一人目 白癒の令嬢、リリアナ・オルレイ②
「弟の腕を裂きました」
セリアは、すぐには書けなかった。
白癒の令嬢の聴取欄に、黒い空白が残る。
リリアナ・オルレイは、膝の上で自分の指を握っていた。
「犬に噛まれた、小さな傷でした」
リリアナは、指先を見たまま言った。
「浅い傷です。血も、すぐ止まる程度でした」
リリアナは、そこで一度息を切った。
「けれどノアは体が弱くて、屋敷の者は、あの子が熱を出すたびに大騒ぎをしていました」
「ノア様は、あなたの弟君ですね?」
「はい。オルレイ家の跡継ぎです」
その名前だけは、迷わなかった。
「父にとっても、母にとっても、大事な子でした。私にとっても」
リリアナは、自分の手を見た。
「私は、小さなころから癒やしの力があると言われていました。小さな聖女様、と呼ばれたこともあります」
リリアナは、自分の袖口を見た。
「白い服を着せられて、手を汚さないように言われて、ノアが咳をすると、そばに座らされました」
セリアは、筆を動かさずに聞いた。
「私は、あの子を守れると思っていました」
その一文だけ、声が少し上ずった。
「だから、犬に噛まれた時も、私が治せると思いました」
弟の腕に手を置いた。
傷口を閉じるつもりだった。
けれど、力が強すぎた。
「傷だけではなく、周りの皮膚まで引きつれて」
リリアナの指が、さらに白くなった。
「ノアは、さっきより大きな声で泣きました。母も泣きました。私は、自分の手を見ていました。血がついていたからです」
初回発現時事故。
対象、実弟ノア・オルレイ。
家門記録なし。
「父は、私を北の離れへ入れました。ノアに、もう一度触らないように」
リリアナは父を責めなかった。
ただ、指先を袖の中へ隠した。
◇
北の離れは、もともとノアが熱を出した時に使う療養部屋だった。
母屋から近すぎず、遠すぎない。
窓はある。
寝台もある。
水差しも、毛布もある。
薬草の匂いが残る棚まであった。
罰ではないのだと、父は言った。
神官が判断するまでだと。
祝福か、呪いか、分かるまでだと。
その言葉のあと、離れの鍵が閉まった。
窓の外には、母屋の明かりが見えた。
近いのに、誰も来なかった。
戸口の前に、盆が置かれた。
硬いパンと、ぬるいスープ。
盆を置いた使用人は、リリアナの名前を呼ばなかった。
夜になると、母屋のどこかでノアが泣いた。
「いたい……姉様、いたい……!」
小さな声が、庭を越えて届いた。
リリアナは、両手を膝の下に押し込んだ。
「姉様、いたい……!」
口を押さえた。
行きたいのに、行けなかった。
自分が行けば、また痛くする気がした。
窓の外には、母屋の明かりが見えた。
近いのに、届かなかった。
朝になると、窓の向こうの声が変わった。
奇跡の子。
化け物。
どちらも、同じ屋敷の中で聞こえた。
「癒やしの光だったんでしょう」
「でも坊ちゃまの腕が、余計に裂けたって」
「触られたら、こっちも……」
誰かが、離れの近くでそう言った。
盆を取る時も、袖の布が先に出た。
指で触れないようにして、それでもスープは少しこぼれた。
その夜も、ノアは泣いた。
「いたい……姉様、いたい……!」
リリアナは、寝台の上で丸くなった。
両手を胸の下に押し込んだ。
自分の手が、どこにも触れないように。
次に知らない大人の声がした時、昼の光は窓の半分まで傾いていた。
「リリアナ様にお会いします」
父の声が低く返る。
「今は誰にも会わせられない!」
「怪我の様子を確認します」
「息子の治療は神官に任せている!」
「ノア様ではありません。リリアナ様です」
その時、リリアナは初めて顔を上げた。
「扉を開けることはできない!」
「では、ここにおります」
「何を言っている!」
「リリアナ様を化け物として離れに置くなら、私もここにおります」
女は、離れの石段に腰を下ろした。
床板ではなく、石が小さく鳴った。
窓の下から、外套の裾が見えた。
灰色の、土埃をかぶった外套だった。
「……あなたは誰」
リリアナは、小さな声で聞いた。
窓の外で、女が答えた。
「マルタと申します。慈善局の救護係です」
「聖女様じゃないの……?」
「違います」
「神官様……?」
「それも違います」
「じゃあ、どうして来たの」
少し間があった。
「あなたの名前が、救護記録にあったからです」
その答えは、リリアナにはよく分からなかった。
けれど、その日から盆が二つになった。
部屋の中に一つ。
石段の上に一つ。
その夜、父が怒鳴った。
「帰りなさい! これはオルレイ家の問題だ!」
「お嬢様を離れに置いた時点で、救護案件です」
「娘は危険なんだ!」
「怖がっている子を一人にする理由にはなりません」
リリアナは、窓の内側で息を止めていた。
「怖がっている子」
その言葉だけが、離れの中に残った。
翌朝、石段の上に空の盆が残っていた。
昼には、紙をめくる音がした。
夜には、咳が聞こえた。
リリアナは眠れなかった。
窓の向こうに人がいると分かると、眠れなかった。
外套の裾は、いつの間にか土埃で白くなっていた。
「……なぜ、そこにいるの」
リリアナが聞くと、マルタは少し考えてから答えた。
「あなたが中にいるからです」
それだけだった。
夕方、鍵が開いた。
父が折れたのか、神殿の名が効いたのかは分からない。
扉が開いた時、最初に見えたのは、土埃をかぶった灰色の外套だった。
マルタは、離れの中へ入ってきた。
リリアナは、叱られると思った。
弟を傷つけたから。
家を騒がせたから。
聖なる力を、ひどいものにしてしまったから。
マルタは、リリアナの前に膝をついた。
「怖かったですね」
その一言で、涙が出そうになった。
だが、マルタは抱きしめなかった。
大丈夫とも言わなかった。
あなたは悪くないとも言わなかった。
手だけを差し出した。
「来なさい」
リリアナは、その手を見た。
「いや……」
「怖いですね」
マルタは、手を下ろさなかった。
「でも、ここではノア様に届きません」
窓の外で、母屋の明かりが揺れていた。
「行けない……」
「行きます」
「ノアが、また泣く……」
「泣くかもしれません」
「母様も、父様も、私を見たくない……」
「そうかもしれません」
「じゃあ……!」
マルタの手が、リリアナの手首を包んだ。
乱暴ではなかった。
逃げられるほど、軽くもなかった。
離れの敷居を越えると、砂利が鳴った。
母屋の窓に、人影が並んでいた。
誰もリリアナの名前を呼ばない。
誰も近づかない。
薬草の匂いが近くなる。
湯気の匂いが混じる。
その奥で、ノアが小さく泣いた。
足が止まった。
扉は、目の前にあった。
中から、母の鼻をすする音がした。
包帯を替えるための湯が、洗面器に張られている匂いがした。
扉の向こうで、父の声がした。
「誰だ」
マルタは答えなかった。
リリアナの手を、離さなかった。
扉が開く。
父は、リリアナの顔を見なかった。
先に、手を見た。
リリアナは、袖の中で指を丸めた。
母が、寝台のそばで口を押さえた。
ノアは寝台にいた。
眠ってはいなかった。
泣き疲れた目を半分だけ開けて、包帯の腕を胸に抱いている。
リリアナが部屋に入ると、その腕が少しだけ引いた。
父の視線よりも、それが痛かった。
マルタは、半歩だけ横へずれた。
隠れる場所がなくなった。
リリアナの目は、包帯の腕から動かなかった。
「名前を」
マルタの声がした。
口は開いた。
声だけが出なかった。
ノアは、こちらを見ていた。
泣きすぎて目が赤い。
熱のせいで頬も赤い。
あの腕に触れたのは、自分の手だ。
治そうとした。
でも、裂いた。
それでも、寝台にいるのは腕ではなかった。
ノアだった。
リリアナは、息を吸った。
「ノ……」
声が潰れた。
ノアは、包帯の腕をさらに胸へ寄せた。
「ノア……」
弟は返事をしなかった。
目に涙がたまった。
唇が震えた。
また泣き出しそうな顔で、リリアナを見ていた。
離れの夜に押し込めていたものが、喉の奥で熱くなった。
「ご……」
止まりかけた。
ノアの目から、涙が一つ落ちた。
「姉様……」
その声で、リリアナの中にあったものが壊れた。
「ごめんなさい!」
声は、悲鳴みたいだった。
「痛くした。私が、痛くした。治せるって思ったの。守れるって思ったの。ノア、ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
母が、口を押さえて泣いた。
父は何も言わなかった。
怒鳴る声だけが、もう出なかった。
リリアナは泣きながら、何度も頭を下げた。
ノアも泣いた。
包帯の腕は、胸に抱いたままだった。
けれど、もう片方の手が、布団の上を少しずつ動いた。
リリアナの袖をつかんだ。
強くはなかった。
でも、離さなかった。
「姉様……」
リリアナは、その場で崩れた。
「ノア……」
「いかないで……」
それだけだった。
許すとも、いいよとも、言わなかった。
それでもリリアナは、もう立っていられなかった。
マルタは、よくできましたとは言わなかった。
許してあげなさいとも言わなかった。
ただ、ノアの寝台の横に椅子を置いた。
リリアナは、椅子の端に座った。
ノアは包帯の腕を抱えたままだった。
もう片方の手は、リリアナの袖を離さなかった。
◇
聴取室の白い壁に、昼の光が差している。
セリアは、記録欄に「過去の恩義」と書きかけた文字に線を引いた。
リリアナは、自分の手を開いた。
傷ひとつない、白い手だった。
「私は今、治療の前に必ず名前を聞きます」
セリアは、顔を上げた。
「礼法として、ですか」
「いいえ」
リリアナは、自分の手を見たまま答えた。
「名前を呼ばないと、傷しか見なくなるからです」
戦場から戻った兵士に触れる時も。
熱病の子どもの額に手を置く時も。
火傷で固まった皮膚を見る時も。
リリアナは、先に名を聞く。
傷より先に、名を呼ぶ。
「それから、相手がうなずくまで触れません」
セリアは、確認票の余白を見た。
「癒やしの奇跡を使う前に、許可を取るのですか?」
「はい」
リリアナは、白い手を閉じた。
「勝手に触れた手で、人を癒やすのは怖いので」
少しだけ沈黙が落ちた。
「私は、小さな聖女様と呼ばれていたころも、化け物と呼ばれたあとも、自分ではありませんでした」
セリアは、返事をしなかった。
「癒やしの力か、危険な手か。そのどちらかでした」
リリアナは、閉じた手を見下ろした。
「マルタ先生は、私にノアの名前を呼ばせました。ノアは、私を姉様と呼びました」
そこで初めて、リリアナは少しだけ息を吸った。
「それで、人間に戻れたのだと思います」
「人間に、ですか」
「はい」
白癒の令嬢は、静かに言った。
「人間なら、謝れますから」




