二人目 群青の祈り子、エステル・ノーラ①
「二人目です」
セリアは、二枚目の聴取録を神官長の前に置いた。
一枚目の聴取録は、まだ机の上に残されている。
白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。
推薦者、マルタ。
神官長は、二枚目の表題を読んだ。
「群青の祈り子、エステル・ノーラ」
エステル・ノーラ。
王都修道院祈祷課程首席。
西境戦災孤児。
家門の後ろ盾はない。
地方神殿の推薦状も、貴族令嬢たちのものに比べれば薄い。
それでも、修道院内部の評価は高かった。
祈祷暗唱、徹夜祈祷、沈黙修養は、すべて最高評価。
民衆請願記録はリリアナほど派手ではないが、修道女たちの証言はむしろ熱に近かった。
祈りの姿勢を乱さない。
食事を他者へ譲る。
不満を言わない。
泣いた記録がない。
神官長は、最後の一文に目を留めた。
「泣いた記録がない」
「修道院側は、美徳として報告しています」
「あなたは違うと見ているのですか?」
セリアは、二枚目の聴取録を開いた。
「本人の証言では、違いました」
神官長の視線が、聴取録の末尾へ落ちた。
そこには、一枚目と同じ名がある。
マルタ。
神官長は、すぐには次の頁をめくらなかった。
「二人目も、この名ですか」
「はい」
セリアは答えた。
「ただし、理由は一人目とは違います」
神官長は、二枚目の聴取録をセリアへ戻した。
「続けてください」
「本人の証言から参ります」
◇
聴取室へ入ってきたエステル・ノーラは、礼の角度まで正確だった。
白い修道服の袖口はそろっている。
椅子を引く音も小さい。
座る時、背筋は祈祷台の前にいる時と同じままだった。
修道院の評価書には、同じ言葉が何度も並んでいた。
泣かない。
乱れない。
食事を譲る。
セリアは、確認票の一行目に指を置いた。
「エステル・ノーラ。あなたは、次代聖女になる意思がありますね?」
「あります」
早かった。
「私は聖女になりたいです。祈りの場を任されるなら、欲しいです」
欲しい。
その言葉だけは、修道院で整えられた言い方ではなかった。
「家門から、聖女になるよう強く求められていますか?」
「家門はありません」
確認票の家門欄は空欄だった。
後見人欄には、王都修道院長の名がある。
「修道院からの強制は?」
「ありません。祈りの場に立ちたいのは、私です」
「他候補から、辞退や推薦を求められたことはありますか?」
「ありません」
「特定の人物を推薦するよう、誰かから頼まれたことは?」
「ありません」
答えは短い。
よく整った証言だった。
整いすぎていた。
「他に、次代聖女にふさわしいと思う人物はいますか?」
エステルは、そこで初めて黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、その前までの返答が早すぎたぶん、目立った。
「います」
「誰ですか?」
「マルタ先生です」
セリアの筆先が、一度だけ止まった。
一人目の最後の欄にも、その名があった。
「聖イリア孤児院の、マルタ院長ですね?」
エステルが、少しだけ顔を上げた。
「ご存じなんですか?」
「先ほど、別の候補者から同じ名を聞きました」
エステルは、驚いたように瞬きをした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「マルタ院長から、そう答えるよう求められましたか?」
「いいえ」
「ほかの候補者と、この回答について話しましたか?」
「いいえ」
「リリアナ・オルレイと面識は?」
「儀礼上の挨拶だけです」
セリアは、確認票の余白に印をつけた。
申し合わせの可能性は低い。
ただし、同一人物名の重複。
「理由を聞かせてください」
白い修道服の上で、エステルの指だけが少し強く握られていた。
「ご存じの通り、私は戦災孤児でした」
「親を亡くし、故郷をなくし、流れ着いた街で、弟と妹を守って暮らしていました」
「人に言えないこともしました。あのころは、生きるのに必死でしたから」
◇
西境の町が焼けた夜のことを、エステルは細かく覚えていない。
熱い風。
黒い煙。
走る人の足。
誰かが叫んでいた声。
父の手は途中で離れた。
母の声は、煙の向こうへ消えた。
エステルの手に残ったのは、弟のミロと、妹のリナだけだった。
ミロは咳をしていた。
リナは声も出せなかった。
手を離したら、もう二度と見つからない。
そう思って、エステルは二人の手を握ったまま走った。
流れ着いた街では、食べるものが足りなかった。
配給の列では、リナを抱いて一度並んだ。
次は、ミロを前に出して並んだ。
「さっきも来ただろ」
そう言われる前に、エステルは違う名前を言った。
年も一つ上に言った。
落ちたパンを拾った。
それでも足りなくて、籠の中に残っているパンへ手を伸ばした。
ミロの咳を使ったこともある。
咳のひどい子には、たまに余った粥が渡された。
「生きたいなら、咳して」
ミロが袖を握ってきても、エステルは背中を押した。
リナが泣きそうになると、エステルの手が先に動いた。
「泣くな。弱みを見せるな」
リナの涙が、エステルの指に当たった。
それでも、手は離せなかった。
ミロの咳が聞こえると、エステルの足が先に出た。
リナの口に手を当てる癖は、街を出ても抜けなかった。
パンは、いつも二人の皿に落ちた。
大人は信用しなかった。
鍋が空になってから「もう一杯いるか」と聞く。
泣き止んだあとに「どうした」と聞く。
数を間違えた皿は、そのまま下げられる。
聖イリア孤児院に連れてこられた時も、エステルは同じだった。
長い卓。
欠けた椀。
薄いスープ。
硬いパン。
三人は、食堂の端に座らされた。
リナの皿には、小さいパンが一つ。
ミロの椀には、底が見えるほどのスープ。
エステルは自分のパンを割った。
何も考える前に、二人の皿へ置いていた。
「そのパンは、あなたの分です」
卓の向こうに、灰色の前掛けをした女が立っていた。
黒髪には少しだけ白いものが混じっている。
袖口は水仕事で湿っていた。
偉い人には見えなかった。
「いらない」
エステルは言った。
「この子たちが食べてない」
「その子たちの分は、私が持ってきます」
「大人はいつもそう言う」
「持ってきます」
「遅いんだよ」
女は、リナの皿に置かれたパンを取り、エステルの前に置いた。
「食べなさい」
「いらないって言ってるでしょ」
「あなたの分です」
エステルは椅子を鳴らして立ちかけた。
出入口。
窓。
台所へ続く扉。
パンの籠。
女の視線も、そこにあった。
「あなたの名前は」
「言わない」
「名前はあとです」
女は台所へ戻った。
本当に、リナとミロの分を持ってきた。
エステルは、それでも自分のパンを食べなかった。
次の日も、エステルの分は少しずつ消えた。
椀も、毛布も、パンも。
気づけば、リナとミロの方へ寄っていた。
夜中にリナがぐずった時も、エステルは口を押さえた。
「泣くな。弱みを見せるな」
背中から声がした。
「手を離しなさい」
背中に、灰色の前掛けの女がいた。
そのころ、エステルはまだその人をマルタ先生とは呼んでいなかった。
当時、マルタは院長ではなかった。
聖イリア孤児院の寮母長だった。
食事と寝床と、夜番を預かる人だった。
しつこい人。
自分の分をなくさせてくれない人。
余計なことをする人。
「泣いたら追い出される」
「追い出しません」
「大人はいつもそう言う」
「そうですね」
マルタは、リナの前にしゃがんだ。
床に膝をついたまま、動かなかった。
リナは声を殺して泣いた。
エステルの手は、まだ宙に浮いていた。
「あなたも、手を下ろしなさい」
「私は泣かない」
「今は、手の話をしています」
エステルは、むかついた。
泣くなと言われるより、ずっとむかついた。
その日から、エステルの前には、必ず一人分が置かれた。
パンも、椀も、毛布も。
エステルが二人へ寄せたものは、いつのまにかエステルの前にあった。
叱られたわけではない。
弟妹を見るな、とも言われなかった。
それでも、エステルの前にはいつも自分の分があった。
それが、一番腹が立った。
◇
「当時は、まだ先生とは呼んでいませんでした」
エステルは、聴取室でそう言った。
「当時のマルタ氏は、まだ院長ではなかったのですね?」
「はい。聖イリア孤児院の寮母長でした」
セリアは、確認票の余白に書き込んだ。
マルタ。
当時、聖イリア孤児院寮母長。
後に院長。
「寮母長とは、どのような役目ですか?」
「ご飯と寝る場所と、夜に泣く子を見る人です」
セリアは、そのまま書き写さなかった。
食事。
寝床。
夜番。
その三つだけを、余白に残した。
「マルタ院長は、あなたを叱ったのですか?」
「いいえ。弟と妹を見るなとも言われていません」
「では、何をしたのですか?」
エステルは、少し黙った。
「いらないって言ってるのに、食べなさいって置くんです」
「何をですか?」
「私の分を、です」
セリアは、確認票の余白に「食事」と書きかけた。
けれど、線を引いた。
「それが、マルタ院長を推薦する理由ですか?」
「全部ではありません。でも、そこからです」
◇
セリアは、聴取録から顔を上げた。
神官長は、しばらく黙っていた。
机の上には、一枚目と二枚目の聴取録が並んでいる。
一枚目。白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ。
二枚目。群青の祈り子、エステル・ノーラ。
最後の欄に、同じ名があった。
マルタ。
「推薦理由としては、弱いようにも見えます」
「記録上は、そう見えます」
セリアは、二枚目の聴取録を閉じなかった。
次頁をめくる。
次の頁の最初の行には、こうあった。
『その夜、リナが泣いた。』




