第二譚 紅雲薔薇庭園
鳥のさえずりで目が覚めてしまうと申しますと、どのように聞こえるものでございましょうか。実際には、空は粉を少しばかりはたいたように白く、まだ夜闇の風景がそこかしこに見受けられます時刻に、わたくしはいつも眠りから覚めてしまうのです。
「ああ、もう朝ですか」
一度目が覚めてしまえば、わたくしは今日一日の活動を始めますしか他ございません。わたくしの周りでは町に住み着いております鳥たちしか起きているものはいらっしゃらなくても、わたくしは部屋着に腕を通しまして朝の身支度を済ませますと、社会人になってから日課となっております朝の散歩へと出かけるのです。
「では行って参ります」
誰の返事もない部屋へと頭を下げましてから、わたくしは家の扉を閉めまして外へと出るのです。町は仄かに明るく、しかしそれは暗黒が藍色に染まりますほどで、まだまだ夜のそれと大差がございませんが、この微かな差異を見出すにつけまして、わたくしは今日一日の始まりを実感致します。太陽は未だ昇らない薄暗い道に人の姿はなく、店々も固くその扉を閉ざしております。しかし鳥の鳴き声はどこからか聞こえて参りまして、時折すずめたちが群をなして青みがかり始めました空を気持ち良さそうに飛び去っていくのです。
コートを身につけましたわたくしは、今日はどの道を進みましょうかと思案しながら歩いておりまして、気まぐれで向かい町との境界にございますランドメリーの川まで参りますことに致しました。ランドメリー橋まで参りますには歩いて半刻ほどの時間がかかるのですが、日課としております散歩には実にちょうどいい距離でございます。ギルミブル通りを過ぎまして、通りに並びます店々がなくなりますと、そこには昔ながらの家々が立ち並ぶのです。ここはちょうど農家や、貴族階級でも中級以下の方々がお住まいになられておりまして、昼間はとても雰囲気が良く、わたくしも手の空いております休日にはここまで足を運ぶことがございます。
さて静かな民家を通り過ぎますと、目の前には草原が広がりまして、煉瓦の道も途中で打ち切りになるのです。ここがちょうど向かい町との境界になりまして、あと十分ほど致しますればランドメリーが見えて参ります。石造りの小さな橋はどこかの絵師が描いてもおかしくないほどの様相がございまして、この穏やかな風景はわたくしの心をいつでも落ち着かせてくれるのです。橋の下を覗きますとまだ魚も眠っている時間なのでしょうか、水面には明ける前の空を映した藍色の景色が広がっているばかりです。
休憩がてらにしばらく橋の上から周囲の景色を眺めておりまして、わたくしはそろそろと帰路へと立ち戻るのです。わたくしの毎朝の散歩は習慣的に欠かさないのは変わりませんが、行く場所は日によって変わってしまうのです。今朝はランドメリーの川まで参りましたが、あるときは山のほうへ、あるときは町の広場までと、わたくしの足は気まぐれにその目的地を目指すのです。
家に着く頃になりますと、ようやく空が白く光り始めました。明るくなりました空の中をいくつもの鳥たちの影が飛び去って行きます。道の上には、どこからやって来たのでしょうか、茶色と黄土色のぶち猫が貴族さながらの優雅な足取りで歩いていくのです。その姿は、なんとも微笑ましいものがございます。
「ただいま帰りました」
我が家へと戻りまして、わたくしは帽子とコートを玄関近くのコートかけの上に引っかけますと、部屋の中へと入っていきます。
「お帰りなさいませ。御主人様」
部屋の奥から侍女のローヤが顔を出して礼を致します。
「朝食の準備が整っておりますが、いかが致しましょう」
わたくしは少しばかり思案しましてからローヤに返事を致します。
「一時間ほど自室で本を読んでからいただくことにします」
ローヤが恭しくわたくしに礼を致します。
「かしこまりました。ではその頃になりましたらお呼び致します」
「お願いします」
わたくしは自分の書斎に籠りますと、今朝の気分にふさわしい書物を本棚より選び取るのです。普段は散歩から帰って参りますとすぐに朝食をいただくのですが、時々わたくしは気まぐれを起こしまして、こうして自室にて読書を致しましてから食卓へと向かう日がございます。わたくしがプライベートで出かけますような日には、特に読書に耽ることがしばしばございます。今日のわたくしには外へ出かける用事がございます。そうです、わたくしにとってはとても大切な日なのです。
本棚から気に入りました本を一冊手に取りますと、わたくしは椅子に腰掛けまして本を開きます。わたくしが選びました本はザキ・デッドエル作『幸福の終わり』でございます。ザキの残しました作品は、小説と申しますよりは論説文と評するのが適切でございまして、彼なりの人生観、精神が余すことなく記されております。ザキの作品は数が少ないのですが、その中でもこの『幸福の終わり』は名著だとわたくしは考えているのです。ザキの評価は、まだまだ一般的ではございませんが、わたくしは彼の考え方や、強引でありながら決して姿勢を曲げない強い論説を愛しております。
幸福の定義というものを、人はどのように定めるものなのでございましょうか。ザキは疑心的な作品ばかりを残しております。裏切りの連続たる人生、その中で彼が見出しました幸福とは、自分自身でそれを勝ち取るということにございます。他人が自身のために何もしてはくださらない、あるいは自身の望みを他人が裏切ってしまうのであれば、自身も他人の期待に沿うようなことはする必要がないのではないでしょうか。元来人間は自身に忠実な生き物でございますから、他人のために生きる必要はないのです。自身を差し置きまして他人のために、他人の意向に沿って動くようなことは、全く馬鹿げたことでございまして、そのために自身を滅ぼすようなことになったところで、他人は自身に何の見返りもよこしてはくれないのです。幸福と呼ばれるものは、他人から奪い取ることでしか満たされえないものでございます。自身の欲望に忠実に生きまして、その欲望を満足させるために他人を利用致します、すなわち、他人というものは自身の幸福を汲みだすための一つの装置なのです。装置は使うものでございまして、決して使われるものではございません。そして装置は人のために従事するものでありますから、自身は他人に何も支払う必要はありません。以上がザキ・デッドエルの記す思想、思考、理論なのです。ザキは書物の中で何度もそれを繰り返すのです。
ザキ・デッドエルの論理は、論理と呼びますにはあまりにも強引でございまして、何度彼の書を読み返しましてもザキの理屈を正しく理解することは難しいことではございますが、しかしながら、ザキの考え方、ものの見方はわたくしの中で通じるところがございまして、それがために、わたくしは自身を整理するという意味でザキの作品に目を通すことがしばしばでございます。わたくしの中で構築された信念、精神は何をもっても揺るぐところはございませんが、長らくその感性を研ぎ澄ますことを怠けてしまいましては、どんなに鋭利な刃物でも年月に曝されて鈍くなってしまうものです。わたくしはわたくし自身の感性を読書や哲学思考、いまの仕事を通じまして、いつまでも磨き続けるのです。どんなに世間一般とは離れたところにおりましても、わたくしは自身に宿っておりますこの悪魔の感性をなによりも愛しているのです。
部屋の戸をノックする音が聞こえて参りまして、わたくしは扉へと返事を致します。すると、ローヤの声が致しました。
「御主人様」わたくしが返事を致しますと、ローヤは澄んだ声で続けます、「お食事のお時間でございます」
わたくしは机の上に置いてあります腕時計を手に取ります。わたくしが部屋に入りましてから、いつの間にか一時間は過ぎてしまったようです。
「すぐに行きます」
ローヤの去っていく音が扉越しでも聞こえて参ります。わたくしは何度も愛読しております本を閉じますと、部屋を出まして食堂へと向かうのです。食堂には、既にわたくしの定位置となりました席の前に豪勢な食事が用意されております。どれもこれも調理されたばかりのように見えまして、温かそうな湯気がわたくしのところまで、食欲をそそる香りを運んで参ります。
「今日もまた美味しそうなお食事です。ローヤもお食事をご一緒してください」
わたくしが席に着きましてローヤに向かって申しますと、ローヤは一礼を致しましてから厨房のほうへと一端引き下がりまして、ご自分の料理を同じテーブルまで運んで参ります。
「失礼致します」
「では、いただきましょう」
わたくしが早速朝食をいただくときに、ローヤは決まって胸の前で手を組んで静かに祈りを捧げるのです。わたくしの国では、宗教というものが根強く国民の生活の支えとなっておりますために、食前に神に感謝の祈りを捧げることが風習といいますか、習慣になっております。わたくしも、親兄弟とともに暮らしていたときにはその習慣に倣いまして、家族と揃って祈りを捧げたものでございましたが、家を離れまして独り身で生活をするようになってからというもの、若い頃からの自身の無神論に従いまして、宗教的習慣は一切これを排したのです。
当初、ローヤや他の使用人たちはわたくしのこの背徳行為に甚だ驚いていた様子ではございましたが、仕える者への忠誠心でございましょうか、月日というものがそうさせるのでございましょうか、いまでは誰も気にするものはなく、礼拝をする者もめっきり少なくなりました。そのような中でも、ローヤは数少ない、真に神を信じるお方、礼拝者ということになります。
わたくしが家におりますときには、こうしてローヤとともに食事を致しますことが常でございます。最初にわたくしが彼女にお食事をご一緒しましょうと申し出を致しましたときには、ローヤは大変驚いておりまして、すぐには席に着いていただけませんでした。侍女が雇い主と同席致しまして食事をとるということは、なるほど、この国では希有なことでございましょう。しかしながら、そのような世間一般の常識というものに特別縛られることを潔しとしない性質のために、わたくしは最後まで、やんわりとではございますが断固として、彼女が席に着くことを勧め続けたのです。その甲斐がございましたのでしょう、いまでは一つの遠慮も挟まずに、ローヤは同席してくださいます。この家における多くのことをこなしていただいております彼女とともに、彼女の手作りの料理をいただきますのは、なんとも申さず良いものです。
「若鶏の蒸し焼きですか?」
「はい」ローヤが答えます、「香りには、最近市場で並び始めた新しいハーブを使いました」
「美味しいです」
パンはローヤがお勧めだと申しておりますベルベルグ通りのパン屋で、そこにローヤ手作りの苺ジャムを塗るのです。わたくしが幼い頃も、実家に住み込みで働いておりました女中が様々なジャムを作ってくださいまして、それが毎回食卓に並んだものです。その頃の味とはまた少し違いますが、しかしながらローヤの作ったジャムもまた美味しいことには何一つ変わるところがございません。食事を半分ほど終えましたところで、わたくしはローヤに訊ねます。
「今日の予定を確認させていただけますか?」
食事の途中ではございましたが、ローヤは慣れた手つきでナイフとフォークを置いてから、予定表も見ずにすらすらと答えてくれるのです。
「本日のご予定は、午前十時にテルマン社のリード・ライフビル様が原稿を受け取りに参ります。午前十一時にマリス・ミーディアム様からの馬車がやって参ります。御主人様にはそれまでにお出掛けの準備をしていただきます。またマリス・ミーディアム様の使いのものからは、お屋敷に到着なさるのに多少お時間がかかるようですので、お昼は先にお召し上がりになっておいたほうがよろしいと託っております。御主人様にはおそらくここでお昼をお召し上がりになられる時間はありませんので、ご面倒ではございますが馬車の中でお召し上がりになるような形になります。こちらでサンドイッチなどをご用意する予定ですが、それでよろしいでしょうか?」
「はい。構いません」
「ではそのように致します」ローヤはわたくしの返事に頷きまして、再び予定の説明を始めます、「午後のご予定は、マリス・ミーディアム様のお屋敷からお帰りいただくお時間がわかりませんので、特に急ぎの用事は入れておりません。以上が本日のご予定になります」
「わかりました」
わたくしは食事を終えますと、すぐに書斎へと戻ります。今日は特別な日でございます。マリスから、彼女のお屋敷に招待されているのです。友人であるトゥルースからは丘の上の薔薇屋敷と聞き及んでおりますが、どのようなところなのでしょうか。かなり遠くにあるとのことで、わたくしはある一つの場所を思い起こします。しかしながら、わたくしはその場所に一度も行ったことがございませんので、結局どのようなところなのかを計り知ることはできません。全く、愉しみは尽きません。
わたくしは机の引き出しから今日お渡しする分の原稿を取り出しました。執筆は要求通りの枚数を守りましたし、校正も再三行いました。わたくしの中ではあるていど完成された作品なのですが、わたくしの担当であるリードさんが拝見なさるとたちどころに誤りやらより適切な表現といったものがいくつも出てきてしまうのです。わたくしは、今度こそはご指摘をいただかないようにと、担当の方がいらっしゃるまで再度読み直しに入るのです。
家を出発致しましてから彼女が住んでいらっしゃるという薔薇屋敷に到着致しますまで、数時間もの間、馬車に揺られておりました。町外れの丘の上と友人から聞き及んでおりましたが、そこまでの道程は険しく、周囲の景色は鬱蒼と木々が生い茂り、まさに森でございました。その緑豊かな森を抜けまして、丘の頂上までようやく辿り着きましたときには、わたくしは目を疑いました。目の前に広がります赤一色の景色。美しく敷き詰められた、それは花の絨毯でございます。これがすべて彼女の庭かと思いますと、わたくしはその美しさに目を奪われておりました。一輪の狂いもなく咲き誇る薔薇、芳潤な香りが一面に満ち溢れ、馬車に揺られながら心の底からうっとりとしてしまうような心地良さでございます。
門を潜りますと、馬車は敷地の中を進んで行きます。貴族の中には庭師に緑のオブジェを作らせましたり、妖精たちの彫刻を並べたりする方々もおられますが、ここの庭はそのような造形物はなく、自然のままの美しさを花々が彩っているのです。一面の薔薇園の中には、天使たちの憩いの巣が時折姿を現すのです。薔薇を愛でて周りますのに疲れた足を休めるには調度良い薔薇のオブジェに、ゆったりとした白い椅子がなんとも可愛らしい姿をしておりました。
突然馬車が立ち止まりましたので、わたくしは驚いて窓の外へと身を乗り出しました。そこには、さらにわたくしの心を驚かせるものが広がっておりました。いかに貴族とは申しましても、これほどのものを直接お目にかかれるのは一体いかばかりの方々でございましょうか。伝説に語られております、神々が住まうと囁かれるような、そこにございますのはいかにも歴史を感じさせます大きな古城でございました。どうしてわたくしは今までこの城の姿に気がつかなかったのでしょうか。薔薇の美しさに目を奪われておりまして、ここに聳えます立派なお屋敷に、このときに至るまでついぞ気づくことは叶いませんでした。石造りの古城には、長きに渡りこの土地を見守り続けておられますものにふさわしい貫禄と風貌が備わっておりまして、それでいてよくよく手入れの行き届いておりますその姿には、感嘆の意を隠し続けることなどできるはずもありません。薔薇の園を囲むように生え並んだ木々よりもさらに高く、頂上からはおそらくこの町中、いいえ、この国中の景色を見渡すことができることでしょう。馬車を降りまして、わたくしは改めまして古城の壮大さに感服致しました。神話に出て参ります神々の暮らす神殿というものは、おそらくこのようなものを申すのでしょう。薔薇の屋敷という呼び名では、あまりにも物足りない気が致します。ここはまさしく、薔薇園の城でございます。まさに、昔話に出て参りますようなお姫様、王子様の住まう城、はたまた魔法使いや魔王のようなものが暮らすにふさわしいところでございます。
わたくしが驚き見上げておりますその前で、古城の門がゆるやかに開き始めました。巨人が出入りしますような大きな門が両側へと開いて行きまして、中から現れましたのは、今日わたくしがお会いしに参りました、この城、この丘の持ち主たる御令嬢でございました。
「ようこそお越しくださいましたわ」
マリスは優雅な足取りでわたくしの前までやって参りました。初めてお会いしましたときこそ飾り気のない簡素なドレスだけでございましたが、お付き合いを重ねるようになりましてからの彼女の姿は、まるで花の妖精たちに見繕っていただいたように美しいのです。神の山から吹き上げる炎のように紅い髪と同じ、ドレスは鮮やかな色合いで、彼女を彩る宝石の数々はしかしながらいま目の前に立つ女神ほどに神々しい輝きを放ってはおりません。決して宝石が劣っているわけではございません。すべての宝石は一流の職人たちの手によって磨き抜かれた選りすぐりの技巧揃いではございますが、しかし美に愛された女神の前で美しさを勝ち取れるようなものが果たしてこの世界のどこにあると申されるのでしょうか。女神の前に現れます年月を忘れてしまった天使がその愛らしい笑顔を見せますと、わたくしはいてもたってもいられないのです。
「今日はお招きいただきまして、誠にありがたく存じ上げます」
わたくしが会釈を致しますと、マリスはまた一等の笑みを浮かべるのです。
「随分お疲れでしょう。ここまでの道程は、さぞ遠かったでしょう」
「とんでもない」わたくしは胸を張って答えます、「あなたにお会いできますれば、疲れなどいっぺんに吹き飛んでしまいます」
「それは良かったですわ」マリスはおかしそうに笑うのです、「あなたにぜひともわたくしのお庭を拝見していただきたいの。よろしくて?」
「もちろんですとも」
「では参りましょう」
マリスのすぐ隣に並びまして、わたくしは薔薇園の中へと入って行きます。なんとまあ、実に素晴らしい光景でございました。一面に咲き誇る薔薇は寸分の狂いもなく、見事に統一された燃えるような赤で目の前を埋め尽くしているのです。朝焼けのように濃密な紅い薔薇は、この世の楽園かと思われるほど壮観でございます。全知全能なる神でさえも、これほどの楽園を知ってはおりませんでしょう。よくよく手入れの行き届きました庭園に暮らすその古城の主は、まさしく御伽噺に登場して参ります幸福なる姫君でございます。
「素晴らしいお庭ですね」
マリスは花の妖精に囲まれた天使のような笑みを浮かべて微笑みかけてくれます。
「ここの薔薇を、あなたはご存知ですか?」
「いいえ」
「ここの薔薇は、この辺りにしか生息できないそうなのですわ。しかもなかなかわがままな子たちで、ちょっとでも手を抜いたらすぐにでも花を枯らしてしまうのよ。あなたが馬車の中で外をご覧になったなら、周りが森に囲まれているとすぐにおわかりになったでしょう。いまあたしたちが歩いているこの辺りにまで、以前は木々が生い茂っておりましたの。最初はただこの巨大な森の中で森林浴でもできればいいとばかりに思っていたのですが、案内人の勧めで森の奥地に咲くたくさんの薔薇を目に致しましたわ。そのときのあたしの気持ちを、きっとあなたも理解していただけますわ。香りも、色も、この国にもこれほどまでに素晴らしいものがあったのかと、素直に驚き感激しました。あたしは早速この土地を買い取って、何人もの庭師を雇ってこれだけの庭を造らせましたの。土地のお値段はそれほどしませんでしたけれど、あたし好みのお庭に仕立てるのに大分お金をつぎ込みましたわ。お金も時間も、本当にたくさんかかりましたのよ」
マリスは咲き乱れる薔薇たちを眺め見ましてから、遠くに見えますあの巨大な古城を指差すのです。
「あのお城は、もともとはこのお城が目当てでしたのですけど。あなたもご存知かと思いますわ。ブリュンヒルグ卿が別荘の一つだそうですのよ」
「ブリュンヒルグ卿ですか!」わたくしは叫びました、「彼の作品は実に特異で印象深いものばかりです」
「その通りですわ」マリスは答えます、「『夕暮れ』や『森林』など、数多くの作品が残っています。ブリュンヒルグ卿のユニークなところは、全ての作品が絵画と詩の対になっていることですね。この場所は『泉』の舞台になっていますのよ。あなたも覚えていらっしゃるでしょう。その詩の中に出てくるルールルという妖精の名前は有名ですわ。ここに咲いている薔薇の名前はルイルマルルといいまして、ルールルはこの花の妖精といわれているのを、あなたはご存知だったかしら?」
「いいえ、レディ」わたくしは答えました、「初耳でございます。妖精の名前は、もちろんブリュンヒルグ卿の詩で存じておりましたが、そのようなお話がありましたとは。わたくしは、この町にはもう長く住んでおりまして、町のことならば概ねのことを知っていたつもりになっておりました。なかなかどうして、あなたにお会いしてからわたくしは自分の無知を知らされるばかりです」
「恥じることはございませんわ」マリスは申します、「あたしがこのお話を知ったのも、案内人から薔薇の話を聞いたからですのよ。ブリュンヒルグ卿が作品を作る場所の一つとして、ここを別荘にしていたことは聞いていましたので、そのお住まいを拝見するつもりで参りましたけれども、思わぬ出会いをしてしまいましたわ。もうこの土地の権利は市に移譲されていたようでしたけど、こんな素晴らしいところ、あたしもブリュンヒルグ卿の住まわれたこの場所をより美しい場所にしたいと決意して、すぐに買い取ってしまいましたわ。どうかしら?お金と時間をかけましたけど、おかげでここまでの庭に仕上げることができたのよ。いかにブリュンヒルグ卿といえど、これほどの庭園はお目にしたことがなかったでしょう」
わたくしもそのお言葉には同意致します。ブリュンヒルグ卿の絵画はどれも美しい光に満ち溢れた描き方をしておられますが、わたくしも実際にいつくかの彼の作品のモデルとなりました土地を訪れたことがございます。彼の美しい作品に反しまして、そこには決まって荒廃の景色が見受けられます。古く廃れたものの中にこそ趣というものを感じるのでしょうか、その違いにわたくしは、遥か遠くにおられますブリュンヒルグ卿のお心を垣間見るのです。
マリスとわたくしはお城から離れるように庭園の奥へと進んで行きます。薔薇はよく手入れが行き届いておりますおかげで、どこにも狂いがございません。その完全なまでに統一された色彩に、わたくしは驚嘆を禁じえなかったのです。庭園のさらに奥へと進んで行きますと、そこには木で作られた日除けに、その下には豪奢な椅子とテーブルが置かれました憩いの場所がございました。
「こちらで休んでいきましょう」
わたくしたちが席に着きますと、薔薇の陰からボーイが一人現れました。彼はわたくしたちにご用命を承りにやって参ったのです。
「お茶の用意をお願いするわ」
マリスが申しますとボーイは早速お茶とクッキーを乗せました銀の皿を持って参りまして、それをテーブルに置きますとすぐに引き下がってしまいました。わたくしが腕時計へと目を向けますと、いつの間にやらお茶の時間になっておりました。
「もうこのような時間なのですね」
「さあ、どうぞ」
わたくしは早速クッキーをいただきました。
「これは美味しいです」
「お口に合うようでよかったですわ。うちの料理長も喜ぶでしょう」
クッキーを食べ終えまして、わたくしは紅茶を飲みました。素晴らしい香りに、わたくしは今まで歩き回った疲れが一気に吹き飛ぶような気が致しました。
「今日はお招きいただきまして、本当にありがとうございます。素敵な庭も拝見できましたし、こんなに素晴らしいお菓子とお茶をいただきまして、あなたにお会いしてからは夢のような日々が続いております」
「まだお礼を言うのは早すぎますのよ」
「それはどういうことですか、レディ」
マリスはうっとりとした瞳でわたくしを見つめるのです。ああ!その瞬間に、わたくしの体中を巡る血液は荒海のごとく荒々しい波を立て、まるで沸騰したように激しく湧き立つのです。
「あたし、あなたとはとても気が合うように思いますの。芸術的感性から感受性というもの、趣味もおそらく近いものがあると思いますの。あたしとあなたとの間には運命のようなものを感じるんですわ」
「運命でございますか」わたくしは敢えて冷めた口調で申し上げるのです、「確かに、あなたとわたくしはどこか似たところがございます。お話も非常に合います。しかしながら、この世界には自分を隔てては他人しか他にございません。結ぶつきというものは、その隔絶した存在感では生まれないものなのですよ」
「そんなこと言って」マリスは熱を入れて反論するのです、「あなたが他者と隔絶した存在だとおっしゃるのは、自己の内に社会的一般性とは隔絶した異常性を見出しておられるからなのでしょう。ですから、だからこそ、あたしとあなたは同種の存在なのですわ。だって、あたしはあなたが愛する異端児なのですから」
マリスは続けて申します。
「あたし、気を許したお相手にはあたしの秘密を曝け出したいんですの。異端であることを知っている異端児にとって、世界はとても窮屈な箱庭ですわ。その狭さに満足している方々には、世間とは充分に満足しうるお城なのかも知れませんけれど、あたしたちはそうではありませんでしょう?ですから、お互いに気の許せる相手同士で自堕落なまでに濃密な時間を過ごしたいと思いますの。特別を独占することは、たまらない幸福だと信じて疑いませんわ。現代人が愛だの恋だの囁く類では、あたしの心は満たされませんのよ。一体神が、あたしに何をしてくれるというのかしら!世界を救う神などよりは、あたしに幸せをくださる素敵な方こそが尊いものなのよ。ですからあたしは、この間あなたに告白致しましたのよ」
マリスが熱っぽくわたくしを見上げて参ります。
「あたし、あなたにはぜひあたしのことを知っておいていただきたいの。あなたはあたしのことを、いいえ、この場合は精神ではなくて境遇とでも言いましょうか、そういったものはご存知でしょうか?」
「ときに、レディ」わたくしは彼女の問いには答えずに申しました、「あなたはわたくしに、あなた自身のことを知ってほしいと仰いますが、あなたのほうもわたくしの暮らしぶりにつきましては、それほどご存知でないかと想像致します」
「その通りですわ。あなたはいま誰と暮らしていますの?」
「家族とは離れて一人暮らしをしております」
「お仕事は?」
「売れない作家をやっております。大学時代から続けている研究の論文をたまに出しておりまして、それで食い繋いでいるところです」
「筆名はなんというのかしら?」
「お教えしてもきっとどこにも売ってはおりません。数多に渡る芸術家と比較致しますれば、わたくしなど名も挙がりません。文才がなかったのでしょう、世間がそのような評価を下しているのですから、わたくしには何も申し上げることはございません」
「教えてはいただけませんのね」
彼女は落ち込んだ様子ではなくて、ただ事実を淡々と受け止めるようにすまし顔をするのです。その品の良さこそ、世の御婦人方にも共通として倣っていただきたいものと、わたくしが夢想するばかりのものでございます。
「それでも、あなたにはあたしのことを知っていただきたいと思いますわ。ミーディアム家は、あたしが言うのもなんですけれど、それなりに名の通った一族ですわ。工場や貿易を全て抱え込んで、それはそれは大きな財を成しています。その膨大な財を作り上げたのが、初代社長にして現頭首であるあたしのお爺様、イーヴィル・ミーディアムですの。そしてあたしはというと、イーヴィル・ミーディアムの長男、アイスヴィル・ミーディアムが長女にして一人娘である、マリス・ミーディアムなのですわ」
わたくしは驚いたように頷きました。皆様はご承知のように、わたくしは以前に友人から彼女の身の上話を一切聞いてしまっておりますので、驚くことではございません。しかしマリスから致しますれば、わたくしが彼女の家のことなど知りもしないはずですから、わたくしはその期待に沿いますように振舞うことにしたのです。
「それはそれは。道理でこれほどの敷地をお持ちなわけです」
わたくしの返事に、マリスは満足とも不満とも違う、あの誘うような目を致しまして、ただわたくしを見つめるのです。
「けれど、いまのあたしにミーディアム家を名乗る資格はありませんの」
「それはどうして?」
「あたしはミーディアム家から追放されていますの」マリスは続けて申されるのです、「お爺様から勘当されてしまいましたわ。あたしという人格は、一般社会の人々から見れば甚だ異端なものですからね。お爺様には、あたしのお話は奇人の口から出る言葉と一緒なのですわ。あたしは家を追い出されて、こうしてこの丘の上に閉じ込められておりますの。けれども、あたしは少しも悲しくありませんのよ。あたしはお爺様から自由に暮らせという許可をいただいたようなものですわ。ミーディアム家の商売に、あたし最初から興味がありませんでした。経済なんて、それこそ金の亡者のやる仕事じゃないかしら。貴族というにはあまりにも、文学や芸術を知らなさ過ぎですわ。歴史よりも、まずは学問というんですもの。お爺様は歴史を学問だと認めないんですのよ。歴代の王族や革命家たちの奮闘、戦争や飢餓に、進歩の歴史を、お爺様は王族に仕えていた頃の靴で踏み潰してしまうんですの」
わたくしは彼女に同情の目を向けまして、心の内ではマリスのお爺様のことを想像するのです。一代で大企業にまで成さしめたお方、ならば、経済や社会の変動というものに目を凝らしておいでなのでしょう。芸術という人の衝動でいくらでも変容してしまう不確かなもの、そして経済活動においては他の商品同様でしかない純正な商品には、それほど心を動かされなかったのです。資本家の原理原則は実に単純明快で、つまり経済という塊でしか愛せないのです。
「いまのあたしはただのマリスで、この丘の上の薔薇屋敷の主。勘当はされましたけど、ミーディアム家からはそこそこのお金をもらっているから、今は悠々自適に隠居生活を送っておりますの。ふらっと町に降りては芸術を感受して、町中でお知り合いになった貴族の方々とたまのお食事やパーティの招待をお受けして、日々あたしが以前より望んだ生活を送っておりますわ。ですけれども、そんな生活の中でささやかな、けれど最もあたしが愉しみにしていることは、あたしと趣味の合う方とのお付き合いですのよ」
マリスは紅茶を口にして一息吐きますと、落ち着いたご様子でわたくしに申しました。
「さて、これであたしはあなたにすべてを告白したつもりです。あとは、あなたからの返事を待つばかりですわ。あなたは、もしやお忘れではありませんよね。忘れてしまわれたというのならば、もう一度申し上げておきましょうか」
マリスの瞳が情熱的に潤んで行きますのを、わたくしは見逃しませんでした。ああ!何もかもがあのときと同じなのです。わたくしが彼女に宣告を受けましたあのときと、いままさにそれを再生しようとしております彼女の瞳は。そうです、皆様。彼女の視線は、わたくしを捕らえて離さないのです。
「あなたを愛しています。だから、死んでください」
わたくしに、彼女の熱い視線から逃れる術など、あるはずがございません。わたくしの小さな器官たる心臓は早鐘のごとく高鳴りまして、血液は洪水のように血管を駆け巡り、わたくしの体を熱く燃え上がらせるのです。わたくしの中から情熱という名の熱気が皮膚を通じて放出さます。荒れ狂う熱気の渦に倒れてしまわないようにするだけで、わたくしは精一杯です。
「あたし、あなたをあたしだけのものにしてしまいたいの。独占することは、この世で最も甘美な快楽ではないかしら。だからあなたの命を、あたしのものにさせていただけませんか?もちろん、いますぐに命を絶てと申し上げているわけではありませんのよ。あなたとは、まだまだ多くの知識を共有しておきたいですわ。未だに話をしていない作家や画家がたくさんおりますもの。哲学の精神も、もう少し踏み込んだところまでいかないと、あたしは満足できませんわ。そうですわ。折角ブリュンヒルグ卿の別荘においでくださいましたのですから、彼の作品、精神について、あなたなりの解釈をお話いただけませんか?」
「喜んで、レディ」
その言葉こそ、いまのわたくしの救い手でございました。わたくしは湧き立つ血潮を我が愛する哲学精神によって冷ましながら、社会という文学思考、そしてわたくしが持ち合わせております精神と、わたくしを夢中にしております御婦人の文学に対する熱心なまでの姿勢を理性にしっかりと刷り込みまして、わたくしは一枚のクッキーと紅茶をいただきました。熱しすぎた体温のせいでしょう、わたくしの体はひどく貪欲でございました。しかし、その渇きを潤してくれるのはやはり、このわたくしが愛する一時でしかないのです。
あたしがいつも彼にするように芸術の話を持ち出しますと、彼はあのどこか浮世離れした目をして語り始めるのです。
「ブリュンヒルグ卿の作品である『泉』の舞台がこの地と仰られましたが、その作品を含めまして彼の作品は、あなたもご存知のように、絵画と詩の二つを対として一つの作品に致しております。これだけでは、彼の名は世間にはそう広まることもありませんでしたでしょう。むしろ、彼のこういった技巧を真似たところで、評論家たちの非難を浴びるところでございましょう。と申しますのも、絵画とは文字では表現できない、あるいは表現を敢えて排することで生まれる美的感性を追及しました芸術体系でございますから、そこに補助的な意味で詩などを作ってしまいましたら、絵画としての価値が薄れてしまいます。対して詩のほうでも、詩は人間の視覚的情報を排することで生まれました情景描写の再現を促す技巧でありまして、その盲目の状態から見る景色の美しさをこそ芸術となしたものでございます。そこに絵画をおいてしまいましては、折角の想像の美も消失してしまうというものです。文字だからこその韻を踏みました音も、絵画が現れてしまってはその価値が薄れるというものです。それが証拠に、ブリュンヒルグ卿の作風を真似て新たな境地に至ろうと試みました芸術家は、わたくしが知る限りは皆無でございまして、彼以外にこの無謀な挑戦をしたものは現代までもいらっしゃらないというふうにわたくしは記憶しております。
「しかしながら、ブリュンヒルグ卿の作品が我が国におきましてそれなりの評価を受けておられるのは、ひとえにその絵画と詩があまりにもかけ離れていると申し上げましょうか、詩の内容からは想像もできないような情景が絵画には描かれているのです。例えば、ここが舞台となりました『泉』から見てみましょう。詩の中では、森の妖精でありますルールルの飛び交う姿が表現されております。妖精たちは互いに自分たちの良さばかりを主張し合い、お互いに自分がこの森で一番なのだと言い張っております。妖精たちは言い争い、とうとう取っ組み合いの喧嘩になってしまうのです。そうやって傷だらけになった妖精たちは何人も何人も死んでいき、最後には体から真っ赤な血を流して泉の上にぷかぷかと浮かんでいるという、物語りのような形になっております。
「さて、ここで絵画のほうをご覧いただきましょう。多くの評論家たちは、朝方の森に光が差し込み、その陽光を泉が反射して森全体が光り輝いて見える様だと解説なさっておいでですが、なかなかどうして、その判断は正しいように思われます。森全体が白く輝き、泉はきらきらと朝日を反射しているのです。森は静かで、動物たちの姿は見られません。自然というもののあるがままの美しさが、その絵画の中には確かにあるのです。深い森は天の光に照らされておりますがために、暗闇はもはや消え失せ、森の緑でさえもあまりの美しい光の前では眩んでしまいます。その光に溢れた場所で、泉だけが確固として存在感を主張できるのです。この『泉』の絵画におきまして、あの有名な評論家たちはその目が眩みそうなほどの眩い光こそが彼の追及した美学であり、世界はどこもかしこも繁栄で満ちているこの世界の誉れ高きを表現していると申しております。しかしながら、ブリュンヒルグ卿の残されました多くの作品を深く研究しておいでである評論家たちの言い分はそれとは実に対照的でございまして、なかなかに興味深いものばかりですのでここで述べておくことに致しましょう。
「一般社会におきましての光り輝く美しい情景というものは、大様としてどのように映るものでございましょうか。人は何ものも見えはしない漆黒の闇の中で恐怖を感じ、何も知りえないところにおきまして不安を感じずにはいられないものであることは、あなたも重々にご存知でしょう。幽霊というものは、常に闇の中からしか現れないのです。一方で、つまりはそういうわけがございますから、光とは人々にとっての希望なのです。陽が昇りますと、街中や国中が動き始めまして、世界全体が活気だち、人々はそこにこそ生を感じるのです。神の言葉の中にも、神は最初にこの世に光を呼びました。世界を照らす大いなる光の下で、空が生まれ、大地が生まれ、川が生まれ、緑が生まれるのです。命は多様に分岐を繰り返し、魚を造り、鼠を造り、鳥を造り、犬を造り、馬や羊や豚や牛を造るのです。最後には、とうとう現在この世界の大半を占めております人を造り出し、神は命の導き手として光を残してくださったのです。そういうわけで、光は人々からすれば神のそれと等しく、温かく美しいものの象徴として存在するのです。けれどしかし、ブリュンヒルグ卿にとっては強烈な光であればこそ、それは死という意味を内包しているのです。ブリュンヒルグ卿には子どもが五人おいででございましたが、長女であるリリス様は生まれながらにして目が不自由でございました。全くの盲目というわけではございませんでしたが、リリス様は良くお父様に、世界は真っ白だとお話になっていたようなのです。お父様にはその意味がわからず、娘や一体それはどういうことなのかと問いました。するとリリス様は、世界は真っ白でだから何も見えないと申されるのです。世界には天使たちが振り撒いたベールが散りばめられていて、わたくしはその布に目を覆われていて、お父様を見ることができないのですと、こう仰られるのです。お父様はこの話を聞きまして、世界に溢れる光こそが自分の娘の目を不自由にさせているのだと知ったのです。光は、幸福を奪い取る天使たちの悪い悪戯だとブリュンヒルグ卿は称しております。つまりは、ブリュンヒルグ卿にとっての光とは世間の方々が考えております希望の導き手ではなく、悪意を持った魔手であったのです。ブリュンヒルグ卿の作品について深い洞察眼をもって接した評論家たちは、多くに美しい光とは絶望を含んでいることを知っております。ブリュンヒルグ卿は人々に対して、自分の娘に背負わされた不運な宿命を訴えていたのではないかと推論する方もおいでですが、それ以上は推測的な妄想とでも申すべきことでございましょう。そこへと至る論拠はどこにもございませんし、彼の絵画は純粋に美しさに溢れているのです。彼が授かりました子どもたちは皆短命であったと聞き及んでおります。幼いときに川で溺れてしまったもの、馬車に轢かれてしまったもの、病気で死んでしまったもの、彼の子どもたちは彼よりも早くに他界されたようで、長女のリリス様も目が不自由な上に元々が病弱だったようでございます。研究熱心な評論家たちは、ブリュンヒルグ卿が身に負いましたこれら多くの不幸が彼を絶望の底へと追いやったと説いております。なるほど、光こそが彼の絶望の象徴たるならば、ブリュンヒルグ卿は神から与えられました光を求めずにはいられないのです。『泉』の中で強い象徴でありますのは、光以外は泉しかないのです。森の中だということはわかるのですが、周囲を取り囲む木々は光に侵され霞んでしまい、正確な姿を窺い知ることはできないのです。そうです。動物たちの姿も見えなければ命を与えられました緑の輝きですら、神々しい光の前に焼け消えてしまっているのです。彼が残しました泉の解釈につきましては種々様々な意見が挙げられておりますが、ここではわたくしの理解しております考えだけを挙げることに致しましょう。
「ブリュンヒルグ卿は、もしかしたらまだ境地には達しておられなかったのやもしれません。失礼なことを申しますが、ブリュンヒルグ卿はご自身の作品を通して娘に彼の見ている世界を見せてあげたかったのではないでしょうか。彼が絵画とともに詩を残しておられるのは、ブリュンヒルグ卿には世界というものが二つに割れているからではないでしょうか。この議論におきましては、他の評論家たちの中でも少数ではございますがなされております。おそらくは、ブリュンヒルグ卿は彼自身がご覧になった彼の娘を通した景色と、娘リリス様が思い描いております世界の風景を語ったものを、絵画と詩という形で残しておられたのです。まったくの盲目ではなかったリリス様は、懸命に世界を彼女の中で構築しようとしまして、目に映る光だけの景色から一つの物語を生み出しておられたのでしょう。そこから彼女は、自分だけの世界の中に新たな世界を創造しておられたのです。リリス様にとってこの世は、世界と彼女自身というわけ隔たりがあまりにも大きすぎたのです。光の中に見えますのは大きく口を開いた泉で、そこにはたくさんの命が放り込まれているのです。人間は世界から見てしまえばとても小さな命でしかなく、妖精は互いに争い合い、最後には世界の中に溶けて消えてしまうのです」
「でも、あなた」あたしは言葉を挟みました、「どんなに娘さんのことを議論なさっても、作品を残した主たる視点抜きにしては世界を語ることなど到底できませんわ。妖精たちが争って最後には泉の上に浮かんでしまうところを見ているのは、リリスではなくブリュンヒルグ卿その人でしかないはずでしょう」
「まったくその通りでございますよ、レディ」フリークは答えます、「つまりは、そういうことなのです。ブリュンヒルグ卿の作品の性質を知るのにブリュンヒルグ卿のご家庭、この場合はブリュンヒルグ卿のご長女についてでございますが、ブリュンヒルグ卿の身の上を考慮しますのは一向に構いませんが、彼の作品を正しく理解致しますには、反ってブリュンヒルグ卿の娘リリス様の目を介してしまいましては、誤った結論を導き出してしまう恐れこそあるのです」
「それはどういうこと?」
「いいですか」フリークは次のように答えました、「ブリュンヒルグ卿が残しました対なる作品におきまして、世間で囁かれますような対照的な構図など、本質を見抜いていない歪んだ解釈であることはあなたにもおわかりになられることと思います。彼にとっての光とは、理不尽なほどの絶望であり、ともに並ばれます詩は全てこの世界の争いや醜さを妖精や動物たちを通して描いておられるのです。ここでご確認いただきたいのですが『泉』と同様にブリュンヒルグ卿の作品は、絵画には白を基調としまして景色そのものを曖昧にしてしまう画法を取り入れておりまして、一方で詩の特徴と致しましては物語りでありましたり色彩を帯びたものでしたり歴史でありましたり、その背景となります形式は多少の変化はございましても、大様として荒廃していくあるいは悲嘆にくれるような内容ばかりが好まれております。そういった彼の精神的特長を承知しました上で、ブリュンヒルグ卿のお嬢様の話を思い出しますれば、彼には世間的な意味での光は存在せず、ただそこには絶望ばかりが広がっていることは明白でございましょう。そういう前提をご承知であります熱心な評論家たちは、彼の作品形式はなんら高等的な表現体系ではなく、それは文学を学ぶことができなかった小娘のように単純で深みを削ぎ落としてしまったものに他ならないことを見抜いているのです。しかしだからこそ、ブリュンヒルグ卿は彼自身の作品に娘リリス様の瞳を通して描いてきたのでございますが、彼は最後までそれが自身の目でご覧になった世界であることに気づくことができなかったのでございましょう。ブリュンヒルグ卿が芸術活動を始めましたのは、病弱でしたリリス様が他界され、ブリュンヒルグ婦人と別れてからになります。彼はそのとき、世界の終焉を垣間見たのでございましょう。彼は絶望に苛まれるままに筆とペンを取りまして数々の作品を世に残しましたが、それはどれもこれもが彼自身の目を脱却してはいないのです。
「ここからはわたくしの推測の範囲ではございますが、ブリュンヒルグ卿は作品の中に絶望しか残していないのです。一般的に、父親というものは何よりもまずご自分のお子様方あるいは奥様の幸福を望むものでございます。それならば、もしもブリュンヒルグ卿が強い洞察眼をもちまして長女リリス様のお目をご覧になることができましたならば、リリス様が描き出しますのは光に満ちた美しい世界ではありませんか。世界の不条理や醜い争いというものを知らない少女にとって、世界は希望がなければならないのです。そうでなければ、盲目の少女は目に映るはずの景色を夢見ることはないのです。彼女の目で見る世界こそ光に包まれておいででも、彼女の夢見る世界はまさに夢の国でなくてはならないのです。美しい花々が咲き乱れ、妖精たちは泉の上で愉しそうに踊り、人々は世界の美しさに微笑むのです。それこそが、リリス様が描いた光景であるのがふさわしいのです。
「それではと、世間の方々はお訊きになることでしょう。ブリュンヒルグ卿の娘様が夢見ております世界というものが希望に溢れたところであるならば、何故ブリュンヒルグ卿が描く世界はかようなまでに絶望に満ちておいでなのか、と。実のところその点が最も重要なことなのですよ、レディ。ブリュンヒルグ卿は、いまは亡き娘様に見せるはずの世界を描かねばならないはずですのに、結局のところご自身の視点から脱却することに失敗しておいでなのです。つまり、ブリュンヒルグ卿はご自身に纏わりつきました不幸に縛られるままに世界を映し出しておいでだったのです。ブリュンヒルグ卿はリリス様のためにとお思いであったのでしょう、しかしながら、彼は自身に降り注ぎましたあまりの不幸に目が眩んでおいでだったのです。そういうわけで、ブリュンヒルグ卿の作品はどれもこれも娘様の目に映る世界ではなく、ブリュンヒルグ卿ご自身がご覧になっている景色なのです。ブリュンヒルグ卿に降りかかりました数々の不幸はお察しするところではございますが、しかしながらブリュンヒルグ卿は決して境地に入ったお方ではございませんでした。ブリュンヒルグ卿は絶望を前にして世界を見ていたのですから、決して世界を絶望そのものであると見ることはできなかったのです。なぜならば、ブリュンヒルグ卿には娘という、あるいは家庭という希望があったからでございます。ブリュンヒルグ卿は芸術活動に際しまして多くの場所を点々となさいましたが、その中で特に彼がお気に召したところには迷わず別荘を作りまして、おかげでブリュンヒルグ卿の別荘地はあちらこちらに残っております。彼は最後まで家族という拠り所を捨て去ることがなかったがために、だから彼は最後まであちら側で生きておられる人でございました」
「素敵なお話ですわ」あたしはうっとりした気分で口を開きました、「ブリュンヒルグ卿は、結局のところ、娘リリスに再会することができなかったのですね。娘を愛して、娘に世界というものを描いてあげたはずが、結局はご自身の慰めでしかなかったなんて。しかもその慰めでさえも、ブリュンヒルグ卿ご自身を救ってはくださらないのね。絶望の影に常に怯えながらでしか世界を直視することができないなんて、とても悲痛で、とても不幸で、なんて素敵なことでしょう」
「けれども、レディ」フリークはわたくしを窘めるように、そして自身を卑下するように言うのです、「最後のところは、わたくしの想像の域でしかございません。ですから、それがブリュンヒルグ卿のお心を正しく表しているのか否かは、確かに申し上げられることではございません」
「そんなことに何の意味があるというの。あなたほどの洞察眼をお持ちである方ならば、お間違えになることはありませんでしょうけれども、世界というものには、つまるところ自分と他人という二つの価値しかありませんのよ。そして、そのどちらもが互いに入り込めない領分であればこそ、人は自身の価値観をもってしか他人の領域を計ることができないのですわ。そのようである以上、人は自身という目を持って他者を見るのですから、間違いがあっても仕方のないことですし、間違いがあったところで世界はどこかズレたところがありますもの、その歪みをわざわざ正す必要などありませんわ。それにしても、でしたらあなたはブリュンヒルグ卿をお慕いしてはいないのですね」
「誤解を恐れずに申し上げれば、わたくしにはブリュンヒルグ卿が一般に浸っておられる方にしか映らないのです。彼の領分は、結局のところあちら側におられるのですから、彼は決して境地に踏み入ることはないのです」
「あたしは」つい、あたしは次のように答えました、「ブリュンヒルグ卿には惹かれるところがありましてよ。それは文学的精神では表せないようなものでして、要するにあたしが単純に、ブリュンヒルグ卿のような破滅的な世界観にこそ胸を躍らせてしまうということに他ならないのですわ」
「実にあなたらしいお答えです」
フリークの視線が、あたしの率直な気持ちをあるがままに包んでくれます。お互いの精神を知るが故に叶う、これこそが至上の喜びなのです。作り物でもなければ、ましてや偽りでもありません。あたしが追求する美学を彼も愛しておりますし、あたしはそんな彼だからこそ気兼ねなく意見することができるのです。
あまりにも長い間話に興じていたのでしょうか。空の青さが広がっておりましたはずの頭上には、いつのまにやらルビーのような輝きが空を染め上げておりまして、太陽は燃えるような輪郭を放って空の彼方に消え入りそうでした。
「今日の夕焼け模様は一段とお綺麗ですわね」
わたくしもマリスの言葉に同感致しました。時折見せる空の美しさには、目を奪われるものがございます。特に、夕焼けは空気の温度や湿度などに関係するらしく、同じ景色はそうそう見られるものではございません。今日は朱を染めたように鮮やかな紅い色をしておりますが、時に夕焼けは紫色に輝く日がございまして、わたくしは特にその色合いを好いております。
「天気というものはとても移ろい易くて、そして不安定なものですわ。その儚くも崩れ行く様子は、世間一般の方々がひたすらに抑制しております、あの犯罪者と呼ばれる人たちにこそ訪れる気紛れ心に似ていて、あたしはいつも我を忘れてしまいますの。豊かになったいまのご時勢だからこそ、こんなささやかな美しさは見向きもされないのだから残酷なお話ですわ。芸術とは完成された作品ばかりではなくて自然の移ろい行くさまを、いいえ違いますわ、それは人の精神がそれをして芸術だと捉えるかどうかによるのですわ。例え荒れ野にいても人は精神の中から美しさを見出すことができるのです」
「冒険家たちは自然の猛威に曝されながらも、束の間の生命の息吹というものや、または屍ばかりが舞い降りた終焉の地でも、明け方の光も、夜の漆黒の闇であっても、そこに美を見出すことはできると聞いたことがございます」
「まさしくだわ!」
感極まって申しましたマリスは、しかしながら突然口を閉じてわたくしの顔色を窺い見るのです。
「まだお時間はございまして?」
「そうは申しましても」
わたくしは腕時計を見ました。これ以上長居してしまいましたら、我が家に辿り着くまでに夕食の時間を過ぎてしまいます。
「あまり長居をいたしましては、家に帰り着く頃には空腹のあまりに干乾びてしまいます」
「そんなことを心配なさっているの。ここでお食事をされていってはどうですか。ここの料理長はあたしが直々に選び抜いただけあって、けちのつけどころがないのよ」
「そのようなもったいないお言葉を。ただの客であるわたくしが、そのような図々しい真似を、できようがありません」
「あなたは大切なお方ですわ」マリスは優しく微笑んで申します、「そんなお方を途中で退屈にさせるわけにはいきませんわ。それに、あなたはまだわたくしが一番に気に入っている料理を召し上がってはおりませんのよ。あたしと、どうぞご一緒してくださいな」
「そういうことでしたら、喜んでご一緒致します」
マリスがテーブルの上に置かれた鈴を鳴らしますと、どこからか中年の召使が現れました。
「彼は夕食を召し上がって行きますわ。二人分の用意をしておいて」
「かしこまりました、お嬢様」
召使は一礼致しまして、またいずこかへ消え失せてしまいました。マリスは早速に席を立ってわたくしに申します。
「それでは、しばらく夕暮れのお庭をご一緒しませんこと?」
「よろしいですとも」
わたくしとマリスは一時間ほど、夕焼け色に染められました薔薇園を歩いたのです。昼間は赤々と燃えるように輝いておりました薔薇の花たちが、夕日に照らされましてその緑でさえも陽の光を放っております。世界の景色とはまさに、芸術そのものであっても劣るところがございません。著名な画家たちが技巧を凝らして残しました作品とはまた違い、世界という広大なキャンバスに描かれました絵の具は時の流れの中で変容致しまして、新たな美しさや呼吸を感じさせてくれるのです。
さて、マリスと二人でうっとりとお庭を眺めるのも、あっという間のことでございました。お城に入りまして、わたくしはまたも驚きに心が弾んでおりました。古城と呼ぶにはよく手入れが行き届いておりまして、隙間なく絨毯で埋め尽くされました廊下の上には著名人の彫刻や絵画があちらこちらに並んでおりまして、一日この城の中を歩いても決して飽きることはないでしょうことが窺い知れるのです。
わたくしとマリスは女中の方に案内されまして、食堂へと辿り着いたのです。なんという豪華なお部屋でしょうか、広々とした空間に贅沢にもわたくしとマリスのために用意されましたテーブルが今宵の時間を独占しているのです。豪奢なシャンデリアのもとでは、食欲をそそる香りがそこら中に満ちているのです。わたくしたちは席に着きまして食事を致します。マリスとは色々なレストランへ足を運びましたけれど、ここの料理もまた格別美味なものばかりでございます。わたくしはつい、運ばれて参ります料理に夢中になってしまいました。
ふと思い立ちまして、わたくしはマリスにお訊ね致しました。
「あなたへのご返事はいつまでにすればよろしいでしょうか?」
「できれば今日中に」マリスはナイフとフォークの動きを止めずに答えます、「つまりは、このお食事の間までということですわ」
「あなたは」わたくしは手を止めまして、向かい合った彼女にお訊ね致しました、「わたくしを独占なさるのにお時間をいただけると申されましたが、あれはどのような意図がおありなのでしょうか?」
「さきほども言いましたように」マリスはナイフとフォークをお皿の上に置きました、「あなたとは、まだまだお話するべき話題が残っておりますの。あなたの思想、哲学、そういったものを知るには、あなたの精神を知る必要があるということになります。いくらあなたを独占しても、精神だけはあたしの手の内には入りませんの。ですから、その精神までも享受しておかなければ、あなたそのものを独占したところで、愉しみ半分に終わってしまいますわ」
マリスは、あのすべてを包み込むような慈悲深い笑みを浮かべて申します。
「独占するということは、すべての権利が所有者本人にのみ帰属して、独占されたものにはそういった権限が一切付与されないことを意味しますわ。生殺与奪なんて、あたしに言わせれば手ぬるい法にしか思えませんわ。人である以上は、あらゆるものは世界の法則に従うということですもの。すなわち自身か他者か、それだけの単純な区分に当てはまってしまうということですわ。つまり、独占されるということは人としての権限が一切ないことが必要不可欠になるのだから、あたしは常に人としての権限を奪ってやらなければ気が済まないの」
「永遠の保存というわけですか」
「その通りですわ」
「つまりは、何も失わないことを選んだがために、何も生じせしめないことを決断なさったわけですね」
「あら、恐いのかしら」マリスはおかしそうに笑うのです、「あなた、もしかして命を失うことを恐れているのではありませんか?結局のところ、あなたも社会という枠組みから脱し得ていないとういことになりますわ」
「それは、流石にございません」わたくしも、彼女に微笑んで答えるのです、「わたくしにとっては、命というもの、あるいは人という柵には、意味がございません。それは、わたくし自身にとっても不変でございます。世間の通念を打ち砕くためにはどうしても乗り越えなければならないものとして、常識やら信仰やら感情やらといった不合理なものは一掃しなければなりません。残念ながら、わたくしは完全なる揺るがない境地には達しえてはおりませんが、それでも自己と他者との断絶くらいは、容易く成し得ているつもりです。いいえ、わたくしにとっては自分自身ですら、物質的な存在でしかありません。わたくしが完璧なまでに愛しておりますのは、わたくしが認めました精神のみでございまして、つまり、わたくしが認めます芸術や文学や思考、哲学といったもので、もちろんその中にはあなたも入っておいでなのです」
「よかったですわ」
「それでもあなたは、わたくしの魂すらも独占しようとなさるわけなのですか?」
「勘違いされませんよう申し上げておきますけれど」
マリスの目が急に真剣なものになりましたので、わたくしはつい彼女の瞳に釘付けになってしまいました。
「あたしは、世間一般に常識という名で通っている神という存在は、これっぽっちも信じておりませんのよ。輪廻転生や死後の世界というものには、いっさら興味がありませんの。ああ、嫌だ!その名を出しただけでも、あたしは肌が粟立ちそう!人は死んだらそこで終わりなのに、どうして人は魂などという不確かなものを仮定するのかしら。神が人間に何の施しもしてはくれないというのに、どうして世間というやつはそこまで熱心に信仰できるのかしら。仮に人がどん底なくらいに不幸だったとしても、熱心な信徒はいつもこう仰るのよ。『神は常に我々のことを考えておいでなのです。いつでも我々の苦しみや悲しみをご覧になっておいでで、だからたとえ不幸や苦しみの中にあっても、神は我々に光を指し伸ばしておいでなのです。辛いときこそ祈りなさい。神はいつでもその大きな懐に、我々の魂をお抱きになってくれるのですから』なんて、こう仰るのよ。あたしは、そんな神になんか見られたくありませんわ。神様なんて他人に、あたしの何を判ってもらおうって言うの。あたしの心はあたしが認めて初めて曝け出すものなのに、あたしが許しもしないうちからわかってもらおうなんて、さらさら思いませんわ」
子どものように真剣に話すマリスの言葉に、わたくしは何度も頷いてお答え申し上げます。
「わたくしも似たような考えを持っております。神などという存在は、決してこの世のどこにもありはしないのです。もしも神が全知全能で、慈悲深く、苦しめるものにこそ救いの手を差し伸べているのならば、世界には飢えも乾きもありはしないのです。犯罪もなくなれば、戦争もなくなっているはずでしょうに、世界にはわたくしたちの見えていないところで常に不幸が続いているのです。それでも、あなたの仰るように、熱心な宗教家たちは来世にこそ救いがあるのだと説き、日々の健全たる祈りを重視しておりますが、一体死後の世界とはどういったものでございましょうか。太陽神や天上からわたくしたちを見下ろす神であれ、世界中の神々と呼ばれるものが、どうしてわたくしども人の世界に生きるもののためを尽くしてくれましょうか。人々にはそれぞれに幸福の形が異なるのですから、全人類が幸福たる理想郷などありはしないのです。もしもそんな理想郷が存在してしまいましたら、それは幸福を押し付けているだけでしかありません。そんな無条件な幸福でしたら、わたくしは棘の道でも歩いていましょう」
「あなたのお言葉には賛成だわ」マリスは微笑んで答えます、「けれどあたしだったら、棘の道をすべて焼き払って、新たに咲き乱れる美しい薔薇のお庭を造ってしまいますわ。世界があたしを異端と呼ぶのなら、好きにすればいいわ。その代わり、あたしも世界を好きにしてやるのよ。裁判官があたしに死を宣告するならば、あたしは家来に命じてその人の首をちょん切ってしまいますから。いいえ、それではあたしの気が済みませんわ。その人には、あたしから最高の刑罰やら奉仕活動を言い渡して、体中を傷だらけにして差し上げて、命の別れでしかその苦しみを抜け出せなくなるまで使い古した後に、汚物のように捨ててしまうのよ」
「世間というものは」わたくしは申し上げます、「実に奇妙な形をしております。人の世界では、結局のところ自身か他人かという二つの隔てられた区分しかございませんのに、社会の中には一般という、なんとも不可思議な一括りの枠組みが存在しているのです」
「あたしもそのことについては考えたことがありますわ。あたしの中でも自己の理論を成立するための理屈は持ち合わせているけれど、あなたの考えをぜひ聞かせてくださいな」
「世間でしばしば語られる常識と呼ばれる共通認識は、とても都合良く形成されているように思うのです。人というものは、自己という閉じた視線の外には他人という存在しかいないのに、人は他人すらも自己の領域に被せようと致します。実に非合理的なシステムでしかございません。人間は多様性と専門性を個々に委ねることで世界を構築してきたはずでございますのに、ここにきても未だ人は共通認識を棄てきることができないのです。人間の興味関心は、個々において多様で束縛できないものであれば、そこに共通などという幻想は存在しえませんし、その必要性はないのです」
「しかし、常識を通じて人間は他者との自然な関わりを作ることができるのではないかしら?」
「そこでございます」わたくしはマリスにお答え致します、「どうして、他者とそこまでの関わりを求める必要があるのでしょうか。いまの文明人にとっては、情報一つで生命が脅かされるほどの危機はございません。ならば、情報というものすなわち興味関心は必然性を含んでは、必ずしもいないのです。そうです。情報を他者と共有する必要がありませんのに、人は他者との関わりのために常識などという連結手段を定義しなければならないなんて、なんとまあ馬鹿げたことでありましょう。思想哲学等の情報の共有こそに、人は他者との繋がりというものを意識しますのに、人との共通関係を作りたいあまりに常識を獲得しようというのでは、集団としての自己を確立する方法でしかありません。人は結局のところ、自身か他者かしか持ち合わせておりませんのに、なぜ誤魔化すようにその境界を曖昧にしたがるのでしょうか。人間は救いを求めるがために、神などという幻想に執着してしまうものなのです。理性ある人であれば、いかに神というものがご都合主義の上、あるいは詐欺師や盗人のような人間の中から生まれたということを、よくよく知ることができますでしょう」
「もちろんですわ!」マリスは答えるのです、「神の御加護というものがどれほど素晴らしいかなんて、神が全知全能であるなどと仰るなら、人が神よりも数段劣っているならば、人間というものは神の威光など知ることすらできないはずでしょう。もしも神という存在がこの世を創り上げて、全ての人々を包み込むだけの包容力がおありならば、この世には財産と権力でふんぞり返っている人間がいる中で、貧困に喘ぎ苦しんでいる人たちがいるなどということはないはずだわ。ええ、そういうときこそあの熱心な宗教家たちは死後の世界にこそあるいは来世にこそ神は人々を救ってくださるのだから日々の命に感謝しなければならないとこう言われるかもしれないけれど、あたしに言わせれば、魂の不滅や転生なんてものは理性を信条にできない弱い哲学思考の持ち主たちの妄言でしかなくて、彼らはそんな漠然とした確証のない希望に縋っていなければ生きてはいけないんだわとこう言ってやるの。自分自身の命はこれきりだと知ってさえいれば、もっと有意義な思考に耽ることができるでしょうし、さらにはこの世界に何をしたって別段恐れることなんて何もないことを知るのだわ」
お食事の時間はとても有意義なものでございました。最近では週のほとんどを彼女とともに過ごしておりますが、マリスとともに過ごしました時間を無駄に感じたことは、一つもございません。これほど満ち足りておりますわたくしが、一体どうして彼女のお言葉を無下にするようなことができましょうか。
「ようやくわたくしにも決心がつきました」食後のワインとチーズを愉しみながら、わたくしはついに申し上げました、「正直なところ、わたくしはしばらくあなたへのご返事を先延ばしにしようとしておりました。けれども、それはつまるところわたくし自身の弱い理論の中で生まれたものでしかないことにようやく気づきました。ああ、なんと愚かなことでしょう。わたくしの精神はすでに一つの答えを導き出しておりまして、それを揺るがすことはもう到底不可能でございます」
マリスは満足そうに微笑を浮かべるのです。
「聞かせてくださいな。あなたの言葉で言ってください。あたしはあなたのご返事を決して疑いませんわ」
わたくしはワインの注がれたグラスを持ちまして席を立ったのです。丸いテーブルの線に沿いまして、わたくしはマリスの元まで歩いて参ります。彼女の元へと辿り着きます間が、果てしなく遠いように思えました。まるで神々がおわします天上世界へと昇り続ける絶壁の山脈を眺めるような気が致します。わたくしの鼓動は台風のように荒れておりますし、これから決闘にでも向かうのかというほど体が熱くて仕方がありません。わたくしはテーブルの上にグラスを置きまして、彼女の前で片膝を折るのです。この恰好は、中世の騎士たちが主君に対して忠誠を誓うための儀式でございます。騎士は主君に仕える意を表するために自ら足を折り、己の心臓を差し出すように曝すのです。騎士とは、主君の忠実なる剣であり、その命は主君の命令一つでいかようにもなるのです。わたくしはこの瞬間から、彼女のために身も心もすべてを差し出しまして、彼女の意のままに、わたくしという精神すらも捧げることをここで誓うのでございます。
「あなたが望むのでしたら、わたくしはあなたの永遠の奴隷になりましょう」
わたくしがお答え申し上げますと、マリスはなんとわたくしの前に右手を差し伸べるのです。わたくしは驚きのあまりに心臓が飛び出してしまうのかと思いました。わたくしはなんとか動揺を見せないように心の奥底に隠すので精一杯でございました。見栄えさえも不自然になりませんようにわたくしは彼女の手を取りまして、そこに接吻を致しました。わたくしとマリスがともに誓いを立て合いました、まさにその瞬間でございます。




