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五十歳、聖女候補です。(他薦)  作者: あゆと


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2/7

一人目 白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ②

「弟の腕を裂きました」


セリアは、すぐには書けなかった。


白癒の令嬢の聴取欄に、黒い空白が残る。

リリアナ・オルレイは、膝の上で自分の指を握っていた。


「犬に噛まれた、小さな傷でした」


リリアナは、指先を見たまま言った。


「浅い傷です。血も、すぐ止まる程度でした」


リリアナは、そこで一度息を切った。


「けれどノアは体が弱くて、屋敷の者は、あの子が熱を出すたびに大騒ぎをしていました」

「ノア様は、あなたの弟君ですね?」

「はい。オルレイ家の跡継ぎです」


その名前だけは、迷わなかった。


「父にとっても、母にとっても、大事な子でした。私にとっても」


リリアナは、自分の手を見た。


「私は、小さなころから癒やしの力があると言われていました。小さな聖女様、と呼ばれたこともあります」


リリアナは、自分の袖口を見た。


「白い服を着せられて、手を汚さないように言われて、ノアが咳をすると、そばに座らされました」


セリアは、筆を動かさずに聞いた。


「私は、あの子を守れると思っていました」


その一文だけ、声が少し上ずった。


「だから、犬に噛まれた時も、私が治せると思いました」


弟の腕に手を置いた。

傷口を閉じるつもりだった。

けれど、力が強すぎた。


「傷だけではなく、周りの皮膚まで引きつれて」


リリアナの指が、さらに白くなった。


「ノアは、さっきより大きな声で泣きました。母も泣きました。私は、自分の手を見ていました。血がついていたからです」


初回発現時事故。

対象、実弟ノア・オルレイ。

家門記録なし。


「父は、私を北の離れへ入れました。ノアに、もう一度触らないように」


リリアナは父を責めなかった。

ただ、指先を袖の中へ隠した。



北の離れは、もともとノアが熱を出した時に使う療養部屋だった。


母屋から近すぎず、遠すぎない。

窓はある。

寝台もある。

水差しも、毛布もある。


薬草の匂いが残る棚まであった。


罰ではないのだと、父は言った。

神官が判断するまでだと。

祝福か、呪いか、分かるまでだと。


その言葉のあと、離れの鍵が閉まった。


窓の外には、母屋の明かりが見えた。


近いのに、誰も来なかった。


戸口の前に、盆が置かれた。


硬いパンと、ぬるいスープ。

盆を置いた使用人は、リリアナの名前を呼ばなかった。


夜になると、母屋のどこかでノアが泣いた。


「いたい……姉様、いたい……!」


小さな声が、庭を越えて届いた。


リリアナは、両手を膝の下に押し込んだ。


「姉様、いたい……!」


口を押さえた。

行きたいのに、行けなかった。

自分が行けば、また痛くする気がした。


窓の外には、母屋の明かりが見えた。

近いのに、届かなかった。


朝になると、窓の向こうの声が変わった。


奇跡の子。

化け物。


どちらも、同じ屋敷の中で聞こえた。


「癒やしの光だったんでしょう」

「でも坊ちゃまの腕が、余計に裂けたって」

「触られたら、こっちも……」


誰かが、離れの近くでそう言った。


盆を取る時も、袖の布が先に出た。

指で触れないようにして、それでもスープは少しこぼれた。


その夜も、ノアは泣いた。


「いたい……姉様、いたい……!」


リリアナは、寝台の上で丸くなった。

両手を胸の下に押し込んだ。

自分の手が、どこにも触れないように。


次に知らない大人の声がした時、昼の光は窓の半分まで傾いていた。


「リリアナ様にお会いします」


父の声が低く返る。


「今は誰にも会わせられない!」

「怪我の様子を確認します」

「息子の治療は神官に任せている!」


「ノア様ではありません。リリアナ様です」


その時、リリアナは初めて顔を上げた。


「扉を開けることはできない!」

「では、ここにおります」

「何を言っている!」

「リリアナ様を化け物として離れに置くなら、私もここにおります」


女は、離れの石段に腰を下ろした。


床板ではなく、石が小さく鳴った。

窓の下から、外套の裾が見えた。


灰色の、土埃をかぶった外套だった。


「……あなたは誰」


リリアナは、小さな声で聞いた。

窓の外で、女が答えた。


「マルタと申します。慈善局の救護係です」

「聖女様じゃないの……?」

「違います」

「神官様……?」

「それも違います」

「じゃあ、どうして来たの」


少し間があった。


「あなたの名前が、救護記録にあったからです」


その答えは、リリアナにはよく分からなかった。


けれど、その日から盆が二つになった。


部屋の中に一つ。

石段の上に一つ。


その夜、父が怒鳴った。


「帰りなさい! これはオルレイ家の問題だ!」

「お嬢様を離れに置いた時点で、救護案件です」

「娘は危険なんだ!」

「怖がっている子を一人にする理由にはなりません」


リリアナは、窓の内側で息を止めていた。


「怖がっている子」


その言葉だけが、離れの中に残った。


翌朝、石段の上に空の盆が残っていた。

昼には、紙をめくる音がした。

夜には、咳が聞こえた。


リリアナは眠れなかった。

窓の向こうに人がいると分かると、眠れなかった。


外套の裾は、いつの間にか土埃で白くなっていた。


「……なぜ、そこにいるの」


リリアナが聞くと、マルタは少し考えてから答えた。


「あなたが中にいるからです」


それだけだった。


夕方、鍵が開いた。


父が折れたのか、神殿の名が効いたのかは分からない。

扉が開いた時、最初に見えたのは、土埃をかぶった灰色の外套だった。


マルタは、離れの中へ入ってきた。


リリアナは、叱られると思った。

弟を傷つけたから。

家を騒がせたから。

聖なる力を、ひどいものにしてしまったから。


マルタは、リリアナの前に膝をついた。


「怖かったですね」


その一言で、涙が出そうになった。


だが、マルタは抱きしめなかった。

大丈夫とも言わなかった。

あなたは悪くないとも言わなかった。


手だけを差し出した。


「来なさい」


リリアナは、その手を見た。


「いや……」


「怖いですね」


マルタは、手を下ろさなかった。


「でも、ここではノア様に届きません」


窓の外で、母屋の明かりが揺れていた。


「行けない……」

「行きます」

「ノアが、また泣く……」

「泣くかもしれません」

「母様も、父様も、私を見たくない……」

「そうかもしれません」

「じゃあ……!」


マルタの手が、リリアナの手首を包んだ。


乱暴ではなかった。

逃げられるほど、軽くもなかった。


離れの敷居を越えると、砂利が鳴った。


母屋の窓に、人影が並んでいた。

誰もリリアナの名前を呼ばない。

誰も近づかない。


薬草の匂いが近くなる。

湯気の匂いが混じる。

その奥で、ノアが小さく泣いた。


足が止まった。


扉は、目の前にあった。


中から、母の鼻をすする音がした。

包帯を替えるための湯が、洗面器に張られている匂いがした。


扉の向こうで、父の声がした。


「誰だ」


マルタは答えなかった。

リリアナの手を、離さなかった。


扉が開く。


父は、リリアナの顔を見なかった。

先に、手を見た。


リリアナは、袖の中で指を丸めた。


母が、寝台のそばで口を押さえた。


ノアは寝台にいた。


眠ってはいなかった。

泣き疲れた目を半分だけ開けて、包帯の腕を胸に抱いている。


リリアナが部屋に入ると、その腕が少しだけ引いた。


父の視線よりも、それが痛かった。


マルタは、半歩だけ横へずれた。


隠れる場所がなくなった。


リリアナの目は、包帯の腕から動かなかった。


「名前を」


マルタの声がした。


口は開いた。

声だけが出なかった。


ノアは、こちらを見ていた。

泣きすぎて目が赤い。

熱のせいで頬も赤い。


あの腕に触れたのは、自分の手だ。


治そうとした。

でも、裂いた。


それでも、寝台にいるのは腕ではなかった。


ノアだった。


リリアナは、息を吸った。


「ノ……」


声が潰れた。


ノアは、包帯の腕をさらに胸へ寄せた。


「ノア……」


弟は返事をしなかった。


目に涙がたまった。

唇が震えた。

また泣き出しそうな顔で、リリアナを見ていた。


離れの夜に押し込めていたものが、喉の奥で熱くなった。


「ご……」


止まりかけた。


ノアの目から、涙が一つ落ちた。


「姉様……」


その声で、リリアナの中にあったものが壊れた。


「ごめんなさい!」


声は、悲鳴みたいだった。


「痛くした。私が、痛くした。治せるって思ったの。守れるって思ったの。ノア、ごめんなさい……! ごめんなさい……!」


母が、口を押さえて泣いた。

父は何も言わなかった。

怒鳴る声だけが、もう出なかった。


リリアナは泣きながら、何度も頭を下げた。


ノアも泣いた。


包帯の腕は、胸に抱いたままだった。

けれど、もう片方の手が、布団の上を少しずつ動いた。


リリアナの袖をつかんだ。


強くはなかった。

でも、離さなかった。


「姉様……」


リリアナは、その場で崩れた。


「ノア……」


「いかないで……」


それだけだった。


許すとも、いいよとも、言わなかった。

それでもリリアナは、もう立っていられなかった。


マルタは、よくできましたとは言わなかった。

許してあげなさいとも言わなかった。


ただ、ノアの寝台の横に椅子を置いた。


リリアナは、椅子の端に座った。

ノアは包帯の腕を抱えたままだった。

もう片方の手は、リリアナの袖を離さなかった。



聴取室の白い壁に、昼の光が差している。


セリアは、記録欄に「過去の恩義」と書きかけた文字に線を引いた。


リリアナは、自分の手を開いた。

傷ひとつない、白い手だった。


「私は今、治療の前に必ず名前を聞きます」


セリアは、顔を上げた。


「礼法として、ですか」

「いいえ」


リリアナは、自分の手を見たまま答えた。


「名前を呼ばないと、傷しか見なくなるからです」


戦場から戻った兵士に触れる時も。

熱病の子どもの額に手を置く時も。

火傷で固まった皮膚を見る時も。


リリアナは、先に名を聞く。

傷より先に、名を呼ぶ。


「それから、相手がうなずくまで触れません」


セリアは、確認票の余白を見た。


「癒やしの奇跡を使う前に、許可を取るのですか?」


「はい」


リリアナは、白い手を閉じた。


「勝手に触れた手で、人を癒やすのは怖いので」


少しだけ沈黙が落ちた。


「私は、小さな聖女様と呼ばれていたころも、化け物と呼ばれたあとも、自分ではありませんでした」


セリアは、返事をしなかった。


「癒やしの力か、危険な手か。そのどちらかでした」


リリアナは、閉じた手を見下ろした。


「マルタ先生は、私にノアの名前を呼ばせました。ノアは、私を姉様と呼びました」


そこで初めて、リリアナは少しだけ息を吸った。


「それで、人間に戻れたのだと思います」


「人間に、ですか」


「はい」


白癒の令嬢は、静かに言った。


「人間なら、謝れますから」

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