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五十歳、聖女候補です。(他薦)  作者: あゆと


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3/7

二人目 群青の祈り子、エステル・ノーラ①

「二人目です」


セリアは、二枚目の聴取録を神官長の前に置いた。


一枚目の聴取録は、まだ机の上に残されている。

白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。

推薦者、マルタ。


神官長は、二枚目の表題を読んだ。


「群青の祈り子、エステル・ノーラ」


エステル・ノーラ。

王都修道院祈祷課程首席。

西境戦災孤児。


家門の後ろ盾はない。

地方神殿の推薦状も、貴族令嬢たちのものに比べれば薄い。

それでも、修道院内部の評価は高かった。


祈祷暗唱、徹夜祈祷、沈黙修養は、すべて最高評価。

民衆請願記録はリリアナほど派手ではないが、修道女たちの証言はむしろ熱に近かった。


祈りの姿勢を乱さない。

食事を他者へ譲る。

不満を言わない。


泣いた記録がない。


神官長は、最後の一文に目を留めた。


「泣いた記録がない」

「修道院側は、美徳として報告しています」

「あなたは違うと見ているのですか?」


セリアは、二枚目の聴取録を開いた。


「本人の証言では、違いました」


神官長の視線が、聴取録の末尾へ落ちた。


そこには、一枚目と同じ名がある。


マルタ。


神官長は、すぐには次の頁をめくらなかった。


「二人目も、この名ですか」

「はい」


セリアは答えた。


「ただし、理由は一人目とは違います」


神官長は、二枚目の聴取録をセリアへ戻した。


「続けてください」

「本人の証言から参ります」



聴取室へ入ってきたエステル・ノーラは、礼の角度まで正確だった。


白い修道服の袖口はそろっている。

椅子を引く音も小さい。

座る時、背筋は祈祷台の前にいる時と同じままだった。


修道院の評価書には、同じ言葉が何度も並んでいた。


泣かない。

乱れない。

食事を譲る。


セリアは、確認票の一行目に指を置いた。


「エステル・ノーラ。あなたは、次代聖女になる意思がありますね?」


「あります」


早かった。


「私は聖女になりたいです。祈りの場を任されるなら、欲しいです」


欲しい。


その言葉だけは、修道院で整えられた言い方ではなかった。


「家門から、聖女になるよう強く求められていますか?」

「家門はありません」


確認票の家門欄は空欄だった。

後見人欄には、王都修道院長の名がある。


「修道院からの強制は?」

「ありません。祈りの場に立ちたいのは、私です」

「他候補から、辞退や推薦を求められたことはありますか?」

「ありません」

「特定の人物を推薦するよう、誰かから頼まれたことは?」

「ありません」


答えは短い。

よく整った証言だった。


整いすぎていた。


「他に、次代聖女にふさわしいと思う人物はいますか?」


エステルは、そこで初めて黙った。


長い沈黙ではなかった。

けれど、その前までの返答が早すぎたぶん、目立った。


「います」


「誰ですか?」


「マルタ先生です」


セリアの筆先が、一度だけ止まった。


一人目の最後の欄にも、その名があった。


「聖イリア孤児院の、マルタ院長ですね?」


エステルが、少しだけ顔を上げた。


「ご存じなんですか?」

「先ほど、別の候補者から同じ名を聞きました」


エステルは、驚いたように瞬きをした。

けれど、それ以上は聞かなかった。


「マルタ院長から、そう答えるよう求められましたか?」

「いいえ」

「ほかの候補者と、この回答について話しましたか?」

「いいえ」

「リリアナ・オルレイと面識は?」

「儀礼上の挨拶だけです」


セリアは、確認票の余白に印をつけた。


申し合わせの可能性は低い。

ただし、同一人物名の重複。


「理由を聞かせてください」


白い修道服の上で、エステルの指だけが少し強く握られていた。


「ご存じの通り、私は戦災孤児でした」


「親を亡くし、故郷をなくし、流れ着いた街で、弟と妹を守って暮らしていました」

「人に言えないこともしました。あのころは、生きるのに必死でしたから」



西境の町が焼けた夜のことを、エステルは細かく覚えていない。


熱い風。

黒い煙。

走る人の足。

誰かが叫んでいた声。


父の手は途中で離れた。

母の声は、煙の向こうへ消えた。


エステルの手に残ったのは、弟のミロと、妹のリナだけだった。


ミロは咳をしていた。

リナは声も出せなかった。


手を離したら、もう二度と見つからない。

そう思って、エステルは二人の手を握ったまま走った。


流れ着いた街では、食べるものが足りなかった。


配給の列では、リナを抱いて一度並んだ。

次は、ミロを前に出して並んだ。


「さっきも来ただろ」


そう言われる前に、エステルは違う名前を言った。

年も一つ上に言った。


落ちたパンを拾った。

それでも足りなくて、籠の中に残っているパンへ手を伸ばした。


ミロの咳を使ったこともある。


咳のひどい子には、たまに余った粥が渡された。


「生きたいなら、咳して」


ミロが袖を握ってきても、エステルは背中を押した。


リナが泣きそうになると、エステルの手が先に動いた。


「泣くな。弱みを見せるな」


リナの涙が、エステルの指に当たった。

それでも、手は離せなかった。


ミロの咳が聞こえると、エステルの足が先に出た。

リナの口に手を当てる癖は、街を出ても抜けなかった。

パンは、いつも二人の皿に落ちた。


大人は信用しなかった。


鍋が空になってから「もう一杯いるか」と聞く。

泣き止んだあとに「どうした」と聞く。

数を間違えた皿は、そのまま下げられる。


聖イリア孤児院に連れてこられた時も、エステルは同じだった。


長い卓。

欠けた椀。

薄いスープ。

硬いパン。


三人は、食堂の端に座らされた。


リナの皿には、小さいパンが一つ。

ミロの椀には、底が見えるほどのスープ。


エステルは自分のパンを割った。

何も考える前に、二人の皿へ置いていた。


「そのパンは、あなたの分です」


卓の向こうに、灰色の前掛けをした女が立っていた。


黒髪には少しだけ白いものが混じっている。

袖口は水仕事で湿っていた。


偉い人には見えなかった。


「いらない」


エステルは言った。


「この子たちが食べてない」


「その子たちの分は、私が持ってきます」

「大人はいつもそう言う」

「持ってきます」

「遅いんだよ」


女は、リナの皿に置かれたパンを取り、エステルの前に置いた。


「食べなさい」

「いらないって言ってるでしょ」

「あなたの分です」


エステルは椅子を鳴らして立ちかけた。


出入口。

窓。

台所へ続く扉。

パンの籠。


女の視線も、そこにあった。


「あなたの名前は」

「言わない」

「名前はあとです」


女は台所へ戻った。

本当に、リナとミロの分を持ってきた。


エステルは、それでも自分のパンを食べなかった。


次の日も、エステルの分は少しずつ消えた。


椀も、毛布も、パンも。

気づけば、リナとミロの方へ寄っていた。


夜中にリナがぐずった時も、エステルは口を押さえた。


「泣くな。弱みを見せるな」


背中から声がした。


「手を離しなさい」


背中に、灰色の前掛けの女がいた。


そのころ、エステルはまだその人をマルタ先生とは呼んでいなかった。

当時、マルタは院長ではなかった。


聖イリア孤児院の寮母長だった。


食事と寝床と、夜番を預かる人だった。


しつこい人。

自分の分をなくさせてくれない人。

余計なことをする人。


「泣いたら追い出される」

「追い出しません」

「大人はいつもそう言う」

「そうですね」


マルタは、リナの前にしゃがんだ。


床に膝をついたまま、動かなかった。


リナは声を殺して泣いた。

エステルの手は、まだ宙に浮いていた。


「あなたも、手を下ろしなさい」

「私は泣かない」

「今は、手の話をしています」


エステルは、むかついた。


泣くなと言われるより、ずっとむかついた。


その日から、エステルの前には、必ず一人分が置かれた。


パンも、椀も、毛布も。

エステルが二人へ寄せたものは、いつのまにかエステルの前にあった。


叱られたわけではない。

弟妹を見るな、とも言われなかった。


それでも、エステルの前にはいつも自分の分があった。


それが、一番腹が立った。



「当時は、まだ先生とは呼んでいませんでした」


エステルは、聴取室でそう言った。


「当時のマルタ氏は、まだ院長ではなかったのですね?」

「はい。聖イリア孤児院の寮母長でした」


セリアは、確認票の余白に書き込んだ。


マルタ。

当時、聖イリア孤児院寮母長。

後に院長。


「寮母長とは、どのような役目ですか?」

「ご飯と寝る場所と、夜に泣く子を見る人です」


セリアは、そのまま書き写さなかった。


食事。

寝床。

夜番。


その三つだけを、余白に残した。


「マルタ院長は、あなたを叱ったのですか?」

「いいえ。弟と妹を見るなとも言われていません」


「では、何をしたのですか?」


エステルは、少し黙った。


「いらないって言ってるのに、食べなさいって置くんです」


「何をですか?」

「私の分を、です」


セリアは、確認票の余白に「食事」と書きかけた。

けれど、線を引いた。


「それが、マルタ院長を推薦する理由ですか?」

「全部ではありません。でも、そこからです」



セリアは、聴取録から顔を上げた。


神官長は、しばらく黙っていた。

机の上には、一枚目と二枚目の聴取録が並んでいる。


一枚目。白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。

二枚目。群青の祈り子、エステル・ノーラ。


最後の欄に、同じ名があった。


マルタ。


「推薦理由としては、弱いようにも見えます」

「記録上は、そう見えます」


セリアは、二枚目の聴取録を閉じなかった。

次頁をめくる。


次の頁の最初の行には、こうあった。


『その夜、リナが泣いた。』

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