表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第三譚 永久極楽埋葬室

 どこからともなくベルの音が聞こえてきて、あたしは目を覚まします。窓からは明るい()の光が差し込み、部屋は薄い光のベールに包まれています。あたしは眠い目を擦りながら、まだ温かさの残るベッドから体を起こします。

「はい」

 あたしはベッドのすぐ横に並んだテーブルの上に置かれた呼び鈴を鳴らします。部屋の扉が開いて、執事であるエ・スッチが中へと入ってきました。

「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、男爵」

 あたしは欠伸(あくび)()み殺しながら挨拶をします。エ・スッチは、この家のことやあたしの秘密のお願いを良く頼むとても信頼できる人なので、あたしは敬称と愛称の意味を込めて男爵と呼んでいます。

「一体いまは何時かしら?」

「あと十分ほどで十一時でございます」

「まあ、十一時ですって!」あたしは驚いて叫びました、「道理で明るいはずだわ。なんということでしょう。昨日はちっとも眠れなかったせいでこんな時間まで眠ってしまったんだわ」

「昨夜はあまりお眠りになれませんでしたか?」

「ええ、そうよ。あんたも知っているでしょう。昨日この家で何が起こったのかということくらいね。彼よ!彼が来たのよ!あたしの胸を熱く()がしてくれる素敵なお方なの。彼がこの家にいたと思うだけで、あたしの想像力はどんどん(たくま)しくなるの。ほら、いまでも見えるわ。そこに彼がいるのよ」

 あたしは早口で(しゃべ)りながら、エ・スッチのすぐ隣を指差しました。執事は何も言わずにただ嬉しそうに微笑むのです。あたしは勢いがついてさらに言いました。

「彼がそこにいるのよ。彼があたしを見ているの。彼は薔薇園(ばらぞの)の中であたしに振り向いてくれるの。彼はあたしの耳元でそっと(ささや)いてくれるの。あたし、そんなことされたらちっとも眠れませんわ。どうしましょう。まだお熱が下がらないわ」

「それは良い夜を過ごされたようでございますね」

 あたしはまだ胸の高鳴りが治まりません。彼と出会ってからまだ一月くらいしか経っていないのに、あたしのここまでの体の(たかぶ)りようときたら、一体全体どういうことでしょうか。フリークに会うまでの時間に、あたしはいかにして彼との時間を過ごそうかと、あたしの頭の中にある空想力を使い果たして毎日を特別な日に(いろど)ってきました。そしてつい昨日、そう、昨日だというのにまだ信じられません。あたしと彼はようやく契約への第一歩を踏み出したのです。ああ、どうしたら良いでしょうか!まだ体の(しん)まで燃え上がっている内なる炎は、あたしの頭を(とりこ)にするのです。あたしがこの世で唯一真実と認める一時が舞い降りてきたのです。

 執事は嬉しそうに微笑んであたしに言うのです。

「そんなお嬢様に良いお知らせがございます」

「まあ、何かしら」あたしは執事に訊きました、「教えてちょうだいな。どんな言葉があんたの口から出てきて、あたしの胸をさらにときめかせてくれるのかしら」

「お嬢様が所望(しょもう)されておりましたベルサック地方の貴族様の御令嬢で、エミールの修道院におられますイータという娘が今晩にもこの屋敷に参られるようでございます」

「まあ、なんて素晴らしい!」あたしは叫びました、「ついに、ついにやって来るのね、あたしが見惚れた子。あの娘さんとの出会いをあたしは今でもはっきりと思い出せてよ。ちょうど馬車で修道院のすぐ隣を通りかかったときだわ。劇場での帰り道であたしは演劇の内容で頭がいっぱいで、窓の外の景色にさえその情熱を見出していましたの。それがどういうことでしょう。柵の隙間から一瞬ですよ、一瞬垣間見ただけだというのに、あたしの心臓は飛び跳ねて、あたしの感性をいっそう熱く()がしてしまうのだから。あのあどけない、まだまだ幼い容貌(ようぼう)に丸く愛らしいブラウンの瞳、真っ白な頬は鳥の羽のように柔らかそうなの。あの子はどんな声をするのかしら。どんなにあたしの感性を刺激してくれるのかしら。(たの)しみで仕方ないわ」

 あたしは感極まって執事に訊きました。

「そうだわ、男爵。他のお姫様たちはどうしているの。あたしは他にもお声をかけたい方たちを申しつけておいたはずだわ」

 執事はすらすらとあたしの質問に答えてくれました。

「フルンブルグにお住まいの国軍大尉の三女、セシル様は明後日ならご都合がよろしいとのことでございます。セロッテの大臣の娘様でいらっしゃいますファーバ様は、ようやっとお話が取れましたところで、お連れできますのは一週間ほど先のご様子です。ギリシガの山で隠居(いんきょ)生活を送っておられますシーグル公の一人娘でございますシェラス様は、昨日に劇場を訪れるご予定でございましたが、なんでもお風邪を引いてしまったとのことで、もうしばらくご様子を見てからお連れするとの連絡が入っております」

「まあ、残念」あたしはベッドの中で肩を落とします、「シーグル公のお嬢様は特にあたしのお気に入りだったのに、今日のような気分の時には彼女のような方こそふさわしいのですよ。お病気とあっては仕方がありませんわ。またの機会に致しましょう。それでは本日やって来る娘はいつもの場所にお通しして、しっかりと準備を整えておくのよ。あと、この一月ほどは一日たりともお迎えが絶えませんように、強仕(きょうじ)の方々にはよくお伝えしておいてね」

「かしこまりました」

「あたしもいい子ちゃんを探しておかないとね。この一月はあたしにとってとても特別な時間なのですから。少しだって手抜きは許されないのよ。早速町に出かけに行きましょう。男爵、馬車の準備をしてちょうだい」

「かしこまりました、お嬢様。しかし」

「何か他に御用かしら」

「お食事はいかがいたしましょうか」

「あら、嫌だわ」あたしは慌てて口に手を当てました、「あたしとしたことが。あんまり慌てていたものだから、つい忘れてしまいましたわ。どうしましょうか。お外でいただいてもよろしいのだけれど、今からでは準備に時間がかかってしまうわね。あたしにとって人の時間は気にするものではないのだけれど、世の摂理まではいかんともしがたいのだから困ったものだわ。あたしの尊い方に宣明(せんめい)した時間はもう変えられませんもの。この時間だけは、何があっても変更は許されないのよ。急に時間が短く感じてしまいますわ。こんなときこそ、あたしの欲望の炎は勢いよく燃え上がるのですけれど、ここで衝動のままに従ってしまっては折角の快楽もお愉しみ半分で冷めてしまいますわ。人が動物と違うのは、理性をもって自身を抑制するところにあるのですもの。快楽を増幅させるためには必要な儀式なのだわ。では男爵、今日のお昼は屋敷でいただくことにしますから、うちの料理長にはそのように言っておきなさい」

「かしこまりました」

 執事が部屋を出た後で、あたしは隣室で控えている女中を呼び寄せて今日の身支度を済ませると、昼食をいただきに食堂へと向かいます。食堂にはすでに料理が湯気を立ててあたしを待ってくれていました。コーンスープにクロワッサン、(さけ)のムニエル、(かつお)のカルパッチョなど実に様々な料理が所狭(ところせま)しと並んでいるのです。あたしは全ての料理を口にすることを欠かしません。人が精力的に活動するには、何よりも食事は貴重な時間であると心得ておりますので、そのために必要な栄養素は残らず腹の中へと放り込んでしまいます。テーブルに並んだ料理もいよいよ残り(わず)かとなってきたところで、あたしは後ろの扉の前に(ひか)えている執事へと声をかけます。

「男爵」

 (よど)みなく執事はあたしのすぐ隣までやって来て、あたしに礼を返すのです。

「はい、お嬢様」

 あたしは食事の手を止めて、すぐ後ろに控えている執事へと訊ねます。

「今日のご予定ですけれども、よろしいかしら?」

「はい、何なりとお申しつけくださいませ」

 頭の中で今日の予定を想像しながら、あたしは執事に言いつけます。

「お昼が終わったらすぐに出かけるわ。場所は、そうね、まずはフェミエットのお店に立ち寄ってお花を買っておきたいわ。そしたらミッシェルのおうちに行くのよ。午後は彼女と一緒に過ごすから、夜の七時くらいには帰ってくるわ。それまでに、一切の準備を終えておいてちょうだいね」

「かしこまりました」

「何か忘れていることはあったかしら?」

「いいえ。全てはお嬢様の仰せのままに」

 執事が部屋を去っていった後で、あたしは出された料理を全て食べ終えるとテーブルを叩きます。すると扉の前で控えていたボーイが素早く料理を片付けてしまって、厨房から女中がやって来て食後の紅茶を運んで来ました。食後のデザートを愉しみながら、あたしはこれからの時間を空想して、うっとりとした気分でこれからの一ヶ月のことを想像するのです。ああ!なんて素敵なんでしょう。彼と過ごす時間ほど貴重なものはありません。そのための快楽の儀式も決して怠ってはいけません。最大の快楽を引き出すためには、それ相応の遊戯を前段階として愉しまなくてはなりません。今宵のお嬢様があたしの気をさらに高めてくれると思うと、胸の高鳴りが止まりません。


 家を出ましてから一時間ほどが過ぎましたでしょうか。馬車が急に止まりましたので、わたくしは手にしていた本を閉じまして窓の外を眺め見るのです。すぐそこには、鼠の看板がかかっておりますレストランがございました。レストランと申しましても、個人で営んでおられますごくごく小さなお店であることを、わたくしはよく存じ上げております。わたくしは馬車を降りまして、店のすぐ脇にございます細い路地へと向かいました。人がようやく通れるような細い道でございまして、まだ日が高いはずですのに辺りはすっかり暗く、陽の温かさはこんな暗がりまではやって参りません。上を見上げますれば青い空に点々と雲が浮かんでおりまして、壁のように(そび)え立ちます周囲の建物の窓という窓は固く閉ざされ、部屋の中すら見通すことができません。

「おお、旦那様」

 どこからか人の声が聞こえて参りまして、わたくしは辺りを見回しました。暗く淀んだ狭い道の上には人の姿が見当たりません。

「旦那様、旦那様、こちらです」

「どちら様でしょうか。わたくしを呼び止めますのは」

「わたしは不幸な身の持ち主なのです。旦那様」

 わたくしが振り返りますと、道から()れましたさらに細い道のほうから、薄汚れた上着を身につけた男が一人現れたのです。なんとなく恰幅(かっぷく)が良く、肉のついた頬には無精髭(ぶしょうひげ)がうっすらと生えております。乞食(こじき)という印象はありませんが、服は汚れ黒くなっております。その男は悲痛な声でわたくしに申してくるのです。

「どうかわたしの不幸な身の上をお聞きくださいませ。わたしほど酷い目にあっているものは、世界中探し回っても他におりません」

「それではその不幸とやらはどういったものなのですか?」

「それがなんとも」男は顔を乱暴に()きまして、このように申しました、「わたしは隣町から来た者でございますが、どうしてわざわざ隣町から来たかと申しますと、わたしの娘が病気にかかってしまって、町のお医者に()せに行ったら隣町の大病院に行ったらいいと言うのです。で、わたしはこの町の病院まで行って娘を診てくれるように頼みたいわけなのですが、お恥ずかしながらわたしの家は貧乏でございまして、列車に乗ってきては診察代が払えないので、仕方なくわたしは隣の町から山を越えて獣道を通ってここまで歩いてきたのでございます」

 男はさらに声を高らかに、このように申すのです。

「しかしですね、旦那様。この世は弱者に厳しい風が吹いているのです。こんなに苦しんでいる男の前に、不幸の悪魔はやって来るのです。食べるものも寝る場所もなく、ただひたすら山を越えるために歩いていたわたしの前に、なんと盗賊が現れたのです。ああ、思い出しただけでもぞっと致します。厳つい顔をした恐ろしい男たちが、わたしの前に何十人と立ちはだかったのです。わたしは何とか逃げようと試みましたが、暴漢たちには適うわけもなく、あっという間に取り囲まれてしまって、娘の医療費をそっくり盗られちまったんでございます」

 男は上着を振りまして、疲れたように膝をつきました。

「ああ、神様は悪魔の前では無力なのでございましょうか。いやいや、そんなことはございません。わたくしは山の中で必死になって祈ったのです。ただ、娘が助かってくれますようにと、それだけなのでございます。食うものもなく、体がボロボロになって、ようやくこの町にやって来たのですが、いまのわたしには娘を診てもらうためのお金もありません。このまま帰ったら娘は病気で死んでしまいます。ああ、それを思うだけでわたしは耐えられないのです。まだまだ幼いわたしの一人娘です。わたしに残されたたった一人の肉親なのです。女房は大分前に死んじまっていて、娘はいま近所の人に見てもらっています。妻に先立たれてこのまま娘にも死なれたら、わたしはもう生きてはいけません」

 男は顔を(ゆが)め、両手で顔を覆ってしまいました。指の隙間からは男の(すす)り泣きが聞こえて参ります。わたくしは(あわ)れんだ声で男に申し上げました。

「それはお困りでしょう。わたくしでよろしかったら、力になりましょう」

 男は突然顔を上げまして、わたくしの顔を穴が開くように凝視するのです。

「本当でございますか!」

「もちろんです。早速お医者様のところへ参りましょう」

「いやいや、旦那様」男は荒っぽく腕を振り回すのです、「旦那様まで面倒事に巻き込むわけには参りません。医療費とお医者さん、そしてわたしの列車代だけいただければそれで結構ですから」

「そのようなことでよろしかったら」

 わたくしは上着の内ポケットの中から一枚の手形を取り出しました。額面には一万リンと記された、特に署名を必要としない持参人払いの手形でございます。それを差し出しますと、男はさっとわたくしの手から手形を奪い取り嬉しそうに顔を(ほころ)ばせるのです。

「ありがとうございます」

 男は軽く頭を下げますと、わたくしがやって参りました道から抜け出て行きました。男の姿が見えなくなってしまって、さあわたくしも道の先へと歩き出そうとしましたら、わたくしに声をかける方がおりました。

「馬鹿なことをしでかしたな。御前様」

 わたくしが振り向きますと、いつのまにか道端(みちばた)に乞食が一人座っておりました。砂埃(すなぼこり)やら町の汚れやら(あか)やら、もうありとあらゆる汚れが染み付きました分厚いコートを着込んでおりまして、髭は伸び放題、乱暴に扱われたために潰れた帽子からは不潔極まりない髪が生えております。このドワーフのような男は面白いものを見るように小さく笑っているのです。

「あんなの嘘っ八に決まってまさ。この路地裏には金の亡者(もうじゃ)どもしか住み着いてませんで、御前様のような御身分の方には()えた悪鬼(あっき)しか寄って来ないで。だから御前様、早くここをお出になったほうが懸命でございます。このちんけな垢すり爺もどんなことをしでかすか、わかったものではございません」

 申し終わってからも、ドワーフは腹を抱えて笑っているのです。わたくしはこの親切な男に対して感謝の言葉を申し上げます。

「ご忠告ありがとうございます。クロスさん」

「やや、そのお声は!」

 ドワーフは驚いたように目を見開きました。帽子の奥から白い眼球がわたくしの顔を必死に覗き込んでくるのです。

「先生ではありませんか。先生がおいでになった。これは驚いた。久し振りではございませんか。こんなみすぼらしいところにまでわざわざご足労いただきまして、わしは感激でございます」

 クロス氏は頭の先から爪先まで、何度も何度もわたくしの体を眺めまして、感嘆の言葉を漏らしながら(うなず)くのです。

「今日はあなたにお会いしにここまで参りました、クロスさん」

「そうでしょうとも、そうでしょうとも」クロス氏は答えるのです、「ご用件でもない限り、先生がこんな貧乏街になんか来るわけがございません。ちょっと待っていてくだせえ」

 道の影に隠れてしまってから十分ほど致しまして、クロス氏は再び姿を現したのですが、その容姿はさきほどまでとは見違えるようでした。身に(まと)っておりました汚れ(まみ)れの布はすっかり()ぎ取ってしまいまして、さきほどまでよりは遥かにましなよれたスーツを着ております。大きな帽子はなくなりまして、髪も整え、髭はその大きな手で()でつけております。ドワーフの姿が一変し、いまはそれなりに身形(みなり)の整いました老貴族がそこにおりました。

「ささ、先生。参りましょう」

 クロス氏は先頭に立ちまして、道の奥へと進んで行きます。路地裏の奥まで進んで行きますと、そこは行き止まりになっておりまして、右にも左にも行ける道などございません。ただそこには、ゴミ捨て場と木の扉があるのです。

「よお、旦那。お客だぜ」

 クロス氏が扉を開けて中に入って行きますので、わたくしもそのあとに続きました。そこはちょうど表通りに面したレストランの裏口でございまして、クロス氏と話をするときはいつもここからお邪魔させていただくのです。ここはちょうど厨房の裏手になっておりまして、厨房とは扉一枚で仕切られております。そこにはテーブルが一つ用意されておりまして、話をしながら食事をすることができるのです。ここで話した内容は店のほうには全く聞こえないという造りになっておりますから、わたくしたちは何の気兼(きが)ねなく話をすることができるというわけです。

「ところで先生」料理が運ばれて参りましたところで、クロス氏がわたくしに訊ねます、「あの男に掴ませたあれは、一体なんですか?」

「なんでもありません。偽物の手形です。見慣れない方には違いがわからないかもしれませんが、銀行に出せば人目でわかるでしょう」

 クロス氏は笑い声を上げました。

「そいつはいい。そりゃ、傑作でさあ。あの三流詐欺師め、いまごろ役所に突き出されてますよ。あいつの泣き顔を拝んでやりたかった。ああ、実に惜しいことをしたものだ」

 最初はそんな他愛のない会話だけで食事を進めておりましたが、わたくしはとうとう決心致しまして、クロス氏に話を持ちかけることにしたのです。

「わたくしのお話を聞いていただけないでしょうか?」

「もちろんですよ」クロス氏はナプキンで口の周りを(ぬぐ)いまして答えるのです、「そのために、先生はわざわざこんな場所までいらっしゃったんですから。どうぞどうぞ、何でも話してください、先生。わしなんかでよろしかったら、なんでも聞きますから。先生のお役にたてれば、それが何よりです」

 クロス氏の大きな笑顔を目の前に致しまして、わたくしはこの方の偉大さに改めて目が(くら)みそうになりました。

「あなたほどのお方が路地裏で乞食(まが)いのことをしておられるというのは、わたくしには驚きです。少しお話しただけでも、あなたの教養の深さには感服致します。あらゆる時代に精通し、あらゆる芸術を知り尽くし、あらゆる学問を習得され、国内外問わずに政治や外交の問題に適切な答えを見出されておられる。そんなあなたが、人目につかない路地裏で一生を送られるとは、なんとも惜しい話でございます」

「それを言ったら、先生。あなたも同じくらいの変わり者だ」クロス氏は笑って答えます、「人の噂に聞くところによれば、先生の論文は多くの大学に回ってるらしいじゃありませんか。結構な教授様のお眼鏡にかなっているそうですし、先生なら、いまでも充分学長の椅子に座れますよ」

 わたくしは首を振ります。

「どうもわたくしは、社会の枠組みには合っていないような気が致します」

 わたくしはクロス氏の前では、心の内を全て吐き出すことができます。この方の前では、わたくしの隠しごとなどとても小さな、それこそ宇宙から見たわたくしのように、些細なことのように思えるのです。

「社会とわたくしの追求するものには、どこかズレがあるのです。それは空気から放たれた光が泉の中では屈折を起こしますように、世間とわたくしの前には目には見えない大きな境があるようなのです。おそらく、社会の見ているものとわたくしが見ているものには、それほど大きな差異はないのでしょう。しかしながら、社会が求めているものとわたくしが追求しようとしているものとの間には、到底交われない反発力のようなものが働いているのです。わたくしにはその壁を打ち破るだけの力はございませんし、社会と意識の疎通を図ろうなどということは、それこそ、考えてさえもいないのです」

 クロス氏はわたくしの告白を笑うでもなく真面目に聞いてくださいまして、神父のごとく寛大に頷くのです。

「世界なんてものは、そんなものです」クロス氏は答えてくれるのです、「世界というものは、どこへ行ったところで平等に働くものです。世界はそこに存在するだけで、人間や他の動物たちには何の意味も持ってはいません。嵐が起ころうと、津波が起ころうと、飢饉(ききん)になったところで、世界にとってはその事実しか残らないで、生き物がそれで死んだところで、世界には何の責任もありはしないのです。人が社会と呼ぶもの、ところが人の視点から見たときには社会という構造体になって、ここでは世界とは少しばかり意味が違います。と言いますか、人が見るもの、見出した意味というものはそっくり社会という構築物になって作用し出すのです。社会とは、すなわち人の視点が関係するために意味を持った塊になってくるのですが、しかしながらそこに統一性を見出すのは強引なやり口でしかありません。つまり、社会とは個々の人間からの寄せ集まりでしかないので、その存在は一つでありながら社会を構成する観測者があまりにも多いので、決して固有のものとしてまとまることはないのです。特に、自然法則ならばある一定の帰結があり、自然摂理にはその意味の多様性が見られると()く学者様もおられるでしょう。しかし、実際にはそういった人はまだまだ思慮が足りず、つまり自然法則とか自然摂理というもの云々(うんぬん)以前に、観測者たる人間の視点を考慮する必要があるのです。人間という種は、種族という面で統一的に扱われますが、決してその意思は一つの元にあるわけではないことをここで述べておきましょう。種の存続はどの生命体にとっても必至の事実であり、全ては存在たるところから始まるのです。となれば、どんな生命体もその存続のためには力を欲して止まないのは自明の事柄でしょう。現在の貴族社会や皇帝陛下を中心とした支配体制は、その事実を証明する良い素材となりましょう。それがために、人々は勇者たり策士たり権力者たるのです。どの生物でさえも厳密なところでは異なる存在であるから、個々が存在するのだから、社会と公正に交じり合える存在なんてものは最初から皆無(かいむ)で、平等とか仲間意識なんてものは詐欺師の語る詭弁(きべん)でしかないのです。だから、先生がそんなものに惑わされる必要はないし、また気に病むにも及ばないのです」

 食事の間に、わたくしはクロス氏と様々な哲学について語り合いました。それはこの社会に身を置いたままでは到底叶うことのない、精神の(たしな)みでございました。そんなわたくしの話に、クロス氏は確固たる哲学と思想をもちまして、淀みなく答えてくれるのです。わたくしの甘え心も、ついに糸が切れたのです。

「実はですね。わたくしに女性のお相手ができたのです」

 クロス氏は笑うことも驚くこともなく、わたくしの言葉の一つ一つを真剣に聞いてくださいました。

「運命の悪戯(いたずら)というものを、ここまで直感したことはありません。わたくしにとって社会の機構は、わたくしの哲学的思考には何の影響もないものでございました。だからこそわたくしは、社会とは切り離れた生活を送っておりましたというのに、稀有(けう)な出会いとはあるものでして、わたくしはその方と約束を交わしました。しかしながら、わたくしの描きました世界の秩序が正しければ、わたくしはいずれ自然さえも破壊してしまうでしょう」

 わたくしのたったこれだけの告白ではございましたが、この老貴族の理解には充分すぎるほどでした。

「先生の思うとおりにやったらよろしい。先生は大変思慮深いお方だ。先生がそこまでの結論を導き出すには、随分と時間をかけたはずでしょうし、それはとても貴重なものだ。それでも、先生がわしなんかに会いにやって来たのは、御自分の決心を確かめるためでしょう。わしから一つ忠告できることがあるとすれば、決して迷ってはいけないということです。先生は御自身の決心に揺るぎがないはずですが、ほんの少しでもその行動に躊躇(ためら)ってはいけないのです。人との論議の場において意見が変わることがございますが、それは決して迷ったがために生じたわけではなく、他人の意見を御自身のものとして獲得なさった結果なのです。だから、決して恥じることも躊躇うこともないのですが、迷いだけはいけません。決断を迷うということは、御自身を疑うことに他なりません。この世界で生きていくのに最低限必要なことは、御自身をしっかりと保っていることです。他者の勢力が絶対的に存在する社会において、自己の存続は最終的には御自身にしかよらないのです。どんな結末であれ、どんな思いから御決断なされたであれ、御自身を疑ってはなりませんぞ」

 このぼろを纏いました聖人は、言葉短くにわたくしの告白に助言してくださったのです。彼がそれほどに淡白な物言いしか致しませんのは、ひとえに、クロス氏にはわたくしの心の内がよくよく見て取れたからなのです。ああ、その通りです。わたくしの決心は少しも揺らぐことなく、どんなものの影響力を以てしても、この強固な岩石を打ち砕けようものなど存在しないのです。それどころか、彼はわたくしの欠点すらも見抜いておられたのです。それこそが、彼と交わす最後の言葉になるというクロス氏の発言に、わたくしはしかし冷静にその意味を胸の内に秘めるのです。クロス氏はもはや、わたくしの肉体と精神がこの世のものとはならないことを感じ取っておられるのです。クロス氏はわたくしが店を出るときになりまして、次のような言葉をわたくしに送ってくれたのです。

「どちらに転んだにせよ、先生はもうわしなんかとは二度とお会いにならないでしょう。その代わりに、先生はもう一度決断を迫られるときがきます。そのときは、より確実な結末を選んだがよろしいでしょう。わしから先生に申し上げられることはここまでですよ。これ以上は、わしが関わることではないのです」


 あたしがいまから会いにいこうとしているミッシェル・リングミルという女性について、少しばかりお話しておきましょう。ミッシェルは、年の頃三十と六年を過ぎて、肌は若さの全盛期を残した張りと(うるお)いに包まれ、つい目がいってしまうほどの美しさを放っております。髪は栗色で、(きぬ)のような柔らかさと星屑(ほしくず)のように光輝くさまは、美の女神に愛された天使のようです。白い頬はいつも薄桃色に上気して、鼻先は(つつ)ましく、瞳はサファイアのように(きらめ)いていて、時折見せるはにかんだ笑顔がなんともあたしの気をそそるのです。性格は世の女性の上品さをさらに内気なものにしてしまったがために、近頃の女性たちには珍しく引っ込み思案で内向的なところばかりが目につきます。その性格が(わざわ)いしてか、貴公子とのお付き合いどころか女性の友達も数少ないと話していました。けれども、あたしが話し相手になってからは様々な表情を見せてくれるものだから、あたしもついつい熱が入ってしまうのです。そんなあたしの可愛い子ちゃんは、ミービル通りの奥にある国立図書館の館長を勤めているのだから、たいした努力家だということが皆様にもわかっていただけることでしょう。三十代という若さで一つの図書館の(おさ)を勤められるのは、彼女の立場やら地位やらは関係なくて、ひとえに彼女自身の才覚によるものだということを最初にお話しておきます。

 馬車はミッシェルが勤める図書館の前に止まり、あたしは彼女の言いつけ通り裏にある職員用の扉から中へと入りました。

「御免ください。ミッシェルはどちらかしら」

 お返事は誰からもいただけませんでした。事務的な部屋の中は、書類やら何やらが机の上に山と積まれていて、それ以外に人の姿など見つけられません。あたしは部屋の中へと入っていって、山積みにされた本の一角に歩み寄りました。本の影から覗いて見ますと、そこにいたのは、まあ、なんとあたしが目的にしていたミッシェルでした。彼女は本に囲まれながらじっと一冊の本を眺めておりました。とても古い本なのか、あちこちが(いた)んでいて、文字もいまのものより大分崩れているせいで、あたしには何が書いてあるのかちっともわかりません。

「ミッシェル」

 再三の呼びかけにも関わらず、ミッシェルは少しも振り向いてくれません。仕事熱心な彼女は本を見ている間、周りのことに気付かないのです。地震が起きても火事になってもこのままなのではないかと思えてしまうほどですが、あたしはミッシェルの弱点を知っておりますので、それを試してみることにしました。脇の下を軽く()でてあげると、ミッシェルは驚いたように椅子の上で跳ね上がりました。

「なんなの。一体なんなの」

 狼狽(ろうばい)する友達に、あたしはそっと声をかけてあげます。

「あたしよ、お友達」

 あたしのことにようやく気がついて、ミッシェルは安心したように息を吐きました。

「まあ、あなただったの、マリス。脅かさないでよ」

「あなたがちっとも返事してくれないのが悪いのだわ」

「それはそうだけど。仕方ないでしょう。本を読むのに夢中だったんだから」

「それは何の本なの」

 あたしが指差すと、ミッシェルは大事そうにその本を手に取りました。

「これは聖騎士時代の貴重な本なの」

 聖騎士時代と言えば、いまから千年以上も昔の話になります。当時は各国の宗教の違いから争いごとが絶えず、我が国でも聖騎士と呼ばれる教会お抱えの騎士たちが、自分たちの宗派の正当性を主張するために各地で戦争を繰り返すという、そんな時代でした。当時の騎士たちの名残は、皇帝陛下に仕える身としていまでも残っております。

「著者はエルド・ラダールという人よ。あなたは聞いたことないかしら。ドゥンバラの民が信仰していたドゥードゥ教について、我が国民でありながら数々の書物を残した異端の信徒(しんと)よ。けれどね、学術の世界でさえも裏切り者やら異教徒の名で呼ばれているラダールだけど、わたしはこの方の著書を気に入っているの。ラダールの書は、今ではほとんど数が残っていなくて、しかも本の扱いも雑なものが多いから、こんなものでも大変貴重な一冊なのよ。一般の人たちへの閲覧(えつらん)も規制がかかっているせいで、知っている人も少ないでしょうね。だから、あたしぐらいしか彼の本の修復をしている人なんていないの」

 ミッシェルがあまりに良く喋るものだから、あたしは途中で彼女の話を(さえぎ)りました。このままいったら、ミッシェルは夕方の鐘が聞こえるまで、永遠と話を止めそうにないのですもの。

「ねえ、お話は外でしないかしら。道の真ん中で馬車を待たせているの。もう仕事は済んでいて?」

「あら、ごめんなさい」

 ミッシェルは恥ずかしそうに顔を上気させて(うつむ)きました。この表情がまた一段とあたしの気をそそるのです。

「すぐ行くから、外で待っていてちょうだい」

「いいえ、だめよ。あなたったらちょっと目を離すとすぐ本に夢中になっちゃうんだから。今日はあたしのことを見てくれなくちゃ」

 あたしはミッシェルの手を掴んで彼女を外へと連れ出しました。慌てた彼女が(かろ)うじて手に持ったのはコートとバッグだけでした。馬車に連れ込んでからしばらくミッシェルは本の片づけができなかったことであたしに文句を言いましたが、持ってきた花束を差し出すとすぐに機嫌を良くするのです。あたしたちはティー・タイムを愉しむために、一軒のカフェに立ち寄ってしばらくくつろぐことにしました。テラスには多くの人たちが仕事の疲れを(いや)すために一息ついていて、あたしたちもその中に混じることにしました。

「ねえ、さっきの本の続きを話してくれない」

 アップルティーをいただきながらあたしが話しかけますと、ミッシェルは嬉しそうに頬を上気させました。そんな彼女の無防備さに、ついついいけない考えが頭の中に浮かんでしまって、あたしはミッシェルに気づかれないよう取り繕うのに苦労しました。

「さっきの本は最近わたしが図書館の貯蔵庫から見つけた本で、解読作業は半分もいっていないんだけど、それでもラダールらしい思想が顕著(けんちょ)に見られるわね。ラダールは異国の聖書から神の性質を読み取って、そこから人間というものを分析しようとした哲学者なの。けれどそれがために、同国民からは異教徒びいきだと弾圧されて、いまでもその名残は少しも消えていないの。けれど、彼の理論は冷静な洞察眼をもって成されていて、その論理はどの時代に生きても通じるところがあるのよ。ドゥードゥ教の神は信者に対して牛を食すことを禁忌(きんき)としてこれを制限していたけれど、我々の宗教においても食事のときには必ずパンを出して食後のデザートの時間を欠かしてはいないでしょう。でもその行動原理は少しも合致せず、むしろ人間の精神としては相反するところを帯びているとラダールは指摘しているの。そもそも宗教というものはどこから生じたかということから議論を始めましょう。

「聖書においてこれら宗教というものは神の言葉から伝えられて、それを過去の偉人すなわち預言者(よげんしゃ)が皆々に伝え歩いたものをその弟子たちが本としてまとめ上げたものだとされているわ。けれど、これは本当に正しい流れを示していることかしら?あなたほどの冷静な判断力をお持ちの人ならわかるでしょうけれど、歴史として残っている事柄は必ずしも真実を語っているとは限らないのだわ。神話の世界で神様は多く、わたしたちの世界にお力を授けていらっしゃるけれど、わたしたちは天使や悪魔の存在をこの目で見たことがあったでしょうか。もちろん、一度でも見たことがないから信じられないというのならば、わたしたちは過去の芸術家たちや科学者たちのことさえも信じられなくなってしまうけれど、だからといって空を支える神様や、はたまた魂を狩りに来る悪魔の存在を、わたしたちはどうやって信じることができるのでしょうか。現在の科学をよくよく熟知した人ならば、そんな迷信は端から言及するまでもない論議にすぎないのに、いまでさえもその無知から抜け出せない偉大なる学者は数多くいるのだから、呆れてしまうわ。あなただって知っているでしょう。空は空気の延長の上に乗っかっているものであって、そこに境界があるように見えるのは単に光の関係のせいであるのだし、魂なんてものは、そもそも存在すること自体を定義するには矛盾が多すぎるわ。つまり、ここでは魂という人の精神活動をする物質を仮定した場合に、それでは人間の肉体というものはどういう機能を備えもっているのか、とりあえず魂が空気のように見えないものとするならば、肉体はそれを閉じ込める袋か器のようなものであると言えるわね。さあ、そこまではいいとして、それでは結局のところ、魂とはいかなるものでしょうか。人間そのものを表す、肉体とは別な存在かしら。肉体が滅んだ瞬間に、魂はもはやこの世界に関与できないということは、誰もが知っていることでしょう。それは、心身深い方々でさえも例外ではないはずよ。輪廻転生だとか天国や地獄の話を、彼らは信じてやまないのだから。だったら、ねえ、そうであるとして、つまり魂はこの世界に関わることを失って、次の生か、あるいは魂だけの国に行ってしまうとしたら、そこから先のことを考えることは、ただ仮定に仮定を重ねるだけでしかないはずよ。だって、そうでしょう、過去の応報、ここでは魂の立場から見た生きていた頃の自身だけれど、そんなものは、彼らがどうこうできるものではないでしょう。だって、わたしたちは前世の自分なんてものを知ることがないのですもの。いまの自分が過去の因果などと言われても、それはわたしたちがどうこうできるものじゃないわ。ああ、そういうものにつけこんで、祈祷や御布施を求める輩はいるけど、そんなものに頼るなんて、いまの自分の命を蔑ろにしているだけなの。過去だとか、いいえ、ここでは前世かしら、あるいは魂とか、もっと言ってしまえば神様という、曖昧な仮定に縋るのは、ただ現実から目を背けているだけでしかないの。

「これで古代思想における神様や悪魔や霊魂の理論を否定したけれど、ここまで来て満足してしまったら世界の扉を隙間から覗いたくらいでしかないの。哲学者と呼ばれる人たちにとって、ここまでの議論は序論くらいにしかならなくて、いま話をしようとしているラダールはこれら神話、歴史、あるいは迷信でもいいけれど、その発生原理に人間の視点というものを考慮に入れているの。どんな書物や言い伝えというものも、まずは最初に伝えた人間の存在が予想されるでしょう。どんな物語にも人の性質というものが隠されていて、ラダールは神の言葉とされる宗教には人の精神が色濃く反映されていることを見抜いていて、すなわち神とは人のことを指しているのだという結論を公衆の面前で発表したがために、磔刑(たっけい)に処されたという話よ。彼の言うように、聖書でさえも人の手が加えられているのは自明というべきなのだから、そこに人間の性質や思考が入っていても何ら疑うところはないでしょう。ここで宗教の話に戻るけれど、では我が国の宗教と異国の神とではどれほどの違いがあるのか、ちょっと議論してみるわね。ドゥードゥ教における牛を食すことを禁じている事実を、実際のお国柄を見れば一目で頷けるはずだわ。ドゥンバラでは狩猟よりも農業が盛んで、人々は肉よりも木の実や植物を好んで食するのだけれど、田畑を耕す労働力として牛や馬を起用している歴史があるの。そういった生活習慣を持つドゥンバラの民からすれば、牛は友であり、家族であり、仲間であるのだから、殺して食べることは人肉を食すような行為であると見なされて禁じられていると考えることができるわ。つまり、ドゥードゥ教は自分たちの生活を維持するための教訓じみたものだということが言えるのね。一方で、わたしたちの宗教について見てみると、パンを食べてデザートの時間を設けることは何の不思議もないことのようだけれど、視線を農民階級に下げてみると、驚くべき違いが存在することにわたしたちは気付くのよ。農民や商人たちのような人たちが食するパンは、貴族のそれとは違って大変固くて、はっきり言ってしまえば美味とは程遠い食感を得ることでしょう。パンとはとても呼べない代物だわ。そこから、パンとは貴族の口にするもの、まっとうな人間の食べるものだと主張する貴族様もいらっしゃるけれど、要するに、底辺階級の人たちを見下すための口実ではないかしら。同じ人間でありながら、けれどもわたしたちの中には貴族とその他を区別している節が存在しているの。デザートの時間についても、農民を抱えている貴族がまず彼らに命じることは食事の時間の制限なのよ。彼らに与えられるのは固い石みたいなパンと、ほとんど水でできたような薄いスープだけで、わたしたちが守っている食事の順番なんてものは存在しないし、だからデザートをゆっくりと愉しむ時間さえ与えられないんだわ。我が国で人々は等しく宗教に服していると誰もが答えるでしょうけれど、これほどまでの差別はどう説明できるというのかしら。我が国の宗教では、神様は人々に人間らしい生活を聖書の中で教えていると説いているけれど、つまりそれは貴族の優等性のみをひけらかした自己擁護(ようご)でしかないことにすぐに気づくでしょう。時に、我が国の宗教の預言者は農民の生まれだと言われているけれど、ならば彼は貴族の生活に憧れてそのようなことを民衆に言って聞かせたのだと考えられないかしら。だとするならば、随分と欲の深い方だったと言えるのではないかしら。我々の宗教と呼ばれているものは、結果的に差別の奨励(しょうれい)と格差社会への妥当性を説いたもので、それから見れば、蛮族(ばんぞく)と呼ばれたドゥンバラの神のほうがよっぽど誠実な方だったのではないかしら。聖騎士戦争において、我が国では異国の野蛮さをもって正義を(かか)げていたけれど、それを証明立てる根拠は一体どこにあるというのでしょう。ラダールの冷静な分析によれば、裕福な民というものはその完全性を愛して止まず、つまりそれが支配とか侵略に繋がるのであれば、人々は冷静になって異文化に学ぶべきであるという意見の持ち主なのね」

 ミッシェルは熱心な信徒ではありましたが、神の存在や奇跡と呼ばれる伝承を信じているわけではありませんでした。彼女にとっての宗教とは、あくまで心の支えや人間分析に役立てる理知的な面を重視しておりましたので、しばしば異教徒よりの発言をすることがありました。しかしそれは、彼女の中では少しも矛盾したところがなく、ミッシェルはそこから宗教の本質、人間の性質というものを研究することに重点をおいているのです。

「確かにその通りね」あたしは彼女に答えました、「人間は進化の歴史の中で最盛期の時代を獲得しているとか、人は神を模して作られたからこそ最高の種だとか言う人は数多くいるけれども、結局のところ人も生物からの派生物に過ぎないということを人は見落としているのだわ」

「そうね」ミッシェルが言いました、「人もやはり自分の欲望とか、優秀さとかに溺れていたいものなのだけれど、それを神という名に押し付けて語らせるのはナンセンスではないかしら。自己が望むものや願いというものは本人が責任を持つものであるはずだし、他者に委ねてはならないものと決まっているはずなのよ」

 ミッシェルは引っ込み思案な性格ではあるけれども、努力家で責任感の強いところがあります。人から言われたことならすぐ断るようなことはしませんけれど、他人が無責任だったり怠惰(たいだ)だったりするところを見るにつけて、静かに不満を(つの)らせるのです。その献身的な姿勢に、あたしはついつい心をくすぐられて、そっと手を伸ばしたくなってしまうのです。


 屋敷に帰りますと、門の前で執事が一人で立っているのを見つけて、あたしはついにこのときが来たのかと胸を高鳴らせました。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 あたしは馬車から降りて執事に部屋まで案内させました。二階の、昔は子ども部屋に使われていたお部屋も、今ではあたしの大切な一間となっています。部屋の扉を開けた途端に()せ返るような濃い御香の香りがして、部屋の中は紫や緑の煙で一杯になっていて、すぐ目の前でさえも(かす)んで見えません。

「準備は済んでいて?」

 あたしが大声で叫ぶと、部屋の奥から屈強な男が一人現れました。男らしい頑丈な肉体の上に血で汚れた衣服を纏って、頭には顔をすっぽり覆い隠してしまう布を被っています。

「これはこれは、お嬢様。お待ちしておりました」

 (うやうや)しく(ひざまず)く男に、あたしはさらに訊ねます。

「準備は済んでいるの?」

「はい。お嬢様のご期待通りに」

 男の後について部屋の奥へと進んでいくと、中にはさらに五人の男たちが同じ恰好で待ち構えていました。その中心には男だらけの空気にはそぐわず、一人の少女が部屋の真ん中に座り込んでいます。一輪の薔薇は、何ものにも覆い隠されることなく、その美しい肢体(したい)をあたしの前に曝してくれるのです。女は、両手両足を頑丈な革の縄で縛られていて、目と口はともに布で覆い隠されています。光を奪われて、何を訴えることもできない女が感じ取れるものは、部屋中に充満した強い御香の匂いと、男たちの荒っぽい言葉遣いだけなのです。あたしは男たちに命じて両手両足の拘束具を外して、代わりに両手を背中側で結んでしまって、首には首輪をつけて鎖で引っ張れるようにしました。

「それでは連れて来てちょうだい」

 男たちにどやされて、女は無理矢理城の中を歩かされます。最初はおっかなびっくり歩いて悲鳴を上げていましたが、男たちの怒声に(おび)えて、途中からはくぐもった声を布の隙間から漏らすばかりです。さて、一階に下りて外へ出ると、あたしは門の前で男たちから鎖を受け取りました。暗がりの中で、あたしはよくよく女の肢体を観察しました。まだ幼さの残る体は白く引き締まって、爪先から太股、女性特有の丸みを帯びた腰づき、痩せぎみの脇腹、しなやかな腕、首筋に至るまで全てが滑らかに繋がって、女神の周りを飛び交う愛の妖精のように美しい肉体を持っているのです。

「御苦労だったわ。あたしが戻るまでに部屋を綺麗にしておくのよ」

「かしこまりました。お嬢様」

 男たちを下がらせて、あたしは女を引き連れて庭園を通り過ぎ、夜の森の中へと入って行きます。木々の深い森の中には星たちの光さえも届かず、辺りは闇に包まれていました。あたしはまだ夜目が()いていましたが、両目を塞がれた彼女には自分がいまどこを歩かされているのかもわからず、閉ざされた口からは荒い息遣いばかりが聞こえてきます。恐怖に震える声をいつまでも聞いていたかったのですが、彼女とお話することなしにお散歩を終えてしまうのはあまりにも味気がありませんので、あたしは森の中ほどまで着いたところで彼女の口から布切れを解いてしまいました。

「御機嫌よう、お嬢さん」

 彼女の声があたしの耳を心地よくくすぐっていきます。恐怖に染まりながらもなんとか己を律して、彼女はあたしに訊ねました。

「あなたは誰ですか?」

「人のことを訊ねるときは、まずご自分のことを明かすのが礼儀ではございませんこと?」

 あたしの挑発をどのように受け取ったのか、彼女は貴族(しか)りといった、あの気品高くも傲慢(ごうまん)ちきな物言いでわたくしに向かって答えました。

「わたしはベルサックの領主ルーグ・マミューが長女、イータ・マミューです。わたしにこのような狼藉(ろうぜき)を働いて、一体どうしようというのですか?」

 あたしは内心で笑っておりました。女というものは自分の身分を思い出すや、それを利用しようとしてこのように公然と自己の権利を主張するのだから、おかしなものです。いまの彼女も自分自身の置かれている状況というものをよくよく吟味(ぎんみ)すれば、ここまであたしの思い通りに動かないで済むというものなのに。

「欲張りな子ね。一度にいくつも質問するもんじゃないわ」

 あたしが少し強い口調で言ってやりますと、この憐れな女は顔を(あお)くさせてガタガタと震え出しました。その様子があまりにもおかしかったので、あたしは優しい声で囁きかけます。

「そんなに怖がらなくていいわ。そうね。まずは何が知りたいのか、具体的にお話してもらえないかしら。曖昧(あいまい)な言葉では真実を見抜くことなんてできないものよ」

 イータはまだいくばくかの疑心に(とら)われているようでしたが、しかし何もわからない不安な気持ちまで覆い隠すことは到底できませんでした。修道院で暮らしていたこの聡明な女は、再びあたしに問いかけるのです。

「あなたは誰ですか?」

 あたしは意地悪っぽく答えました。

「あたしの名前を知ったところで、いまのあなたに何が知れるというの?もう少しお利口になりなさい。折角お父様の御配慮で修道院に入ったというのに、そんなことでは時間とお金の無駄遣いでしかないのよ」

 あたしは目を(ふさ)がれた彼女に言いました。

「いいこと。物事の本質を見抜くのに、名前なんてものは何の意味も持たないのよ。あなたはきっと、神の言葉を一つ一つ暗唱(あんしょう)するように教え込まれてきたのだろうけれど、いまからはそんな馬鹿げたことは全て捨て去って、自然の流れにだけ耳を傾けるがいいわ。そして、常にそこに自分を置くことね。世界には、結局のところ自分か他人かしかなくて、最後には自分にしか()り所がないのだから、自分がしっかりしておかなければ、他人にいいように(もてあそ)ばれてしまうのよ。それは、あなたもお嫌でしょう。だから、あなたはすぐにでも神様のことなんて忘れておしまいなさい。そうすればあなたは、もっと純粋に自然というものを見ることができるのよ」

「なんて恐ろしい!」この信仰深い女は叫びました、「それは神への冒涜(ぼうとく)です。悪魔の行いです。神様はいつでもわたしを見てくださって、きっといつの日かわたしをこの苦しみから救ってくださいます。神は、常に正しい行いをするものに祝福を与えてくださり、辛いときでも欠かさず祈りを捧げれば、必ず神のお耳に届くのです。あなたのような背徳者は、きっと神の裁きを受けることでしょう」

「あなたの言っていることは少しも筋が通っていないわ」あたしは目の見えない女に言って聞かせます、「もしもこの世界に神様なんていう全知全能な存在がいたとして、どうして世界には異なる存在があるのかしら。階級的な話もいいけれど、あなたには男と女についてお話しましょう。神が完全で不可能なんてものを持ち合わせていないものであったなら、そんな神様ならきっと世界は完全なものを目指されたでしょう。世界が完全な形を保っていられるならば、この世界の理も完全で、不純なものなんて必要ないことでしょう。けれども、この世界というものをよく見て御覧なさい。この世界が継続して存在するには、どんな生命だって男女の交わりが不可欠なのよ。それは太古の昔から獣のように受け継がれてきた野生の血であることは、あなただって知っているでしょう。とても不合理だとは思わないかしら。わざわざ種を存続させるのに、他者の力を借りなければならないなんて。この世界では自己と他者という隔絶した存在があるのに、結局のところ人類という大きな枠で捉えたときに、その継承には他者を求めることが必然となってしまうのよ。それならば、アメーバのように単独で種を残せるもののほうがよっぽど神に近いと言えるのではないかしら。

「そうすると、あなたは人の社会というものは助け合いの上に成り立っているというかもしれないわ。けれどね、そんなものは考えるまでもない作り物だということは、すぐにわかることなのよ。人間とは本来、他人なんて助けてはくれない生き物なのよ。生物にとって一番必要なことは自分自身が生きていることで、自己の存続のためにしか働かないの。だから、自己と他者というわけ方をしたけれど、結局のところ人の世には自分しかいないという考え方のほうが健全というものだわ。他人の存在を考慮したところで、自己の生には何の影響もないのだから、他からの救いなんて考えるだけ馬鹿を見るというものよ。あなたが町で乞食を見かけたときに、あなたはきっと憐れみで見るのではなくて侮蔑(ぶべつ)で見ることでしょうね。人が最初に抱く感情は、他人への善意ではなくて、自己の満足なのだからね。そのために、他者を(おとし)めて自己を優秀と見るのは、人間の持つ自然な行いだわ。だから、もしもあなたのいう神様なんてものがあったとしても、こんな世界を(つく)る神様なんだから、当然のことだけど無慈悲なお方に決まっているのよ。だから、そんなものに祈ることなんて止めてしまいなさい。祈りなんてしても誰も救ってはくれないし、何より自己満足の塊だわ」

 あたしはこの女の前ですっかり持論を曝け出してしまうと、イータはその場に泣き崩れました。この信仰熱心な女の心をいかに背信の精神が貫いてくれたでしょうか、それを思えばあたしの快楽は最大の高みへと辿り着くのです。イータは涙を流しながら言うのです。

「ああ、あなたはなんてことを仰るのでしょうか。尊い神に対してそんなにも汚らしい言葉を言うなんて。けれど安心してくださいませ。神はどんな人にでも改心の機会をお与えになるのです。わたしの祈りがついに天に届いて、わたしがこの苦しみから解き放たれれば、いかにあなたのようなお人であっても、神の御心の深さに感服するに決まっているのです。どんなに過ちを犯しても、神の前では遅すぎることは決してないのです」

 盲目なまでに神を熱愛している宗教家というものは、聖書以外に救いというものを見出さないもので、正しく自然を見出せなくても平気な顔でいられるものです。ここまで頑迷な信者に対しては、もう充分に彼女の信仰を蹂躙(じゅうりん)してやったのだから、あたしは次に彼女自身の精神に対して魔の手を差し伸べることにしました。

「あなたが神様に救いを求めるのは勝手だけれど、一体何から助けてもらうのかわかっているの?ご自分がどこへ向かっているのか、少しは考えてみたらどうかしら」

 そう言ってやると、イータは途端に顔を蒼くして、その高潔(こうけつ)な仮面はすっかり吹き飛んでしまいました。両手を背中で縛られて、首輪から伸びた鎖で連れて行かれるという現実は、一体この女にどれほどの精神的苦痛を味わわせているのでしょうか。恐怖に震える姿は、実にあたしの気をそそるのです。一人の人間の生命の手綱を握っているというのは、なんという快楽でしょう。イータは震える声を無理矢理押し込めて、しかし彼女の気丈さはとうに(くじ)けているのです。その姿はまるで、死刑執行を言い渡される小人のそれです。

「あなたはこれからわたしをどうなさるおつもりですか?」

「もう少しお利口な質問の仕方を覚えたらいいわ。あたしには答える方法がいくつもあるけれど、どうやったらあなたはそれに満足してくれるのかしら」

 イータはなんとかあたしから答えを引き出そうと、黙々と考えを巡らせているようでした。しかしながら、いきなり本筋へと辿り着くにはそれ相応の準備が必要なもので、そのために彼女の口から出た言葉も、その辺りを(わきま)えたものでしがありませんでした。

「わたしはいま、外を歩いているのですか?」

「そうよ」

 あたしはさも当然とばかりに答えてやりました。薄暗い森の中で、イータの顔がみるみる赤くなっていくのがわかりました。あたしは彼女のそんな乙女らしい反応がおかしくて、つい笑い声を上げてしまいました。

「何をいまさら恥らっているの?さっきまでたくさんの殿方に、あなたの体を()めるように見られていたんじゃないの」

 あたしがからかってやりますと、イータの顔はさらに羞恥心(しゅうちしん)から上気して、彼女は上ずった声で叫びました。

「このような(はずかし)めを、あなたは人でなしです!」

 泣きながら訴える彼女の言葉を聞いて、あたしの心はいっそう昂ってしまって、歯止めが利かなくなってしまいます。だって、皆様。ご想像なさってください。怒りをたぎらせ、非難を叫んではいても、その声はちっともあたしには届かないのです。羞恥に体を赤く火照らせて、その身は恐怖で小さく震えているのです。こんな可愛らしいものを前にしてついつい遊び心を起こしてしまうというのは、仕方のないことでしょう。

「あら、当然だわ」

 あたしは冷静さをなんとか保って、持っていた鎖を強く引いてやりました。突然引っ張られたので彼女は前屈みに傾いて、あたしは遊び心から踏み止まろうとするその足を素早く払ってしまいました。憐れな女は両手を後ろ手に縛られているので、そのまま地面に倒れてしまいました。可愛らしい悲鳴を耳にして、あたしの体はぽおっと熱くなるのです。

「あらあら、みっともない。地面に這いつくばって、とても御令嬢のなさることとは思えませんわ」

 あたしは彼女の羞恥心を(あお)るように、恍惚(こうこつ)として笑い声を上げます。憐れな女は、苦しみに打ちのめされて地面に(うずくま)ったまま起き上がりません。あたしは彼女のすぐ傍にしゃがみこんで、彼女が(かな)でる鳴き声をよくよく堪能致します。

「どうしたのかしら。苦しいの?辛いの?あたしが恐ろしい?」

 一頻(ひとしき)り愉しんだ後で、あたしは力ずくでイータを起き上がらせました。彼女の体は枯葉や土で汚れてしまって、浮浪者のようにみすぼらしい恰好になってしまいました。その惨めな恰好を彼女に教えてやると、イータはもはや泣く以外のことをしませんでした。あたしはそんなイータの姿に満足しながら、さらに森の奥へと進んで行きました。この森の奥には泉があり、そのすぐ傍には人工的に作られた洞窟があるのです。かのブリュンヒルグ卿が作ったのでしょうこの洞窟を、あたしが見つけて中を少しばかり改造させたのです。

「さあ、行きましょう。階段があるから気をつけなさい。次に転んでも、あたしは助けてあげませんよ。そのまま引きずって行きますからね」

 あたしは怯える彼女には構わず、どんどんと階段を下りて行きます。洞窟の中から外に向かって冷たい風が吹いていて、そのたびにイータは恐怖に体をびくつかせるのです。階段を下りきったところで、一枚の扉があたしたちを待ち構えています。あたしは何の躊躇いもなくその扉を開けました。中からは、風に乗って美しい歌声が流れてくるのです。あたしはその歌声にさらに気分を良くして、軽い足取りで中へと入って行くのです。

「あら、質問はもうお終い?」

 イータの声がちっとも聞こえなくなってしまって、あたしは彼女に問いかけました。彼女の顔はすっかり蒼ざめていて、もはやあたしの声すら聞こえていないかのようでした。

「恐ろしくて声も出せませんか?」

 洞窟の中は、ちょっとした牢獄(ろうごく)のようになっていて、真っ直ぐ伸びた廊下の両脇には余すところなく牢屋が備え付けてあり、その中には空き部屋もありましたが、数多くの女たちが閉じ込められております。年齢は十代から三十代までの幅があり、どの女も一糸纏わず両手を縛られ、首輪から伸びた鎖を壁に結ばれています。彼女たちの口から漏れる声に意味などなく、悲鳴にも喘ぎ声にも聞こえる、なんとも美しい旋律を奏でるのです。

「美しい歌声でしょう。あなたもそうは思いませんか?」あたしはイータを引き寄せて、そっと囁きました、「人の感性を刺激するのは、真実でなければならないの。偽りや虚勢(きょせい)なんてものをかなぐり捨てて、そう、貴族という仮面やお家柄なんてお名前はすっかり奪い取られて、そこに現れたのはただ一人の人間でしかないという唯一の事実が、人と人との繋がりをより強固に結びつけてくれるのだわ。お飾りばかりつけたオペラ歌手なんかよりも、ありのままの自然や社会を描いた画家や評論家たちのほうがよっぽど美しく見えるものでしょう。人は知性という宝石を見つけてしまったばっかりに、本能という原石を胸の奥底にしまい込んでしまったのだから、これでは獣よりも(みじ)めだわ。だからね、あなた。人はより自分自身に忠実に、自然の精神に(のっと)って欲望のままに行動して快楽を(むさぼ)り尽くすのは、なにも不思議なことではないのよ。神に従うよりも、その神を縛り付けて足元に平伏させたいと思うほうが、よっぽど自然に従っていることだと言えるわ。いいえ、あたしは自然すらも縄で繋いで、その意思をあたしの顔色でしか動かないようにできたらどんなに素晴らしいことでしょうと、ずっとそんなことばかり想像するのよ。あなたにはまだわからないかしら、可愛い子ちゃん。人間の中で最も本能的な性質は苦楽、つまり快楽と苦痛なのよ。だからあなたも、もっと愉しんで喜びの声を上げなさい。この地下牢には未来と現在を失って、過去すらも闇に閉ざされて、ただただ悲鳴を上げるだけでしかない獣たちの恐怖の叫びで満ち溢れているのよ。こんな素敵な恐怖を聞かされたら、あたしはそれだけでも気をやりそうだわ」

 恍惚として語るあたしの話にも、彼女は返事をしてくれません。体全体を震わせて奥歯がかたかたと音を立てて、両目を塞いだ布からは涙が(こぼ)れて頬を濡らしています。彼女の心は、これ以上進むことはできないようです。

「お愉しみいただけないなら、それでも構いませんわ。あなたはあたしの気心をそそるから、ここに連れてこられただけですから。あなたには選択ができましたのよ。それでも、あなたは宗教だとか社会とか言う俗物に縛られた精神しか持ち合わせていなかったのですから、仕方のないことですわ。あなたには、薔薇の園を美しくする庭師の役を与えてあげましょう」

 恐怖に縛られた心を無理に()じ開けてしまえば、その精神は壊れてもはや魂も肉体も関係ありません。もちろん、心を粉々に砕いてしまって、肉体だけを弄ぶのも一等愉しいものですけれど、今宵のお嬢様の役目はそこまでには至りません。あたしは彼女を長くこの世に留めて、その様を遠くから垣間見ることにその美的性質を見出したのです。この憐れな女は、暗い恐怖の牢獄に繋がれたまま、もう二度と外の光を得ることは叶いません。


 修道院で神の教えに従っていた娘は、あたしの気紛れによって父親の手から奪い去られて、一生陽の目を見ることのない地下の牢獄に縛りつけられてしまいました。彼女のお役目は、あたしが通るたびに美しい歌声を奏でてくれるだけで、それ以外は無明(むみょう)の闇の中で定刻に差し出される食料を口にするだけです。牢屋は通路を覆うように設けてあり、女たちは壁に縛りつけておいて手も足も動かせません。彼女たちの口にはくつわが()められていて、そこには細い穴が開いています。くつわは外へと繋がっていて、時間になるとその(ひも)の中を流動食が流れるという仕組みになっていて、女たちはそこから毎日の食事を()っているのです。毎日召使たちには彼女たちの世話を任せてあるので、女たちが餓えて死んだり病気になったりというようなことはありません。彼女たちはいつでもあたしに美しい歌声を聞かせてくれて、あたしの気分を高めてくれるのです。

「ああ、なんて美しい歌声でしょう!」あたしは恍惚として叫びました、「恐怖に駆られた彼女たちの悲鳴は、あたしの頭を(とろ)けさせてくれるのよ。人間が平等でないことは誰しもが知っているのだから、気紛れこそが元来人間に宿っている正しい仕組みなのだから、あたしもあたしが信じるように気紛れと悪意に染まってやりましょう。ああ、素晴らしい!あたしが与えている全てが彼女たちの恐怖を煽り、彼女たちの悲鳴を聞くたびにあたしは彼女たちの苦しみを知ることができるのよ。美徳意識こそを誉れとしている愚鈍(ぐどん)な聖職者から神を奪い取ってしまって、苦行の(おり)の中に放り込んでしまう、生も死もあたしの手の内に転がっているなんて、これほどの快楽は他にあるかしら」

 あたしは女たちの通路から扉一枚隔てた、狭い小部屋におりました。その部屋の向こうにはすぐ扉がありまして、部屋と呼ぶよりは繋ぎ廊下のような役割を果たしているにすぎません。そこであたしは、身につけていた衣服を全て脱ぎ去ってしまい、部屋の隅に置かれた小瓶(こびん)の中から白粉(おしろい)を取り出して、体中に薄く塗りたくるのです。

 いよいよ準備が整って、あたしは次の部屋へと続く扉を開いて中へと入って行きました。中はたいそう暗いのですが、エメラルド色の妖しげな光がそこら中から漏れ出ていて、闇の中は美しい光に彩られているのです。微細な光は高さ三メートル、直径一メートルと半にもなる巨大なビーカーに満たされた液体から発せられています。そして、ああ、その中におりますのが、今宵あたしがここへと降り立った理由になるのです。洞窟の中に、ビーカーは二十以上も用意されておりますが、その半分ほどにはあたしが愛した殿方たちが解剖に使われた蛇やら蛙やらのように浮かんでいるのです。愛しき方々の肉体はビーカーの溶液にすっかり(ひた)っていて、特殊な溶液のために腐敗することはありません。あたしと等しく永遠を手にした彼らは、あたしのことをいつまでも想ってくれるのです。

「今晩は、愛しい人」

 あたしは一人一人の名を呼んで、永遠に刻まれた彼らとの歴史を語り合うのです。世界は時の流れの中で変化を起こしてしまい、その一瞬の輝きを留めておきたいと願ってはみても、変質の中では次第に色()せて、そして数々の巡り会わせが人の精神を歪めてしまうのです。彼らが(つちか)った精神、哲学的思考が、社会という枠組みに捕らわれているだけでも汚れていくのです。肉体なんてものは、その存在を認識するためだけの記号でしか過ぎないということを、一体どれほどの人たちが理解しているでしょうか。人間は他の動物たちとは違い、知性や感性を磨き、それを以って社会というものを築いたはずなのに、しかし人間という生命体である限り、肉体的性質に依存してしまうのはあまりにも愚直ではないかしら。種の存続というものは、自己の消滅を脳細胞の奥底に刻まれているがために行う恐怖の衝動で、もちろん恐怖とか快楽に従うことは美しく見えるけれど、恐怖や快楽というものに支配されてしまったら、結局人間は自然の意のままに動かされているだけでしかないのではないかしら。人間としての時間を失うということは、すなわち恐怖を操り快楽を振り撒く創造者としての精神が必要ということにはなりませんか。あるいは、恐怖や快楽を気紛れで与えることができる支配的、独占的素養を身につけることに他ならないのではないでしょうか。女たちを恐怖の渦に突き落として、男たちをあたしの快楽の手足として、あたしが愛する知識や精神を永遠にこの地下の楽園の中に閉じ込めてしまうことは、あたしの目的とする精神、この場合は世界そのものを創造することになるのです。あたしは永遠にこの箱庭から抜け出せない運命(さだめ)を背負いましたが、それが一体何の意味を持つというのでしょう。お爺様にとって、社会の上で踊っていられることがさぞや満足のいく人生と呼べるのでしょうが、人生なんてものに、一体どれほどの価値があるのでしょうか。人間という枠組みに捕らわれている限り、精神の働きや生命の営みという本質的な部分、感性のような共通の無意識に触れることは一生叶わないというのに。

「そうですよね?」

 あたしは、あたしが愛する知性と精神に問いかけます。命というもの、それはつまり魂やその器たる肉体という存在、そうここでは存在に、依存している限りでは人にとって永遠とは幻想どころか幻影でしかありません。聖書の言葉では輪廻転生のような、永遠を神から授かるという教えがありますが、どうして人は神に頼ろうとするのでしょう。()()は常に自分しかないということを、原生種のほうがよっぽど悟っているのに、人間はまず他者との関係から成り立たせようとするのです。社会という枠組みを主張するものにとって、他者との接点は渇望するところというわけですが、何よりもまずは自己を置かなければ、自身の存在すら危うくなってしまうのです。あたしはビーカーの前に立って、愛しい人を抱きしめて接吻(せっぷん)します。頭の中にはあらゆる空想や思想が渦をまいて、あたしの体を快楽に燃やしてくれるのです。愛おしく美しいものを全てあたしの中に取り込んでしまって、彼らの知識の独占者、暴君としてこの楽園を支配しているのです。あたしにとっても、そして彼らにとっても、生命というものには何の意味もありません。必要なものは追求する心、すなわち自然への探究心、精神活動にしかよらないのだから、あたしが彼らを手中に収めるのも彼らがあたしにその身を捧げてくれますのも、何の障害もないのです。生も死も無意味な自然の流れを知ってしまえば、あらゆる結末に意味などありません。あたしはあたしの気の向くまま、それこそ気紛れに生きて、あたしが愛する精神を残らず愛するが故に、独占の情に燃え上がるのです。

「愛していますわ」

 ビーカーの中から気泡が上がって、エメラルドの宝石はサイダーのように輝いています。永遠を手に入れたあたしたちは、楽園の創造主であり支配者なのです。この楽園に入り込めるものは、おそらく自然の精神に近づけたものでない限り不可能ではないでしょうか。皆様には見えていますでしょうか、この美しく広がる情景が。精神の中で意識を共有しているがために、肉体活動など何の意味も失った世界において、社会など取るに足らない糸屑でしかないのです。あたしの欲望が一段と燃え上がる一月は、このようにして幕を開けるのです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ