果物を見て笑う子。

乳菓子を頬につけた子。


あの子たちが、今日だけは腹いっぱいになった。

そう思っていた。


廊下の向こうから、使用人が走ってきた。


「お嬢様!」

「何事です?」


使用人は、頭を下げたまま早口で言った。


「聖イリア孤児院から使いが参りました」

「孤児院から?」

「子どもたちが、何人も吐いているそうです」

「……吐いている?」


ヴィオラは、聞き返した。


「腹の痛みもあると。小さい子も、病み上がりの子も……」


そこで、言葉の意味が入ってきた。


乳菓子。

昼の陽気。

長机の上に置かれた白い皿。


マルタの声が、遅れて戻ってきた。


乳を使った菓子は、先に中へ入れます。


「お父様は?」

「もう書斎に」


ヴィオラは、廊下へ出た。


父の書斎の扉は開いていた。

ローゼン伯は、外套を羽織りながら使用人へ命じていた。


「医師を呼べ! 薬草庫を開けろ。馬車も出せ」

「はい!」

「神殿にも知らせろ。費用はこちらで持つ」


屋敷の者たちが走った。


ローゼン家の名を出せば、夜でも人が動く。

医師も、薬草も、馬車も動く。


ヴィオラは、それを知っていた。


「わたくしも行きます」

「来るな」

「行きます!」

「ヴィオラ」


父の声が低くなった。


「これは家で処理する」

「わたくしの名前で出した食事です」

「だからだ。お前を出すわけにはいかない」

「子どもたちは、今、吐いているのでしょう!?」


父が黙った。


ヴィオラは、自分の声が廊下に響いたことに気づいた。

けれど、下げなかった。


「わたくしが見ないで、どうするのですか」


父は、すぐには答えなかった。


廊下の向こうで、馬車の用意を命じる声がした。

薬草庫の鍵を探す音も聞こえる。


父は短く言った。


「馬車へ」



夜の聖イリア孤児院は、昼とはまるで違っていた。


前庭の長机は片づけられていた。

白い布もない。

食事の皿もない。


建物の中から、泣き声が聞こえた。


玄関へ入った瞬間、すっぱい匂いがした。


床に桶が置かれている。

布を抱えた寮母が走っていく。

別の部屋から、子どもの声がした。


「おなか、いたい!」

「みず……」

「やだ、やだぁ……」


ヴィオラは口元を押さえた。

それでも、父の後ろへは下がらなかった。


昼に笑っていた子どもたちだった。


白パンを抱えていた子。

果物を見ていた子。

乳菓子を食べていた子。


その子たちが、今は布団の上で丸くなっていた。


「医師は!?」


ヴィオラは、近くの職員に聞いた。


「呼びに出ています。まだです!」

「薬草は?」

「湯を沸かしています。薬にするには時間がかかります」

「桶と布は?」

「足りません!」


昼にも聞いた言葉だった。


昼は、食べ物が足りなかった。

今は、桶と布と人の手が足りなかった。


ヴィオラは、すぐに言った。


「ローゼン家の馬車を使ってください。医師をもう一人呼びます。薬草も運ばせます。布も、桶も、湯も、必要なものはすべて出します」


「お願いします」


返事をしたのは、マルタだった。


当時、マルタはまだ院長ではなかった。

聖イリア孤児院の寮母長だった。


昼と同じ灰色の前掛けをしている。

けれど、袖はもう汚れていた。

髪も乱れている。


マルタは、ヴィオラではなく、布団の子を見ていた。


「伯爵様は、医師を。薬草と馬車もお願いします」

「分かった」


父はすぐにうなずいた。


「使える者は全員出す。必要な物は、屋敷から運ばせる」

「では、急いでください!」


父と使用人たちは玄関へ戻った。

医師を呼ぶ者。

薬草を取りに戻る者。

神殿へ知らせる者。


ローゼン家は、動いていた。


マルタは次に、ヴィオラを見た。


「ヴィオラ様は、こちらへ」

「わ、わたくしが!?」

「この子の背中を支えてください」


父が振り返った。


「娘は」

「伯爵様は、医師を」


マルタは父へ言い、それからヴィオラへ向き直った。


「ヴィオラ様。そこにいられるなら、手を貸してください!」


小さな女の子が、寝台の上で体を丸めていた。

顔色が悪い。

口元に布が当てられている。


「吐きそうになったら、顔を横へ。水は一口だけです。飲ませすぎないでください」

「でも、わたくしは」

「手を貸してください」


今度の声は、短かった。


ヴィオラは膝をついた。

白い手袋のまま、女の子の背中に手を添える。


細かった。

驚くほど細かった。


「顔を横へ!」


マルタの声が飛んだ。


ヴィオラは慌てて、女の子の肩を支えた。

女の子が吐いた。


布が汚れた。

ヴィオラの袖にもかかった。


「……っ」


ヴィオラは口を結んだ。


「水を」

「一口です」

「でも、欲しがっています」

「だから一口です。吐いたばかりでしょう!」


ヴィオラは、器を受け取った。

手が震えて、水が少しこぼれた。


「急がないで」

「……はい」


女の子は、水を一口だけ飲んだ。

また苦しそうに目を閉じた。


「おなか、いたい」

「……はい」


ヴィオラは、何と返せばいいか分からなかった。


大丈夫です、と言いそうになった。

でも、大丈夫ではなかった。


この子は今、痛がっている。


ヴィオラは、背中を支えたまま言った。


「ここにいます」


女の子の指が、ヴィオラの袖をつかんだ。



部屋の中では、マルタの声が何度も飛んだ。


「その子は横向きに!」

「水は少しずつ!」

「吐いた布は外へ」

「桶を洗って戻してください」

「泣くならあとです。手を動かしてください!」


寮母たちが動く。

職員が走る。


「神殿の方、その桶を外へ!」

「ローゼン家の方は、布をこちらへ」

「手が空いた方は、湯を運んでください!」


マルタの指示は、神殿の者にも、ローゼン家の使用人にも飛んだ。


部屋の外では、父の声がしていた。


「薬草はまだか!」

「医師をもう一人探せ」

「馬車を止めるな。戻ったらすぐ次を出せ!」


父は外で、人と物を動かしていた。


ヴィオラは中で、女の子の背中を支えていた。


最初は、言われた通りにするだけだった。


吐いたら顔を横へ。

水は一口。

布を替える。

背中をさする。


それだけで、時間が過ぎていく。


医師はまだ来ない。


「医師は、まだですか?」

「向かっています」

「薬は?」

「作っています」


マルタは、別の子の口元を拭きながら答えた。


「今は、この子の顔を横へ!」


女の子がまた体を丸めた。


ヴィオラは、先に動いた。

肩を支え、顔を横へ向ける。


「そこの布をください!」


近くにいた使用人が、新しい布を渡した。

ヴィオラは受け取り、女の子の口元を拭いた。


汚れた布を見て、使用人が手を伸ばす。


「お嬢様、私が」

「だめ!」

「お嬢様」

「……次の布をください。この子、また吐きます」


ヴィオラは、汚れた布を離さなかった。


使用人は一瞬黙り、すぐに新しい布を取りに走った。


マルタが、こちらを見た。

何も褒めなかった。


ヴィオラは、汚れた布を握ったまま、次の布を待った。



夜が深くなるころ、医師が到着した。


薬も届いた。

追加の布も、桶も、湯も届いた。


ローゼン家の名は、確かに役に立った。


医師は子どもたちを診て、薬を分けた。

重い子から順番に手当てが始まった。


ヴィオラにも、戻るように言う者がいた。


「お嬢様、ここからは医師と寮母の仕事です」

「屋敷へお戻りください」

「旦那様も、そのように」


ヴィオラは、女の子の寝台の横にいた。


女の子は、少しだけ眠っている。

まだ顔色は悪い。

でも、さっきより息が落ち着いていた。


ヴィオラは、自分の手を見た。


白い手袋は、もう白くなかった。

袖にも汚れがついている。

指先には、水と薬の匂いが残っていた。


「戻りません」

「ですが」

「この子が起きたら、水を一口飲ませます」


ヴィオラは、寝台の横から動かなかった。


「それまでは、ここにいます」


別の寝台で、男の子が苦しそうに咳き込んだ。


マルタは、まだ別の子を見ていた。

手が足りない。


ヴィオラは立った。


桶を取る。

布を取る。

男の子の横へ行く。


「顔を横へ」


さっきマルタに言われた言葉だった。


今度は、ヴィオラが言った。


男の子が吐いた。

ヴィオラは逃げなかった。


背中を支えた。

布で口元を拭いた。

水を一口だけ飲ませた。


「また、飲める?」


男の子が、小さな声で聞いた。


昼、菓子を口いっぱいに詰め込んだ子だった。


ヴィオラは、器を持ったまま答えた。


「飲めます」


男の子は、まだ疑っている顔をしていた。


ヴィオラは、もう一度言った。


「今は一口です。でも、また飲めます」


男の子は、少しだけうなずいた。



聴取室で、ヴィオラはしばらく黙っていた。


セリアは、聴取録から顔を上げた。


「医師は間に合ったのですね」

「はい。夜半には」

「薬や布も届いた」

「届きました」


ヴィオラは、そこは迷わなかった。


「ローゼン家のものは、役に立ちました。医師も、薬も、布も、桶も、必要でした」

「ローゼン家の慈善が、間違いだったとは思っていない」

「思っておりません」


ヴィオラは、はっきり答えた。


「お金で助かる命はあります。家の名で開く扉もあります。それは、今も変わりません」


セリアは、筆を止めた。


「それでも、あなたはマルタ院長を推薦する」

「はい」


ヴィオラは、そこで初めて白い手袋を見た。


「あの夜だけの話ではありません」


セリアは、何も挟まなかった。


「あの夜から、わたくしは物を渡したあとを確認するようになりました」


ヴィオラは、はっきり言った。


「食べ物を届ける日は、子どもたちが食べ終わるところまで見ます。小さい子に多すぎないか。病み上がりの子に合っているか。急いで口へ詰め込んでいないか。そこまで確かめます」


セリアの筆が、紙の上で止まっていた。


「毛布なら、誰の寝台に届いたかを見ます。薬草なら、誰が煎じるのかを聞きます」


「その確認を、マルタ院長に続けていたのですね」

「はい」


ヴィオラは、まっすぐ答えた。


「寄付の前に、何度も聖イリアへ行きました。何度も止められました。何度も直されました」


少しだけ、声が低くなった。


「食べ物を出すなら、食べる子の顔を見てください」

「マルタ院長の言葉ですか」

「はい」


ヴィオラは続けた。


「薬草を送るなら、煎じる人の手も見てください」

「はい」

「毛布を送るなら、積まれた数ではなく、寝ている子の肩を見てください」


セリアは、何も言わなかった。


「わたくしは、足りない物を集めることはできます。でも、その物を誰が使うのか、誰には合わないのか、そこまで見ることを、マルタ先生に教わりました」


セリアは、三枚目の聴取録へ視線を落とした。


「だから、マルタ院長を推薦した」

「はい」


ヴィオラは、迷わなかった。


「わたくしは今も、寄付の前に確認します。誰が使うのか。誰が配るのか。誰には合わないのか。そうするようになったのは、マルタ先生に何度も止められたからです」


そこで、はっきり言った。


「だから、わたくしはマルタ先生を推薦しました」

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