三人目 黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン①
「三人目です」
セリアは、三枚目の聴取録を神官長の前に置いた。
黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン。
新興伯爵家ローゼン家の令嬢。
ローゼン家は、古い家門ではない。
王都の薬草商から伯爵位を得た家だった。
だが、神殿や孤児院にとって、ローゼン家の名は軽くなかった。
冬の薪が届く。
薬草が届く。
破れた寝具が替わる。
鍋に入れる麦が増える。
祈りでは届かない場所に、物資を届けてきた候補者だった。
神官長は、聴取録の末尾を見た。
マルタ。
三枚目にも、その名があった。
「三人続けて、同じ名ですか」
「はい」
セリアは答えた。
「三人とも、次代聖女になる意思があります。三人とも、他候補との申し合わせを否定しています」
「それで、三人とも候補者名簿にない人物を推薦している」
「はい」
神官長は、三枚目の聴取録へ視線を戻した。
「三人目からは、通常の推薦理由として扱えませんでした」
「続けてください」
セリアは、聴取録を開いた。
◇
聴取室へ入ってきたヴィオラ・ローゼンは、金色の髪を低く結っていた。
淡い蜂蜜色の上着に、深い緑の帯。
派手ではないのに、布のよさは隠せない。
椅子に座る前、ヴィオラは深く頭を下げた。
椅子へ戻る背筋は、少しも縮まなかった。
セリアは、確認票の一行目に指を置いた。
「ヴィオラ・ローゼン。あなたは、次代聖女になる意思がありますね?」
「ございます」
返答は早かった。
「理由を聞かせてください」
「わたくしには、差し出せる私財と、用いるべき家名がございます」
ヴィオラは、まっすぐセリアを見た。
「薬草は、祈りだけでは増えません。薪も、寝具も、粥場の麦も、必要です。ローゼン家の名で扉が開くなら、わたくしはその名を使うべきだと存じます」
セリアは、次の確認へ移った。
「家門から、聖女になるよう求められていますか?」
「求められてはおります」
「それは、あなたの意思と反していますか?」
「いいえ。家の望みである前に、わたくし自身の望みです」
「他候補から、辞退や推薦を求められたことはありますか?」
「ございません」
「特定の人物を推薦するよう、誰かから頼まれたことは?」
「ございません」
セリアは、最後の欄へ移った。
「他に、次代聖女にふさわしいと思う人物はいますか?」
ヴィオラは、そこで初めて黙った。
それまで淀みなく出ていた言葉が、止まった。
「...ございます」
「誰ですか?」
「マルタ先生です」
セリアは、すぐに次の質問へ進まなかった。
「確認します。聖イリア孤児院の、マルタ院長ですね?」
「はい」
セリアは、確認票を伏せた。
「ヴィオラ様。ここから先は、通常の推薦確認ではありません」
ヴィオラが、わずかに顔を上げた。
「どういう意味でしょうか」
「同じ名が三度目です」
聴取室の空気が変わった。
「一人目も、二人目も、本命候補でした。どちらも聖女になる意思がありました」
「その二人が、最後に同じ名を出しています」
ヴィオラは、すぐには答えなかった。
「……わたくしで、三人目なのですね」
「はい」
セリアは続けた。
「しかも、マルタ院長は候補者名簿にいません。この回答は、あなた一人の個人的な推薦では済まなくなります」
ヴィオラは、黙って聞いていた。
「あなたがこの名を正式に残せば、あなた自身が聖女に選ばれる可能性を狭めることになります。それでも、マルタ院長を推薦しますか?」
「推薦いたします」
今度の返答は、すぐだった。
「あなた自身が聖女になりたいという意思は、変わりませんね?」
「変わりません」
「そのうえで、マルタ院長を推薦するのですね?」
「はい」
ヴィオラの声は、震えていなかった。
「そのうえで、マルタ先生です」
セリアは、確認票を開き直した。
「理由を聞かせてください」
ヴィオラは、少しだけ息を吸った。
「わたくしが初めて、自分の名で聖イリア孤児院へ寄付をした日のことです」
「寄付ですか?」
「はい」
ヴィオラは、自分の手袋を見下ろした。
「食事を用意しました」
◇
十三歳のヴィオラは、父の隣で馬車を降りた。
聖イリア孤児院の前庭には、白い布をかけた長机が置かれていた。
小麦袋、薬箱、毛布、石鹸。
それから、食事の皿。
白パン。
肉入りのスープ。
果物。
王都の菓子店に頼んだ乳菓子。
普段の孤児院では出ないものばかりだった。
その日は、朝から暖かかった。
庭に立っているだけで、首の後ろに汗がにじむ。
神殿職員が、ヴィオラに深く頭を下げた。
「ローゼン家のご慈悲に感謝いたします」
「本日は、お嬢様のお名前でのご寄付と伺っております」
「まことに、聖女のようなお心でございます」
十三歳のヴィオラは、背筋を伸ばした。
足りない場所へ、足りない物を届ける。
家の名を、人のために使う。
それは、正しいことだと思っていた。
庭の端には、子どもたちが並んでいた。
一番前の子は、白パンを見ていた。
その後ろの子は、果物の皿から目を離せない。
もっと後ろの子は、乳菓子の皿を見て、小さく喉を鳴らした。
みんな、いつもよりきれいな服を着せられていた。
髪も濡らして撫でつけられている。
ヴィオラは、その姿を見て満足した。
今日くらいは、全員が同じものを食べればいい。
今日くらいは、腹いっぱいになればいい。
神殿職員が、子どもたちへ笑いかけた。
「では、皆さん。ローゼン家のお嬢様へ、お礼を申し上げましょう」
子どもたちは、一人ずつ礼を言った。
同じ言葉が、列の前から順番に流れていった。
ヴィオラは、一人ずつうなずいた。
そうするのが礼儀だと教わっていた。
受け取る者は礼を言う。
差し出す者は、驕らずに受け止める。
それが正しい形だと思っていた。
列の後ろで、小さな子が腹を鳴らした。
隣の子が、その子の手をつかんだ。
食事の皿へ走らないように止めているのだと、ヴィオラにも分かった。
ヴィオラは、胸が少し痛んだ。
早く食べさせてあげたい。
そう思った。
けれど、式はまだ続いていた。
神殿職員の挨拶。
父の短い言葉。
孤児院側の礼。
子どもたちの合唱。
長机の上では、乳菓子の白い皿が陽に照らされていた。
当時、マルタはまだ院長ではなかった。
聖イリア孤児院の寮母長だった。
マルタは、食事の皿を見ていた。
「乳を使った菓子は、先に中へ入れます」
神殿職員が、やわらかく笑った。
「もう少しだけお待ちください。式のあとで皆さんへお配りしますから」
「この陽気です」
「すぐ終わります」
マルタは、もう一度だけ皿を見た。
「小さい子と病み上がりの子は、量を分けます」
「もちろん、寮母の皆さんで見ていただいて結構です」
神殿職員はそう答えた。
だが、皿は長机の上に残された。
ヴィオラは、そこで口を挟まなかった。
差をつけたくなかった。
せっかく用意したのだから、みんなに同じように喜んでほしかった。
神殿職員が、最後に手を打った。
「それでは、皆さん。ローゼン家のお嬢様からの食事をいただきましょう」
子どもたちが動いた。
白パン。
スープ。
果物。
乳菓子。
皿は次々に渡された。
小さな子どもは、乳菓子を両手で持ってかじった。
病み上がりだと聞いていた子も、隣の子と同じ皿を受け取った。
マルタは、配られた皿を見ていた。
「その子は半分で」
「でも、同じ皿がいい」
「半分です」
マルタはそう言った。
別の子が、菓子を口いっぱいに詰め込んだ。
マルタが水を持って近づく。
「急がなくていいです」
「なくなる」
「なくなりません」
子どもは信じない顔をした。
ヴィオラは、そのやり取りを遠くから見ていた。
足りないものを持ってきたのだ。
今日は、なくならない。
そう思っていた。
神殿職員が、ヴィオラへ笑いかけた。
「皆、大喜びでございます」
「よかった」
ヴィオラは、そう答えた。
本当に、よかったと思っていた。
◇
聴取室で、ヴィオラはそこで言葉を切った。
セリアは、続きを急がなかった。
「王都の店に頼みました」
「食事を、ですね」
「はい。費用も惜しみませんでした。父も、神殿職員も、よい手配だと言いました」
ヴィオラは、少しだけ息を吸った。
「子どもたちは、喜んでいました」
セリアは、返事をしなかった。
「白パンを両手で抱えている子がいました。果物を見て笑っている子もいました。乳菓子を頬につけたまま、隣の子に見せている子もいました」
ヴィオラは、自分の白い手袋を見た。
「わたくしは、誇らしかったのです」
「よいことをしたのだと、本気で思っておりました」
ヴィオラは、そこで黙った。
「その夜、孤児院で食中毒が起きました」




