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第五譚 絶対服従乃誓

 わたくしが朝食を食べ終わりまして、午前中はいつものように雑務や執筆活動を(いそ)しんでおりますと、部屋の戸がノックされる音が聞こえましたので、わたくしは一時手を止めて返事を致しました。

「失礼致します、御主人様。フィランド大学の教授でございます、グラン・ベスチューイ様より面会のご連絡がございますが、いかが致しましょう」

 部屋の前で立ちますローヤに、わたくしは首を(かし)げました。

「グラン殿から?」

 グラン・ベスチューイ教授はわたくしの恩師でございます。わたくしの大学時代には、国内外に関わらず様々な大学に足を運びましては、多くの先生方の下で研究をさせていただきました。グラン教授は、わたくしが教えを請うておりました頃は助教授でございました。当時こそ良くお話させていただいておりましたが、大学を離れてからは数度の手紙ていどでございまして、それほどのお付き合いをしておりませんでした。

「どのようなご用件でしょうか?」

「なんでも、御主人様のお書きになられた論文についてお訊ねしたいことがあるとのことで。申し訳ありませんが、それ以上のことはわかりません」

 ローヤは申し訳なさそうに頭を下げるのです。ローヤは生粋(きっすい)の町娘でございましたから、学術的な話には(うと)いのです。経済学や社会学、民法や簡単な数学、歴史については知識を持っているようでございますが、わたくしのような哲学者の話はあまり馴染みがございません。

 さて、グラン教授からの用件でございますが、なるほど、わたくしの論文についてということであれば、多少理解ができます。

「なるほど」わたくしは(うなず)きました、「わかりました。お時間はいつでしょうか」

「グラン・ベスチューイ様は、本日の午後は講義がないとのことで、午後でしたらいつでもよろしいと申しております」

「わかりました。ではあと一時間後に出かけます。それまでに馬車の準備と、そうそう、ローヤは地下の書庫から『生物の集団的個人』というわたくしが執筆致しました論文を取ってきてください」

「かしこまりました」

 ローヤが行ってしまった後で、わたくしはすぐに準備に取りかかりました。それから一時間後には、わたくしは馬車の中でローヤが持って参りました論文を隅から隅まで読み返しておりました。わたくしが記しましたこの『生物の集団的個人』という論文についてのご説明は、後にグラン氏と対面を果たしたときにされるでしょうからここでは割愛(かつあい)しておきましょう。ともあれ、グラン氏が教鞭(きょうべん)をとっておられますフィランド大学は隣町にございましたので、わたくしが論文の内容を思い出すには充分な時間と申せましょう。

 フィランド大学がございます町に到着致しまして軽めの昼食を済ませますと、わたくしは大学まで参りまして、早速グラン教授にお目通りを求めるのです。わたくしはグラン教授がおられる教授室にでも通されるのかとばかり思っておりましたが、わたくしが待たされましたロビーにグラン教授直々に参られたので、わたくしはいささか驚いたものです。

「やあやあ、フリーク君。待たせたね」

 グラン氏はもう年の頃五十を過ぎまして、それでもまだ若々しい笑顔を振り()いておりました。よくよく目を凝らしますれば、なるほど年相応の(しわ)が見て取れますが、それでもグラン氏が放つ雰囲気は温かく活力に満ち溢れております。わたくしが学生の頃より少しも変わらない大きな体と丸く出っ張った腹がいっそう目を引いておりまして、鼻の下からは茶色がかった(ひげ)が綺麗に整えられております。わたくしは懐かしい気持ちになりまして、グラン氏に挨拶をお返し致します。

「お久し振りです。グラン教授」

「本当に久し振りだ。どうだね、元気にしていたか」

「相変わらずです。グラン教授も、お元気そうでなによりです」

 簡単な挨拶を済ませますと、グラン氏はわたくしをキャンパス内のカフェテラスまで案内するのです。午後とはいえ、学生たちは講義の時間がございますから、テラスには人の姿は(まば)らでした。

「君の活躍は耳にしているよ」二人が席に着きますと、グラン氏が早速わたくしに話しかけるのです、「いまは一人で物書きをしているそうじゃないか。わしは大学教授をやっているから、君の書いたものをあまり目にする機会はないのだが、君が時々出している論文は欠かさず拝見させてもらっているよ。どれも素晴らしいものばかりではないか。わしが大衆論を専攻しているのは御存知の通りだが、君は実に幅広い分野に対して取り組んでいるのだから、若いとは素晴らしいことだ。いやいや、わしにもまだ君くらいの若さがあったとしても、そこまでの知見や知識、思考の深さはとても真似できたものではない。そんな君がどうして小説家としての道を歩んでいるのか、君のような頭脳は政治にも大きな影響力を与えるだろうに。おっと、これはつい口が滑ってしまったな。気にしないで聞き流してくれ給え」

「グラン教授が本日わたくしをお呼びしたのは」

 わたくしは(かばん)の中から論文の束を取り出しまして、机の上に広げました。途端に、グラン氏の表情は険しいものとなりまして、机の上の紙面に釘付けとなったのです。そのご様子から、わたくしは確信致しました。

「この論文についてではございませんか?」

「まさしく!」グラン氏は声を上げました、「『生物の集団的個人』君の最近出した論文で、わしらの学会はいま大きな影響を受けているのだよ。学会で発表される下手な論文より、君の名前のほうがずっと知られているのだからな」

 グラン氏は長々と各学会でのわたくしの評判について語ってくださいました。わたくしは職業と同時にときたま、学生時代を思い出しながら自分が学びました哲学について論文を書き、学会に応募しております。わたくしは学生時代、定まった研究内容を持たずにひたすら知識を得ることばかりに勤しんでおりました。そのために、わたくしの論文には一貫性がなく、様々な分野に広がっております。グラン氏のお話によりますと、わたくしの論文は多くの大学教授先生方の目に留まっており、大変な評価を受けているとのことでございました。学会の発表の場には足を運ばないわたくしでしたので、もちろん関心のない学生の方々には目に触れることはございませんが、グラン氏が個人的に交流の場でお話を持ちかけました際には、必ずといっていいほどわたくしの名前が挙がるようでして、わたくしの名を出しますれば知らない先生方はいらっしゃらないというのです。また、過大な評価をいただいたものです。

 グラン氏は改めてわたくしの論文を御覧になりまして、深刻な表情でわたくしに申しました。

「君もわかっているようだし、話してもよろしいかな?」

「どうぞ、構いません」

 グラン氏はわたくしが差し出しました論文をめくりながら次のように申してくるのです。

「個人とはそれぞれに多様な感性、他者とは異なる性質を持っているはずだが、その根本には共通の意識が存在していると君は述べているけれども、果たしてそんなものは存在しうるのかな?個人とは個々に異なっているからこそ、社会においてその統率をとるのは大変困難であり、その統一のための共通認識という偶像を形成することで、人は一様に統制を強制付けられているというのが今日の在り方ではないのかね?」

「そもそもの問題と致しまして」わたくしは次のようにお答え致しました、「強制力というものがどれほど人に効果を及ぼすかというものから考えていかなければなりません。人が犬や馬を調教する際に、まず行うのは主従関係の明確化であることは御存知のことかと思います。命令を忠実に守れませんものには(むち)を与え、正しく指示に従ったなら御褒美(ごほうび)を与えてやることが(しつけ)というものです。では、これは人間の中に適用した場合にどうなるかをお考えいただきたいのです。人間と動物との間では、そもそも言葉が通じ合わないがために(あめ)と鞭という本能に直接作用する方法を採るしかございませんが、人間が人間に対して何かを伝えればならないときには、言語を(かい)してその意を伝えることができるという相違がございます。また、動物には同じ種族間で協力して主人に(あだ)なそうと画策(かくさく)することはないものとわたくしは聞き及んでおりますが、歴史上を見るにつけて人々の反乱というものは、暴君と呼ばれたランタスや悪政者ビミム、人民の敵と呼ばれた王妃(おうひ)ミレニア・アダスティーナたちが経験した事件を見てもおわかりのように、単純な強制力だけでは人心を押さえつけることは叶わず、(かえ)って人々の反感、団結力というものを招き、(つい)にはその主人たちを討ち取るに至るのです。彼らの過ちはなんだったかと申しますれば、それこそ強制という名の共通認識を持たせようとしたところ、それが生命の持っている根本の意識から外れてしまったからに他ならないのです。

「それでは、人間が持っている共通の意識とはいかなるものかをとくと御説明致しましょう。異文化の言葉で喜怒哀楽(きどあいらく)というものがございますが、これは人間の感情というものは喜びと怒りと(かな)しみと(たの)しみという四つの性質から表せることを()いておられるのです。他の文明を見ても、人間の性質とはいくつかの分類にわけられるとするものがいくつか見られますが、わたくしも、四つかどうかは定かではございませんが、人間の性質はいくつかの区分にわけられ、そこから個々人の性格や行動に結びついていると考えているのです。すなわち、人間の性格や思考というものはそのような個々の性質の結合や配分によって生ぜしめており、わたくしが申しております共通意識はそこから来ているものなのです。

「しかしこの点だけ見ておりますと、中には性質を全く含まない性質を持った人間がいることになってしまいます。例えば他人を愛さない人間がいるとも考えられます。または他人を憎むことができない人間がいても、ちっともおかしくはありません。しかし、実際としてそのような人間がこの世に存在しておりましょうか。なるほど、この世には聖書で描かれるような慈悲深い神のようなお方や裁判で死刑を申し渡されるような極悪人がございますが、そういった方々は真に人間としての性質が欠落している人なのでございましょうか。それはもちろん誤った認識でございます。ではここで、その共通意識という存在を絶対量を定めずに器で考えてみればどうなりましょうか。人間は必ずその性質の器を持っておりまして、性質を満たす量は傾きという指標によって個人差が生じるのです。それによって個々は個人として別の存在であるかのように見えてしまうものなのですが、根本の器は全ての人間が持っているがために、何かしらの共通する意識をそれぞれに備えもっているのです。それは、人間が生命という一端から枝分かれしまして個々人が存在しているように、全てはどこか共通するものを抱えてこの世に存在していると考えられるのです」

 グラン氏は頷き、さらにテーブルに置かれた論文を眺めましてから、次のように申します。

「そこで君は、その人々の中に一貫して流れている共通認識という仮定から、人間の行動原理にはあるていどの法則性があると見たわけだ。すなわち、人間の性質や行動においては何かしらの因果律があり、それを追究することによって人間の精神を見抜くことができると論文の中で述べているけれども、現在にあるような社会を生み出したのはわしら人間だけなのだよ。おっと失礼、ここでは人類と呼んでおこうか。人類は社会を形成してそれだけ豊かな精神と哲学、そして感性を持っているという証でもあるのだ。それだけ優秀な種のわしらが、その根幹部を揺さぶられただけで人の言いなりになってしまうのかね?人は個々として自立しており、その自立した集団によってより堅固な社会を維持しているのだよ。(いや)しい身分より生れ落ちた悪者は直ちに(ばっ)せられているように、強固な個人集団の前ではどんな罪も見逃すことはできないのだ」

「グラン教授が仰られたいことが大筋わかって参りました」わたくしは申し上げました、「それでは、いまよりわたくしめがあなたの抱いておられる問題を一つ一つ解き明かして参りましょう。

「まずは、人類が神の手によって創造(そうぞう)されたものであり、それが神の一部から神の似姿で生まれた種族であるという、あの聖書の観念を一度お忘れにならなければなりません。グラン教授とは学生時代にも一度論争を行いましたが、ここで改めて申し上げておきます。聖書と呼ばれるものは、神のお声を聞いたとされる人間の手によってこの世に生まれたとされるのはこの国の認識でございますが、ではそもそもとして、人間の手によって生じましたこの書物の意味とは、一体何を指しているのでしょうか。冷静にお考えになられればわかることかと存じますが、これは人の手によって作られました書物であることが第一におわかりいただけます。それでは、その人物が語られた神なる存在は一体どういったものなのでございましょうか。なるほど、神とは全知全能にしてあらゆる神聖なる力によって世界を生み出し、世界を操る存在であるようでございますが、ではどのようにしてわたくしたちは神の威光(いこう)というものを理解することができるのでございましょうか。神とは絶対定義より生じた仮定でありまして、それを軸として様々な自然現象を捉えようと過去の哲学者は考えたものですが、そもそもとしてその仮定は世の中の摂理(せつり)(そく)した解釈でございましょうか。つまり、神とはそれこそ偶像の象徴でございまして、まさに人の心に舞い降りました強制力以外の何ものでもなく、その強制力が何の効力も持たないということは冷静な分析力を持たれたグラン教授にはおわかりのことと存じます。

「それでは次に人間の精神についてお話致しましょう。人間が目に見える範囲で行動なさるには、どうあってもこの精神というものの働きがなければまず機能致しません。自然を感じ見て芸術を生み出すように、生命の営みを感じ見て哲学に(ふけ)るように、人間は精神の影響力において活動を見ることができるのです。そしてそれは、人類という枠組みに共通した力、作用でございまして、農民や貴族の区別に関係なくどのような人間にも見られる兆候、いいえ、感性豊かな貴公子貴婦人ほどその精神の力は絶大でございますから、と申しますのは、彼らの備えております感性や知識ほど精神を豊かにしているものは他にないのです。つまり、そこから人間の行動や哲学を知ることが、すなわち精神を理解することに繋がり、人間の精神に影響を与えることが可能となれば、個々の行動にその効果を及ぼすことは大いに実現可能であることをここで理解していただきたいのです。このような精神と人間の活動というものを観察したところで、最初に申し上げました人類の有する共通意識というものを見出すに至りまして、すなわちその共通意識の追究こそが人間の精神活動を知るのに都合のよろしい素材であります。行動が精神を、精神が行動を決定付ける大きな相互関係を持っていることを、この論文では述べているのです」

 わたくしがお話しております間に、グラン氏は熱心なまでにわたくしの言葉を聞いておられるのです。人当たりの良さそうな笑みはそこにはなく、代わりに哲学者(しか)りの、あの野心家の目をわたくしに突き立てるのです。

「素晴らしい!」

 グラン氏はまたあのやんわりとした笑顔になりまして、人の良さそうな声でわたくしに申します。

「やはり君から直接話を窺って正解だったよ。君のその急進的な発想は、学会において多大な影響力を持つだろう。精神の存在を認められなければ、いかなる強制力をもってしても人間の活動を定めることなんてできやしないのだ」

大袈裟(おおげさ)でございます。グラン教授」

「いやいや!」グラン氏は大きく手を振りまして、わたくしの言葉を(さえぎ)るのです、「君のその洞察力や分析力は非常に重要で貴重なものだよ。謙遜(けんそん)していては折角の宝を腐らせてしまうというものだ。どうだね、君。今度まさに君にふさわしい学会が近々(もよお)されるのだよ。君はその論文を元に発表原稿を作って、皆の前で言ってやればいいのさ。誰もが君の言葉を一言も逃すまいとやって来て、会場は満席となるだろう。君は一躍、国中の憧れの眼差しを一挙に得るだろう」

 グラン氏のお誘いは、この国ではとても魅力的なものでございまして、しかもわたくしの身分からは到底お声のかからない貴重なものでございました。学会の席に座ることさえも、優秀な学生、期待された学生でなければならないというのに、わたくしは大学を辞めた身でありながら、お偉い先生方の前で発表の機会をいただけること事態、大変な名誉でございました。しかしながら、わたくしはそのお誘いを丁寧にお断り致しました。

「申し訳ございませんが、お断りしておきます」

「まあ、そう(かたく)なにならずに」

 グラン氏はなおもわたくしに甘い言葉を(ささや)くのです。表情こそ優しい色を崩しませんでしたが、教授のお言葉には隙間などないように熱心でございました。

「いまほどの応答ができるなら、何も恐れる必要はない。もしも不安が残るというのなら、わしが君の背中を押してやろう。わしだって教授という地位に()いたのだから、それなりのことはできるつもりだ。なんとも素晴らしい話ではないか。名誉とともに生活まで保障されるのだからね。君のいまの職業よりかはずっと安定して、豊かな支給を得られるのだよ。なんせ面倒を見てくれるのは、一企業などではなくこの国を支える政府なのだからね。君ほどの実力があれば、皇帝陛下からの援助だって夢ではない」

「大変恐縮ではございますが」わたくしは申し上げました、「わたくしはすでに自分の生活を定めておりまして、そのような大事はわたくしの身に余るというものです」

 しばらくグラン氏からのお誘いは続きましたが、わたくしは教授の仰られる一つ一つの言葉に反対の意を示しまして、それを退けたのです。なかなか譲らないおつもりだったのでございましょうが、とうとうグラン氏も諦めたのか、わたくしを説得するのを止めたのです。

「それでは仕方ないな」グラン氏は申しました、「また気が向いたらいつでも言ってくれ給え。わしは君のことをいつでも応援しているのだからね」

「ありがとうございます」

「どうかね。少しばかりわしの研究室によってはいかんか。君が学生だったころの生徒たちも、何人か残っているはずだ」

「申し訳ありませんが、これから行くところがございまして、今回は遠慮させていただきます」

「そうか。それは残念だ」

「はい。それでは失礼致します」

 わたくしは席を外しまして、表で待たせております馬車まで戻ることに致しました。グラン氏は帰りの道を案内しようと申し出てくださいましたが、以前に通っておりました学び()でしたから、一人で充分でございますと丁重にお断り申し上げました。さて、グラン氏とのやりとりはわたくしの予想しておりました通りのこととなったわけでございます。学会に出席致しますには、どこかの大学教授からの推薦(すいせん)をいただく必要がございまして、つまり学会におります間はその大学、教授先生の名を背負っていることになります。すなわち、わたくしが発表します論文はそっくりグラン氏の研究成果にもなりまして、グラン氏の言葉をお受けするということは、わたくしとともに教授先生の名誉にも繋がるということなのです。あまりにも見え透いた美味しいお話に、わたくしは結託(けったく)致しますことをお断り申し上げたというわけなのです。兎角(とかく)地位や名声というものに関心がございませんので、わたくしはいまの生活でも一等構わないのです。人は大金持ちになるがために世界に奉仕しておられるのでしょうか。わたくしは、大金持ちにも世界に尽くすことにも関心がございませんので、その問いかけは問題にするまでもないことなのです。


 フィランド大学を後にしましたわたくしは、自宅に戻ります前に少し寄り道をしていくことに致しました。その場所というのは、以前にクロス氏から聞き及んでいたところでございまして、実に奇妙な店だとクロス氏も話しておりましたが、必ずわたくしの役に立つとのお言葉をいただいております。そのお店について、ここで皆様にお話しておきましょう。

 その店は(はる)か異郷の地の医学に通じているらしく、様々な種類の薬品を取り扱っているとのことです。わたくしの国の医学では考えられないような、滋養強壮(じようきょうそう)精神鍛錬(せいしんたんれん)、全ての病に効く薬さえもあるらしいのです。また神通力と呼ばれる不思議な力もその店の店主は使えるようでございまして、天候や植物、動物や人にさえもその力を使うことができるようでして、わたくしも実際にこの目で見ないことには信じられないようなお話ばかりでございます。

 その店は裏路地のさらに奥地にあるらしく、なるほど、人目につくような場所にありましたら、たちまち国中の噂になっていたでしょう。わたくしは近くで馬車を降りましてクロス氏のお話通りに進んで行きますと、さきほどまで晴天でございましたのに突然辺りは濃い霧に包まれてしまいました。わたくしはどうしたことかと辺りを見渡しましたが、とにかくクロス氏の言葉通りに進んで行くことに致しました。それから十分ほどが過ぎましたでしょうか、一向に目的の場所が見えず、いくらなんでもここまで裏道が続いているわけもあるまいと怪しんで腕時計を見てみますと、なんと路地裏に入ってから時計が止まっているではありませんか。故障してしまったのではないかとわたくしが腕時計を(いじく)っておりますと、どこからか鈴の音が聞こえて参りまして、わたくしは驚いて顔を上げますと、霧の中から古びた屋敷が忽然と現れたのです。わたくしが驚いて見上げておりますと、屋敷の中から一人の老婆が現れて参りまして、わたくしを中へと導くのです。わたくしは老婆に案内されまして一つの部屋へと通されました。老婆はわたくしに、ここで待っているようにと申しますと、奥の部屋へと姿を消してしまったのです。わたくしが通されました部屋は天上が低く、机の上には様々な色の御香が()かれておりまして、店の中は濃い霧に包まれておりました。棚の中にはなにやら見慣れない小瓶(こびん)が並んでおりまして、ラベルには異国の文字が刻まれているために何が入っているのかわかりませんでした。天上からは人の頭ほどの大きさの提灯(ちょうちん)が吊り下げられておりまして、中からは非常に弱々しい明かりが(とも)っておりましたが、店内は夜のように暗いのです。

 十五分くらいが()ちまして、部屋の奥から現れたのは魔術師ロ・ドレアでございました。頭からすっぽりと紫色のローブを被っておりまして、彼女のお顔は目と鼻しかお見受けすることができませんでしたが、その小さな鼻には長年の才智が感じられ、大きな瞳は三千世界を見通せるほどの眼力がございました。四十の中ほどといった感じでございましょうか、美貌(びぼう)才智(さいち)と神秘さを兼ね備えた蟲惑的(こわくてき)な御婦人でございました。

「ようやっと」ロ・ドレアはわたくしを見るなり次のように申しました、「あなたはここを訪れました。フリーク・ベネヴォレンス」

「わたくしのことを御存知なのですか?」

 わたくしはまだ名乗ってもおりませんのに自分の名を呼ばれたことに少なからず不信感を覚えましたが、クロス氏から耳にしていた通りと申しましょうか、わたくしは彼女の予知能力をここで理解することとなったのです。

 ロ・ドレアはベールの奥で(あや)しげな笑みを浮かべるのです。

「いいえ。わたしは何も存じてはおりません。ただあなたがここを訪れるだろうことだけを知っていたに過ぎません。でも、そうですね。あなたはあたしが予知したよりも少しばかり遅くおいでになったということぐらいが、わたしを大そう驚かせておりますわ。まあ、わたしの予知も外れることがありますので、仕方のないことですわね」

 ロ・ドレアは頭を振り二回手を打ちますと、部屋を照らしていた明かりが一斉に青色に輝き出しまして、その不思議な光景にわたくしが目を奪われておりますと、ロ・ドレアは意に介した様子もなくわたくしに訊ねるのです。

「さあ、あなたはまず何をお望みですか?」

 わたくしはあまりの不思議な出来事の連続にすっかり言葉を失っておりましたが、わたくしがこの店を訪れた理由ははっきりしております。

「あなたは人の未来を占う術を持っておられると聞いております。まずはわたくしの未来を見ていただいて、それから薬品を見せて欲しいのです」

「見料は五十エルです」

 わたくしが言われた通りの額を彼女に差し出しますと、ロ・ドレアは引き出しの中にお金をしまい、すぐ隣の扉を指差すのです。

「ではこの扉を(くぐ)って、そこで呼ばれるまで待っていてください。お呼びがかかるまで決して口を()いてはいけません」

 わたくしがその部屋に入りますと、中は紫色の煙が立ち込めておりまして、(ほの)かに甘い香りが漂っているのです。部屋は四坪ほどの小さな部屋でございまして、壁と天上以外に見えるものはございません。どこからか漏れ入ってきた光だけが、わたくしのいまの状況を推し量れる全てでございました。あまりの暗さにわたくしはどこから入ってきたのやら、扉を見失ってしまいました。そこでわたくしは驚くべきことに気がつくのです。この部屋のどこにも扉がなくなっているのです。わたくしは不思議に思いましたが、しかし不安を感じることはございませんでした。最初に訪れたときより奇妙なことばかりが続いている店でございます。これも評判通りと思い、いまさら何を恐れることがあるのでしょうか。時間の感覚も失いまして、どれほどの時間が過ぎたのかわかりませんが、突然目の前が明るくなりまして、そこから一人の老婆が現れて参りまして、わたくしに手招きをするのです。わたくしは老婆に従いまして部屋を出ますと、そこは先ほどまでとは全く別の場所で、その部屋は天上がもう少しばかり高く、いままでの視界を遮る煙はすっかり消え失せてしまい、天上に吊るされていた明かりまでもなくなってしまい、代わりに周囲には燭台(しょくだい)が何本も置かれているのです。部屋の中央には先ほどと同じ恰好のロ・ドレアが椅子に腰掛けておりまして、彼女の前には(まる)いテーブルが一つと、そこには透明な水晶玉が大事そうに置かれておりました。

「ではそちらにおかけになって」

 わたくしは申されるままに椅子に腰掛けました。するとロ・ドレアは水晶玉に手をかざしまして、何やら呪文を唱え出すのです。すると、なんという摩訶(まか)不思議な現象でございましょうか。透明だった水晶玉の中が曇り出しまして、中で煙が渦巻くように色を変えていくのです。わたくしはその神秘的な出来事にすっかり釘付けになってしまいました。

「あなたは」ロ・ドレアが唐突にわたくしに申します、「お訊ねにならないのね」

「何を、でございましょうか」

「予知の力の秘密についてです」ロ・ドレアは申します、「未来を見通せる力をあなたは欲しないのですか?その力をもってすれば、他人のことも御自身のこともよくよく理解することができますのよ。決断をするのに、もう迷うことはありません。そんな力を、魅力に感じたりはしませんの?」

 わたくしは素直にお答え致しました。

「別段、わたくしには興味のないことでございます」

「面白いお方」

 彼女は、本当に面白そうに目を細めまして、水晶玉へと視線を戻すのです。水晶玉が次第に青く色づきまして、それは次第に藍色に紺色にと濃さを増し、最後には漆黒の闇に変わってしまいました。その様子を窺いながら、ロ・ドレアは次のように申しました。

「あなたの未来が見えます。赤い海の中で、あなたは一匹の人魚に出会います。人魚はあなたを、海の底深くへと導いていくのです。あなたは人魚に導かれるままに、深海の奥底へと潜り込んで行きます。朝日が昇る頃になって、あなたは巨大な闇を前にすることでしょう。とても、大きな闇です。あなたは一つの真実以外全てを失って、審判の声を聞くのです。あなたは、暗い闇の底で、永遠に眠れる人となるのです」

 わたくしはすぐにそれが何を意味するのかを察しました。そして、それがさも当然のように、わたくしは静かに頷くのです。

「そうですか」

「近い、ええ、近い未来のことです。近い未来ほど変えることは難しく、あなたは運命から逃れることができません」

「いいえ」わたくしは首を振ってお答え致します、「一等構いません。運命というものほど魅力的な果実は、他にないのですから」

 占いがすっかり済んでしまいますと、ロ・ドレアは部屋の奥から屈強な男を呼び寄せ、水晶玉を片付けさせますと次の用件を訊ねてくるのです。

「さてお薬のことですけれど」

 ロ・ドレアはその蟲惑的な雰囲気でわたくしに訊ねるのです。わたくしはまるで御伽噺(おとぎばなし)の魔女と契約を致しますような、不思議な気分に駆られました。

「あなたは一体どんな薬品をお望みでしょうか?病人を救う神秘の薬ですか?それとも健康な者を病魔に()かせる悪魔の薬ですか?死者を蘇らせる奇跡の薬ですか?人々を地獄へ放り込む死神の薬ですか?人心を惑わす女神の薬ですか?人の心を粉々に打ち砕く魔女の薬ですか?世界を平和にする賢者の薬ですか?世界に災厄(さいやく)をもたらす愚者の薬ですか?なんでも望むお薬がここには揃っています。あなたの望みをその口で(ささや)いてくださいましな」

 魔術師はじっとわたくしの目を見つめたまま視線を()らしません。わたくしは心の奥底まで見透かされているような気分でございました。彼女の直視の目に、わたくしは素直に返答致します。

「では、永遠を与える薬をお願い致します」

 ロ・ドレアはまだ視線を逸らさずに、わたくしに訊き返すのです。

「そう、永遠ですね」

「はい、永遠でございます」

 わたくしは頷いてお答え致します。

「料金として二百エルいただきます。薬を作りますのに三十分ほどお時間をいただきます」

 料金を払ってしまいますと、ロ・ドレアは老婆を呼び出しまして薬の用意を命じました。老婆は小さく頷きまして、お金と一緒に奥へと引っ込んでしまいました。

「他にお望みのお薬はありますか?」

「いいえ、もう結構でございます」

 途端に、ロ・ドレアはその魔術師の素振りを取り払いまして、どこにでもいるような素敵な御婦人の笑顔で微笑むのです。

「不思議なお方ですのね」ロ・ドレアは申しました、「わたしが言うのもなんですけれども、あなたはわたしの目を(ことごと)く狂わせてしまいますわ。あなたは生命というものに固執(こしつ)しない方だと思っていましたのに」

「もちろん」わたくしはお答え致しました、「わたくしにとって生命にはそれほど意味がなく、わたくしの望む永遠とはすなわち、人間の精神に関することなのです」

「詳しくお話願えますか?」ロ・ドレアはなおもわたくしに訊ねるのです、「まだお時間もありますし、あなたのお考えを聞かせてくださらない?魔術師と呼ばれ、あらゆる自然に通じてこの世の全てを知る術さえ身につけたわたしでも、あなたはとても不思議な存在に見えますわ」

「わかりました」わたくしは申しました、「生命やそれを包み込みます社会という物質的な概念に関しましては、芸術や技術の進歩からある種の限界を見ることができるのです。もちろん、あなたのように世界を物質的に解明して肉体や世界に影響する技術をそれほどまでに習得なさった人物をわたくしは他に知りませんので、物質における追究はまだ完成されているわけではないことをわたくしは改めて認識することになりましたが、しかしながらわたくしの追究するものはひとえに精神の(ことわり)、すなわちその真理についての見地であることを最初に述べておきます。世界に存在している生命の中で、人類ほどの大規模繁栄を獲得した種は他にないといういまの社会の認識に、されどわたくしも意を唱えるようなことは致しません。しかし、人間というものも生命の端末の存在であることは変わりなく、しかしながら人間には他の生命が自己のまたは種族の存命のために、狩りをし、寝床を作り、子を宿すという流れに縛られているのに対し、人類は真に不可思議で、芸術や文学、哲学に、思考と技巧を凝らしており、これは生活が裕福になりました貴族にこそ見られる兆候に、わたくしは特に注目しているのです。つまり、生命の本能的義務というものが、その問題が実現に困難を見なくなりますと、生命というものはより生命から離れた思考を好むようになり、ときたま呼ばれる雑学というものは、その一端に他ならないのです。そういった生命の活動は、存在には(もっぱ)ら関わらずに、所謂(いわゆる)精神と呼ばれるものとして定義されているのです。

「では、この人類が獲得しました精神というものを見るにつけて、なかなか興味深い事例が見られますので、これをさらに追究してみることに致しましょう。人間の社会には生活環境を円滑に整えるために、常識とか、規律とか呼ばれるものが多く目につきますが、どうして人はその種の盲目的な強制力を承諾しておられるのでしょうか。もちろん、確かな知識と冷静な分析力をお持ちの方はそこから脱する(すべ)を身につけておいででしょうけれども、しかしながら充分な精神を獲得しておられるはずの貴族の間柄にも、この種の不合理な教訓に従います(いわ)れがどこに存在しているというのでしょうか。そうです。宗教や信仰という、人間が生み出しました神に(すが)りつくのは、精神の弱さというよりも精神の怠惰(たいだ)によるものだと申せます。充分な素養、知識、思考の繰り返しによって得られました精神と分析力は、そんな無明(むみょう)の希望に頼りますことを悉く拒絶するのです。しからば、神の崇拝や自己とは分裂した他者との依存関係、それを強固に結びつけようとするあの常識や規則と呼ばれるものは、ただの幻想に過ぎず、そこから得られるものは個人精神の弱体化すなわち怠惰をしか導かないのです。

「ではしかし、人間個人の精神によってその哲学思考に相違が見られるということは、精神とは複数の異なる存在を持っていると申せるということでございましょうか。つまり、宗教家と無神論者の間には隔絶した違いが見て取れますが、その精神にさえも全く異なる性質が含まれているというのでしょうか。その判断は早急というもので、興味深いことに人間の精神には一貫性がございまして、人間はその台座から軸からは決して逃れえず、その中枢精神、わたくしが共通意識と呼んでいるものがそこにはございます。つまり、それが世で呼ばれているところの真理に違いないとわたくしは予見しているのでございます。わたくしはこの精神活動における真理の追究こそを生き甲斐としておりましたのです。真理の追究こそが人間の精神の最たるものであり、すなわち真理を見てようやくわたくしは生命がなんたるかを語ることを叶えるのです」

 ロ・ドレアは小さく数度頷きましてから、わたくしに申します。

「それではあなたは精神の追究、すなわち真理への探究心から永遠を望まれるということですか?全宇宙を見て人類の歴史、ひいては生命の起源を辿り見るには、人個人の寿命では到達できないと見たのですね」

「残念ながら」わたくしは首を振って否定致します、「それはわたくしの出しました結論ではございません」

「では一体何がために?」

 ロ・ドレアは雲を掴むように眉を寄せます。わたくしはこの魔術師にお答え致します。

「いまここにあります精神の永遠を望むのみでございます」わたくしは申し上げます、「なにものにも汚されず、なにものにも(ゆが)められず、なにものにも()びない確固たる精神の獲得こそが、わたくしの望むところなのです。精神が、その練磨(れんま)によって差異的性質を露見するようなものであればこそ、古代芸術を修繕するように、全ては流れ行き、変化が生まれるのです。ならば精神も、他者からの、または世界からの、社会からの影響によって変質してしまい、やがては腐敗してしまったことにも気づかなくなっては、わたくしの望む真理には到底到達できません。いいえ、真理に辿り着いた瞬間からその精神は時々刻々と滑り落ちていくとは考えられませんか。世の中に究極的な同一性が存在しないのであれば、わたくしたちが望むものは、決して揺らがない永遠なのではないでしょうか」

 ロ・ドレアはベールの奥で可笑しそうに笑うのです。

「やはりあなたは不思議なお方です」

 わたくしたちが話している間にとうとう薬が完成致しまして、ロ・ドレアは小包に薬と扱い方を記した用紙を入れまして、わたくしに渡すのです。別れ際にこの魔術師は、いつの日かまたお会いしましょうと、わたくしに申して参りましたので、わたくしは、あなたにとっては人の未来など全てお見通しなのではないでしょうかとお訊ね致しました。すると彼女は次のように申されるのです。

 わたくしの未来は、彼女に占っていただきました未来以降の未来が、全くの闇に閉ざされているというのです。しかしながら、わたくしの未来は強い不安定要素を含んでいるようでして、その未来の必然性が揺らぐ可能性もあると申されるのです。わたくしの未来がいかようになりますかは、もしかしたらば、わたくしの行いによって変わるかもわからない、ということなのです。未来とは逃れられない運命でありながら、しかし些細な機会によって無限の視野が広がるということなのです。


 ロ・ドレアの指示に従いまして、帰りは裏口から出ましたところ、そこはわたくしが馬車を降りた場所だったのです。わたくしが驚いて目の前の馬車を見上げておりますと、御者は不思議そうにわたくしに訊ねるのです。彼が申しますところによれば、わたくしはほんの数分ほどで戻って参ったようなのですが、わたくしはもう二時間近くもロ・ドレアの店にお邪魔していたように思えるのです。わたくしは御者に、もう用は済みましたとお伝え致しまして家に戻るように申しました。馬車の中でわたくしは自分の腕時計に目を向けてみますと、確かにわたくしが路地裏に入ってから数分ほどしか経っておりませんでした。気味悪くも思いましたが、流石は魔術師だと納得してしまいまして、わたくしは懐にしまった小包を出してみました。確かにわたくしはロ・ドレアの店に行って買い物をしたようでございました。小包の中には、彼女にお願いしました薬が一瓶入っておりました。わたくしは馬車の中で一緒に入っていた説明書に目を向けるのです。

 自宅に戻りまして、わたくしは自分の部屋の引き出しにその小瓶をしまい込みました。ちょうどそのときでございます。ローヤが書斎の扉をノックしましたので、わたくしはそっと引き出しを閉じまして、ローヤを部屋へと通しました。

「御主人様、お出かけ中にマリス・ミーディアム様からお手紙が届きました」

 ローヤは一枚の手紙を差し出しました。宛名には確かにマリスの名前がございまして、わたくしたちは何度か手紙のやり取りをしておりましたので、すぐに間違いないということがわかりました。

「マリス・ミーディアム様の使いの方は、御主人様がお帰りになられたらすぐに読んでもらいたいと仰っておりました」

 いつもでございましたら、ローヤが部屋を出て行った後にでも手紙を拝見するのですが、そのようなお言葉を受けたことは今回が初めてでございましたから、わたくしは少しばかり気になりまして早速封を切って手紙を開きました。最初の文面には次のような文句が(したた)められておりました。

「忠義の誓いをたてると申されるならば、あなたは(ただ)ちにこの剣を取って国家の邪悪を打ち滅ぼすがよかろう。神聖は剣にはあらず、されどそが心に正義が宿るならばいかなる魔剣もたちどころに賢者の杖に変わり、人心を惑わす猛毒はその聖水をもって断ち切られるのです。さあ、何を迷うことがあろうか。世界が我が身を異端の魔女と(さげす)むならば、(なんじ)は英雄たりてこの首を()ねるが良いぞ」

 マーラの『悪の華』に登場して参ります一節でございます。わたくしは微笑しながら次の紙面をめくるのです。

「恋いずる春の木漏れ日も夜の(とばり)ぞ過ぎ去りて、泉は精気満ち足りる若葉輝く(とき)となりしこの日々に。月の満ち欠けは留まることがなく、人の生には自然を(はば)む術などありようものかと。さりば異端の者なれば、魔手の汽笛(きてき)ぞ吹き荒びこの世の荒れ野など絶えて駆逐せん。鮮血の雲海に舞い散る少女の(むくろ)に咲くは一輪の薔薇かな、罌粟(けし)の香りぞせしや。騎士の誓いやいかほどのものか、神の住まわぬ天の山にてその証を示し参りて」

 文面はそこで終わっておりました。わたくしは彼女の意を得て大いに頷きました。マリスとの約束の日は、わたくしに与えられた一月の生命の猶予(ゆうよ)は、しかし数日ほど早められまして、どうやらマリスは今晩その約束をわたくしに果たすよう、こうして手紙をよこしたのです。

「わかりました」わたくしはローヤに申しました、「いまから彼女の屋敷へと参ります。もう大分遅いですし、今晩は彼女のお屋敷に泊めていただきます。いつ戻ってこられるかわからないので、しばらく家の留守をよろしくお願いします」

 いつもでございましたら、ローヤはすぐに部屋を出て行ってしまうのですが、今日は珍しくしばらくその場に立っているのです。

「あの、御主人様」

 ローヤは思いつめた表情をしておりましたので、わたくしは不思議に思い訊ねました。

「どうかしましたか」

「少しよろしいでしょうか?」

 ローヤからこのようにお話を切り出されるのは初めてのことでした。よほど大事なことなのでしょう、いつもはすましておりますローヤの顔は緊張で強張り、手元が落ち着きなく彷徨(さまよ)っているのです。

「どうぞ。構いません」

 わたくしが微笑んで申し上げますと、ローヤは真っ先に次のように申しました。

「御主人様は近頃外出することが多くなりましたが、一体どちらに向かわれているのですか?」

「わたくしが出かける先はあなたもご存知と思いますが、想像力を高めるために美術館に出向いたり、また散歩などをして感性を磨いております。ときには、本日のように大学の先生方よりお声がかかることもございますし、それよりは旧知の友人とともに食事をすることのほうが多くございます。また最近のお話と致しましては、ローヤもご存知でしょう、ミーディアム家の御令嬢と御一緒することが多々ございます」

「御主人様はその方のことをお(した)いしておられるのですか?」

「お慕い申し上げております。ああ、色沙汰(いろざた)に考えなさるのはお止めください。以前にも申し上げましたが、わたくしはどんなお付き合いでありましょうと、人との関わりから外れることはございません。よほど親密になりました方であれば、わたくしの哲学的精神をお披露目(ひろめ)することもたびたびございましょうが、わたくしの精神に忠実であれば、男女の関係など意味を持たないのです」

「御主人様は無神論者でございましたね」

「その通りでございます。あなたにもお勤めを始めた頃にお話致しましたが、この世の(つく)りが全知全能なる神の存在によってなされたものであれば、世界はかくも不完全なのでございましょうか。神への祈りがどうしてわたくしたちの生命をお救いくださるというのでしょうか。生命は、生まれた瞬間から一生に背負いし運命を与えられておりますのに、どれほどの祈祷(きとう)が農民を貴族にしてくださるというのでしょうか。運命という呪縛から抜け出したいと強く願うのでしたら、神の言葉など捨て去ってしまい、そしてただ自己のみで生きてみたらよろしいのです。神は何ものもお救いにならないということを、重々お知りになることができるでしょう」

 ローヤがしばらく黙り込んでしまいましたので、わたくしは気になりまして彼女の様子を窺いました。ローヤの暗い表情を見て取りまして、わたくしはすぐに理解致しました。

「ああ、あなたが気にすることではございません。以前もお話致しましたが、人の価値観というものは個々が所有していればよろしいのです。社会から致しますれば、わたくしの精神や存在は異端にしかならないだけで、あなたのような善人はかのように振舞っておられて一等構わないのです」

 ローヤは一般の常識に則した人間でございますから、もちろん信仰もございますし、食前の神に捧げる言葉こそ申されなくなりましたが、それでもローヤが神に対して何かしらの奉仕をしていることは確実なのです。

「しかし御主人様は、そのマリス・ミーディアム様とはよくよくお考えが合うのですね」

「全くその通りです」わたくしはお答え致しました、「彼女のように考え深い方を拝見するのは、実に(まれ)でございます。少なくともわたくしの故郷(ふるさと)には、父も母も叔父も叔母もお爺さまもお婆さまも兄弟も、豊富な知識や教養を身につけておいででございましたが、わたくしまでの境地に至るものはおりませんでした。そしてこの町に参りましてからも、社会の存在定義や精神の究極的意義、この社会に根を下ろしております強制力と人間が持っております共通認識における理解は得られませんでした。しかし、彼女だけは違っておりました。わたくしの中では、彼女ほどの存在は他にお見受けできませんでした」

「しかしトゥルース・フォリー様は」ローヤは申します、「マリス・ミーディアム様のお家では相続争いの渦中(かちゅう)のようで、あまりあの方とお関わりになれば、御主人様にもいらない火の粉が降りかかる恐れがあると仰っておりました。それに、マリス・ミーディアム様は現在の御頭首様から勘当(かんどう)されていると拝聴(はいちょう)しております。そのような方とお関わりになるのは危険ではないかと、トゥルース・フォリー様も御主人様の身を案じておられます」

 わたくしは少なからず驚きました。

「あなたにまでそのお話がいっているとは、わたくしの友人はわたくしのことをあまり信用しておられないのですね」

 わたくしの言葉にどのような感情を読み取ったのでございましょうか、ローヤは実に申し訳なさそうに(うつむ)いてしまうのです。わたくしは(つと)めて明るい声でローヤにお答え致しました。

「そのお話は本当のようです。彼女からも(うかが)いました。しかし、あなたまでもわたくしの身を案じる必要はありません。わたくしは彼女とともにあることを、少しも恐れてなどいないのですから。むしろ、彼女とともにあることをこそ、わたくしは望んでいるのです」

「御主人様は、マリス・ミーディアム様に全てを委ねられるのですか?」

「もちろんでございます。わたくしにとっては精神を共有できる唯一の存在でございます。わたくしは永遠に、彼女にこの精神を捧げても、少しも惜しくはございません」

 そうです。それ以上に何を望むのでしょうか。わたくしが家を捨て、両親や兄弟を捨てまで選びました異端の道に、期せずして現れました唯一の光、それを求めて、なにが間違いであると申されましょうか。わたくしは、これ以上にない精神の高みを彼女に見出したのです。

 ローヤは平生の物静かな表情に戻りまして、わたくしに対して仰々(ぎょうぎょう)しく頭を下げるのです。

「雇われの身で出過ぎた真似を致しました。申し訳ございません」

「構いません。どうかそのように謝らないでください」わたくしは机の上にマリスからの手紙を置きまして、ローヤに申しました、「ではすぐに出かけますので、馬車の準備をしておいてください」

「かしこまりました」

 今度こそローヤはわたくしの書斎を後にしました。わたくしは馬車の準備が整う短い間に、マリスへのお返しのお手紙を早速認めました。わたくしはこの家を出る前に、最後の見納めをしておこうかと思いましたが、それは止めにしておきましょう。思い入れというほどのものはございませんし、何よりわたくしが愛しておりますのは、わたくしが追求して参りました精神以外にはないのですから。書斎の棚の中に収まっております数々の書物は、わたくしの精神を支え、精神を作り上げる糧となりましたが、その全てはいまのわたくしの心にしっかりと刻み込まれているために、わたくしはこれ以上に求めることはしないのです。

 ああ!今宵(こよい)ようやっとわたくしは彼女との永遠を手に入れられるのです。生命という物質的支配から解放されまして、ただ精神のあるがままに永遠を享受(きょうじゅ)するというのは、なんと素晴らしいことでございましょうか。


 約束の日を今宵と定めたのはちょうど昨夜、レーラという少女を地下の楽園に連れて行ったときのことです。レーラは、年は十六で、大そう瑞々(みずみず)しい肌とほっそりとした手足に、形の良い腰をしていて、滑らかな腹の上には女性らしい豊かな胸をした、大そう魅力的な女でした。顔の部分は一つ一つが大きくて、良く動くお口と()がったお鼻には威厳(いげん)のようなものが感じ取れました。目の大きさまでは目隠しをしてあったので窺い知れませんでしたが、レーラはなかなか頭の回る子で、大変お(しゃべ)りでもありました。美の女神が授けたような美しい肉体と。智の神が祝福した豊富な知識には、あたしでさえも感嘆したものです。しかしながら、頭でっかちといいましょうか、レーラにはまだまだ世の中でありふれている常識観念から抜け出ることは不可能なご様子で、どんなにあたしが自然についてのお説教を聞かせてやっても、最後には御自身の盲目的な信仰に立ち返ってしまうのです。あたしは少し残念な気がしましたが、彼女を合唱隊の一人に加えることにしました。ああ、なんて残念な子!もう少し冷静に物事を見るだけの目があったなら、あたしはあと三日ほどの間、彼女とお愉しみをしていたでしょうに。あのミッシェルのように、最期(さいご)まで素晴らしい快楽というものを教え込んで差し上げたのに。豊かな知識が柔軟な分析力と正しい認識をなさしめるわけではないという、良い教訓にはなりましたけど。そうです。社会という構造はただひたすらに、人間の精神を(おとろ)えさせるだけでしかないのだわ。より素晴らしい哲学精神を、常識という拘束具が(むしば)んでしまうのよ。正しく人を導いていくには、まず思想を押しつけるのではなく、芸術や文学に触れさせてあげることが何よりも大切なの。思想はともに歩み、ともに学び、ともに考えていくうちに、真の精神というものを人は身につけていくものなのだわ。

 朝早くに、あたしは早速フリークに手紙を出しました。今宵こそ二人の約束が果たされる日なのです、と。あたしは彼からの返事が待ち遠しくて仕方ありません。いつでも彼からの返事を受け取れるようにと、今日は一日も城から出るつもりはありません。いいえ、彼からの返事が来るまでは、もう一日だって丘を下る気はありません。もっとも、今日の内に彼からのお返事がいただけないなんて、あたしはちっとも疑ってなどおりませんけれど。

 もう外はすっかり日が沈んで暗くなってしまいました。いくらあたしの屋敷が丘の上にあるからといって、ここまで待ってもお返事がいただけなくて、あたしはもう胸が焼け()げそうです。あたしは食事をしながら、フリークからの手紙を待ちます。今日のお料理には、全てミッシェルが使われています。ミッシェルの(つめ)の入ったスープ、ミッシェルの軟骨が入ったサラダ、ミッシェルの太腿(ふともも)を使ったソテー、ミッシェルの頬肉を使ったパスタ、デザートにはミッシェルの目玉を頼んでいます。ミッシェルほど美しく、理知的な女性は他にいませんでした。あたしの感性を満たしてくれるのは、なによりもまずは知性と哲学なのです。社会に染まらない純粋な思想、美的感性をお持ちの人だけが、あたしの情動を揺さぶってくれるの。そうしてあたしの想像力を(たかぶ)らせてくれて、あたしは最高の快楽をこの身に得ることができるのです。

 そんなふうにして、ミッシェルを味わいながら彼からの手紙と悪事への空想に夢中になっていると、ノックの音が聞こえたので部屋に通しすと、それは執事のエ・スッチでした。

「まあ、どうしたの。あたしは食事中よ」

「承知しております、お嬢様」

「もしかして!」あたしはある予感がして叫びました、「彼からのお返事が届きましたの?」

 ようやっとフリークからのお返事が来たのかと、あたしは胸が高鳴りました。

「いいえ」しかし執事の返事は、あたしの期待したものではありませんでした、「大変申し訳ございませんが、あのお方からのお返事はまだでございます」

「あら、残念だわ」あたしは食事に戻ってミッシェルの太腿を口に運びました、「それで、男爵。何の御用かしら?」

「それが、お嬢様にぜひともお会いしたいという方がいらっしゃいましたので、お伝えに参りました」

「それはどなたなの?」

「男性の方です。お名前を何度もお訊ねしたのですが、お嬢様にお会いすればすぐにわかると、全くお答えしていただけません」

「非常識な方」あたしは言いました、「そんな得体の知れない方は、さっさとお帰り願って」

「はあ。そのようにしたいのですが」

 珍しく、男爵の言葉には心の迷いが見受けられたので、あたしは不思議に思って訊ねました。

「何か問題でもあって?」

「なかなか強引な方で、しばらくお待ちしてもらっているのですが、いやはや、女中たちでは一体どれほどもつのやら」

 遠くのほうから、なにやら人の声が聞こえました。声の感じはとても横柄で、あたしの家来の中にこのような声の持ち主をあたしは知りません。だんだんと声が近づいて来て、乱暴に食堂の扉が開け放たれました。現れたのは、細身ではありますがなかなか立派な体つきをした貴公子でした。紺色のズボンに真っ赤なシャツを羽織り、そこから太い首が伸びています。口は好戦的で、形の良い鼻、目は情熱と闘志に燃え上がっております。少し癖のある髪は金色に輝いていて、野生的な雰囲気が漂う、なんとも立派な貴公子です。

「丘の上の薔薇屋敷(ばらやしき)が主、マリス・ミーディアムとお見受けする」

 食堂に入るなり、男はあたしを射抜くように睨みを利かせて、声高らかに言うのです。

「一体どこのどなたかしら?」あたしは不信がって訊ねます、「御自分のお名前も名乗らずに人の家に上がり込むなんて、失礼ではございませんか」

「わたしのことがおわかりでないと、そう申されるかな、御婦人」

「ええ、その通りよ」

「では、ミッシェル・リングミルという名にお心当たりはございませんか?」

「ミッシェルですって!」その名を聞いた途端、あたしは叫びました、「ああ、ミッシェル!知らないはずがありませんわ。彼女はあたしの友人ですもの。ああ、納得がいきましたわ。あなた、あなたでしたのね」

「どうやらおわかりいただけたご様子だ」

「ええ、ようやっとわかりましたわ」

 そうですよ、皆様。なんという運命の巡り会わせでしょうか。目の前にいる貴公子こそ、ミッシェルが心()かれたあの王子様だったのです。

 男は執事や駆けつけた女中たちを見下ろして言いました。

「そういうわけだから、君たちは即刻この部屋から出て行ったがよろしい。わたしは君たちの主としばらく二人っきりで話をせにゃならんのだからね」

 男のあまりの尊大な態度に、女中も執事も驚き動揺していました。男の勇猛(ゆうもう)な態度と頑丈な体つきに、あの男爵でさえも怖気(おじけ)づいているのです。

「しかし。お嬢様」

 震える声であたしに訊ねる執事を見て、あたしは微笑んで答えました。

「心配いらないわ、男爵。あなたは隣の部屋で(ひか)えているといいわ」

 執事と女中たちがすっかり食堂を出て行って、部屋にはあたしとこの男だけになりました。

「あなたは、まさか、もしかして」

「その通りですよ、御婦人」男は堂々とした態度で言いました、「わたしはリンカード・ビブルイッド。ミッシェル・リングミルとは、彼女が勤める図書館で知り合っています。彼女とあなたは、大そう仲睦(なかむつ)ましくしていらっしゃったご様子」

「ええ、そうよ」あたしは言いました、「ミッシェルとは良く会って、一緒にお話をしておりました。ええ、文学や哲学については、それはそれは深くね」

 あたしの言葉をどのように受け取ったことでしょうか。しかし、リンカードは少しも揺るがずに、あたしを睨んだままでした。

「あなたもお食事を御一緒しませんか?」

「いや、結構。毒でも入っていたら敵いませんからな」

 リンカードは扉のすぐ前に立ったまま、一向に動こうとしないのです。

「毒なんて入っていませんわ。こうしてあたしも口にしているものですもの」

 あたしがスープをすすってみせても、リンカードは頑として譲りません。

「あなたにとって毒ではなくても、わたしには毒であったりするかもしれません」

「まあ、呆れた方!」あたしは言いました、「科学者という人は、そんなふうにものをお考えになるの?人を疑うばかりに、そんな支離滅裂なことを仰るなんて」

「ふん。あなたに言われることではない」

 リンカードはあたしを悪者でも見るような目で見下ろしています。なんて身勝手な方でしょう。これほどの扱いを受ける(いわ)れは、どこにもありません。あたしはこの男に構わず食事を続けることにしました。

「さあ、本題に入りましょうか。わたしが何故あなたの屋敷に訪れたのか、その理由を」

 リンカードは早速話しました。

「ミッシェル・リングミルの行方をご存じないだろうか?彼女はここ数日、行方知れずなのです」

「さあ、存じませんわ」

 あたしは適当にお返事しましたが、この男はそれでも引き下がりませんでした。

「あなたは、彼女とは深い仲だったと伺っている。あなたなら、何かご存知のはずだ」

「ミッシェルは、あなたにそんなことまでお話していたの?」

「いや、彼女とまともに話ができたのは、ほんの数回しかなかった。わたしは彼女の家を訪れ、彼女の日記からあなたのことを知ったのです」

「まあ、レディのお家に一人で入られるなんて」

「彼女の行方がわからなくなったのは、彼女の関係者の間では話題になっている。図書館にも顔を出していないと職員は話していたし、下宿に行ってもしばらく帰ってきた様子がないと近所のものは言っていた。彼女が何かしらの事件に巻き込まれたのは明白だ」

「それであったら、警察の方に任せていればよろしいのではないかしら。なにもあなたが足を運ぶことなんかないでしょう」

「わたしは」

 男の目つきが変わったのを、あたしは見逃しませんでした。彼の目は、罪人を見るような蔑み、敵意を()き出しにした視線ではなく、美しい芸術を目にした、あの偉大さに触れた瞬間の、尊敬と敬愛の眼差しになったのです。

「わたしは、彼女を愛している。お付き合いにも誘って、了解の返答もいただいた。それなのに、それなのに」

 リンカードは悲痛に顔色を曇らせます。

「約束の時間になっても、彼女は現れなかった。そこで、図書館の職員を捕まえて訊ねてみれば、その日彼女は出勤してこなかったと言うではないか。これはおかしなことだと思っているうちに何日も過ぎてしまって、それでもう一度図書館に行ってみたら、なんと彼女はずっと姿を見せていないという。さすがにこれは一大事だと思い、図書館の職員室に入って彼女の机を調べ、職員から聞いた彼女の下宿へ行って近所の住民に聞き込みをして、ついに彼女の部屋の机の中から日記を見つけたのだ」

 リンカードはあたしの前にその日記を突き出しました。

「この日記にも、彼女が図書館に来なくなったという日から何も書かれていない。いや、その前日から、彼女は日記を書いていない。つまり、わたしが彼女と約束をしたその直後に、彼女は何者かに(さら)われてしまったと、わたしは推理したわけだ」

「それで、あなたはあたしを疑っておられるのね?」

「ミッシェルの日記からは、たびたびあなたの名前が拝見できた。そこで、失礼ながらいろいろと調べさせてもらったが、あなたの家は大そうなお金持ちで、いまは相続人争いの渦中にある。しかしあなたは当主のお爺さんから勘当されており、このような屋敷に一人で(こも)っているそうではないか。あなたには、他にも得体の知れない噂がいくつも(ささや)かれている。あなたの馬車が通ると数日のうちに人攫いが起きるとか、あなたが立ち寄った店はたちまち破産するとか、嫌な話ばかりを聞く。これで疑わないものは、よほどの馬鹿だけだ」

「まあ、ではあなたはそんな噂に振り回されて、あたしを訪ねてきたわけなのですね」

「いかにも」

「呆れた人だわ」あまりにもこの男が自信に満ちて言うものですから、あたしは彼に言ってやりました、「いいですか。そのような噂のどこに根拠がおありですか?人攫いがあたしのせいだと仰るのですか?店の破産があたしのせいだと仰るのですか?とんだ茶番ですわ。人を侮辱(ぶじょく)するにもほどがあります。あなたは何を根拠にあたしに嫌疑をかけると言うのですか?」

「根拠はこの日記だ」リンカードはさらに主張するのです、「それ以外に有力な証拠はないが、あなたの周りの怪しい噂と、彼女の日記から頻りに出てくるあなたの名前が、彼女に辿り着く一つの道を示している」

 こんな強引で、理屈もなにもないこの男に律儀にお相手する必要もないと、即刻お帰り願おうかとも思いましたが、これは面白い機会とあたしは思い直したのです。そうです。この男はミッシェルの想い人で、彼はすぐにでもミッシェルに会いたいはずです。あたしの頭の中で、想像力が一気に燃え上がりました。

「参りましたわ」

 あたしはしおれた声を作って言いました。途端に、リンカードは驚いたように叫びました。

「では、本当に彼女はここにいるのですか?」

「あなたのご想像通りに」あたしは観念した受刑者のように目を伏せて、いまにも泣き出しそうな顔をするのです、「ミッシェルはこの屋敷におりますわ」

「すぐに会わせていただきたい」

 あたしは女中を呼び寄せて、彼女を連れてくるように命じました。

「彼女は無事なのでしょうな」

「もちろんです」

「本当に人攫いをなさったのか?」

「そんなまさか。ミッシェルとは同意の上ですわ」

 この男の様子を見ると、彼はこの城にミッシェルが捕らえられているとは本心では考えていなかったようでした。なかなか芝居がかっていると言いますか、人をまず疑って見る点については、あたしも賛成します。人の口から思わぬ真実を曝け出させるには、一石を投じるというのは当然の手ですからね。それでは、この男が長らく夢想していた最愛の人との再会の場面を、皆様も存分にお楽しみください。

「ところで」あたしはいつも通りのはっきりとした声で、リンカードに呼びかけました、「あなたはミッシェルとお付き合いをしていると言っていましたけれど、もうどれくらいになりますの?あなたのような方がいらっしゃるなんて、ミッシェルったら、あたしにはちっとも教えてくれなかったのよ」

「お付き合いと言っても、お食事に誘ってそれっきりですから、馴れ初めを語れるほどではありません」

「まあ、それでは告白の言葉さえもないのですか」

「そうです」

 リンカードは硬い表情のままに頷きます。あたしはさも得心がいったように、大げさに頷いてみせました。

「それでは、ミッシェルはあたしに何も話さないわけだわ」

「それはどういうことですか?」

 あたしは澄まして答えます。

「あなたはまだミッシェルのことを知らないから、仕方のないことです。あの子は物静かなほうですから。あたしなんかに言わせれば、もう少し御自分の気持ちというものを率直に出してほしいくらいなのだけど」

「だからこそ」リンカードはあたしの声を遮るように言いました、「彼女は最も女性らしく、淑やかで品があり、そして何より美しいのです。舞踏会の場で見かけるような女性たちは、確かに貴婦人としての教養は備えておいでなのでしょうが、しかし彼女以上に知識の深い方はいらっしゃらないでしょう。それに、彼女の礼儀は真に他者に向けた気配りがある。それだけのお心があるのなら、彼女の静かさはむしろ美徳ではありませんか」

 やはり、とあたしは内心で納得します。この王子様は、ミッシェルの花のような可憐さに惹かれたのです。男の保護欲でしょうか、むしろこれは独占欲と呼んだほうが良いでしょう。ミッシェルは、もしも彼と何度も逢瀬(おうせ)を繰り返していたなら、彼女はまんまと彼の懐に沈んでしまったでしょう。そして、彼女の知性や哲学といったものは、この獣じみた男に呑み込まれてしまったことでしょう。そうなってしまっては、彼女の精神は永遠にすることも叶わず失われてしまったことでしょう。ああ、それならば。あたしが彼女をお誘いしたのは、そんな悲劇から彼女を救うことができたと、そういうことなのです。人は、その人のあるがままを手にして、それは永遠でなければならないのです。時の中で変容してしまい、その存在が持っている純粋な価値を歪めてしまうのは、あまりにも杜撰ではありませんか。ああ。それこそが独占!永遠の独占なのよ!あたしは胸の内の高ぶりを表に出さないように、微笑を浮かべて彼に訊ねます。

「確かに、ミッシェルの慎み深さは素敵ね。あたしも、そんな彼女だからこそ、お付き合いをしているのだもの」

「だからといって、御自身の手の内に隠してしまうというのは、いくらもやりすぎではありませんか」

「あら、そんなこと仰って」あたしは意地悪っぽくリンカードに笑いかけます、「もしもあたしがミッシェルを独り占めしなかったら、あなたは何をするつもりでしたの?お食事にお誘いしたということだけれど、それで終わってしまうなんて、そんな子どもじみた考えをお持ちだったわけではないでしょう」

「何を想像されているかは知らないが」リンカードは答えます、「わたしは互いのことをよく知るために、お食事に誘ったまで。実を申せば、彼女と話をできたのは片手で数えられるていどでしかない。声をかけようにも、彼女は職業柄、あまり人前に出ることもない。機会を持ってお会いしようとしても、彼女には自由な時間がほとんどなく、だからこそわたしは彼女をお食事に誘ったのです」

「あら、それは結構なことではありませんか。最初は一目惚れかもしれません。けれど、それだって一等かまいません。そこからお近づきになって、お互いのことをよくよく知ればいいの。ああ、あなたもミッシェルとお話したらよろしいわ。そうすれば、彼女の知識の深さ、哲学の深さをあなたも知ることができるのだから。図書館の館長を務めるだけあって、様々な歴史、そしてそこから紐解かれる数多くの哲学に、あなたももっと彼女に夢中になることでしょう」

 リンカードは曖昧に頷いたまま、それ以上を語ることはしませんでした。あたしが口を閉ざしてしまったので、彼も会話の糸口を失ってしまい、途方に暮れたようにあたしから目を逸らすのです。これも、やはりあたしの見抜いた通りなのです。あたしがミッシェルに助言したことは、正しく彼女の役に立ったのです。もちろん、あたしはそれ以上に彼女のために、何よりあたしの快楽のためにことをなしたのですから、これ以上の結末はないのです。いいえ、皆様。新しいお愉しみの時間が、いま訪れようとしています。神様なんてものより、あたしはこういう偶然と気紛れのほうを愛してやみません。あとはただ、最高の瞬間が訪れるまで沈黙を守り、彼の苦悩を見守っていましょう。

 しばらくすると、料理長が車に皿を乗せてやって来ました。リンカードは早くミッシェルに会いたい思いで苛立(いらだ)っておりました。

「まだか。まだ彼女はやって来ないのか?わたしとはもう会いたくないとでも言うのか?」

 不安と苛立ちを(にじ)ませながら、何も知らない男はぶつぶつと呟いて落ち着きがありません。

「いいえ」そんな男に、あたしは言ってやりました、「ミッシェルなら、もうここにいるわ」

 あたしは料理長が持ってきた皿から覆いをすっかり取り除いてしまって、この男に皿の上のものを見せてやりました。それを目にしたときの男の驚きようといったら、皆様もご想像になってください。

「ああ!」男は顔を蒼白(そうはく)にして叫びました、「ああ、そんな。まさか!」

 リンカードは信じられないように顔に手を当てて、がっしりと自分の頭を押さえてしまうのです。その痛みで、彼はこれが夢でもなんでもない、現実であることを知ったでしょう。

「ミッシェル!そんな。ミッシェル!君なのか?」

 互いに相思相愛であったことを知らないこの男は、ふらふらとよろめきながらも、両目をくり抜かれたミッシェルの頭に向かって歩み寄ってくるのです。あたしは素早く手を上げてリンカードの進行を(さまた)げました。

「それ以上近づかないでくださいまし。彼女の精神が汚れてしまいます」

 蒼白の貴公子は驚いたようにあたしを見ました。十歳も二十歳も年老いたように目元は黒くなり、(たくま)しい精悍(せいかん)な顔つきはすっかり蒼ざめてしまいました。あたしはこの男になおも言ってやりました。

「まだおわかりになりませんか?彼女の味が、あなたの臭いで落ちてしまうと言っているのです」

 再びミッシェルの上から覆いがかけられ、料理長に命じて彼女を厨房に引き下げてもらいました。遠ざかって行くミッシェルの頭を、リンカードはただ呆然と目で追いかけるのです。しかし、彼はまだ気づいていません。あたしの前に並べられた数々の料理は、他でもないミッシェルその人なのだと。あたしは、その事実すらこの男に突きつけてやろうかと、そんな空想にすっかり体が火照ってしまい、ミッシェルのお肉を舌に乗せるだけでも体が跳ね上がってしまいそうです。一体どんな反応をするでしょうか、その真実を知って、あたしが彼女を咀嚼している様を見て、この憐れな男はその場で号泣するでしょうか、嘔吐するでしょうか。その空想を噛みしめるだけでも、あたしには絶大な快楽なのです。

 料理長の姿が見えなくなって、ようやく彼は我を取り戻したように激昂(げっこう)して叫びました。

「外道!」リンカードは怒り狂ってあたしに言うのです、「なんと。なんと酷いことをする。人の所業(しょぎょう)とは思えない。あなたは、あなたは悪魔だ。でなければ、悪魔に魂を売った魔女だ。そうでなければ、殺人という罪を犯した上で、あのような無残な姿にしておくなど、できるわけがない」

 彼は散々あたしを罵倒(ばとう)して、怒りに任せて暴れ回るのです。

「まあまあ、少し落ち着きなさい。頭を冷やして冷静にお話しましょう」

 あたしがフォークとナイフの手を休めずに言うと、彼はさらに激昂するのです。

「これが落ち着いていられるか。愛するものを奪われた苦悩が、あなたにはわからないのか。無残な姿になった彼女を目にした、恋する男の悲しみが。これほどの大罪を犯す魔女を、見す見す逃すわけにはいかん。正義の名の下に、貴様を成敗してくれよう」

 リンカードは腰の剣を抜いて、つかつかとあたしの元まで歩み寄ってくるのです。感情に任せて行動するものには、もはや何をいっても無駄でした。彼は目の前のテーブルも気にせず、一直線にあたしの元までやって来るのです。テーブルを挟んで彼が剣を高らかと振り上げた瞬間に、あたしは持っていたナイフを男の喉元に向けて突き出してやりました。いかに理性を失った男といえど、彼に備わっている野性の勘が告げたのでしょうか、リンカードは足を止めました。その顔には、いくらかの動揺が見て取れました。彼は恐れを殺して笑みを浮かべます。

「そんなもので何をなさるおつもりか。よもや、その細いナイフでこのわたしの剣と闘うつもりか」

 どこから見ても、剣とナイフでは優劣は歴然としています。しかし、この騎士は一瞬でも魔女の姿に畏怖(いふ)してしまったのです。

 あたしはにこやかな笑みを浮かべて彼に言いました。

「いいえ」

 ピストルの音が聞こえて、男の体は床の上に倒れました。脳天を撃ちぬかれたせいで、頭からは血が噴き出し、絨毯(じゅうたん)を赤く染め上げるのです。

「あなたのような考えの浅い人に、ミッシェルの崇高(すうこう)な精神を触れさせては、彼女が汚れてしまいます」

 あたしはナイフを下ろしてミッシェルを口へと運びます。まったく、ミッシェルは思いがけないプレゼントをあたしに用意してくれました。おかげで、あたしはかつてないほどに最高な食事を迎えることができたのです。恋人を失って絶望する男の死体を前に、その思い人をいただくなんて、なんて甘美なひと時でしょう。彼が果てた瞬間を思い出しながら、あたしはミッシェルを強く噛んで気をやりました。ああ!なんて素晴らしいの!彼女を咀嚼するたびに、まだ甘い余韻があたしの体を支配するのです。

 しばらくして執事が食堂へと入って参りました。あたしは執事に命じました。

「男爵。早いうちにこの男を片付けてしまって」

「かしこまりました。お嬢様」

 リンカードの死体が運び去られてしまって、あたしは静かになった食堂で食事を続けました。

「全く、無粋な方」あたしは言いました、「科学者というものはあのように意固地な方ばかりなのでしょうか。御自分の哲学や精神にのみ固執して、さらなる高みを見ることもなさらないのね。科学者とは、自然の力を最大限に引き出すために理論立てをするものではなくって?そのためには、冷静に自然を分析して、より自然に近づいたものでなければならないはずよ。精神も哲学も語れないのに、自然すら見抜けないようでは、科学者を名乗るほどの器ではないわ」


 それから一時間ほどが過ぎた頃です。再び執事が食堂へやって来て、今度は平生(へいぜい)の落ち着いた様子で言いました。

「お嬢様。あのお方が参られました」

「ついに!」あたしは感激のあまり、椅子から飛び上がりました、「ようやっとお見えになったのね、あたしの素敵な人。このときをどれだけ待っていたことでしょう。早速お会いしに参りましょう」

「かしこまりました。ですがその前に」執事はあたしに一枚の手紙を差し出すのです、「あの方からお手紙を受け取っております」

「まあ、律儀な方。ちゃんとお返事を認めていらしたのね」

 あたしは素早く封を切って、中の手紙を取り出しました。手紙には次のような文章が記されていました。

「わたくしはただ王妃に仕える忠実な(しもべ)でございます。一人王妃の身の回りのお世話を致しまして、王妃のお望みであれば全て叶えるがわたくしの使命でございます。人がなんと申されようと、社会がなんと申されようと、わたくしにとって王妃は唯一の御主人なのです。世が王妃を邪悪と呼ぶならば、わたくしは悪の手先となりましょう。なんなりと御用命くださいませ。王妃がお望みであればわたくしは王妃の剣となり盾となり、世界ですらも打ち滅ぼしましょう」

 ああ!あたしは胸の内で叫んでおりました。やはりあのお方は、あたしの期待通りの方でした。あたしの意図した文章をしっかりと見抜いておいでなのだわ。あたしが送ったのはマーラの『悪の華』の一節で、この文章はそれに続く、従者が悪政の妃様に向かって答えた言葉なのです。そして彼は、あたしの城にやって来ることで、あたしの言葉のお返事としているのです。

 やはり、やはり!

 ああ、素敵な人!

 ついにこのときがやって来たのです。

 あたしはお食事を一時中断して、簡単に体を洗うと身支度をして、彼を待たせている部屋へと向かいました。

「お待たせしました」

 部屋に入ると、フリークはいつものようにあたしを待ってくださいました。落ち着いた物腰で、彼はあたしに会釈するのです。

「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」

「お礼を申されるのは、まだ早いですわ」あたしは言いました、「今宵あなたと交わした約束が、ついに果たされるのです」

「その通りです。いつでも、あなたにわたくしの命を捧げましょう」

 あたしはついうっとりとして見惚(みほ)れてしまいました。その紳士的な姿勢、態度はあたしの気を昂らせるのに充分でした。

「では、こちらへ」

 あたしは彼を連れて部屋から出ました。今宵の舞台となる部屋の隣には、身を清める部屋があります。社会に浸ったがためにこびりついてしまった俗物を落とすための聖なる場所。それは一つの儀式で、これを()てこそあたしは彼と一つになるのです。彼をその部屋に残して、あたしは一人、舞台で待ちました。飾りものの類は一切なく、あるのは天上まで届くほどに積み上げられた書物の数々。以前の城主が残していった書物が集められた、ここは一つの図書館のようです。どんな立派な図書館でも、国立図書館にさえも、これほど豪奢(ごうしゃ)な棚はないでしょうし、これだけ素晴らしい本は滅多に御覧になれません。あらゆる哲学と思想がこの部屋には満ちていて、ここではどんな精神も崇高の(きわ)みに至るのです。生命の剥奪(はくだつ)と精神の独占にふさわしい舞台ではないかしら。

 三十分ほどして、彼がやって参りました。

「どうぞ、お入りになって」

 彼は部屋に入るなり、感心したように部屋中を見上げるのです。

「書斎でございますか」

「この城の、前の主人の持ち物ですわ」

 彼は時間さえ許せば、片っ端からここにある本を読み尽くしていたでしょう。彼の関心は、すっかり本に取り込まれてしまいました。

「素晴らしい本の数々ですね」

「お読みになりますか?」

 彼がお望みならば、あたしはいくらでも彼に読書の時間を与えるつもりでした。彼の精神がより高みに近づくのであれば、これ以上あたしの望むことはありません。

「いいえ」

 彼は、しかしあたしのお誘いを辞したのです。その律義な姿勢に、あたしはつい笑みを漏らしそうになって、しかし彼の顔を見た瞬間、それはあたしの勘違いだったことを知りました。フリークが断わったのはあたしへの気遣いでも何でもなく、真に彼は思考の時間を必要としなかったのです。そうです。彼の決意は、そして精神は、すでに完成されているのです。それ以外のものはもう何ものも必要とせず、だから彼は迷いなくあたしを見るのです。

「では、早速始めてしまいましょう」

 あたしは身に纏っていた薄布をすっかり捨て去ってしまっていました。お化粧はしていますけれど、どんな飾り物もあたしを引き立てることを拒みました。

「あなたも脱いでちょうだい」

 彼が衣服を脱いでしまうと、そこにはあのダルク像のように均整のとれた肉体でした。一見細身に見えましたが、あたしが今まで見た殿方の中でも、かなり上質な体つきをしています。ただ見ているだけでも、その鋼を思わせる筋肉の逞しさを知ることができるのです。けれども、そんな素晴らしい彼の肉体でさえ、この場を盛り上げる役割は果たせても、主役を演じることはできないのです。そうですとも。いまこの部屋にいるのは、なにものにも縛られない二つの精神だけなのです。

「あたしとあなたを取り巻く全ての境が邪魔なんですわ」

 あたしは彼の目を見て言いました。彼もあたしから目を逸らさずに、じっとあたしを見つめてくれます。

「服も、空気も」

 あたしは彼の胸にそっと手を置きます。想像通りの、逞しい彼の肉体。熱を持った体。彼が息づく鼓動が、まだそこにはあります。

「この肌でさえも」

 あたしたちは互いに見つめ合い身を寄り添わせるのです。人が人であるという境界、生命が生命たるための確立した存在。支配とはすなわちそのあらゆる差異、境界、個体を打ち破って、我がものにしてしまうことに他なりません。境界がない存在とは、すなわち別個とした個体ではなくて、一つの交じり合った意識なのです。

「あたしたちは一つの存在なのです。なにものも阻むことのない、同じ精神の信徒」

 似ているものに惹かれるのは、当然のこと。奥底まで究極的に、互いが等しいと認識できたときに、それはもはや隔絶した存在ではなく、一つの意識の元に同居されるのです。

「肉体なんて、意味のない器。全てが混ざり合って、溶け合ってしまえばいいのです」

 精神を吐き出すことでその精神を感受し、肉体を咀嚼(そしゃく)することでその精神を吸収する。肉体という(しがらみ)が精神の融合を阻むなら、肉体を破壊することになんの躊躇があるのでしょうか。

 彼はあたしの耳元にそっと囁くのです。

「わたくしにとって、あなたは唯一の存在でございます。わたくしがお仕えする唯一無二の存在なのです」

 あたしは彼から体を離して、しかしその手は彼の肩に触れたままなのです。あたしは彼を感じたまま申し出ました。

「ねえ、もう一度言ってくださらない。あの日交わした約束の言葉を」

「喜んで」彼はあたしの手を取って、まるで中世の騎士のように礼をするのです、「それでは、レディ。なんなりと御用命くださいませ」

 あたしは敬愛の念を込めて、彼に命じました。

「貴方を愛しています。だから、死んでください」

 彼はその場に膝を折って誓いを立てるのです。

「あなたが望むのでしたら、わたくしはあなたの永遠の奴隷になりましょう」

 彼はあたしの手に接吻するのです。

 ああ!あたしの体は雷に打たれたように燃え上がって、いますぐにでも彼の精神を魂から解き放ってやりたい思いに駆られました。ついに、彼があたしに独占されるのです。そうです。あたしが彼を独占し、永遠にその精神を身に纏うのです。あたしは彼とともに永遠の楽園で生き続け、その精神は決して朽ち衰えることはありません。自然があたしによこした気紛れが、あたしに生命の破壊を囁き、しかし自然は精神をあたしの手に奪われるのです。あたしは社会を殺し、自然を真似てとうとう自然を破壊して、自然さえも我がものとして扱うことを得るのです。自然にとってこれほど屈辱的なことはないでしょうし、あたしにとってもこれほどまでに逸楽的なことは他にないのです。


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