表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五十歳、聖女候補です。(他薦)  作者: あゆと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/7

二人目 群青の祈り子、エステル・ノーラ②

セリアは、二枚目の聴取録の次頁をめくった。


次の頁の最初の行には、こうあった。


『その夜、リナが泣いた。』


神官長は、その一行を読んだ。

「妹の名ですか?」

「リナ。エステル・ノーラの妹です」



その夜、リナが泣いた。


食堂の灯りは落ちていた。

寝室には、薄い毛布のこすれる音と、小さな寝息が重なっている。


最初は、声にもならない息だった。

次に、喉の奥で引っかかる音がした。


エステルの手は、考えるより先に動いた。


「泣くな! 弱みを見せちゃだめ!」

リナの口を押さえる。

リナの涙が、エステルの指を濡らした。

小さい手が、エステルの袖をつかんでいる。


「リナ、お願い! 声、出さないで……!」


低く言った。

リナの肩が跳ねた。


「手を離しなさい」


寝台の間から声がした。

エステルは動かなかった。


マルタが、寝室の入口に立っていた。


「手を離しなさい」

「だめ……」

「なぜですか?」


エステルは、リナの口を押さえたまま息を止めた。


「リナが泣いたって見られる……ミロの咳も見られる……面倒な子だって思われて捨てられちゃう……!」


大人は、手がかかる子を嫌う。

ちゃんとしていない子を嫌う。

泣く子を、嫌う。

面倒になったら捨てられる。


「……リナは今、泣いています」

「だから私が止めてるの!」


マルタは、エステルを叱らなかった。

それが、余計に腹立たしかった。


「この子、ちゃんとできないんだよ」

「そうでしょうね」

「そうでしょうね、じゃない!」


マルタは近づいてきた。

エステルの手首をつかむでもなく、リナを抱き上げるでもなく、まず床に座った。


冷たい床に、そのまま座った。


「リナ」


エステルは、少しだけ息を止めた。

リナは泣きながら、目だけを動かした。


「泣いていいですよ」


エステルの手に、力が入った。


「だめ……!」


「エステル」

今度は、自分の名前だった。

「手を離しなさい」


「離したら、この子は泣く」

「泣きますね」

「泣いたら、だめなの! また捨てられる!」

「そんなことはしません。ここでなら泣いてもいいんです。だから、手を離しなさい」


マルタは、エステルの手に自分の手を添えた。

ゆっくり、リナの口から離させた。


マルタはリナの隣に座っていた。

泣き止ませようとはしなかった。

叱りもしなかった。


リナがマルタの前掛けをつかむ。

マルタは、その手を外さなかった。


エステルは、ずっと立っていた。


「泣きやませないの?」

「今は、泣いていて良いのです」

「とめてよ!」

「とめません」

「使えない……!」


自分で言って、エステルは少しだけまずいと思った。

でも、マルタは怒らなかった。


「水を持ってきます」

「いらない!」

「リナにです」


マルタは立ち上がった。

戻ってきた時、手には小さな木の杯があった。


「うぅ……」

リナは泣きながら水を飲んだ。

こぼした水が、毛布の端を濡らした。


マルタは、リナの隣にいた。

前掛けをつかむ小さな手を、外さなかった。

エステルは、それをずっと見ていた。


朝になっても、誰もリナを連れていかなかった。



次の日、ミロが熱を出した。


エステルは、水桶を取りに行こうとした。

布も、薬湯も、寝台の位置も、自分が見るつもりだった。


けれど、桶はもう寝台の横にあった。

薬湯の湯気も上がっていた。

ミロの背中は、マルタの腕に支えられていた。


エステルは入口で止まった。


リナは、マルタの横に座っている。

ミロは、マルタの手から薬湯を飲んでいる。


自分がいなくても、二人はそこにいた。


「なによ……もう私、いらないじゃん」


リナが振り向いた。

ミロも、熱で赤い顔のまま目を開けた。


エステルは舌打ちした。


「いいよ……あんたが見れば! 私はもう、役に立たないんでしょ!」


寝室を出ようとした。

小さい足音が追ってきた。


リナだった。


「……おねえちゃん」


エステルは振り返らなかった。


「……その人に見てもらえばいいじゃん」


「おねえちゃんも、いて」


袖をつかまれた。


「……ねえちゃ……ん……」


ミロの声もした。

熱でかすれていた。


エステルは、リナの手を振りほどけなかった。


その人が来た。

その時になって、エステルはようやく名前を聞いた。


「マルタです」


ただ、それだけだった。

マルタは、エステルの前に椀を置いた。

薄いスープだった。

パンも一つある。


「食べなさい」

「いらないよ」

「昨日も食べていませんね」


エステルは、マルタをにらんだ。


「見てたの?」

「見えました」

「気持ち悪い!」

「そうですか」

「……怒らないの?」

「今は食事の話をしています」


エステルは、椀を押し返そうとした。

マルタは押し返さなかった。


ただ、椀をそこに置いたままにした。


「リナとミロと一緒にいたいなら、食べなさい」


エステルの手が止まった。

マルタは、ミロの額の布を替えた。


「水桶、持てますか」


エステルは返事をしなかった。

さっきまで水桶を取りに行くつもりだった手が、膝の上で震えていた。


「持てる」

「では、食べてからです」


パンを取った。

硬い。

噛んでも、なかなか飲み込めない。


リナが、マルタの横からこちらを見ていた。

ミロも、熱で赤い顔のまま目だけを向けていた。


二人とも、そこにいた。

エステルの方を見ていた。


それがまた、腹立たしかった。


エステルは、パンを全部食べた。



それからも、エステルはリナの皿が少なく見えれば、自分のパンを割った。

ミロのスープが薄ければ、自分の椀を寄せた。

寒い夜は、自分の毛布をリナにかけた。


そのたびに、エステルの前には一人分が置かれた。

増やされたわけではない。特別扱いされたわけでもない。


ただ、なくならなかった。


エステルは、自分の毛布をつかんだ。

でも、リナにはもう毛布がかかっていた。

ミロの椀にも、スープが残っていた。


手の中に、行き場のない布だけが残った。

エステルは、ますますマルタが嫌いになった。


ある雨の夜、またリナが泣いた。


雷が鳴ったわけではない。

誰かに怒られたわけでもない。


ただ、寝ながら母を呼んだ。


「かあさん」


小さな声だった。

エステルの胸が、変な音を立てた。


リナはもう一度言った。


「かあさん」


エステルは布団から起き上がった。

手を伸ばした。


「泣くんじゃない! 弱みを見せちゃだめ!」


言い終わる前に、マルタがいた。


「手を離しなさい」

「だめ!」

「手を離しなさい」

「リナをだめな子にしないで!」


声が大きくなった。

寝室の子どもたちが起きた。


ミロが咳をした。

リナは泣いたまま、エステルの袖を握っている。


マルタは、リナの肩に毛布をかけた。

エステルは、その手をはたき落としそうになった。


「迷惑かけたら終わりなんだよ!」


雨の音が、屋根を叩いていた。


「リナが泣いたら、泣く子だって見られる。ミロが咳したら、面倒な子だって見られる。私が止めないと、三人とも置いてもらえない!」


リナが泣き止んだ。

ミロの咳も止まった。


エステルだけが、息を荒くしていた。


「だから私が見るの! 私がちゃんとさせるの!」


マルタは、少しだけ黙った。


「そうでしたか」


「そうだよ!」


言葉が止まらなかった。


「私が失敗したら、三人とも終わりなの! リナも、ミロも、私がちゃんとさせないと、ちゃんとしないと、ちゃんと、ちゃんと……!」


そこまで言って、声が詰まった。


「ずっと来なかったくせに!」


喉がひっくり返った。


「ちゃんとしてた……私、ちゃんとしてたのに……!」


声が大きくなった。

止めようとして、止まらなかった。


「リナ泣かせなかった! ミロをおんぶした! パンもらう時も、ちゃんと頭下げた! 怒られないように……役に立つように……いらないって言われないように……! なのに!」


そこまで言って、息が詰まった。


「誰も来なかった……」


涙が落ちた。

袖でこすった。

次の涙がすぐに落ちた。


「見るな」


こすった袖が濡れた。

鼻も出た。

息が変な音になった。


「見るなって言ってるでしょ……!」


リナの手が、エステルの袖をつかんだままだった。

ミロも寝台の上で起きていた。


「見るな! 見ないで! やだやだやだ……!」


膝が落ちた。


マルタは、すぐには手を伸ばさなかった。


伸ばしかけた手を、一度止めた。

エステルが前掛けをつかんでいる。

その指が、白くなっていた。


「……遅かったんですね」


低い声だった。


エステルは顔を上げなかった。


「遅いんだよ」

「はい」

「遅かった! 遅い、遅い、遅い!」

「はい」


エステルは前掛けを強く引いた。


「お母さんは帰ってこない! お父さんも!」

「はい」

「じゃあ何しに来たの!」


マルタは、答えなかった。

答えられなかった。


雨の音だけが、寝室に残った。

エステルは、前掛けをつかんだまま泣いた。


「……おなかすいた」


小さい声だった。

マルタの肩が、ほんの少し落ちた。


「……はい」

「ずっと。ずっと、おなかすいてた」

「はい」

「リナにあげた。ミロにあげた。私、嘘ついた。咳させた。ごめん。ごめん、ミロ。ごめん、リナ……」


ミロが布団の中で首を振った。

リナは袖をつかんだまま泣いていた。


マルタは、エステルの背中に手を置いた。

今度は、ためらわなかった。


「食べましょう」

「いらない」

「嘘です」

「いらない!」

「嘘です」


マルタの声も、もう少し震えていた。


「あなたの分があります」


エステルは首を振った。

涙も鼻水も、前掛けについた。


「いらない。私はいい。リナとミロを先に」

「あなたも先です」

「私は見る方なの!」


マルタの手が止まった。


「私は、見られる方じゃない! リナを見る。ミロを見る。ちゃんとさせる。迷惑かけないようにする。だから……だから、私の分はいらない!」


「あなたも!」


マルタの声が、そこで跳ねた。


寝室の子どもが一人、びくっと肩を揺らした。

マルタ自身も、息を止めた。


エステルは前掛けをつかんだまま、顔を上げなかった。


マルタは、言い直した。


「……食べなさい」


「いらない!」

「嘘です。あなたの分です」


エステルは、そこでまた泣いた。


声が出た。

大きくて、変な声だった。

自分の声じゃないみたいだった。


マルタは、前掛けをつかませたまま、片手でエステルの背中を押さえた。


「……ここにいて」


言ったあとで、エステルは自分の声にびくっとした。


マルタは、すぐには返事をしなかった。

前掛けをつかむエステルの指を見ていた。


「……はい」


リナが言った。


「おねえちゃんも、ないてる」


エステルは怒ろうとした。

でも、怒る声が出なかった。


ミロが布団の上で言った。


「ねえちゃん」


リナも言った。


「おねえちゃん」


エステルは、前掛けをつかんだまま泣いた。


その夜、マルタは台所へ行った。


戻ってきた手には、硬いパンと、冷めかけたスープがあった。

寝室の端に、小さな台が置かれた。


リナにも、ミロにも、別の椀があった。


エステルの前にも、あった。


泣いたのに。



聴取室で、セリアは聞いた。


「その夜、あなたも泣いたのですね?」

「はい」


短い返事だった。


セリアは、修道院の評価書を見た。


泣いた記録がない。


セリアは、評価書から目を離せなかった。


「その後、どうなりましたか?」


エステルは、少しだけ眉を寄せた。

「特段なにも。朝、パンがありました。リナもいました。ミロもいました。寝る場所もありました」


エステルは淡々と言った。


「泣いたら全部取られると思っていました。でも、取られませんでした」


そこだけ、声が少し低くなった。


「マルタ先生は、すごいことをしたわけじゃありません。置いただけです。私の分を、私の前に」


エステルは、少しだけ指を組み直した。


「あの朝のパンのことは、覚えています」


「その後、私はしばらく食堂にいました」


「食堂ですか?」


「はい。皿を運んで、椀を洗って、パンの数を数えました」


「祈りより先に、数えることを覚えました」


「あなたは今でも、次代聖女になる意思がありますね?」

「はい。あります」


「そのうえで、マルタ院長の方がふさわしいと考えている」

「はい」


「なぜですか?」


エステルは、初めて少しだけ困った顔をした。


「私は、祈れます。長くても、寒くても、空腹でも、姿勢を崩さずにいられます」


それは、事実だった。

群青の祈り子は、そうやって評価されてきた。


「でも、マルタ先生は、泣いている子の隣に座れます」


エステルは、少しだけ目を伏せた。


「食べていない子の前に、その子の分を置けます」


「だから、私はマルタ先生の方がいいです」


「理由は、それだけですか?」

「それだけではありません」


エステルは、少し考えた。


「でも、そこです」


セリアは、確認票の余白を見た。

書きかけて、線を引いた跡が残っている。


食事。


その二文字だけでは、足りなかった。



セリアは、二枚目の聴取録を閉じた。


神官長は、しばらく何も言わなかった。


机の上には、一枚目と二枚目が並んでいる。


一人目。白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。

二人目。群青の祈り子、エステル・ノーラ。


どちらも次代聖女になる意思はある。

どちらも本命候補である。

どちらも、最後の欄に同じ名を書いた。


マルタ。


神官長は、指先で二枚目の聴取録を押さえた。


「泣いた記録がない、という評価は?」

「修道院の記録としては正しいです」

「実態としては?」

「本人は、泣いたと言いました」


セリアはそう言った。


「マルタ院長は、それを見抜いたのですか?」


セリアは、二枚目の余白を見た。

書き直しの線が一本、残っていた。


「……記録には、そう書けませんでした」


神官長は、二枚目の聴取録を一枚目の隣へ戻した。


「三人目を」


セリアは、三枚目の紙に手を伸ばした。


黄金の施し手、ヴィオラ・ローゼン。


その名の横には、慈善記録の写しが三冊分ついていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ