第四譚 豪華絢爛晩餐会
一週間ほどしてミッシェルに会いに行ったときに、あたしはついに胸にしまい込んでいた秘密を彼女にそっと告白しました。つまり、あたしがいま殿方とお付き合いしているということを、ミッシェルに情緒豊かに語って聞かせたのです。図書館勤務のこの勤勉なミッシェルは、しかし年相応と言いますか、女性特有の美しい恋愛模様に心躍らせる夢見る乙女の要素をふんだんに持ち合わせていたので、彼女はいつになく活発にあたしの話に食いついてくるのです。いかに生真面目な人であっても、いいえ、そういった勤勉さや忠実さを持ち合わせている人間こそ、快楽とか感性を刺激するような情景には目がないのです。フリークとの出会いから始まって、二人でのお食事や劇を見に行ったときの様子や、そのときフリークと話したことの内容をそれなりの脚色を加えながら語ってあげますと、ミッシェルは頬を林檎のように赤く染め上げ、その熱っぽい瞳を真珠を散りばめたかのように潤ませて、一言たりとも聞き漏らさぬようにと神経を集中させている様子が見て取れるのです。あたしが時折話しに空白を持たせて彼女の入りうる隙間をちらつかせているというのに、ミッシェルは餌を待ち望む子猫のようにそのサファイアの瞳でじっとあたしを見上げるばかりなのです。彼女のあまりの無防備さに、けれどもあたしは敢えて触れるようなことは致しませんでした。折角熱の入っているところに水を差してしまっては、お愉しみが冷めてしまうものです。すっかりのぼせ上がって取り繕う暇を与えぬようにしておいてから、彼女の最も敏感で弱い部分を刺激してやるのが、最も効果的でかつ一番あたしの気をそそるのです。彼女の目がすっかり蕩けてしまったのを見て取って、あたしはいよいよ話が盛り上がってきたというところで、不意にミッシェルにちょっとした罠を仕掛けてみました。
「ところで、あなた」
あたしが呼びかけたのにも関わらず、ミッシェルは未だに夢見心地から抜け出せていない様子でした。朝露を纏った釣鐘草のように儚くおぼろげで、あたしの言葉など聞こえていないかのようでしたけど、あたしは彼女の様子に一等満足を覚えるのです。
「あなたには、毎日の生活の中で胸を高鳴らせてくれるような素敵なお相手はいないの?」
ようやくあたしの言葉を聞き取って、ミッシェルは顔を引き締めて現実へと舞い戻るのです。しかしながら、彼女の目元からは夢心地に浸っていたいという渇望の色が見て取れました。
「残念だけれど、それがちっともね」ミッシェルはすまして答えます、「図書館では、それはもう出会いというものほど無縁なものはないわ。館内ではお喋りが禁止されているのですもの。人との関わりは、限りなく事務的に済まされてしまうから味気がないわ。それに、わたしの立場をあなたも知っているでしょう。国立図書館の館長なんて、名前はいかにも素晴らしいのだけれど、実際には裏に籠って、市長や大学、たまに本を寄贈してくださる貴族や資産家に書類を送ったり、他の職員の報告を聞いていたりすることぐらいのものよ。わたしがいま熱を入れている本の修復作業は本来の業務にはなくて、わたしの好きでやっていることなんだから地味なものばかりね。そんなことばかりしているから、館内に顔を出すことも珍しくなってしまって、相手を見つけることさえもできないわ」
「そんなこと言って、気になる人ぐらいはいるんじゃないかしら?」
ミッシェルのお上品なすまし顔が途端に崩れて、目元にはあのなんとも言えない悩める乙女の苦悩が浮かび上がったのです。ミッシェルが口籠ったのを本心だととらえて、あたしはさらに彼女を追及しました。
「まあ、本当にいらっしゃるの。誰なのよ。あなたの心を鷲掴みに捕らえた素敵な貴公子様は?」
「マリス。声が大きいわ。人に聞かれてしまう」
ミッシェルは周囲の目を気にして慌てふためいています。テラスでお茶を愉しんでいるあたしたちの周りには、同じようにパラソルの下で午後の一時を満喫しているお客の姿があちこちに見られました。けれども、外の騒音に掻き消されて、周囲の人たちにはあたしたちの秘密のお喋りなんて、聞こえるわけがありません。それなのにミッシェルときたら、そんなことにも頭が回らないほどに気が動転しているのか、道行く人々の目が気になって仕方がない様子なのでした。散々あたしが彼女を追及してやりますと、熱に犯されたミッシェルは隠し通す力も失っていて、ついには恥ずかしそうに口元を動かすのです。ミッシェルの潤んだ流し目にあたしは抱きしめてやりたい衝動に駆られましたが、そこは何とか堪えました。そのおかげで、彼女の危機を救ってくれるものは一人もいなかったのです。
「大した話でもないのだけれど」
未だに体の火照り冷めないままに、ミッシェルは囁くように言いました。
「大学の先生方がわたしの働いている図書館宛に差し出してくる手紙のほとんどは、参考図書やら必要な論文の所在の確認とか、そういった本があったならその貸し出しやらの要請なのね。一応国立図書館ですもの、もう再版されていないような古い書物が山のように貯蔵されているから、そういった先生方には特別な計らいで貸し出しているの。他の図書館にはないような本までうちでは扱っていることが多いから、そういう要望は結構あるのよ。その中で、とても奇妙なお客さんがいるのだけれど、普通大学の先生方が本の貸し出しをお願いしてくるときには、手紙を出してきたり学生や助手の人をお使いによこしたりするものなのに、その人は自分から直接足を運んで来る変わり者なの。そういった特別な貸し出しは、他の職員には任せることができないので、わたしが担当しているものだから何度もお会いしているの。前まで週一くらいにお会いしていたものを、いまでは三日に一度くらいでやって来るのよ」
皆様はこの話を聞いてどのようにお考えになられるでしょうか。目の前に愛の天使が飛び回っているのに、それに気がついていない愚鈍な女館長の姿が映っているでしょうか。それとも、白馬の王子様が森の中を歩いているのを見かけて、つい木陰に隠れてしまう恥ずかしがり屋のお姫様でしょうか。しかし、一度恋の病にとり憑かれてしまった人間というものは、素敵な相手を見ただけでも息が止まってしまって、一歩さえも踏み出すことができないものなのです。愛の告白をするのは、神の山を乗り越えるよりも高い未知の壁なのです。あたしは彼女の胸の内を重々承知しながらも、まだ言葉を発することは控えました。なぜなら、ミッシェルの物語はまだ続くのです。気分の乗ったミッシェルはついつい饒舌になって、あたしから聞きださなくても、なんでもかんでも話してくれました。
「借りにくる本も、たいそう変わったものばかりだわ。多くの先生方は、古代の哲学思想書や古典文学に通ずる文献、それら全般を扱う歴史書をご所望なのだけれど、その人は科学の本がお好みなの。なんといったかしら、天文学や錬金術、あと旧時代の農具や武具についての本ばかりを頼んでくるのよ。いつも閉館間際の夕方以降にやって来るのだけど、あまりにも珍しい本ばかりだから先客もなくて、いつでも貸してあげられるわ」
「科学の本がお好みなんて、変わったお人ね」
いまの世の中では、芸術や文学に熱心な方ほど尊敬されていて、貴族にとって絵画、音楽、文学、歴史といったものの素養は、嗜みであるとともに必須教養とされています。宗教というものが常識として教えられる中、一方の科学はそれほど重視されないのが今の世というものです。本を読むために文字を習い、数の計算方法くらいは学びますけれど、それ以上のことは、お仕事で必要になれば習得するものでしかありません。加えて、あたしなぞはもはや世の理なんて無関係なところにいるのですもの、あたしの持っている知識なんて、星座を見るのに少しばかり役に立つていどでしかありません。
「その人は博士なの?」
「そういうわけではなさそうなの」ミッシェルは答えます、「その人は、大学で助手のようなことをやっていると仰っていたわ。色々な大学で研究をしているらしいの。わたしには大学に残って研究をするということがいまいちわからないのだけど、とても大変らしくて、研究室によって全く異なる研究をしているから、毎日様々な文献を引っ張り出して勉強していると仰っていたわ」
大学に残っていつまでも研究をしているなんて、奇天烈な人もいたものです。思想文学について知見を深めるために大学で一生を送る方もいらっしゃいますけれど、科学なんてもののために一生を捧げようとするというのは、あたしの理解の範囲ではありません。あたしは、最も知りたいことをミッシェルに訊ねます。
「それで、その人とはどこまで進んでいるの?」
「どこまでって、いま話したことがわたしにわかることの全てよ。別に好きとかそういうのでもないし、よくわからないわ」
「わからないって、あなた。お相手さんはそれなりに気があるからこそ、直接あなたの元へ訪れているのではなくて?」
ミッシェルは言葉に困ってそのまま俯いてしまいました。彼女の頬はすでに火がついたように真っ赤で、そこには乙女らしい気恥ずかしさと努力家特有の誠実さからの苦悩の表情が混ざり合っているのです。
「他にエピソードがおありなの?」
「そんなものありはしませんわ」
「嘘仰い」あたしは言いました、「あたしの眼は千里の彼方だって見渡せるんだから。あなたの心の奥底にしまい込んでいる隠しごとだってお見通しなのよ。ほら、さっさと白状してしまいなさい。その人との心ときめくお話をね」
ミッシェルは、まだ言うべきか言うまいかを迷っているように見えました。しかし、追い詰められた彼女が逃げ出せる道など、すでにありません。
「普段は職員用の部屋に籠りっきりで館内を歩くことは稀なのだけれど、月に二回、他の図書館とうちの図書館の本の交換があるから、二週間に一度は館内を回って、本の確認をしなければならないの。それが、あなた信じられるかしら。ただの偶然かもしれないのだけど、先月の見回りの日にその人とお会いしたのよ。わたしも、それは驚いたわ。わたしが好きな聖騎士時代の本が並んでいるフロアに彼はいたのよ。話しかけられたときなんて、心臓が止まってしまったかと思ったもの。頭の中が真っ白になってしまって、その人とお会いしたこと以外は何も覚えていないわ」
ミッシェルは頬をさらに赤く染めていました。自覚していないのでしょうが、彼女は胸の高鳴りを押さえるように心臓の上で両手を抱きしめているのです。
「そらみなさい」あたしは勝ち誇ったように言いました、「そうまでして会いに来てくれる人を、あなたはまだ偶然にするつもりかしら。あなたの秘密にまで踏み込んで来る方に、あなたは冷たく追い返す気ではないわよね」
ミッシェルが困ったように顔を沈めます。どうやら彼女も、それなりに気がありそうなのです。しかしながら、人見知りの強いこのお嬢様は、その一線を超えることにまだ踏ん切りがつかないようでした。その乙女らしい反応はとても魅力的でしたけど、彼女にはそれ以上のものがこの先にあるのです。
ミッシェルは最後の砦をあたしの前に突きつけました。
「でも、マリス。貴婦人は貴公子に気を許してはいけないのではなかったかしら。貴婦人というものは、気品と優美さをもって、貴公子よりも、時として高慢に振舞うものじゃなかったの?」
「まあ、呆れた人!」あたしは声を上げました、「あなたほど理知的で冷静な分析力をお持ちの方が、そんな世間にありふれた妄言に縛られているとはね。宗教というものには充分な思想をもって打ち砕いているのに、交友関係においてはまだ男とか女とかに捕らわれているなんて、なんて愚かなことだわ。
「いいこと、ミッシェル。そもそも男性とか女性とか呼ばれている違いについて、一体どれほどの意味があるとお考えなの。自然は男という器官と女という器官の二つを生み出して、その二つの結合から新たな生命を生み出す方法を見出したのだけれど、それはつまるところ、その器官が持っている能力に過ぎなくて、それによって個人の価値がどのように決まるというのかしら。そこで社会では、男性のほうが力を持っているとか、女性のほうが繊細だとか、様々なことが言われているけれど、それも結局のところ各器官の備え持った能力でしかなくて、そこから人間という個体がどうあるべきかなんて、誰が定められるというの。能力とは可能性や指標を見るために用いられるに過ぎなくて、そこから人は自己存在を満たすために自身の得手不得手を操るだけであって、別に能力を無視したところでそれはその人の勝手ではないかしら。むしろ、その能力に固執するあまりに自己の願望を諦めるなんて、どうかしてるわ。そんなの、馬鹿な人間のやることよ。
「いまあなたは国立図書館の館長を勤めているけれども、それはあなたの能力と自由意志によってなされた結果ではないかしら。ではここで、あなたに寄って来るその人のことを考えてみましょう。いまの世の中では、哲学や芸術に勤しんでいたほうが社会のためではあるけれども、そのお方の職業は科学者なのよね。もしも社会が求める男の理想像に全ての人間が当てはまらなければならないのなら、その人は社会の理想に反したことをしていることになるわね。けれど、そこから社会に文句を言われたところで、それがなんだと言うのかしら。人生というものはその個人に宿っているものなのだから、最終決定は個人に委ねられるべきもので、個人が意志を示さなければならないの。社会のせいばかりにしていて折角の巡り会わせを無為にしてしまっては、何のためにこの世に生を受けたのかわかったものではないわ。いいえ、この世に存在している以上は、誰それに依らず、自身の望むようにしなければならないのよ。どんなに社会があたしに役目を望んだとしても、あたしは自身が望むように暮らすのだし、好きなことばかりを享受するでしょうね。だってこれはあたしの生なのであって、社会への奉仕者というわけではないのだから。あたしがあたし自身をどうこうしたって、それはあたしの勝手であって、だからあたしは自身の結末を社会のせいにするようなことは決してしないわ。だってそうでしょう、世界には結局のところ自己と他者しかいなくて、あたしは自己を優先するのですもの。あなただって、ミッシェル。館長というお役目以上に本の修復という自分の愉しみを見出しているじゃないの。その結果があなたの精神を満足させているのであって、あなたの結果が社会にとって有益であるかどうかなんて二次的なものじゃないかしら。
「まずは自分自身をしっかりとさせて、自身の望むことがなんなのかを考えることを優先したほうがよろしいわ。あなたはまだまだ社会という枠組みの範囲内で冷静な分析を試みているようだから、それはあなたの自由で好きにしたらいいわ。けれどもあたしが忠告することは、社会というものは所詮自己とは別離の存在であるということを、重々承知しておかなければならないということなの。冷静な分析力を以ってすれば、社会という存在がいかに個人の生を束縛して捕らえようとしているかが良くわかるはずよ。あなたの中に芽生えた素敵な感性を、あなたは社会という他人のために無駄にしてしまうつもりなの」
ミッシェルには、あたしの言葉を素直に聞いてしまう以外には何もないのでした。彼女の用意した城壁は、社会でありふれている一般論でしかないので、長く付き合った彼女にはあたしにとってそんな障壁は安い紙切れと同然だということを、良く知っているはずなのです。ですから、ミッシェルがわざわざあたしにそんな問答を申し出たのは、改めてミッシェル自身の行動理由を探しているに過ぎないのです。ミッシェルは勇気を振り絞るための一歩を踏み出す理由がまだ見当たらずに、一人泥沼にはまっているというのが、あたしにはありありと見えます。しかし、人がなにかしらを起こす理由なんてものはこじつけくらいに考えていればいいということに、彼女はまだ目を向けられないのです。
「男を惑わせるのは、社会では女の特権のように言われているけれども、それは男の心をすっかり奪ってしまって、女の魅力に縛られてしまった中毒者にこそ意味があるということを良く覚えておきなさい。あなたのようにはっきりしない性格では、相手は不安になってふらふらとしてしまうだけよ。一度でもいいから少しはお近づきになっておいて紐をつけておかないと、男なんて惑わされやすいのだから、別の女に盗られてしまうに違いないわ」
ようやく彼女は目の前の光り輝く幸福が、大金を払っても手に入れなければならない宝石に見え始めた様子で、あたしの顔を不安そうに見上げるのです。
「でも、わたしどうしたらいいのかわからないの」
ミッシェルの表情に、あたしは内心で満足して笑みを浮かべます。言葉足らずに訴えるミッシェルに、あたしはちょっとした誘惑の種を振り撒いてやりました。
「あなたは何も心配することなんてないわ。あなたが何もしなくても、あちらさんから蜜を求めて飛んでくるのでしょう。だったら、あなたは自分のお花を見せてあげればいいだけじゃない。その人が求めるならば、あなたはいつでもそれに応じてあげなさい。それだけで、相手の想像力はたちまち逞しくなって、あなたなしでは生きていけなくなるの。あなたはあなたの信じる通りに、女の上品さを演じていればいいわ。けれども、一つだけ忠告しておくことは、あなたは決して自分自身を隠してはいけないのよ。人に見られない芸術なんて、埃を被って劣化するだけなんだからね。誰にも見てもらえなかったら、それこそ価値もなにもあったものじゃないわ。美とはつまり認められることで、人に見られることでその認識、印象を強めていくの」
あれからしばらくが経ちました。ミッシェルをすっかりその気にさせて、あたしはその後、ミッシェルがどんな行動に出たのか気になって仕方がありませんでした。あたしの恋愛話に感化された一人の少女は、自らの内に秘めていた想いをどのようにして満たしたのかということは、非常に重要なことなのです。あたしはそろそろ頃合いだと考えて、彼女の勤めている図書館へと訪れました。その日はいつもの裏口からではなく、彼女が姿を見せるという貴重なその日に表玄関から堂々と館内へと入りました。流石は国立の図書館だけあって、あたしの背丈よりもずっと高い本棚が周囲をすっかり取り囲んで、廊下の奥を見ても端が見えないくらいの広さがあります。二階建ての館内はとても広く、二階へと続く階段は王宮のもののようでした。何回かミッシェルに館内を案内されたことがありましたので、あたしは彼女のお気に入りの場所を良く知っておりました。二階の入り組んだ道を進んだ奥のほうにその場所はあり、用のないものがここに来ることはまずありません。このような配置は、全て彼女の手が加えられているので、ミッシェルは仕事疲れの息抜きに誰にも邪魔されずにここで読書を愉しんでいるのです。それに、ミッシェルが最近始めたという本の修繕作業では聖騎士時代のものが主なようで、この辺りの本は傷みやすく、そのために人が滅多にやって来れないような位置にしているのだそうです。あたしが目的の場所に到着したところには、すでに先客がおりました。あたしは気づかれないように、本棚の影に素早く隠れました。歳は三十と四十の中間で、見たところなかなかの美男子でした。すらりと伸びた細身の体に、物に動じない落ち着いた雰囲気を持っています。好戦的な口元をしていて、目は古代の聖騎士のように自信に満ち溢れています。筋肉のある首周りに、まるで彫刻のように整った顎と鼻、やや癖のある髪は金色に輝いていて、異国に住まうという百獣の王を想像させます。その貴公子は決して本には触れず、椅子に腰掛けることもしないで、ただ一点ばかりを見つめているのです。あたしがもしやと思っている間に、貴公子の見つめる先の本棚から姿を現したのは、なんとミッシェル本人でした。彼女は書物の確認のお勤めのために本棚ばかりに目を向けていましたが、貴公子はミッシェルを見つけますと一直線に歩み寄ったのです。まあ、なんという人でしょう。貴公子の姿に気がついたミッシェルは、胸に愛の矢を射抜かれたように固まってしまったのです。折角素敵なお方を前にしたというのに、このお嬢様ときたらすっかりのぼせ上がってしまって、このままでは目の前の王子様を篭絡することなんてできやしません。あたしは期待と不安に胸を高鳴らせながら、そっと近寄って本棚の影に身を隠したまま、二人の会話を盗み聞きすることにしました。
「やあ、館長さん。奇遇ですな」
第一声を発したのは貴公子のほうでした。貴公子は、あまりにも白々しくミッシェルに話しかけるのです。
「お仕事ですか、これはご苦労なことです。いや、今日は本をお借りしに参ったわけではございません。ずっと研究に勤しんでいましても、やはり人の身でありましては疲労を感じずにはいられませんので、たまにこうして息抜きをしているのです。普段は科学書ばかりを読んでおりますが、気晴らしに文学や芸術、歴史を学ぶのは良い刺激になります」
まあ、なんて人でしょう!芸術を気晴らしぐらいにしか考えていないなんて。世の貴婦人が耳にしたら、仰天して声を出せないといった具合でしょうか。科学に従事するような方は、このような変わった思考をするものなのかしら。しかしながら、この種の反社会的な思考はミッシェルもそれなりに深い教養から獲得しておりますので、さほど問題はないようでした。
「わたしもこの辺りの本は好きです」
むしろようやく会話の糸口が見えてきた様子で、しかしまだミッシェルは少しばかり緊張を残して言いました。
「ここには聖騎士時代の本が集められていて、当時の文学や戦争の歴史が人目でわかります。当時の哲学思想は時代の波に呑まれて様々な方面に広がって、神聖論、民衆論、末期論、終焉論、再生論、独立論、共存論、実に多様な思想が生まれ、後の哲学に大きな影響を残しました。あなたのお好きな科学も、この時代以降から少しずつ顔を見せ始めているのですよ。まだまだ著名な方はいらっしゃらないけれど、そうですね、鉄農具が生まれたのはこの戦争の直後になるかしら。投擲技術が進んで、そこに用いられた鉄の扱いが進歩したのが、その所以です」
貴公子は遠い過去へと想いを馳せるように目を瞑りました。
「聖騎士は神に忠誠を誓い、己が命を賭して戦場へと向かったと聞いております。彼らの勇猛さも、現在の王族直属部隊の兵士たちには神話にも等しいようだ」
「そうですわね」
「科学者の道を歩んできましたが、それでも聖騎士たちの勇猛さには、男として憧れを抱かないわけには参りません。一人の騎士として、忠誠を誓う神をお守りできれば、どれほどの幸せでありましょうか」
貴公子は胸に手を置いて、騎士の忠誠の素振りを示しました。その意味するところを理解して、ミッシェルの顔が見る見るうちに上気していくのです。
「人をからかうのがお上手ね!」
ミッシェルの視線は困ったようにあちらこちらを彷徨って、何も目には入ってこない様子でした。この王子様は、なかなか率直なお方のようです。それにユーモアも備えてらっしゃるようで、これはあたしでもそれなりに愉しめそうですが、しかしながら、文学的素養の欠如は否めません。
「いつぞやのお誘いには、決心してくださいましたか?」
ミッシェルは放心したように彼の顔を見返すだけでした。あたしも話が見えず、聞き耳を立てて一言一句逃すまいと身構えます。
「お忘れでございますか。いや、お気になさることではありません。あのときは突然のことで驚かれていらしたのに、無礼を致しました。今度ご一緒にお食事でもいかがかな。良いワインを出す店を知っているのですが、いかがだろうか」
ああ、なんということでしょう!あたしは胸の内で叫びました。あの照れ屋さんは、もうこの王子様からお食事のお誘いを受けていたのです。あたしにはそんなこと、ちっとも話さなかったというのに。しばらく返答に迷っていたミッシェルに、貴公子はまたもや返事をおあずけにされたかと思って口を開きかけました。ところが、そこでミッシェルはついに決心したように、目元を引き締めて答えたのです。
「明日の閉館以降でしたら、構いませんわ」
王子様は驚いて叫びました。
「本当に!」
「ええ、よろしいですわ」
ミッシェルは、最後には貴婦人然りの仮面を被っていましたが、きっと心の内では戸惑いと歓喜の嵐が吹き荒れていることでしょう。彼女の頬は火事のように真っ赤になっているのが、あたしのいる場所からでも見えますもの。それでお話はお終いになって、貴公子は帰り際にこう残していきました。
「ああ、ではそのときに。そうそう、あなたにはまだ研究のことをお話していませんでしたな。その日に少しばかりお話しましょう。なに、決して退屈はさせませんよ。神は自らが愛したものばかりをこの世に創り給うたのですから」
王子様が立ち去った後も、ミッシェルはしばらく放心して立ち尽くしていたのです。彼女はようやく自らの幸福への階段を一歩上ったのです。ミッシェルがようやく自分の仕事を思い出して歩き始めたときに、あたしは彼女の前に姿を現すのを控えました。しばらくは、彼女に幸福の甘露を噛み締めるだけの時間が必要なのです。人間の空想力は熟考を重ねていくにつれて豊かになって、さらなる快楽を得るための潤滑油になるものです。努力家の国立図書館館長はしばらくの間、夢見る少女の気分を充分に満喫して、あたしはミッシェルが職員用の部屋に戻っていくのを見届けてから、一時間ほど潰してミッシェルに会いに行きました。部屋の中での彼女は、もう上の空という感じで、本の修復作業も全く手がついていませんでした。
あたしは彼女を誘って図書館の外へと出ました。庭には美しい花々が咲き乱れ、その間には憩いの茂みが用意されているのです。人目のつかない茂みの影に入ってしまうと、ミッシェルは早速まだ興奮冷めない様子で一番に口を開きました。
「聞いて、聞いて、マリス」
「聞きますよ。もちろん聞きますから、話してちょうだいな」
あたしはミッシェルを落ち着かせてから彼女の話を聞きました。
「彼と会ったのよ。この間話した、とても素敵な方なの。その人と明日お食事の約束をしてしまったの。まあ、わたしどうしましょう!なんだか体が落ち着かなくて仕様がないの。目に映る全てのものが急に光を放ち始めて、わたし、まだ心臓の鼓動が脈打っているのが聞こえますもの」
ミッシェルは胸の上に手を置いて、心臓の高鳴りをうっとりとした気分で聞いています。彼女はいま、楽園を歩く一人の女神のように美しいのです。
「やったじゃないの、あなた」あたしはミッシェルに言ってやりました、「お食事の約束までしてしまうなんて、随分と上出来ではないかしら。それでは後は、食事のときにどうするかということね」
「まあ、マリス。一体どうしたらいいのかしら」
「簡単なことだわ。その人があなたのことをもっと強く望むように仕向けるのよ。折角深く関わり合いになれるというときに、彼の気持ちが他になびいてしまっては何の意味もないことでしょう」
「そんな、まあ、仕向けるなんて」
「何をいい子ちゃんぶっているの、この子は。あなたはその人と約束を交わしたのでしょう。いまさら何を恐れることがあるの」
「確かにお食事の約束はお受けしましたけれど、それはあの人が誘うものだから」
「それでも」あたしはこの引っ込み思案に言いました、「あなたはその約束を承諾したのだし、後に引くことなんか許されませんよ。この機会を利用しないわけにはいかないわ。その人にはあなたのことを良く知ってもらって、あなたもその人を手放さないために、良くその人を見ているんですよ。あたしも協力してあげるから、その人のことをあたしに教えてくれないかしら」
ミッシェルはあたしにその方の特徴を断片的に語ってはくれましたが、あたしはすでに二人のやり取りを盗み聞いておりますので、さもわかったように頷いてみせました。
「そういうお人はね」あたしはミッシェルに助言してやります、「ご自分の自慢ばかりをしてしまう気がおありね。自分の趣味、職業、生き甲斐を進んで語ろうとするのは自己愛の強い証拠よ。自己愛や自尊心というものは、貴族社会では個々人が持つべきものとされているけれども、それにはあたしは悔しいけれど大いに賛成するところだわ。自身の魅力を語れないお人にどうして世界を相手どることなどできるものかしら。一部では、我の強い者ほど身勝手だとか暴君の兆候だとか、色々な言葉が飛び交っているけれども、そういうことを裏で言うような人に誰が賛同するというの。御自分は全く関係ないふりを装っていて、人の見ていないところでこそこそしている人には、誰も心からつき従うことなんてないのよ。いいこと。揚げ足ばかりを取っているような人は、御自身の劣等さを覆い隠したいがために中傷的なことをおしなのだから、そんな小鳥のさえずりは気に留めないことね。
「だけどね、だからといってあなたのお相手が自然に適った相手かと言えば、それは正しくはないの。これはそのお方の問題というよりも、あなた自身の問題と言ったほうが正解ね。つまり、あなたの性格を見てみれば、あたしの助言でようやくあなたはその人との距離を縮めることができたのよ。そうでしょう?もしもあたしが適切な説得をしていなかったら、いまでもあなたは図書館以外の場所でその方とお会いすることなんてできなかったでしょうよ。本当ですよ。あなたのことは良く知っているのだからね。だから良く聞くことね。その人があなたに御自身の誉れとする科学とか研究の成果とかのお話をすると言ったのだから、きっとその方はあなたに御自身の偉大さや感性を知ってもらおうと必死になるでしょうね。けれど、その人は御存知ではないのね。人が結ばれるということは相互の理解であって、一方的な英雄は二人の距離を遠ざけてしまうものなのよ。だから、あなたは自分の信じる哲学をすっかり話してしまって、その人に教授する立場になったらよろしいの。科学者と名乗るぐらいですもの、芸術的文学的素養はまだ期待しないほうがいいわね。哲学ならば、誰しもが一度は思考したことがおありでしょうけどね。人が生きるということ、生きているということは、すなわち一貫した主義主張、哲学の精神をなくしては存在できないものなのだから」
あたしの説得に、しかしミッシェルはまだ不承不承といった具合でした。
「けれども、それでは彼とわたしの立場が入れ替わっただけで、自己主張の強い事実にかわりないのではなくて」
「心配する必要はないわ、お友達」あたしは微笑んで答えました、「あなたは御自分のことをお話することが、自分勝手で横暴な振る舞いのように思っているのかもしれないけれど、それはとんだ間違いだわ。あなたは女性の優雅さや気品というものは相手のお話を黙って聞いていて、さも当然の様子ですまして聞き流していることとお思いなのかしら。そうだとしたら、そんな偏見はさっさと捨て去ってしまうことね。世の中には口数の少ない女性をちやほやする人たちがいるけれども、何も言えない人間なんて、知性がないようにしか見えないと思わないかしら。そうですとも。御自身の知識や思想というものは、本人が口にしなければ一体誰が世の中に発することができるのでしょう。だから、あなたは彼と会ったならば、あなたの愛する知識や哲学を包み隠さず曝け出してやるといいわ。そうすることで、その人はあなたのことをもっと知ろうと必死になってくれるのよ。きっと彼は、あなたに夢中になることを保証してあげるわ。だって、その人はわざわざあなたのお気に入りの場所で待っていてくれたんでしょう?
「さて、あなたには御自身のことをその人に語ってやることが必要だと言いましたけれど、その人よりもあなたにその必要性があることをここで説明しておくわね。つまり、これはあなたの性質の問題なのよ。あなただって御自身の性格ぐらい、もう重々に御承知ではないかしら。あたしがよくよく忠告していることだけれど、あなたはかなりの引っ込み思案さんで、あなたが少し話し過ぎたぐらいに思っていても、端から見れば全然そんなことはなくて、普通かあるいはまだ物足りないくらいでしかないから、何も心配することはないわ。
「それに最初にお話したけれども、男女の結びつきをより強固なものにしむけるのは相互の理解と、さらには共有の意識こそなのよ。いまの世の中で、その方が追い求める科学技術とやらが一体どれほどあたしたちの生活のためになってくれるものかどうか、冷静に考えて御覧なさい。いまの科学といったら、農民のためか星を見るのに重宝するくらいで、そんなものであったなら、商人や芸術家で充分に満足できるものではないかしら。その人だってこの世で生きているのですもの、哲学や芸術的素養がどれほど重要なことかくらいは御存知のはずだわ。だったら、あなたからその人に冷静な分析力と豊かな知識、そして聡明な哲学というものをお教えするのが筋ではないかしら。あなただって、冷静に批判の目を持っていたところで社会の中で生活することを決心しておいでなのでしょうから、それくらいのことはして然るべきではないの。もしもそれを放棄してしまったら、あなたは何の役にも立たないもののために一生を捧げなくてはならなくなるわ」
ミッシェルもようやく納得してくれたのか、何度か頷いて表情を明るくするのです。まるで子どものようなその表情に、もしもこの場でなければあたしは彼女のその可愛らしい唇に思い切り接吻してやったでしょう。
「わかったわ、マリス。お話するのは苦手だけれど、なんとかやってみるわ」
「何も、苦手意識する必要はないのよ、お友達」あたしはさらに彼女に言い聞かせました、「あたしの前ではこんなにお話ができるのですもの。誰の前に立ってもあなたは立派にやっていけるわ。あなたの愛する哲学や思想を話してあげれば、何も緊張してしまうようなことはないでしょうよ」
あたしはミッシェルに気を安らがせるためにお食事に誘いましたら、彼女はあたしの好意に感謝しながら承諾してくれました。あたしたちは早速馬車に乗り込んで、馬車の中でもあたしは彼女を勇気付けるために色々なお話をしてやりました。ミッシェルの心の中からは不安はすっかり消えてしまって、明日の晩に期待膨らませているのがはっきりと見て取れました。あたしはミッシェルが思い描いているこれからの幸せな日々を想像して、あたしの気分までも高揚してきて、体の火照りが押さえられませんでした。
出版会社のほうから、わたくしが認めました文章がいよいよ一つの書物としてこの世に公開されるとの報せを受けまして、わたくしはこの一月あまりの苦労がようやく実を結ぶものかと考えますと、いままでの疲労感がずしりと両肩の上にのしかかりますようで、その日の晩には友人のトゥルースの家を訪れまして、彼と連れ立ち夜の町へと繰り出しました。平生から娯楽というものにさほど興味を示さないわたくしではございますが、一冊の本を書き上げたという達成感に体の緊張がなくなってしまいまして、つい気が緩みがちになってしまうのです。そんなときは無理に次の仕事を見つけるようなことはせずに、気分転換に散歩をしたり、読書に専念したり、美術館を訪れるようにしております。トゥルースに会いに行く直前にも、わたくしはロドワール美術館でビトーの絵画を一通り眺めておりました。カーマン・ビトーは風景画家でございまして、森や川、山の景色などを忠実に再現いたします写実派でございました。写実派の作品はいつもわたくしの心を感嘆させてくれるのです。世の中のものをありのままに再現することは、至極困難なことでございます。厳格な統一者の中には、自身が構成しましたものと寸分の狂いも許さないという徹底した方もおられますが、わたくし風情が生み出せます作品などは、世界の一面を投影しているに過ぎません。全体を広く眺めは致しましても、そこに映し出されますものは無数に存在する事象の中でも、限られた一つの真実でしかないのです。世を取り巻く無限の真実の中でも、人は自身が愛したいくつかの真理しか得られないということなのです。
トゥルースは仕事を終えますと、わたくしの申し出に快く承諾してくださいまして、わたくしが希望致しましたレストランで二人揃って食事を致しました。いまの時間では人の数は疎らでございまして、蝋燭の明かりが優しく辺りを包んでくれるのです。わたくしは友人を前にしながら、ふと彼女のことを思い出すのです。彼女と食事をするときは店を貸切にしてしまいますために、他の客の姿を見ることはなく二人だけの時間を蝋燭が祝福してくれるのです。わたくしは不意に窓の外を眺め見ました。ほんの数日、数週間しか経っていなくても、時の移ろいというものは感じ取ることができまして、春先の花々が彩っておりました町並みは次第に緑の色を強く光らせておりまして、星々が瞬く夜の空気も仄かな温かみを帯びてくるのです。
「そういえば、トゥルース」わたくしは窓の外を眺めたままふと申し上げました、「あと一週間もしましたら、わたくしはいまの家を出て行こうと思っているのです。そこで、あの家を君に譲りたいのですが、どうでしょうか」
「なんだって!」
トゥルースは声を上げました。よほどのことだったのでしょう、友人は咳き込みながら口元をナプキンで慌てて押さえるのです。
「それは一体全体どういうことなのさ」
「申し上げました通りの意味しかございません。わたくしは近々別のところへ引っ越してしまうつもりなのです。そこでいまの家は空き家になってしまいますので、代わりに君が使ってはくれないでしょうか。まだあの家を引き取ってからそう日も経っておりませんし、誰とも知らない人に手渡してしまうよりは、友人である君に使っていただけると、わたくしは心置きなく立ち去れるのです」
「だからどうして、引っ越してしまうことになったのか、その訳を知りたいのだ」
熱心に訊ねます友人に、わたくしはこれ以上無下に返すのには気が咎めました。なんとお答えしたら良いものかと、わたくしは何度も考え込みましたが、なかなか良い返答が見つかりませんでした。
「訳と呼べるほどのものはございませんが、そうですね。いまの家を出る用ができてしまった、としか申し上げられません」
「その用とはなんだ」
「これ以上は申し上げられません」
わたくしは素直にお答えし申し上げました。トゥルースは怪訝そうな目でわたくしのことを穴が開くほどに凝視致しまして、突然思いついたように表情を変えるのです。
「まさか!」
トゥルースの手からナイフとフォークが同時に零れ落ちました。ボーイが新しいものを持って参りました後で、トゥルースは次のように申しました。
「あの女か。そうなのか」
早口で申します彼に、わたくしはまずは落ち着くようにと宥めましてからお答え致します。
「女性の名を呼びますのに、少々申し方が雑すぎやしませんか、トゥルース。それで、君の申しますそのお方は、一体誰のことでしょうか?」
「とぼけるのも大概にしないと、俺も口を挟まないわけにはいかなくなるぞ。マリス・ミーディアムとかいうお嬢様のことだ」
わたくしは返事を致しませんでした。何も申さぬとも我が友人はよくよくわたくしのことをお見通しでしたので、これ以上の言葉は浪費する必要がございませんでした。トゥルースはグラスに注がれましたワインを一気に飲み干してしまいました。
「まだ彼女と付き合っていたのか?」
険のある目で睨まれまして、わたくしは取り繕いますようにやんわりとお返事致しました。
「まだ、と申しますか、大分お付き合いをさせていただいております」
わたくしはいままでの彼女とのやりとりを友人に語って聞かせました。レストランで二人きりの食事を愉しみ、一緒にオペラや劇を拝見してお互いの知識や思想を交換し合いましたことなども、包み隠さずお伝え致しました。マリスと約束を交わしました、あの日のことを除きましては――。
「あの女とは別れてしまえと、そう俺は言ったつもりだったんだがな」
「確かに君からはそのように申されました記憶がございます。しかし、その忠告を実行するか否かはわたくしに決定権がございますから、その後でどのような結果になりましょうとも、わたくしの自由ではありますし、その先でわたくしがどのようになりましょうとも、それこそわたくしの責任でございますから、君の気が咎めるところではございません」
「もちろん」
トゥルースはいくばくか落ち着きを取り戻したご様子で、食事を再開させながらわたくしに申しました。
「そうさせてもらうつもりだがね。ただ、俺にだって君に彼女のことを教えた責任のようなものがある。マリス・ミーディアムはミーディアム家の当主から勘当されているとはいえ、未だに一族の中では有力な跡取り候補と見るものもいる。彼女と関わったら、いまの相続争いに巻き込まれるのは必至だ。君は知っているかな、ミーディアム家で跡取り候補に挙がっているイービル・ミーディアム氏の次女の家が、先日火事に見まわれたそうだ。中には、相続争いのために誰かが火を放ったのではないかという噂まで上がっている。そんなところに君が巻き込まれてはと思うと、俺は気が気でないんだ」
「それでしたら、気にすることではございません。わたくしはいつまでも君を友人と思っておりますし、これからもそれが揺らぐことはないのです」
「止めてくれ。縁起でもない」
それからわたくしたちの会話は、突然打ち切られてしまいました。トゥルースはなにやら難しい顔をされたまま、一言も口を利いてはくれません。わたくしはやや苦笑致しまして食事を続けるのです。もちろん、友人がわたくしの身を案じてくださっていることは優に想像ができますけれども、わたくしの予想と、そして決意は、並々ならぬ力をもってしても覆すことはできないということを、わたくしも友人も重々承知しているのです。
「君は人の命というものをどのようにとらえていますか?」
最後のコーヒーを愉しみながら、わたくしは黙り込んでしまいましたトゥルースに向かって、次のように話しました。
「全宇宙におきまして、生という存在はまったくもって稀有な存在ではないでしょうか。この世に存在するものの多くは、意志を有さない水や空気や石といった物質が主であり、人類ほどの共同体を形成しているものは数少ない稀少種なのです。ある科学者は、この世に生命が誕生しましたのは太陽のおかげであると説いておりますが、なるほど、聖書におけます神の光の創造こそが、生命を生み出す依りどころとなったのでしょうが、しかし望遠鏡で周りの星々を見回しましても、この星と同じような形をした星には生命の痕跡を見つけるのは甚だ困難だと聞き及んでおります。つまり、この星の造りほど例外的な存在は宇宙にはないというわけなのです。この宇宙にはそもそも生や死という境はなく、突き詰めてしまえば、この世は死に満ちているのです。生を有さない物質はすなわち常に死を帯びておりますし、あらゆる生き物は寿命をもってやがては死に服する運命を背負っております。ならば、この世に生まれた生の存在には、一体どれほどの価値があるというのでしょうか。もちろん、社会的には人の生は尊ばれるものとされておりますし、いまの科学者の話から生の例外的重要性を説くことはできますでしょう。しかしながら、最終的にこの世の理は終焉に向かう運命を負っているのであれば、生に執着する意味すらないではありませんか。一世紀を超えて存命なさっても、生後数ヶ月で命の危機に瀕しましても、結局は皆同等に死を賜るのであれば、命の尊さなど安いものにしかなりません」
トゥルースは手を止め苦汁でも舐めましたように顔を曇らせております。トゥルースとは長い付き合いでございますから、彼の性質というものをわたくしも重々承知してはおりますけれど、やはり友人の前ではわたくしの中に宿ります真実が時折顔を見せまして、彼を苛めてしまうのです。その、わたくしの中に潜みます衝動はいかんともしがたく、またトゥルースがわたくしに対して申しますことも、常に変わらないのです。
「だからといって、自分の命を軽んじる必要はないだろう」
わたくしは苦笑して申します。
「そうですね」
警官であるトゥルースには理解できないのでしょう。社会の理念に深く浸かりました人間が、冷静に社会を分析しまして真理を見出すということは、それほど難しいことであるはずがございません。しかしながら、人間の精神を縛りつけます見えざる共有意識を失うことは、軟弱な生命にとっては、自らの命を絶つほどに凶器に輝いているのかもしれません。つまり、わたくしのように社会から隔絶されてしまった存在というものは、これ以上何を失うものもございませんので、少しも恐れることなく社会に反抗的で、自然の声に耳を傾けているものなのです。
わたくしが友人に託しましたお願いは、少しも起こりえないことではございません。トゥルースのご想像は的を射ておりますが、彼はそこまでの終焉を見ることはできていないでしょう。皆様にはおわかりのことと存じ上げます。そうです。彼女との約束の日に、わたくしは全てを彼女に差し出しましても、一等構わない気でおります。
丘の上の城に戻った頃にはすっかり辺りは暗くなってしまって、馬車に乗る直前のティー・タイムを抜いてしまったために酷い空腹です。それでも、あたしは今夜のディナーのためにお腹を空かせておく必要がありました。今晩の予定は朝にエ・スッチに話しておいてあるので、城の中ではすっかり準備が整っていました。あたしは食堂に向かう前に入浴を済ませてしまって、体の隅々をすっかり清め終えると、水滴を拭き取った体の上に桃色に透けるネグリジェを着て食堂へと向かいました。食堂には、すでに並々ならぬ料理の数々がテーブルの上にどっさりと積まれていて、リキュール酒もふんだんに用意されていました。あたしが席に着いて食事を始めると、厨房からは素っ裸の女中たちがさらに様々な料理を運んで来るのです。そこへ、執事があたしの傍まで来てそっと耳打ちするのです。
「お嬢様、支度が整いました」
あたしが執事に促すと、扉の向こうから強仕の男たちが数人がかりで人型を台車に乗せて運んで来ました。裸の男たちが運んできた人型に縛り付けられているのは、衣服を剥ぎ取られたミッシェル・リングミルです。ミッシェルはくつわと目隠しをされているので、いま自分がどうなっているのかもわかりませんし、それを訴える術もありません。磔にされたミッシェルは、自分を縛りつけている縛めから逃れようと必死になって身をよじっている様子でしたが、腕に三本ずつ、足に三本ずつ、腹に二本、首に一本の鎖が回されていて、合計一五本もの鎖によって彼女は拘束されているので、逃げられるはずがありません。あたしは強仕に命じて、彼女の目と口を塞いでいたものをすっかり取り外してしまって、台車をあたしの目の前に引き寄せさせました。ミッシェルはあたしの存在を見て取ると、驚いたように悲鳴を上げるのです。
「ああ、そんな!」あたしは食事を続けながら彼女の声を聞いております、「マリス。これは全体どういうことなの?」
「どうということはないわ、ミッシェル」
すっかり蒼くなっているミッシェルに向けて、あたしは気持ちを落ち着かせようと優しい声で言いました。
「あなたはあたしの気紛れでこの屋敷に招かれたの。光栄に思っていいわ。ここに来れるのはあたしが愛した者だけなのだから」
あたしがテーブルの上に置かれた鈴をならすと、部屋の奥から裸体の女中たちがあたしのすぐ傍までやって来て跪きました。
「さあ、お前たち。あたしの気を良くするようにしっかりとお勤めを果たすのよ。手を抜いたら、承知しないよ」
あたしは女中たちの見ている前で、身につけている一枚の布切れを取り去りました。女中たちは様々な技巧を凝らしてあたしの気を良くしようと躍起になりましたが、まだ不慣れな女中たちはあたしの感性をそっとくすぐるまでしか到達できなくて、とても気をやるまでには至りませんでした。あたしはじれったくなって、椅子に腰掛けたまま、指先や足先を用いて彼女たちの、女として最も弱い部分に刺激を与えてやりました。最初は優しく撫で上げるようにして、次第に纏わりつき絡みつき、彼女たちが感性に従って快楽に蕩けた頃合いを見計らって、一気に昇天まで導いてやりました。そちらの方面には疎い女中たちは、あたしの足元でぐったりとして倒れ込んでしまったのです。
「全く、だらしがない子たちね」
あたしは呆れてしまって、強仕に命じて鞭を持ってこさせました。あたしは床に突っ伏したままの彼女たちに強か鞭を食らわせてやりました。
「誰が食わせてやってると思っているの。誰が寝床を与えてやってると思っているの。誰が着るものを用意してあげてると思っているの」
「お許しください。お許しくださいませ、お嬢様」
「いいえ、許してあげませんよ。あたしが気の済むまで止めないわ」
何度も鞭打って、彼女たちの白い肌はすっかり赤く腫れ上げってしまいました。女性らしい細い線や女性特有の柔らかい部分の全てが、赤々と炎のように熱を帯びているのです。あたしは満足してテーブルの上に鞭を置きました。
「どうかしら。愉しんでいただけた?あなたのために特等席を用意してあげたのだから、ちゃんと御覧にならないと」
「人非人!」ミッシェルは目を赤く腫れ上がらせて毅然と叫びました、「こんな酷いことをして愉しんでいるなんて、あなたは狂っています」
「あら、そうは仰るけれども」あたしは言いました、「歴史を振り返ってみても、人の世とはすなわち争いと支配が渦巻いているものではないかしら。古代エデンを建国したエデン帝王は、世界に君臨したまさに暴君ではないこと。聖騎士時代でも、騎士たちは神の前に忠誠を誓ったとされているけれど、実際には異国の侵略と、村人には虐殺や人さらいまでしていたとあなたはあたしに教えてくれたことを、もしやお忘れではないでしょうね。偉大な英雄や国を治めた偉人たちほど、自然の声に忠実に働いていて、つまり破壊の限りを尽くして他者を貶めて社会を裏から操って、自分はただ私腹を肥やしているとそういうものではないかしら。清廉潔白と呼ばれる社会で美徳と呼ばれているものは、自然にとってはただの嘲笑の的でしかなくて、世の中で犯罪者とか極悪人と呼ばれる、悪事を行動原理とする人間のほうが、よっぽど自然の理に適っていると言えるでしょう」
「随分と偏った意見ですわね」
ミッシェルはからかうようにあたしに言いました。身の自由はなくても、その毅然とした態度に、あたしは胸打たれました。
「あなたが悪徳の女神となるならば、わたしは美徳に従うことも致しません。ええ、そうです。この世にはあなたの目に映る自然というものが、本当は何ものでもないことをとくとお話ししようではありませんか。
「人がこの世で善とか悪とか呼んでいるものは、他人に親切にすることを善と呼んで、一方的に弱者を甚振ることを悪と呼んでいるけれども、そんなことをしても自然というものは少しも傷ついたりしないのよ。では人が自然に悪事を働いたら、例えば森に火を放ったり川に汚物を放り込んで汚してしまったとしても、実際には自然はちっとも痛くも痒くもないんだから。なぜなら、自然にとって荒廃した砂漠や荒れ野なんて、わたしたちの社会の中には見当たらないだけで、世界中を見渡せばそれこそいくらでもあるものなのよ。そこが生命が存在し得ないような悲惨な状態であったとしても、生命が存在していないだけで自然は確かにそこに存在していられるの。そこから導き出されるものは、どんなに人間が自然に悪事を働いたところで、自然にとってはそれもまた一つの姿でしかなくて、結局は何もされていないことと同じになってしまうということよ。
「ではもしも自然が荒廃したら、一体誰がそれを恐れるのかしら。おわかりのことだと思うけれど、そう、それは自然を享受している生命、わたしたち人間がその猛威を最も受けるのよ。自然は気紛れに、嵐を起こしたり、冷害を起こしたり、津波を起こしたり、病を生み出したり、日照りを起こしたり、火山噴火を引き起こしたり、意味もなくわたしたち人間に悪事をなしてくるものだけれど、それにだって困っているのは自然の中で暮らしている生命であって、その母体たる自然は少しも困ってなんかいやしないのよ。人にとっては自然の猛威でしょうけれども、自然にとってはそんなこと、何も不思議なことではなくて、自然にとっては人が呼吸をするくらい当たり前の営みであることが、過去の文献やわたしたちの日常の経験から良く理解できるでしょう。聖騎士時代に、皇帝ヨアヒムがついに異国の民たちを打ち滅ぼすことに成功してまもなくして、わたしたちの国は大飢饉に見舞われて、国家滅亡の危機に瀕したことがありましたけど、そこからも神と自然とは同等の存在ではなくて、だから自然は神様のように弱気を救ってくださったり邪悪を滅ぼしてくれたりなんてしないのだということが良くわかるわ。自然とは大いに寛大であって、同時に子どものように気紛れで、そこから見て取れるように、自然には善悪の区別なんて最初からなくて、そんなものは人間が自己の存在を維持するために区分けした定義に他ならないのよ」
この、神に祈りを捧げる無神論者は、毅然として善悪の存在を否定するのです。
「まあ、素敵!」あたしは堪らず叫びました、「やっぱりあなたはあたしが認めた人よ。あなたほどの冷静な分析力を持つ人を、あたしは熱愛するのだわ。社会が常識などと呼ぶ、あの身勝手な縄を悉く引き千切ってしまうだけの思慮深さこそが、強固な哲学というものを生み出すのだからね」
あたしは磔にされた少女に向かって、悪戯っぽく微笑みかけるのです。
「でも、だからこそね。自然に善も悪もなくて、生命が自然にどんな悪戯心を起こしたところで、自然はこれっぽちも傷つかないというならば、あたしが自然の申し子である生命をいくら蹂躙したところで、どうして善悪の区別をつけることができましょうか。自然があたしたち産み子を放逐するように、あたしが自然の一部をこの手に抱くのも勝手ではないかしら。つまり、これからあなたがどうなろうとも、そしてこれからあたしが自然の一部たちをどうしたところで、自然にとっては何の障害にもなりはしないのよね。ああ、畜生!もしも自然の力があたしにあるのならば、全ての災害を一つに起こして、この忌々しい自然なんて存在を打ち壊してやりたいのにね。全ての生命を嬲り殺せる天災と病魔をこの地に蔓延らせて、荒れ狂う嵐と火山の爆発によってこの世界を粉々に砕いてやりたいわ。太陽や月や星屑さえも呑み込む巨大な穴を開けてやって、全てその中に放り込んでしまえば、この世は全てを破壊尽くされて終焉を向かえた闇だけが残るのよ。そうですとも!あたしは聖書における神の創造を悉く打ち砕いてやって全てを無に帰すことこそ、自然に対する最高の罪悪になると考えるわ。そしてその罪悪こそが、あたしの胸を昂らせてくれるの」
あたしはテーブルの上の料理をほとんど食べ尽してしまうと、鞭を手にとって席から立ちました。
「さあ、お愉しみを続けましょう。今晩は本当に素敵な夜になるわ。接吻してあげるわ、お友達」
あたしは磔の友人を抱きしめてやりました。ミッシェルの体は恐怖に震えておりましたが、その体は火照ったように熱を発して熱いのです。恐怖と快楽が渦を巻いて、この少女の心と体を侵食しているのが、あたしには堪らなく気をそそるのです。
「ああ、一体何をするつもりなの?」
ミッシェルはすっかり怯えきって叫びました。あたしは彼女の体中に接吻してやると、奥で控えていた強仕を呼び寄せて、その内の一人にミッシェルにも聞こえる大きな声で、彼女の純潔を奪ってしまうように命じたのです。途端に、ミッシェルの顔から、体から、血の気が引いて、白い肌が蒼白く冷え切っていくのがわかりました。他の強仕たちには、女中たちになにしながらあたしの鞭を受けるように命じました。準備がすっかり整うと、狂乱の宴が始まるのです。鍛え抜かれた肉体を持つ強仕たちは、傷ついた女中たちを物でも扱うように荒々しく打ち据えます。苦痛と歓喜の入り混じった叫び声の中に、音高く鞭の打撃が音を添えて、獣たちの悲鳴は一段と美しく響くのです。周囲の演出の中で一際輝くのが、中央で磔にされて無抵抗のまま見世物のように絡み合う一組の男女の姿でした。ミッシェルは縛りつけられているために、背後からどんな男に自分が犯されているかなど少しもわかりませんが、目の前で繰り広げられている光景をすっかり自分のものと混ぜ合わせてしまって、あたしの胸をすっかり昂らせる悲痛な叫び声を上げてくれるのです。
「止めて!」
どんなにミッシェルが叫んだところで、一度命じられた強仕が手を休めることなど決してありません。何度互いに果てたところで、あたしの鞭が止むまで、決して彼らはこの狂乱を止めはしないのです。
もうすっかり、何回彼らが気をやったのかわからなくたった頃に、あたしはようやく満足して、最後の悲鳴を奏でるための鞭を振るうのです。女中たちはすっかりくたくたになって、もう身動き一つ取れなくなってしまいました。女たちの活力のなさはあたしの想像力をさらに意地悪なものに変えてしまい、まだ逞しく立っている強仕たちに命じて、女中たちにパンとリキュール酒をどっさりと口の中へと押し込ませました。そうやって、すっかり彼女たちを立たせると、強仕たちとともに部屋の隅で控えるよう命じました。そうして、あたしは食堂の真ん中で置き去りにされたミッシェルに近寄って声をかけようとしたところで、しばらく言葉を押し留めました。快楽の痕跡が残る中で、なんと彼女は声を抑えてすすり泣いているのです。あたしは呆れてしまってミッシェルに言ってやりました。
「まあ、あなた。お愉しみのときにそんな水っぽい涙を流すなんて、折角の興が冷めてしまいますわ。純潔を失ったくらいで悲嘆にくれるなんて、笑い話にもなりませんよ」
悲しみに耽っていたミッシェルはかっと目を見開いて、その腫れた瞳であたしのことを強く睨みつけるのです。
「男女との繋がりは、何も一つに交わらなければわかり合えないほど弱いものではありません。こんな行為は子孫を残すためにしか過ぎなくて、ですから、こんなものに意味などないのよ」
ミッシェルは涙を流しながら、強い態度であたしに言いました。あたしは小さな仔犬でも見るように微笑んで、彼女の髪を撫でてやります。
「口では強がりを言っていても」
あたしは彼女の髪に触れている手をすっと降ろしていって、頬、首、胸、腹、腰、そして女性としてのその器官に手を伸ばして、その湿り気を確かめます。ミッシェルの初物としての証が止め処なく溢れて泣いているのです。
「どんなに理知的に振舞っていても、そうよ、あなたは冷静さを装っているだけでしかないのよ。だって、あなたの心は未だに少女のままなのですもの。世の中の女性たちが意固地に守り抜こうとしているあの無意味な幻想に、あなたまでもそんなに必死になってしがみつこうとしているのが丸見えなのよ。秘密を知られることは、肉体的に御自身を曝け出すよりも残酷なこととは思いませんか?」
ミッシェルの頬が羞恥に上気して、あたしは可笑しくなって笑い声を上げました。
あたしはテーブルの上に置かれた果実酒のビンをすっかり空にしてしまうと、再びミッシェルに話しかけるのです。
「さあ、いよいよ最高の快楽を愉しみましょう」
「これ以上どんな酷いことをしようと言うの?」
あたしの言葉に、やつれ切った彼女は投げ遣りに呟くのです。髪は乱れて目は痩せ衰えたように黒く窪んでおりますが、彼女自身の聡明さや美しさは少しも揺らぐことがなく、それはやはり、あたしが認めただけの美貌の持ち主でした。
「これがあなたにも見えるかしら、ミッシェル」
あたしはミッシェルを磔にしている道具から伸びている紐をちらつかせました。それはちょうどミッシェルの腰の辺りから伸びていて、長さは一尺ほどでした。
「あなたをいま磔にしているこの道具は、決して逃げることのできない拘束具であると同時に、死を宣告する処刑道具でもあるのよ」
ミッシェルには、まだあたしの言っていることがわからない御様子なので、あたしは強仕に命じて準備させました。つまり、女中の一人にミッシェルを縛りつけているのと同じ鎖を首に巻きつけさせて、あたしの前に差し出させたのです。その鎖の端からも、同じような紐が一本垂れています。
「今晩、一番できの悪かったのはお前だよ」
「ああ、どうぞお許しくださいませ。お嬢様」
「ふん、いまさらお許しを請おうなんて図々しいね。不調者にはそれなりの懲罰が必要だわ。ほら、こっちへおいで」
「ああ、どうかお許しを」
ひたすら許しを懇願する彼女は、それでもあたしの元へと歩み寄ってくるのです。あたしの命令に逆らったらどんな恐ろしい目に遭うのか、彼女も重々承知しているからです。しかしながら、今回ばかりはその忠義の行為が彼女の人生を決定付ける最も重大な選択になっていようとは、この憐れな生け贄は少しも考えなかったのでしょう。あたしは技巧を凝らして、この純情そうな女を堕落の道へと誘い込んで、同時に背後からは強仕の手によって激しく鞭打たれます。男の手による加減を知らない強打によって、女の体からはたちまち血が噴き出して、彼女が気絶しそうになるたびに、あたしは女の敏感な部分を強く抓ってやるのです。痛みと快楽の狭間で女は悶えながら、いよいよ果てようとしたところで、あたしはついと手を引っ込めてしまって、女はおあずけをくらって酷く当惑した目であたしに訴えかけてくるのです。あたしは微笑んで女の首から垂れた紐を見せつけてやりました。この後の結末をいち早く勘付いた女は、悲鳴を上げるばかりで声になりません。あたしがその紐を鎖から引き抜いてしまうと、壮大な音を立てて鎖が女の首を締め上げ、その細い肉を一瞬にして断ち切ってしまいました。彼女の頭は高く舞い上がり、テーブルの隅まで飛んでいってしまって、首の断面からは噴水のように鮮血が飛び出します。女の体は、しばらく痙攣を起こした後でその場に倒れてしまいました。女の背中は、もはや肌の白さを探すのが困難なほどに赤く腫れ上がっていて、傷口からは血が染み出しています。あたしは、なんとか気をやるのを堪え、胸の高鳴りに耐えながら、ミッシェルに向かって言いました。
「どうかしら?」
ミッシェルの顔は陶磁器のように白く、目を見開いたまま嘔吐してしまいました。あたしは彼女の返事を待たずに、高揚する気分を抑えながら冷静に告げるのです。
「この道具は、あなたを縛りつけているものと全く同じものなのよ。その鎖には、強力なバネが中に仕込んであって、この紐を引くと今までバネを押さえつけていた金具が同時に外れてしまって、壮絶な力で内側に締めつけてしまうの。その力がどれほどのものかは、いまあなたも御覧になった通りよ」
ミッシェルは最後の力を振り絞るかのように、壮絶な悲鳴を上げました。そこにいるのは、もう国に仕える館長様ではなくて、恐怖という死神に憑かれた憐れな少女でした。その声にもならない悲鳴を、あたしはうっとりとした気分で聞いておりましたが、女の持ちえる体力ではどんな絶望の叫びも長続きはしないということをよくよく知っておりましたので、あたしは早速女中たちを呼び寄せてお愉しみを始めることにしました。
あたしは女中の一人に跨って、残った彼女たちを用いてあたしとお互いをなにさせてやりました。彼女たちの技巧のほどは知れていましたが、先ほどの光景を目にしたせいか、今度はとても熱心にお勤めをしてくれるので、あたしの火照りも冷めることなく、さらに情熱をたぎらせることができたのです。彼女たちになにしてもらっている間、あたしはミッシェルのあらゆる弱い部分に様々な技巧を施してやって、彼女に快楽を与えてやるのです。愛撫はもちろんのこと、抓ったりかじってやったり、それはそれは色々やってやりました。ミッシェルは、恐怖と快楽の狭間でどっと汗をかいて、それでも彼女の体から情熱が消えてしまうことはありませんでした。あたしは、不幸にしてこの感受性豊かな少女の体を弄び、乙女の心から快楽と恐怖が吹き飛んでしまわないようにしてやるのです。
「さあ、ミッシェル。あなたは一つ、大切なことをお忘れでないかしら。あなたは明日、大切なお方とお食事をするのではなくて?そんなに乱れてしまっては、もう彼に合わせる顔もなくなってしまうわ」
涙で顔を汚しながらも、その言葉を聞いた途端に、ミッシェルの表情に悲痛の色が現れたのを、あたしは見逃しませんでした。
「ああ!助けて。助けて」
絶望に突き進んでいた少女の心は、叶わぬ希望の輝きを目にしてしまったがために、身をよじって恐怖からも快楽からも抜け出そうと必死になるのです。
「わたし、まだ死にたくないの。死にたくありませんの。まだ彼とお話したいのに。まだ彼の手を握ったこともありませんのに。わたしを見てくださった方なんていままでありませんでしたのに。こんな、こんなこと!」
絶望の沼地に沈み込んでいく少女の心は、大粒の涙を流しながらついに全ての希望を失って堕ちていきました。
「ああ!こんなことでしたら、もう、もう。こんなことでしたら、あなたを知らなければ良かったのです。恋なんて甘い誘惑に惑わされてしまったばっかりに、わたしはここまで胸が締めつけられるのです」
「何を仰っているのかしら」あたしは意地悪くミッシェルの耳に囁きかけました、「あなたに幸福を見せてあげたのはあたしですよ。あなたが秘めた想いを成就させようと、お膳立てをしたのはこのあたし。素敵でしょう?目の前の幸福に心躍らせる人をどん底の地獄に叩きつけることほど、素敵な罪悪はありませんわ」
彼女の最も敏感なところに触れたのか、ミッシェルはあたしの手の下であっという間に果ててしまいました。彼女が快楽の高みにとうとう登りつめたのを見て取るや、あたしは人型から伸びた紐を勢い良く引き抜いてしまいました。
さあ、ここからは皆様の御想像の通りです。ミッシェルを縛りつけていた鎖は重い音を立てて彼女の肉体を引き裂いて、一六個の肉片にしてしまいました。その光景といったらなんとも、凄惨を極め、火山から溶岩が溢れたように目の前が真っ赤に染まるのです。ワインの滝に打たれたように、あたしはうっとりとして赤く染まった磔を見上げます。頭からすっかり鮮血を浴びてしまって、あたしの肌は赤いベールを纏ったように隙間なく塗り尽くされているのです。ああ!なんて美しい光景でしょう!一人の殿方に恋した可憐な少女は、その想いが成就することもなくその生を閉ざされて、もう二度と彼と会うことはできないのです。疑うことを知らない無垢な少女はまんまと騙されて、王子様との約束を前にして罠に嵌められてしまったのです。なんて素敵なんでしょう!あたしは殺人の罪に加えて、詐欺と盗みまで同時に犯したのだわ。金品や宝石を盗むよりも恋人を奪われることは、どれほどこの少女の心を引き裂いたでしょうか。罪悪と独占こそがあたしの最も愛する快楽なのだわ。あたしは彼女の温もりを肌で感じながら、そのまま最高潮に達して気をやってしまいました。罪悪のもたらす刺激は、どんな行為よりも偉大なのです。
しばらくあたしは、恍惚としたままにその光景を眺めていました。元々赤い絨毯が敷かれた城内では、日が経つにつれてその色はさらに燃え盛るような赤へと鮮やかさを増していきます。そして、いまこの瞬間に、ミッシェルの体から溢れた真っ赤な絵の具が食堂のキャンバスを鮮やかに染め上げているのです。
あたしは一六個にわかれた彼女の肉片を、うっとりと眺めています。切断の勢いで、手首や足首の先は遠く彼方へと飛んで行ってしまいました。あたしはテーブルの上まで飛ばされたミッシェルの頭を見つけると、お料理で汚れてしまった彼女を綺麗に舐めてやりました。そして綺麗になった彼女を胸に抱いて、二度ほど気をやったのです。
さて、これで今夜の晩餐会はお開きと皆様はお考えでしょうか。確かにあたしは本日、いままで目をつけていた少女にあたしの気紛れの悪事を働いてやりましたけれど、これで終わってしまったら、ようやくメインディッシュを目にして満足してしまうような不調ではありませんか。あたしは執事を呼び寄せて、ばらばらになったミッシェルの体と、首をなくした女中を早速料理長に調理するように命じました。料理が完成するまでの間、あたしはテーブルに残った二本の酒をすっかり空にしてしまって、再び鞭を持って女中たちに打撃と叱責をくれてやりました。
一時間ほどしてようやく料理が出来上がったとのことで、あたしはさっと席に着いて女中たちに料理を運んで来るように命じました。運ばれてきた料理は実に十皿にも上り、どれもこれも様々な趣向を凝らしていて、大そうあたしの気をそそるものばかりでした。あたしは早速一皿目にフォークを突き立てて、まずはミッシェルの腰肉を口へと運びました。
「まあ、美味しいこと」あたしは恍惚として叫びました、「こんな美味なものを知ってしまったら、とても他のものを食べることなんてできやしませんわ。世の中には人肉を食する習慣を持つ民族だっているのに、貴族のようなお高くとまった方々は、どうして人を口にすることを野蛮だと言うのでしょうか。農民が育ててくれる豚や鶏を獣と呼んで蔑み、それを世話する農民を汚れた人種と嘲ってはいても、結局貴族だってお食事に出るものは下々の者が作った豚や鶏であることを、誰しもが知っていることでしょう。パンを作るにも小麦が必要なのだわ。美味しいワインを造るのにだって、葡萄を作って農家で踏み潰して作っているのだから、そんなつまらない意地なんてなんの意味もないことなのにね。人間は生命の中でも、ありとあらゆるものを食して吟味する能力を獲得したのだから、好き嫌いなどせずに多様なものを口にしてみたらよいのだわ。こんなに美味なものは、世界中探しても他にないのだからね」
あたしは全ての皿に一度ずつフォークを突き立てて、それぞれの作品をよく味わってから、執事を呼び寄せて次のように命じました。
「地下へ行ってきて、彼の一部を切り取ってきてちょうだい。それを最後のデザートにします。ワインの準備も怠らないように」
「かしこまりました。お嬢様」
執事が去った後で、あたしはミッシェルと女中をいただきながら直前までの行為を思い出してうっとりと微笑むのです。そうしているうちに、あたしの想像力はどんどん欲張りになっていって、次はどんなふうに犠牲者を出してやろうかと、そんなことばかりが頭の中を巡るのです。悪人の想像力は決して尽きるということはなく、一つの悪事を犯せばさらなる悪事を思いついて、それを実行しないでは気が済まないのです。
ミッシェルが言い残していたように、男女の繋がりに肉体的な結合など実際のところ、価値はありません。それが結局のところ、種の存続にしか繋がらないのであれば、あたしはその忌々しい行為に服するようなことは決して致しません。そうですとも。子どもを宿すなんて、考えただけでもぞっとするわ。あんな醜いものを腹の中に入れていること事態がおぞましくて、想像しただけで気味が悪いったらないわ。もしもあたしの趣味思考があったお相手が、あたしとの行為をお望みであるならば、あたしは躊躇いなくその人に身を差し出しましょうけれども、次の日にはすぐに手術をして赤ん坊を引きずり出してやりますわ。社会にとって、子を作って社会を存続させることがどれほど望まれていようとも、あたしは自然に従って一切のそういった奉仕活動を忌み嫌うのです。この世界は、どこまでも無慈悲で気紛れで破壊に満ちているのだから、あたしもあの胡散臭い聖書に記されている創造の神なんかよりも、破壊の自然のほうこそ理とするのが筋ではないかしら。自然によって破壊される生命を、あたし自身の手によって粉々にしてしまうことは、一体どれほどの快楽でしょうか。そしてそれは同時に、自然から快楽を奪い去ってやることなのだから、さらにあたしの気は高揚とするのです。
しかしながら、自然からしてみれば、日に何百、何千という生命を蹂躙し、葬っているのが現状なのですから、自然から見ればあたしの行為なんてささやかなものでしかなくて、それが心残りで仕方ありません。ああ!あたしに自然と同等の力があれば!その力で、あたしは毎日何万人もの人たちを地獄に放り込むことができるのに!どうでしょう。一国を握るほどの実権を握ってやって、国の人口を半分にしてしまうだけの飢えをばら撒いてやりましょうか。そうすれば、あたしはいつも人々の苦しみを聞きながら快楽に耽ることができるのよ。
あたしはすっかり上機嫌になって、次々とお皿を平らげ、六皿近くを片付けてしまったところで、執事が食堂へと入ってきました。
「デザートの準備が整いましたが、いかが致しましょうか?」
「いますぐに!」あたしは叫びました、「ここに運んできてちょうだい。まだ余っているお皿は、ミッシェルのものは明日以降も食べられるように取って置いて、女中の肉はミンチにして地下の妖精たちの餌にでもしてちょうだい」
「かしこまりました」
テーブルの上の皿が全て片付けられると、厨房のほうから料理長が大きなお皿を運んでやって来ました。あたしの愛しております彼はあたしだけのものですから、あまり人には触れさせたくありません。とは言っても、あたし自身が彼に手を加えて、彼の中に含まれている魅力が台無しになってしまうのはさらにとんでもないことです。料理に関しては、この城で一切を任せてある料理長の手に委ねていますし、料理長にはあたしに彼を運んで来る責任があるのです。
目の前に出された料理を見て、あたしはつい叫び声を上げてしまいました。
「まあ!可愛らしい!」
お皿には、クリームの上に二つの球体が浮かんでいました。外側は白くて、しかしそれは確かにあたしを見つめています。栗色の瞳が、あたしに優しい視線を送ってくれるのです。
「目玉のデザートなんて、なかなか面白いことをするのね」
あたしはナイフとフォークで切り分けて、まずは白身の部分をいただきました。柔らかくてとろみのあるさっぱりとした味わいが、クリームと良く合っております。次に、瞳の部分をくり抜いて口の中へと運びます。独特の味わいが口の中に広がって、あたしはうっとりと彼を噛み締めるのです。
「柔らかくてとても美味しいわ。クリームの風味もきいていて、最高の一品よ。また次も作ってくださいね」
料理長は無言で頷いて、厨房のほうへと引き下がりました。あたしはワインとともに彼との食事を愉しみました。彼とともに過ごす晩餐は、どんな豪華な料理を並べられたよりも格別なのです。ああ!またしても彼があたしの元にやってきて、あたしの感性を満たしてくれると思うと、あたしは残り一週間の期間がとても待ち遠しいように思えてならないのです。




