二人目 群青の祈り子、エステル・ノーラ②
セリアは、二枚目の聴取録の次頁をめくった。
次の頁の最初の行には、こうあった。
『その夜、リナが泣いた。』
神官長は、その一行を読んだ。
「妹の名ですか?」
「リナ。エステル・ノーラの妹です」
◇
その夜、リナが泣いた。
食堂の灯りは落ちていた。
寝室には、薄い毛布のこすれる音と、小さな寝息が重なっている。
最初は、声にもならない息だった。
次に、喉の奥で引っかかる音がした。
エステルの手は、考えるより先に動いた。
「泣くな! 弱みを見せちゃだめ!」
リナの口を押さえる。
リナの涙が、エステルの指を濡らした。
小さい手が、エステルの袖をつかんでいる。
「リナ、お願い! 声、出さないで……!」
低く言った。
リナの肩が跳ねた。
「手を離しなさい」
寝台の間から声がした。
エステルは動かなかった。
マルタが、寝室の入口に立っていた。
「手を離しなさい」
「だめ……」
「なぜですか?」
エステルは、リナの口を押さえたまま息を止めた。
「リナが泣いたって見られる……ミロの咳も見られる……面倒な子だって思われて捨てられちゃう……!」
大人は、手がかかる子を嫌う。
ちゃんとしていない子を嫌う。
泣く子を、嫌う。
面倒になったら捨てられる。
「……リナは今、泣いています」
「だから私が止めてるの!」
マルタは、エステルを叱らなかった。
それが、余計に腹立たしかった。
「この子、ちゃんとできないんだよ」
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、じゃない!」
マルタは近づいてきた。
エステルの手首をつかむでもなく、リナを抱き上げるでもなく、まず床に座った。
冷たい床に、そのまま座った。
「リナ」
エステルは、少しだけ息を止めた。
リナは泣きながら、目だけを動かした。
「泣いていいですよ」
エステルの手に、力が入った。
「だめ……!」
「エステル」
今度は、自分の名前だった。
「手を離しなさい」
「離したら、この子は泣く」
「泣きますね」
「泣いたら、だめなの! また捨てられる!」
「そんなことはしません。ここでなら泣いてもいいんです。だから、手を離しなさい」
マルタは、エステルの手に自分の手を添えた。
ゆっくり、リナの口から離させた。
マルタはリナの隣に座っていた。
泣き止ませようとはしなかった。
叱りもしなかった。
リナがマルタの前掛けをつかむ。
マルタは、その手を外さなかった。
エステルは、ずっと立っていた。
「泣きやませないの?」
「今は、泣いていて良いのです」
「とめてよ!」
「とめません」
「使えない……!」
自分で言って、エステルは少しだけまずいと思った。
でも、マルタは怒らなかった。
「水を持ってきます」
「いらない!」
「リナにです」
マルタは立ち上がった。
戻ってきた時、手には小さな木の杯があった。
「うぅ……」
リナは泣きながら水を飲んだ。
こぼした水が、毛布の端を濡らした。
マルタは、リナの隣にいた。
前掛けをつかむ小さな手を、外さなかった。
エステルは、それをずっと見ていた。
朝になっても、誰もリナを連れていかなかった。
◇
次の日、ミロが熱を出した。
エステルは、水桶を取りに行こうとした。
布も、薬湯も、寝台の位置も、自分が見るつもりだった。
けれど、桶はもう寝台の横にあった。
薬湯の湯気も上がっていた。
ミロの背中は、マルタの腕に支えられていた。
エステルは入口で止まった。
リナは、マルタの横に座っている。
ミロは、マルタの手から薬湯を飲んでいる。
自分がいなくても、二人はそこにいた。
「なによ……もう私、いらないじゃん」
リナが振り向いた。
ミロも、熱で赤い顔のまま目を開けた。
エステルは舌打ちした。
「いいよ……あんたが見れば! 私はもう、役に立たないんでしょ!」
寝室を出ようとした。
小さい足音が追ってきた。
リナだった。
「……おねえちゃん」
エステルは振り返らなかった。
「……その人に見てもらえばいいじゃん」
「おねえちゃんも、いて」
袖をつかまれた。
「……ねえちゃ……ん……」
ミロの声もした。
熱でかすれていた。
エステルは、リナの手を振りほどけなかった。
その人が来た。
その時になって、エステルはようやく名前を聞いた。
「マルタです」
ただ、それだけだった。
マルタは、エステルの前に椀を置いた。
薄いスープだった。
パンも一つある。
「食べなさい」
「いらないよ」
「昨日も食べていませんね」
エステルは、マルタをにらんだ。
「見てたの?」
「見えました」
「気持ち悪い!」
「そうですか」
「……怒らないの?」
「今は食事の話をしています」
エステルは、椀を押し返そうとした。
マルタは押し返さなかった。
ただ、椀をそこに置いたままにした。
「リナとミロと一緒にいたいなら、食べなさい」
エステルの手が止まった。
マルタは、ミロの額の布を替えた。
「水桶、持てますか」
エステルは返事をしなかった。
さっきまで水桶を取りに行くつもりだった手が、膝の上で震えていた。
「持てる」
「では、食べてからです」
パンを取った。
硬い。
噛んでも、なかなか飲み込めない。
リナが、マルタの横からこちらを見ていた。
ミロも、熱で赤い顔のまま目だけを向けていた。
二人とも、そこにいた。
エステルの方を見ていた。
それがまた、腹立たしかった。
エステルは、パンを全部食べた。
◇
それからも、エステルはリナの皿が少なく見えれば、自分のパンを割った。
ミロのスープが薄ければ、自分の椀を寄せた。
寒い夜は、自分の毛布をリナにかけた。
そのたびに、エステルの前には一人分が置かれた。
増やされたわけではない。特別扱いされたわけでもない。
ただ、なくならなかった。
エステルは、自分の毛布をつかんだ。
でも、リナにはもう毛布がかかっていた。
ミロの椀にも、スープが残っていた。
手の中に、行き場のない布だけが残った。
エステルは、ますますマルタが嫌いになった。
ある雨の夜、またリナが泣いた。
雷が鳴ったわけではない。
誰かに怒られたわけでもない。
ただ、寝ながら母を呼んだ。
「かあさん」
小さな声だった。
エステルの胸が、変な音を立てた。
リナはもう一度言った。
「かあさん」
エステルは布団から起き上がった。
手を伸ばした。
「泣くんじゃない! 弱みを見せちゃだめ!」
言い終わる前に、マルタがいた。
「手を離しなさい」
「だめ!」
「手を離しなさい」
「リナをだめな子にしないで!」
声が大きくなった。
寝室の子どもたちが起きた。
ミロが咳をした。
リナは泣いたまま、エステルの袖を握っている。
マルタは、リナの肩に毛布をかけた。
エステルは、その手をはたき落としそうになった。
「迷惑かけたら終わりなんだよ!」
雨の音が、屋根を叩いていた。
「リナが泣いたら、泣く子だって見られる。ミロが咳したら、面倒な子だって見られる。私が止めないと、三人とも置いてもらえない!」
リナが泣き止んだ。
ミロの咳も止まった。
エステルだけが、息を荒くしていた。
「だから私が見るの! 私がちゃんとさせるの!」
マルタは、少しだけ黙った。
「そうでしたか」
「そうだよ!」
言葉が止まらなかった。
「私が失敗したら、三人とも終わりなの! リナも、ミロも、私がちゃんとさせないと、ちゃんとしないと、ちゃんと、ちゃんと……!」
そこまで言って、声が詰まった。
「ずっと来なかったくせに!」
喉がひっくり返った。
「ちゃんとしてた……私、ちゃんとしてたのに……!」
声が大きくなった。
止めようとして、止まらなかった。
「リナ泣かせなかった! ミロをおんぶした! パンもらう時も、ちゃんと頭下げた! 怒られないように……役に立つように……いらないって言われないように……! なのに!」
そこまで言って、息が詰まった。
「誰も来なかった……」
涙が落ちた。
袖でこすった。
次の涙がすぐに落ちた。
「見るな」
こすった袖が濡れた。
鼻も出た。
息が変な音になった。
「見るなって言ってるでしょ……!」
リナの手が、エステルの袖をつかんだままだった。
ミロも寝台の上で起きていた。
「見るな! 見ないで! やだやだやだ……!」
膝が落ちた。
マルタは、すぐには手を伸ばさなかった。
伸ばしかけた手を、一度止めた。
エステルが前掛けをつかんでいる。
その指が、白くなっていた。
「……遅かったんですね」
低い声だった。
エステルは顔を上げなかった。
「遅いんだよ」
「はい」
「遅かった! 遅い、遅い、遅い!」
「はい」
エステルは前掛けを強く引いた。
「お母さんは帰ってこない! お父さんも!」
「はい」
「じゃあ何しに来たの!」
マルタは、答えなかった。
答えられなかった。
雨の音だけが、寝室に残った。
エステルは、前掛けをつかんだまま泣いた。
「……おなかすいた」
小さい声だった。
マルタの肩が、ほんの少し落ちた。
「……はい」
「ずっと。ずっと、おなかすいてた」
「はい」
「リナにあげた。ミロにあげた。私、嘘ついた。咳させた。ごめん。ごめん、ミロ。ごめん、リナ……」
ミロが布団の中で首を振った。
リナは袖をつかんだまま泣いていた。
マルタは、エステルの背中に手を置いた。
今度は、ためらわなかった。
「食べましょう」
「いらない」
「嘘です」
「いらない!」
「嘘です」
マルタの声も、もう少し震えていた。
「あなたの分があります」
エステルは首を振った。
涙も鼻水も、前掛けについた。
「いらない。私はいい。リナとミロを先に」
「あなたも先です」
「私は見る方なの!」
マルタの手が止まった。
「私は、見られる方じゃない! リナを見る。ミロを見る。ちゃんとさせる。迷惑かけないようにする。だから……だから、私の分はいらない!」
「あなたも!」
マルタの声が、そこで跳ねた。
寝室の子どもが一人、びくっと肩を揺らした。
マルタ自身も、息を止めた。
エステルは前掛けをつかんだまま、顔を上げなかった。
マルタは、言い直した。
「……食べなさい」
「いらない!」
「嘘です。あなたの分です」
エステルは、そこでまた泣いた。
声が出た。
大きくて、変な声だった。
自分の声じゃないみたいだった。
マルタは、前掛けをつかませたまま、片手でエステルの背中を押さえた。
「……ここにいて」
言ったあとで、エステルは自分の声にびくっとした。
マルタは、すぐには返事をしなかった。
前掛けをつかむエステルの指を見ていた。
「……はい」
リナが言った。
「おねえちゃんも、ないてる」
エステルは怒ろうとした。
でも、怒る声が出なかった。
ミロが布団の上で言った。
「ねえちゃん」
リナも言った。
「おねえちゃん」
エステルは、前掛けをつかんだまま泣いた。
その夜、マルタは台所へ行った。
戻ってきた手には、硬いパンと、冷めかけたスープがあった。
寝室の端に、小さな台が置かれた。
リナにも、ミロにも、別の椀があった。
エステルの前にも、あった。
泣いたのに。
◇
聴取室で、セリアは聞いた。
「その夜、あなたも泣いたのですね?」
「はい」
短い返事だった。
セリアは、修道院の評価書を見た。
泣いた記録がない。
セリアは、評価書から目を離せなかった。
「その後、どうなりましたか?」
エステルは、少しだけ眉を寄せた。
「特段なにも。朝、パンがありました。リナもいました。ミロもいました。寝る場所もありました」
エステルは淡々と言った。
「泣いたら全部取られると思っていました。でも、取られませんでした」
そこだけ、声が少し低くなった。
「マルタ先生は、すごいことをしたわけじゃありません。置いただけです。私の分を、私の前に」
エステルは、少しだけ指を組み直した。
「あの朝のパンのことは、覚えています」
「その後、私はしばらく食堂にいました」
「食堂ですか?」
「はい。皿を運んで、椀を洗って、パンの数を数えました」
「祈りより先に、数えることを覚えました」
「あなたは今でも、次代聖女になる意思がありますね?」
「はい。あります」
「そのうえで、マルタ院長の方がふさわしいと考えている」
「はい」
「なぜですか?」
エステルは、初めて少しだけ困った顔をした。
「私は、祈れます。長くても、寒くても、空腹でも、姿勢を崩さずにいられます」
それは、事実だった。
群青の祈り子は、そうやって評価されてきた。
「でも、マルタ先生は、泣いている子の隣に座れます」
エステルは、少しだけ目を伏せた。
「食べていない子の前に、その子の分を置けます」
「だから、私はマルタ先生の方がいいです」
「理由は、それだけですか?」
「それだけではありません」
エステルは、少し考えた。
「でも、そこです」
セリアは、確認票の余白を見た。
書きかけて、線を引いた跡が残っている。
食事。
その二文字だけでは、足りなかった。
◇
セリアは、二枚目の聴取録を閉じた。
神官長は、しばらく何も言わなかった。
机の上には、一枚目と二枚目が並んでいる。
一人目。白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。
二人目。群青の祈り子、エステル・ノーラ。
どちらも次代聖女になる意思はある。
どちらも本命候補である。
どちらも、最後の欄に同じ名を書いた。
マルタ。
神官長は、指先で二枚目の聴取録を押さえた。
「泣いた記録がない、という評価は?」
「修道院の記録としては正しいです」
「実態としては?」
「本人は、泣いたと言いました」
セリアはそう言った。
「マルタ院長は、それを見抜いたのですか?」
セリアは、二枚目の余白を見た。
書き直しの線が一本、残っていた。
「……記録には、そう書けませんでした」
神官長は、二枚目の聴取録を一枚目の隣へ戻した。
「三人目を」
セリアは、三枚目の紙に手を伸ばした。
黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン。
その名の横には、慈善記録の写しが三冊分ついていた。




