第一譚 暗夜流星舞踏会
わたくしがお慕い申し上げていた皇帝陛下が崩御されてから、早いもので三年と七日という歳月が経過いたしました。先週には、つまり前任の皇帝陛下の崩御からちょうど三年目の日には、故人を悼んで国中が喪に服したのです。わたくしもその日は一日自宅に籠りまして、朝と夜の二回、十分間の祈りを捧げ申し上げました。
さて、今宵は新皇帝陛下即位を御記念致しまして、各地で盛大な舞踏会が行なわれております。わたくしも、コラプス市長であらせられますコリンズ公爵のお招きをいただきまして、コリンズ公爵の邸宅内にございます舞踏会場に赴いた次第でございます。市長のお招きということもございまして、市内またははるばる遠方からも、貴公子、貴婦人方がお見えになっておりました。会場の天井から吊るされたシャンデリアの見事なこと、会場内を彩る彫刻の数々は派手すぎず機能的で、しかしそのさりげない芸術品はコリンズ公爵の趣向と品の良さを感じさせるものばかりでございました。もちろん、貴公子、貴婦人方も皆華やかな衣装を身に纏いまして、中には国に名を馳せるような著名な方々のお姿も拝見できました。舞踏会場の一角には、市内では指折りの交響楽団が過去の偉人たちが遺した数々の名曲を演奏しておりまして、演奏に合わせて参加者たちは互いにパートナーを見つけ、皆々様ダンスに興じておられました。
諸外国におけますダンスの礼法は様々なものがおありのようでして、国によってその所作は異なるらしいと聞き及んでおりますが、わたくしの国では貴公子が貴婦人をパートナーに選ぶところから始まります。多くの貴婦人方は貴婦人同士で寄り集まって会話を楽しんでおりますが、いよいよ演奏が始まりましたら、貴公子はその何人もいらっしゃいます貴婦人方の中から一人の女性をパートナーとしてお選び致しまして、一曲が終わるまでダンスに興じるのです。その曲でのダンスが終わりますと、貴公子がパートナーとして迎えました貴婦人にお食事を勧めるなど致しまして、舞踏会がお開きになるまでともに過ごすのです。もちろん、貴婦人にはお相手致します貴公子を選ぶ権利がございます。一曲のダンスを通じて、この貴公子は御自分の好みではないと思われるならば、貴公子からのお誘いをお断り致しまして、次のダンスにて別の相手からのお誘いを待つのです。
このような風習のためでございましょうか、最初の曲では貴婦人はダンスが終わった後の貴公子からのアプローチを断ることを作法と心得ております。そのために、上流貴族や美男子、美女として名高いお方ほど、始めにダンスを踊ることは致しません。次第に演奏曲が有名なものになるにつれて、そのような方々もダンスに参加されるようになりまして、会場全体の雰囲気が盛り上がって参ります。舞踏会の後半になりますと、次々と貴公子、貴婦人のカップルが完成して行きまして、ダンスの踊り手そのものが減って参ります。その頃になってもお相手を見つけられないでおります貴公子方の慌てようといったらありません。
いま流れております曲は、ベッセル作『喚起』だとわたくしは記憶しております。舞踏会では中頃に演奏されることが多く、そろそろお相手の貴婦人が見つからないと貴公子は今晩の舞踏会でほとんど相手を見つけられなくなってしまいます。
会場内ではかなりの盛り上がりようでございましょうが、わたくしのおりますところはとても静かで、微かな風に揺れる庭園の木々の音さえも良く聴こえて参ります。わたくしがいまおりますところは裏庭側のバルコニーで、正面の入り口から真っ直ぐ舞踏会場を突っ切ったところにございます。コリンズ公爵の舞踏会場は四方を美しい庭に囲まれておりまして、太陽の燦々と照らされる昼間なぞには大そう趣き深い情景を見せてくれることが容易に想像できますが、明かりの少ない夜の頃でもその優美な様はいくらも輝きを失っておりません。薄暗い闇の中におりましても、月明かりに照らされて庭園の輪郭が浮かび上がるのです。
「ああ」わたくしは意識せずに呟いておりました、「素晴らしい庭園でございます。愛をお産みになられました聖母エミリオでさえ、これほど美しい庭園に足を踏み入れたことはないでしょう。もしも全能なる主が今ここで太陽を昇らせられれば、わたくしの目には聖母の幼い子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿がありありと見えることでしょう」
わたくしはバルコニーの裾を手すりに沿って歩いて行きます。手すりは全て黄金に瞬いておりまして、月の光や星々の明かりがその煌びやかな色の上で反射しております。バルコニーの床は入念に磨き上げられた大理石で、高貴で豊満な艶が実に美しいのです。これぞまさに、古代のリベル人が夢に見た宮殿のそれではございませんか。
「今この瞬間を」わたくしは思いのままに口を動かすのです、「写実的に描き出す画家という存在を、わたくしは尊敬するとともに大変恐怖致します。もとより、美学に対しては愚直なまでに正直に、優美なものには率直な賛辞を呈するだけの感性を持ち合わせているつもりでございます。いまや世に広くその名を馳せて死後も人々を捉えて離さない、高貴な貴族諸氏から絶賛されております、あの有名なサザバ・ベクリエスの数多くの絵画をわたくしも愛して止みません。人々が申しますように、彼の遺した作品は名品ばかりで、皇居の奥に飾られているという『木漏れ日の丘』なぞは、わたくしは彼の弟子が描いたとされる模写を見た限りではございますが、とても美しく光溢れる様はわたくしがそれまでに見たこともないような穏やかさ、温かさ、それ以外のあらゆる崇高なる感性を喚起させる素晴らしい作品だと理解しております」
わたくしはふと空を見上げました。清んだ夜空には星々を隠してしまう雲は切れ端さえも見えず、そこには真珠のような白い星の数多の姿と、あと五日ほどで充分に満ち足りる鶏の卵の形をした白粉を塗したような穏やかな月が、静かに夜というこの場所を彩っております。
わたくしは、語らずにはおれませんでした。わたくしが感じ始めたこの衝動を一度でも口にしなければ、もはや気がすまなくなっていたのです。
「しかし、ああ、しかし。美とは崇高であると同時に、恐怖の対象でもあるのです。美しさは、わたくしを支配して逃がしてはくれません。美しさを前にして、わたくしは戦慄致します。畏怖するのです。ああ!この気持ちを理解できる人が、この世界にどれだけいることでしょう!美しさを求め、世の奥地まで彷徨いこみ見えるものの先に、一体何があるのでしょうか。芸術に、美しさに魅せられて、わたくしは生きていると言えるのでしょうか?わたくしは…………!」
わたくしは、気付けば空を仰いでおりました。海辺の砂をまいたような白い星に、月はその美しい姿を夜空のステージで輝かせているのです。闇夜に眠った庭はとても静かで、わたくしの耳には舞踏会場から漏れてくる美しい演奏が流れて参ります。
「やめにしましょう」わたくしは呟くのです、「いつもいつもの堂々巡りではございませんか。長らく、長らく思考に時を費やして得られる答えはいつでも同じではございませんか。この世は無限の時間を手にしておりますが、わたくし風情が持ち合わせていられる時間などはほんの些細なものにすぎないのです。それならば、やめにしましょう。時が何よりも惜しいですから」
わたくしは舞踏会場のほうへと目を向けました。舞踏会場からこのバルコニーへ向かうには、ガラスの扉を超えてこなければなりません。天上まで延びた巨大なガラスの壁に、一つだけ金の取っ手が付いております。そこが扉となっておりまして、扉を開けなければここには出られません。しかし、ガラスの扉は閉ざされたままでございました。わたくしはバルコニーに出るときに扉を閉めて参りましたので、この広いバルコニーにはまだわたくしの他に誰もいないことになります。
「まだまだ舞踏会は続くようです」
演奏されます曲目から時間の経過を計ることができます。色鮮やかに着色されたガラスの奥から交響楽団が奏でる曲が響いて参ります。
「もう少し、庭でも拝見していましょう」
わたくしは気を静めるために、この穏やかな庭園を眺めていることに致しました。星の明かりに照らされる庭は非常に趣き深く、わたくしの熱した心と体を柔らかくほぐしてくれるのです。わたくしはまた一歩、歩き始めるのです。
わたくしは一頻り高揚した気分を落ち着かせるために、しばし冷えた空気に身を任せて庭園と、それを浮き立たせる夜空の景色を静かに眺めることに致しました。生まれついて色白なわたくしの頬は夜風に当てられてあっというまに冷たくなってしまい、わたくしの情動もすっかり落ち着きを取り戻して参りました。舞踏会場から零れて参ります音楽を耳にしながら、わたくしは外の景色に目を向けております。
「フリーク」
わたくしの名を呼ぶ声が聞こえて参りまして、わたくしは振り返りました。そこにおりましたのはわたくしの古くからの友人のトゥルースでございました。わたくしの友人は人を伴っておりました。どこかの貴婦人でございました。随分と豪奢な被り物をしておりまして、片手では納まりきらないほどの造花をつけた背の高い帽子を、いかにも貴婦人然りといった風貌で頭に乗せております。
わたくしは社交辞令上、左足を一歩前に出して胸の前に左手をかざして貴婦人に挨拶を致しました。
「こんばんは、マダム」
「御機嫌よう。舞踏会は楽しんで?」
わたくしは笑みを返すに留めました。このわたくしの対応は、一般にはなされないものでございます。女性は優美で気品高くというのがこの国の上流貴族の間での風習でございまして、貴公子が貴婦人にご挨拶申し上げましても貴婦人方からは挨拶を返すだけでそれきりというものが多くを占めております。矜持の高い御婦人などは特に、貴公子への返礼もないほどの徹底振りでございます。そういう事情がございますから、わたくしのように貴婦人から会話の繋がりを投げかけられて無下に返す貴公子は、礼節をわきまえていないか、あるいは相手方を必要としていないという遠回しな余裕の表れを示していると思われがちなのです。
トゥルースは即座にわたくしに左手を差し出しまして、貴婦人にわたくしのことを紹介するのです。
「君に紹介するよ。彼はフリーク・ベネヴォレンス。大学からの親友さ」
貴婦人はまた一等の笑みを浮かべるのです。まるで天使に祝福されました聖母のような、温かで美しい笑顔でございます。
「初めまして。フィヴ・ヴァニティと申します」
フィブと名乗った貴婦人は両手でドレスの裾を摘んでわたくしに会釈を致しました。世の貴公子方が目にしましたら、直ちに彼女の前にひれ伏してその煌びやかな光沢のあるヒールに接吻をしたことでしょう。この貴婦人は自らご自分の名を口にしまして、さらにわたくしの前で一礼を与えてくれたのでございます。
しかしながら、皆様。これまでのわたくしの素振りを重々に御覧いただいた皆様でありますならば、わたくしが取りました次なる行動にもいささか疑問に感じることはございませんでしょう。真実が隠される夜の帳に覆われているとはいえ、神はわたくしの行いを見咎めておられるに違いないのです。
「どうも」
わたくしも会釈をしまして、ただのそれだけでございます。わたくしは決して、トゥルースからの無言の圧力を感じられないほどに人の機微というものを察せられない木偶の棒などではございません。それでも貴婦人の御気分が崩れなかったのは、わたくしのささやかな微笑をもってしてなさしめたものだと皆様には信じていただきたく存じ上げます。
「お仕事は何を?」
「お嬢様の前で申し上げられるような大そうな職ではございません」
わたくしは敢えて謙った言葉でお答え致しました。長きに渡っての付き合いのございますわたくしの友人は、わたくしの意図を察しまして目元を固くする次第でございましたが、貴婦人は反って愉しくなりましたのか、より弾んだお声でわたくしめに言い寄るのです。
「教えてはくださらないのですか?」
「機会がございましたならば、喜んでお答え差し上げましょう」
遠回しなわたくしの言い方に満足していただいたご様子で、貴婦人はさらに目元を熱っぽく輝かせるのです。
「フィブ」
わたくしの友人が耐えられなくなりましたのか、貴婦人を呼び止めるのです。
「今宵の相手はこのわたしではありませんでしたか?」
いまにも友人の靴の音が聞こえてきそうでございます。トゥルースはわたくしと貴婦人の間に立つのです。
「まあ!わたくしとしたことが」
貴婦人は驚いて口元に両手を当てました。その仕草がとても可愛らしく、まだまだ幼さの残るお嬢様のような雰囲気がございます。貴婦人はトゥルースの腕に飛びつきまして、しかし思い出したようにパッと身を離し、幼い子どもが気取ってお姉さんぶるように友人を見つめ上げるのです。
「貴方の炎の色は、いま何色に燃えていらっしゃいますの?」
「嫉妬の炎にですよ。御婦人」
貴婦人は満足そうに微笑むのです。友人の返答にわたくしはつい笑ってしまいそうになりました。友人は少しばかり感情を露わにした顔を向けて申しました。
「ではフリーク。また今度」
「さようなら。またお会いできるときにゆっくりお話し致しましょう」
手を取り合って去っていく二人に、わたくしは笑顔で手を振りました。いままでのやり取りと二人の背中を見ておりますと、わたくしは思うのです。この二人はきっとうまくいかないのでしょう、と。わたくしの感性が告げるのでございます。そしてだからこそ、わたくしと彼女が結ばれるようなことも決して起こり得ないのでございます。
かくも世界は瞬いて、故にわたくしはこの世の理に夜の景色を見出すのです。ああ、世界がそこで交わらんことこそ、わたくしは請い願うのです。
友人と彼の今宵の連れがいなくなりますと、舞踏会場の中では次の演目が演奏されるときでございました。曲目は、レバロフ作『天上の噴水』だとわたくしは記憶しております。通例では舞踏会の最後のほうに演奏される曲でございますが、これがフィナーレとなることはありません。全体的にラルゴのリズムがあしらわれておりまして、うっかりすると眠気を誘われるような心地よさでございますが、会場内ではそのような暇などございません。舞踏会の終了が近づいて参りまして、それでもまだパートナーを見つけられないでおります貴公子諸氏は、いよいよ焦りの色を隠せないことでしょう。中央の華やかな雰囲気とは裏腹に、隅のほうでは貴公子方の激しい奪い合いが行われているのです。この頃になってもまだお相手を見つけられないということは、今宵の舞踏会ではパートナーを見つけられなかった、いいえ、相手に選ばれなかったということでございます。
我が国の貴族階級では、貴公子は貴婦人をエスコートするもの、そして貴婦人は自分にふさわしい貴公子を選ぶものでございます。貴公子方は貴婦人に選ばれるべく、礼節、教養、衛法を学びまして、貴婦人方は気高くあるために礼儀、知性、品格を備えるのです。貴婦人方に選ばれないということは貴婦人方に認められなかったということを暗に意味しておりまして、すなわち貴婦人方が身につけております礼儀、知性、品格、そのどこかで貴公子が、貴婦人方の求めております貴公子としての礼節、教養を欠いておられると、そう判断されたということなのです。貴婦人はダンスのお誘いから実際に相手をしてみまして、貴公子の持っている素養を見抜き、自分のパートナーにふさわしいかどうかを選ぶのです。貴婦人に選ばれなかった貴公子方にとっては自分のプライドを侮辱されたことであり、舞踏会の後半はまさに古代の戦場に等しい熱気を帯びて参ります。
「まったく」
わたくしは舞踏会場からは背を向けてただ一人で庭園を眺めているだけでございます。そうです。たった一人でございます。
「結構なことです」
わたくしの今宵の相手はございません。どの舞踏会場に赴きましても、わたくしには相手などおりません。パートナーを求めないのでございます。いつまでも女性に付き添わず独り身であることは貴族にとって恥であるとされておりますが、わたくしは別段焦る気持ちもなく、自ら相手を探すことも致しません。わたくしにとって、それは重要なことではございません。
わたくしが夜の庭園を眺めておりますと、誰かが近づいてくる足音が聞こえてくるではありませんか。革の靴の音のように聞こえます。貴公子の方でございましょうか。どうやら一人のように思われるのです。わたくしは振り向かずに想像致します。さては今夜の相手が見つからずにもう諦めてこの庭園へと逃げ果せたどこかの貴公子でございましょうか。この国では情熱的なものほど好まれるように思われます。貴婦人から選ばれることがなくとも、それでも諦めずに直向に相手を求める姿勢、それを題材にした演劇もあるくらいでございます。そういった貴公子は、観衆の好意を誘うのです。ですから、貴公子方は例え誰からも選ばれなくとも、舞踏会の会場から外に出ることは致しません。会場から退場致しますことは、恥を超えてもはや貴族の尊厳を失うものであると彼らは考えているのでしょう。最も、それは理想でございまして、全ての貴公子がそのように振舞っているわけではございません。わたくし然り、後ろからいらっしゃいますもう一人の貴公子然りにございます。
足音が止みました。
「いい夜ですわね」
わたくしは驚いて顔を上げました。わたくしの隣に一人の貴婦人がいらしたのでございます。純白のドレスは輝くように白く、そのドレスには他の貴婦人方とは違い、煌びやかな装飾がなく、実に簡素なものでございました。飾り気のないドレスはどこまでも薄く、重厚を重んじるダンスの場では珍しい様子でございます。左の胸の上に白い薔薇の造花が一輪飾られているだけで、他にドレスを飾るものは見当たりません。燃えるように紅い髪には髪飾りの類はなく、背中まで伸びた美しい髪は滑らかに整っております。その髪の下から覗くお顔は粉をまいたように白く、太陽の下に輝く一面の雪景色を思わせる美しさでございます。しかしながら、婦人は庭園を眺めておりますので、わたくしには貴婦人の横顔しかまだ見ることができません。貴婦人はわたくしには一瞥もくれぬまま、独り言のように呟きを漏らすのです。
「息絶えし聖夜に舞いしニルバーナをて、この世にふさわしくもカタストロフィとなりましょうね」
「ナイトメアに伏しましたか。神の御心は、まだ君がためにあるのです」
「いいえ」貴婦人は振り返りました、「神は、死んだのです」
女性はふっと柔和な笑みを浮かべます。ああ!このときのわたくしの胸の高鳴りといったら、轟々と打ちつける滝のように激しく、嵐の中を駆ける荒馬のごとく、わたくしの体はこんなにも自由なのです。潤んだ貴婦人の瞳はなんともいえず美しい光を放ち、それは天がこの荒れ狂う地に授けました曇りなき宝石のように輝いておられるのです。神でさえもひれ伏しそうなその魅力的な瞳に、わたくしはつい言葉を忘れておりました。
「キレストレフを嗜みになって」
「キレストレフの『惨事の日に目醒める胎児』ですね」
貴婦人の言葉でようやくわたくしは我を取り戻すのです。なんという運命。なんという偶然でしょう。キレストレフのお話がわかる方がおられようとは。そんなわたくしを試すかのように、貴婦人の言葉はなめらかに滑るのです。
「終焉があるために世界は美しいのではない。終焉こそ、世界の本質なのです」
キレストレフ作『惨事の日に目醒める胎児』、その作中にでてくる言葉でございます。ヒロインであるベストゥーレ嬢が最期に遺した言葉、この作品を最も端的に表す最上の言葉でございます。
「良い言葉だとは思いませんか?」
「わたくしは」わたくしは思案してある言葉をお返し致します、「一人のときに人は孤独を感じない。人の中にいるからこそ、人は孤独を感じるのです。この言葉も一等に愛しております」
「『愛おしき囚人』ですね。キレストレフの初期の作品」
「キレストレフ・アミューが生まれたのは、聖騎士戦争が終わった半世紀後、ボルボロフの祭儀と呼ばれる時代。人々は繁栄に浮かれ、その頃の文化は特に華やいだ艶やかな彩色を強く帯びておりますが、キレストレフが残した作品はどれも終焉思想を彷彿させるものばかりでございました」
「当時の彼の評価は低いものでした。その存在ですら光り輝くものたちに隠れて、キレストレフの名が世界の表に立ったのは彼が没してから一世紀後、ベイルⅢ世が即位されてまもなくのこと。先代のベイルⅡ世が身を引いたきっかけとされるバイラの大飢饉から、国を立ち直すため尽力していた頃です」
わたくしは彼女の言葉を引き継いで申しました。
「栄えた都が掌を返したように飢えと渇きに満ちていたのです。人々はそのとき、栄枯盛衰の理を悟ったのでしょう。当時の文化は終焉思想が盛んとなり、キレストレフの復活を導いてそれがために彼の作品から影響を受けたと思われる作品が多数生み出されました。しかし――」
わたくしは悲嘆にくれます。
「どれもこれもがキレストレフの模造品ばかりで、独自の異彩を放つものは乏しいものです」
「あら、でも」彼女はわたくしの意見に反発するように申すのです、「マローニャやキスクリットのような著名な方もいらっしゃいますわ。マローニャの『改革と改悪』、キスクリットの『粛清』などはいまの世でも充分知れ渡っているものではありませんか」
「あれこそまさに!」わたくしは叫びました、「世に従って作られた作品と申しましょう。彼らの作品には響くものがございません。心の底で生まれたと思われるような何かが欠けているのです。あれではただの繰り返しに過ぎません。キレストレフの書物を見聞きしたものだけが書き連ねてあるに過ぎないのです。彼らの終焉思想は、本物ではございません」
彼女は申しました。
「抽象的ですね」
平静を装う彼女の瞳は、しかし熱っぽく潤んでいるのをわたくしは見逃しませんでした。
「そうですとも」
わたくしは落ち着き払って答えるのです。
「わたくしの思想は、残念ながらまだ到達しておりません。完成を見ていないのです。世の理を、真実を、まだ見抜けてはおりません」
「それでも」彼女はわたくしの傍まで歩み寄って申します、「それでもあなたは信じてらっしゃるのね。あなた自身の感性を」
わたくしを見上げる彼女の目はどこか神秘的な雰囲気を漂わせておりました。
ああ、これが!キレストレフの言った審判の刻でございましょうか。身に纏いし罪過を人の前に曝し出したときの、あの心の奥まで見抜かれるという真実の瞳なのです。
「もちろんです。そして永遠に変わらないでしょう、わたくしの感受性は」わたくしは彼女の目を見ながら答えるのです、「キレストレフ・アミューやサン・デステルヴィア、ボロクソール・ギル・エーデルたちが綴りました思想にわたくしはいっそう焦がれて、そしてそれこそが世界の本質であるのだと信じて疑わないのです」
「面白い方」
彼女はふっと微笑むのです。ああ!このときのわたくしの心のありようときたら、いかに表現したらよろしいでしょうか。心臓は滝のように鼓動を刻み、わたくしの体中を流れる血液は荒れ狂う嵐のように流れていくのです。彼女の艶っぽい瞳、化粧っ気の少ない白く瑞々しい頬、薔薇の咲いたような唇、紅い髪は燃えるように大気の上で波打っているのです。偶然を弄ぶわたくしが唯一運命と語る瞬間はそうそう訪れないのでございます。
わたくしと彼女は長い間議論に耽っておりました。これほどまでに長い間、わたくしがわたくしのいままでに学んだ知識を他人の前に曝け出すことはございませんでした。わたくしと彼女はすっかり意気投合したのです。しかしながら時は限られております。最後の曲が終わりまして、舞踏会はお開きになったのです。わたくしはマリスと別れますときに――彼女はマリス・ミーディアムと申します――再開の約束を申し出ました。彼女は喜んでわたくしの申し出を受けてくれました。マリスは、いつがよろしいかとわたくしに訊ねるのです。マリスはいつでもよろしいと申しまして、わたくしもいつでもよろしいとお答え致しました。すると彼女は「では明日のランチをご一緒しませんこと?」と申しましたので、わたくしはそれはよろしいとお返事申し上げたのです。その日をきっかけに致しまして、わたくしたちはしばしば出会いを重ねるようになりました。とても楽しいひと時でございます。わたくしが思いますに、人は知識の共有というものを愛するのです。己が学び、己が信じた知識や感性、感覚に思考を、他者とともに興じることはこの上ない幸福に違いありません。
舞踏会の日から二週間ほど経ちまして、わたくしは友人のトゥルースと町中で偶然にして出会いました。彼は仕事中でございましたので、そのときは夜に彼の家で会う約束を致しました。
「よく来たね、フリーク」
わたくしはトゥルースと一緒に食事を摂りながら、様々な話を交わしました。
「あのお嬢さんはどうしました。舞踏会のときにご一緒しておりました、あの可愛らしいお嬢さんは」
「いや、それがね」トゥルースは申します、「はっきり言ってしまうと、ものを知らないお嬢さんでね。舞踏会の日こそあれほど奥ゆかしい振る舞いをしていたのだけど、三日目の日に仕事を休んで会いに行ったときには、事前に手紙を出していたというのに、彼女ときたら、商人が着ていそうな布を何枚も重ねただけという実に滑稽な恰好でやって来たわけさ」
わたくしは思わず笑ってしまいました。そのときの彼の慌てぶりが目に映るようでした。
「よくよく話を聞いてみたところ、フィブは靴屋の長女だったのだよ。ヴァニティの名前で調べてみたら、彼女のお爺さんの代から実績を上げ始めたお家でね。だから貴婦人として求められる知識どころか、礼節のほうも身につけてはいないようなのさ。商売の話はお得意らしかったが、靴の話や客引きの方法を話されても、こちらは何と答えたらよいのやら」
「それはそうでしょう」
わたくしは笑いを堪えるのがやっとでございました。わたくしの態度を御覧になりまして、トゥルースは憤然と致しましたが、友人は咳払いを致しましてからわたくしに訊ねるのです。
「君はまた一人だったね。いつまで相手を作らない気だ。どんなに君が独り身を望むと宣言したところで、世間ではそうも言ってはいられない。神の教えに逆らうことになるのだから」
「神ですか」わたくしは申しました、「神という存在が本当にこの世界のどこかにあるのだとしたら、わたくしの身はとうになくなっていたでしょうに」
友人は溜め息を吐きます。
「その発言も、できるなら俺の前だけに留めてくれよ、我が親友。俺の立場も、重々承知のはずだと思うがね」
「もちろんです」わたくしは答えて申します、「君の仕事のことも、わたくしはよくよく存じておりますし、だからこそわたくしはこの議論を君の前でしかしてはいないのです」
わたくしの友人、フリークの仕事は警官でございます。社会の安全と秩序を守ることを第一に掲げておりまして、その職に殉じているわけではございますが、その一環と致しまして、思想調和と申しますものも彼らの仕事でございます。思想調和と申し上げますれば聞こえはよろしいでしょうが、つまるところ、異端思想を悉く取り締まるというのが彼らのお役目でございまして、それはすなわち、わたくしのような考えを持つものを弾圧するものに他なりません。
この国の中で重きをおいておりますのは、礼儀と美徳と奉仕でございます。礼儀は人に対して、美徳は芸術に対して、奉仕は神に対して現れるものでございます。人に礼を尽くしまして、芸術を愛し、神に殉じる、それこそが我が国の文化、国民の誉れ、というわけでございます。
「それに」わたくしは申します、「君はもう一つだけ勘違いをしております、トゥルース。わたくしはあの夜、始終一人で過ごしていたわけではございません」
「ほう、では誰と?」トゥルースは身を乗り出して訊ねます、「君が誰かと一緒にいたというのか。それは気付かなかった。周りで舞踏会が行われているというのに、ずっとバルコニーのほうにいて会場には姿を現さなかった君が、どこで相手を見つけたというのか甚だ気になる」
トゥルースの目が悪戯っぽく光っているのがわかります。おそらく、わたくしの申し上げましたことを信じておられないのでしょう。なぜならば、トゥルースはわたくしが舞踏会の間中、外のバルコニーにおりましたことを御存じなのです。舞踏会にも参加せずに始終外におりましては、当然ながら貴婦人方と接する機会などあるはずがございません。ですから、我が友人の疑惑は無理からぬことなのです。
「その庭園でお会い致しました。美しいお方でございました。文学にもよく精通しておられました。わたくしが申し上げるのも奇妙ではございますが、運命的な出会いをしたものです」
トゥルースは意外そうな顔を致します。
「どこのお嬢さんだ?その貴婦人は」
「マリス・ミーディアムと申しておりました」わたくしはお答え致します、「彼女とは、先日の舞踏会以降から何度もお会いしておりますが、そういえば彼女のことについては何も聞いておりません。わたくしと致しましては、愉しくお話ができますればそれでよろしいのですけれど」
いつになく口が滑らかに動きましたものですから、わたくしはトゥルースの存在を一時失念しておりました。そしてわたくしが気づきましたときには、トゥルースはなにやら深刻な顔つきで悩み耽っているような恰好をしているではありませんか。
「どうか致しましたか、トゥルース」
わたくしは不安になりまして、トゥルースに問うたのです。トゥルースは警官をしておりますせいでしょう、こと危険なものにつきましては人よりも数段目と鼻が利くのです。その上、彼は裏表がございませんので、わたくしには友人の感情がいつでも筒抜けなのです。さらに付け加えるならば、トゥルースは決して嘘は申しません。いつでもわたくしに真実を語ってくださいまして、遠慮なくわたくしに助言してくださいます。そういった実直さから、わたくしは彼を友人と称しているのです。
「フリーク。これは友達として忠告しておく。彼女とは別れるんだ」
わたくしは咄嗟に声を上げておりました。
「どうしてでしょうか」
わたくしはしばし冷静さを欠いておりました。とは申しましても、常日頃より物事に動じずの心構えを通しておりましたわたくしにとってでございますから、別段取り乱すようなことは致しませんでした。頭を冷やしながらわたくしは申し上げました。
「理由を聞かせてはくださいませんか、フリーク。何故彼女と別れなければならないのでしょうか。それがはっきりしない限り、わたくしは君の申しますことに得心ができません」
「そうだろうとも、もちろん話そう。そもそも君はミーディアム家のことをどのくらい知っているのか、俺に話してくれ」
わたくしは口元に手を当てて考え込みました。しかしながらマリスとは文学や哲学思想の話がほとんどで、これといってお互いの私生活、ましてや家柄のことについて語るようなことがございませんでしたから、何も閃くものなどございませんでした。
「いいえ、全く以って存じません。よくよく思い返してみますと、ミーディアムという名をそれまでに拝聴したことがございません」
「そうだろうとも」
トゥルースがテーブルに乗せていた手の向きを変えたのをわたくしは見逃しませんでした。我が友人はご自分の仕事柄の話となりますと、つい興奮して落ち着きがなくなるのです。やたらに手を動かしたり、足踏みをしだしたり、妙なところに視線を向けたりと、始終忙しないのです。端から見ているわたくしから致しますれば噂好きのそれではございますが、トゥルースの話は警察という組織を元に収集された情報でございますから、疑う余地などございません。
「そのミーディアム家も俺のお嬢さんじゃないが、ここ最近で財を成した貴族家だ。ただし、ヴァニティ家とは違い、その勢力は遥かに大きい。どういうことかというと、財を蓄えたのが当主のイーヴィル・ミーディアムで、君の言うマリス・ミーディアム嬢の祖父にあたる人だ」
「お爺様でございますか」わたくしは驚いて声を上げました、「齢はおいくつですか?」
トゥルースはもったいぶったように答えます。
「君も聞いたら驚くだろうよ。すでに九十近いお年だけれど、いまでも家の実権を握っているのさ」
「確かに驚きですね。それで、お仕事は何を?」
「それが妙なのさ。ミーディアム氏は一つの事業にこだわらないのさ。つまり、あらゆる業界に携わっておいでだ。俺が知っているところでは、畑、家畜を育てるところから管理まで、チーズやワインでも有名なものが数多く出回っているし、他にも綿や絹にも手を出していて、そうかと思えば鉱山に出向いて貴金属類を取ったり、鍛冶屋をやっていたり、極めつけが貿易商まで一挙に扱っているのだから、大したものだ」
トゥルースの感極まった声に、わたくしも大いに頷きました。
「それはすごい。それを一代でですか?」
トゥルースは忙しなく手を動かしながら答えるのです。
「そうなのさ。当主イーヴィル・ミーディアムが最初に経済活動に関わったのが大学生のとき、そのときはまだ株式に手を出しているに過ぎなかったが、それでもミーディアム氏が大学三年目にはすでに巨万の富を得ていたといわれている。それからミーディアム氏は大学を中退し、株をやりながらも他の企業をいくつか買収して少しずつ成長していったのさ。いまではこの国でも有力な大企業にまで成長したというわけだよ」
「なんとまあ、合理的なやり方です」わたくしは感嘆したように申します、「すごいものです。経済を学んでおりますればこの世の金の流れ全てを把握することができるというのは真実なのですね。わたくしも哲学などで遊んでおらずに、経済や法律に精を出してさえいたならば、こんな貧相な生活に甘んじることなどなかったのです」
「またそれか」トゥルースが溜め息を吐きます、「いまの君とて、そこまで難儀な生活を強いられているわけではないだろ?」
「わかっております。いまのはほんの冗談です」答えた後でわたくしは申しました、「ところで、ミーディアム家がいかに膨大な資産家で、巨大な企業であるということは理解できました。しかしながら、わたくしにはまだミーディアム嬢と関わることを止める理由が見当たりません。それだけの資産家の御令嬢と接見が叶うのであれば、むしろ幸運とも申せますでしょう」
「そうだそうだ」トゥルースは何度も頷いて申します、「ここからは少しばかりミーディアム家の内情の話に移るとしよう。強調して言ったつもりだったが、改めて言っておこう。当主はそのお嬢さんのお爺様、イーヴィル・ミーディアムなのだよ。つまりだね、御当主はまだ御自身の座を譲ってはいないのだ。それが証拠に、御年九十になろうというのにまだまだ隠居なされていないのさ」
「それは大したものです」わたくしは自身の未来を想像致しました、「わたくしであれば、九十には悠々自適な隠居生活を愉しんでおりますか、どこかの土地にこの骨を埋めている頃でございましょう」
「感心するところではないぞ」
「ではどういうことなのでしょう」
トゥルースはわたくしに次のように申しました。
「不思議に思わないのか。ミーディアム氏は未だにその座を引き継いではおられないのだよ。このまま世襲がされなければ、ミーディアム家は一代限りの企業で終わってしまう」
「ああ、なるほど。そうでしたか」
わたくしはトゥルースの申しますことに得心がいきました。
「このミーディアム氏がなかなかの実力主義なお方で、彼には五人の息子と三人の娘がいるわけなんだが、誰にも社長の座を譲るつもりはないと仰っているのさ。で、それでは誰に家督を継がせるおつもりなのかと、いつぞやの新年会で問うた者がいるそうだ。ミーディアム氏はそれに、孫の誰かに継がせようと仰ったそうだ。つまりだね、彼にはすでに二十人近いお孫さんがいるわけなんだが、その中から一人選び出そうというのだよ」
トゥルースはグラスの酒を飲み干しましてから、再び話し出すのです。
「今回は相続争いの話は避けようではないか。君に一番に伝えなければならないことは、マリスという名の貴婦人についてなのだから」
「そうですとも」わたくしは大いに頷きました、「彼女のことについて聞いておかねばなりません。始まりはそこなのですから。ぜひとも聞かせていただきたい」
トゥルースはグラスに酒を継ぎ足しますと、肝心のマリスのことについて語り始めました。
「マリス・ミーディアムは彼女の祖父イーヴィル・ミーディアムの長子、アイスヴィル・ミーディアムの一人娘なのだよ」
「男兄弟はいらっしゃらないのですか?」
いかに女性を優先と致しますお国柄ではございましても、社会を担っていきますのはやはり男性であるとみなしますのが、わたくしの暮らします国の体制でございます。男性が全面的に仕事をこなしますのに対し、女性はその家の面目が立つように立ち振る舞うのが常でございます。古代の時代からでありましょうか、力仕事ではどうしても不利になります女性を男性諸氏が保護致しまして、代わりに家を維持するのは女性の役割でございます。そんな女性たちにこそ、男性は感謝の礼を以って接するというのが、この国の習わしなのでしょう。
「マリス嬢一人だけさ。というのも、彼女が生まれたときに母親は死んでいる。出産が原因だとは思うのだが、詳しくはわからない」
出産後の女性の死亡率は、この国ではまだまだございます。昨今は医療の進歩で少なくはなってきているようではございますが、それでも十人に一人は亡くなられていると聞き及んでおります。女性にとっては不憫な話でございます。
「父親のほうはというと、元々長男だということで、家は自分が継げるだろうと思っていたんだろうさ。高等学校は遊びすぎたがために中退して大学にも行っていない。奥さんは家からの勧めで決まったらしいが、遊び好きがすぎてろくに家に帰らない放蕩者だったそうだ。一人家に残された奥さんは旦那の帰りをいつも待ち続けながら、最期まで一人で暮らしていたそうだ」
心底悼んでおります友人に対しまして、わたくしも続きますように同情の言葉を述べます。
「気の毒な話です」
わたくしの言葉に引っかかりを感じ取ったのでしょう、友人は眉を寄せましてわたくしを覗き見るのです。
「本当にそう思っているのか、我が親友?」
長い付き合いのせいでしょう。他の人であれば気づくこともない微かなわたくしの意図を、勘のいいトゥルースはすぐに見破ってしまうのです。
「まあいい。今日はこの話はやめておこう。そんな家庭の中で当のマリス嬢はお生まれになって、娘ができたことで少しは真面目になるかと思われた父親は、周囲の期待を裏切ってさらに遊び癖に拍車がかかったのさ。まったく、どうしようもない父親さ。そんなわけで、娘の周囲にはお手伝いが何人かいるだけで、父親は家庭教師も呼ばないものだから娘も好き勝手に育ったわけだ。それがある日、当主のミーディアム氏が息子娘の家を秘密で訪問したときがあったらしい。もちろん、長男の家では息子はおらず、その娘だけだがね。そこで娘がお爺様にとんでもない粗相を働いたそうなのさ。その状況までは俺の耳にも入っていないんだが、それで娘はお爺様から家を追い出されてしまった、というわけさ」
貴族の家柄では、勘当することは世間的にもよくないものとされております。もちろん、貴族だからと申しまして、教養が行き届き、まったくもって素晴らしいお人柄になる、というわけではございません。急速に成長したお家では、そもそもに教育というものが充分になされないことがございます。また、一方で没落貴族の話をわたくしも多々耳に致します。それでも、そんなご子息たちを家から追い出すような真似は、大抵致しません。せいぜい、修道院に送るのが関の山でございます。
わたくしは気になることがございまして、トゥルースに訊ねました。
「それで、ミーディアム嬢はいまどのような生活をなさっておられるのですか?」
「聞くところによれば、町外れの丘の上に家と年金四千ギルを貰ってひっそりと暮らしているそうだ。丘の上の薔薇屋敷のことは、君だって聞いたことがあるだろう」
「いいえ、初耳でございます」
トゥルースは呆れたようにわたくしを見るのです。無理もないことでございます。そのときわたくしは存じてはおりませんでしたが、丘の上の薔薇屋敷といえばこの町ではたいそう有名な話だったのです。そこに暮らしておりますのがマリス・ミーディアムだということを知るものは少ないようでしたが、ミーディアム家の長男の娘が家系から追放されたというのは大分知られている話のようでございました。
「まあ、そこに暮らしているお嬢様だよ。そういう家柄の奴らには、年金四千ギルでも少ないほうに入るんだぜ。四千ギルで追放なんて、俺なんかよりずっと豊かな暮らしぶりだろうさ。召し使い十人いたって、まだ遊んで暮らせる計算だ。世の中、不公平なものだ。真面目にこつこつ働いている俺たちよりも、遊んで暮らしている奴のほうが金持ちなんだからな」
ほとんど終わりかけた食事を前に致しまして、トゥルースはぶつぶつと愚痴を零すのです。確かにいまのわたくしたち二人から致しましては、年金四千ギルというのは莫大なお金でございます。わたくしとトゥルースの家を合わせまして、さらに同じ敷地を持つ家を章有し、その上で女中を充分に雇いましても、月に一度の晩餐会を開くことは容易いことでしょう。
一応貴族のわたくしと友人でさえ、そのような暮らしぶりは遠い世界のように思えまして、マリスはまさしくそのような生まれでございましたかと、わたくしは心中にて驚嘆したのです。
トゥルースからかような忠告を受けたわけではございますが、誰がわたくしのこの思いを諦めさせることができましょう。蜜の香りに誘われた蝶は野ばらに潜む蜂を存じてはおりましても、花の中に飛び込まずにはいられないものです。マリスとの交際が始まりましてから、早いものでもう一ヶ月が経とうとしておりました。友人の話を聞いて以来、わたくしの頭を支配しますのは彼女に対する恐怖や不信の情ではなく、よりいっそうに彼女とお近づきになりたいという思いだけでございました。マリスと会話を弾ませてよりいっそう彼女の知性を、そして彼女自身のことを知ろうと懸命に努めたわけですが、どういうわけか彼女の身の回りのことについてはうまくかわされてしまいまして、なかなかにわたくしの耳にするところまでは至らないのでございます。しかし、それだからと何と申しましょうか。わたくしは彼女に惹かれておりました。彼女が振り撒くその知性と感性に、わたくしの心は躍り続けるのです。そうです、皆様。わたくしの心は、何ものにも変えがたい充足感を得るのです。それだけございましたならば、他にいったい何を望むというのでしょうか。
その夜、わたくしはマリスのお誘いを受けましてパラッドまで出かけました。パラッドのリミール通りに劇場があるのだと彼女は申します。わたくしはマリスとともに劇場に入りまして、幕が上がるのを待ちました。
「演目はどういったもので?」
「『コズヴァルグレッド』、ウィー・ドゥ・ランダムの作品ですわ」
ウィー・ドゥ・ランダムは徹底したまでの抽象主義者で、凝った題目なのが有名でございます。『コズヴァルグレッド』からもお分かりいただけますように、ここには意味などございません。ランダムにとっては何かしらの、それこそ抽象的な意味が含まれているのかもしれませんが、常人たるわたくしめにはてんで理解の及ばぬものなのでございます。題名だけではございません、内容までもなかなか意を解しえない作品ばかりでございまして、『コズヴァルグレッド』だけではなく、全ての作品において申せましょう。しかしながら、ランダムの作品には強く響くものがございまして、一部の趣味人にはよくよく愛されております。
「これは珍しい。ランダムの作品とは。しかも『コズヴァルグレッド』とは、なかなかどうして、良い趣味をなさる」
わたくしの隣でマリスが慈母のような微笑を浮かべるのです。
「驚かれましたか。他の劇場ではそうそう観られるものではございませんのよ」
「仰るとおりです。ランダムは抽象主義で有名でございます。彼は人生を通じてその信念を貫いておりました。ランダムを語る数々の評価がどれもこれも一貫しているものがなく、それだけでも充分に愉しめるものです」
わたくしは目を閉じましてランダムの作品中の言葉を申しました。
「金の剣、銀の剣、銅の剣。だったら、鉄の剣がよく切れる」
「『バラクーヌ』ですね。実に有名な作品ですわ」
「ですが、わたくしとしましては『ゲラミルドブーケ』のほうが好みですがね」わたくしはまた目を瞑りましてセリフを申し上げます、「焼き鏝を持て!焼き鏝を持て!じゅうじゅうと焼いた肉は蜜のように甘いんだ」
わたくしの言葉に応えるかのようにマリスは続きのセリフを申しました。
「おいおい。そいつは、おいらの右腕じゃないか。どうしよう、これじゃあフォークが持てないよ。食べれないよ」
「そのままかぶりつくんだよ。ほら、こうやって」
「「えいっ!」」
わたくしと彼女の声が重なりました。一頻り笑いましたあとで、マリスは申しました。
「お好きですね、あなたは。こういうの」
「あなたは、どちらかといえば『タータチッター』のような作品のほうがお好みでは?」
「よくおわかりで」マリスは嬉しそうに笑みを浮かべるのです、「けれど残念ですわね。あたしは『ヒューマノイエーノ』のほうが気をそそりますわ」彼女もご自分が好みます作中の言葉を申しました、「ナイフはどこ?ナイフはどこ?」
すぐにわたくしはその言葉のシーンを思い出しまして、セリフを続けるのです。
「そこにあるじゃないか」
「ナイフはどこ?ナイフはどこ?どこにも見当たらないわ」
「ほらほら、ここにあるじゃないか。君の目の中から、にょきにょきと生えているじゃないか」
再びわたくしたちは愉しそうに笑い合うのです。わたくしも、素直に喜んでおりました。ここまで話が通じるお方は、いままでにお会いしたことがありませんでした。ランダムのような抽象主義の作品は、評論家にとっては面白い題材でございますが、個人として嗜んでおられる方はかなり少数でございます。
「それにしましても珍しい。ランダムの作品を扱っております劇場がございましたとは」
わたくしは感慨深く申し上げました。元々の需要が少ない作品でございますから、オペラにしましてもお客が入ることは期待できません。現に、わたくしたち以外にこの劇場に人の姿はございません。おかげで、これだけお喋りを致しましても誰の気に触れることはございませんので、それはそれで結構なことでございます。
「初めてご覧になりますか?」
「もちろんですとも。元々わたくしは劇をあまり見ないたちなのですが、それでも初めて耳に致します」
マリスは不思議そうにわたくしの目を覗き込みます。貴公子、貴婦人にとって劇場へ足を運ぶというのは、一つの嗜みでございます。
「良いものですよ、劇は。もしよろしければ、次も劇場に参りましょうか。今度も、あなたがきっと見たことのないものをご覧になれますわ」
「ありがとうございます。しかしどうせ足を運ぶのでしたら、わたくしは音楽会に行きたいものです」
「まあ、それはどうして?」
「古典音楽では、音楽とは純粋に神への祈りだとされております。故に音の美しさ、旋律への調和が主とされておりましたが、近年では音楽にも一つの物語性を持たせているらしいと耳にしております。そのような作品をぜひとも体験しておきたいのです」
マリスは愉しそうに微笑みました。
「あなたからは珍しいお言葉ですのね。けれども、あまり期待なされないほうがよろしくてよ。音楽の世界において新たな確立がされるのは、おそらくあと五十年は先の話ですわ」
わたくしは驚いてマリスに訊ねました。
「音楽についてもお詳しいのですか?」
マリスはうっとりするような笑みを浮かべます。わたくしはマリスの返事を待ち、じっと彼女を見つめております。彼女の笑みを見ているだけで、つい時間の経つのを忘れてしまいます。
「あら、そろそろ舞台が始まりますわ」
マリスが申しますように、舞台の幕が開きまして、オペラが始まりました。ウィー・ドゥ・ランダム作『コズヴァルグレッド』でございます。抽象主義者であるランダムにふさわしく、それでいて的確に彼の作品を演じる歌手たちはとても輝いておりました。大地が裂け、天が轟く、まさに創生の瞬間。嵐が生まれ、人の世界を切り開く。混沌に支配されました彼の作品が、この瞬間に一つの意志を持って動いている様は、何と素晴らしいことでございましょうか。ここまで見事に演じきる劇団もないのではないかと思えるほどに、この演目は美しく、そしてこの貴重な瞬間に立ち会えたことにわたくしは素直に感動しておりました。
三時間のオペラを堪能致しましたわたくしたちは、劇場を出まして十分ほどしましたところにございますレストランへと向かったのです。今宵は彼女がコーディネート致しましたルートで進んでおります。劇からディナー、途中で立ち寄る店なども彼女が選んだものばかりで、わたくしは気楽な気持ちとともに、愉しみな気分も混ぜ合わせながら、彼女の隣に座っております。この町で長いこと暮らしておりましたわたくしと致しましては、この町で知らない場所などないつもりでおりましたが、ここ最近のマリスが案内してくださる場所はどこも知らないところばかりで、わたくしは興味からついつい真剣に眺めてしまいます。
「ここは初めて?」
そんなわたくしを見透かすように、マリスは美しく微笑んでわたくしに問いかけるのです。
「ええ」そんな彼女に返すわたくしの言葉も、いつも決まっております、「初めて目に致します。このような場所がこの町にあったなんて」
いつもであれば、彼女はわたくしの素直な言葉に一等の笑みを浮かべて喜んでくださるのですが、今回ばかりは違っておりました。
「そうでしょうとも」
マリスは天使のように優しく微笑みを浮かべるのです。初めて彼女と出会いました、バルコニーでお見かけしましたときのような、無邪気で覗き込むような笑みでございます。わたくしの心を絡めとっていく、それは素晴らしくも美しい笑みなのです。
「ここはあたししか入れないところなのですもの」
馬車の到着を見計らっておりましたように、レストランの扉は開いていたのです。マリスは慣れたご様子で、店内へと優雅な雰囲気をまとったまま入って行きますのを、わたくしも隣に並んでついて行きました。こぢんまりとした外見にふさわしく、店の中には円いテーブルが一つと向き合うように椅子が二つあるだけでございます。夜の雰囲気を愉しむかのように、強すぎないていどの蝋燭が暖かく店内を照らしております。店内の四隅には、目を愉しませるように植木が一つずつ並んでおります。狭すぎず、かといって広すぎて落ち着かなくなるようなこともなく、さりげない意匠を凝らした店内はとても居心地がよいのです。
「入り口でのあなたのお言葉は」席に着きましたわたくしは、早速目の前に座る彼女へと訊ねました、「あれは一体どういう意味でございましょうか?」
「どういう、とは?」マリスは実に愉しそうにわたくしへと答えるのです、「何もおかしなところはございませんわ。そのままの意味ですの。ここは、今まで参りました場所もそうです、あたししかその場所を知らないのですわ。そしてあたしがお願いをしたときにしか営業しておりませんの。簡単に申し上げてしまえば、あたし専用のお店ですわ。劇場も、服屋も、靴屋も、宝石店も、パン屋も、レストランも、すべてあたし専属、つまりはあたしの持ち物ですわ」
わたくしたちが席に着きましてからほどなく致しまして、最初の料理が運ばれて参りました。ホワイトソースを皿にひきまして、この辺りでは滅多にお目にかかれないような海鮮サラダがオードブルとして出て参りました。次に運ばれて参りましたのはクリームを使ったコーンスープ、そして特上のあわびとなすの蒸し物が登場して参りまして、わたくしはこのような料理など今まで食べたこともございませんでした。初めて目にしました料理に、わたくしの舌は素直に絶賛の言葉に震えておりました。この世界にこれほどまでに美味なものがあったとは!
「お信じになられませんか?」
あまりの料理の数々に言葉を失くしておりましたわたくしに、マリスは訊ねます。上流貴族のように落ち着き払った彼女に、わたくしもそれなりの態度でご返事申し上げるのです。
「いいえ、マダム。世の中にはわたくしなどでは想像にも及ばないような裕福な方々が存在しております。皇帝陛下を始め、一級の貴族であれば、または一級の盗賊や詐欺師などでは、まかりとおっておられる世界があるものです」
わたくしも貴族という家柄ではございますが、目の前に並べられた料理を毎日食べられるような身分ではございません。他の貴族の方々でも、どれほどの方がこれほどの食卓を囲んでおられるでしょうか。いいえ、それ以前にと申し上げるべきでございましょう。このような一流料理を配膳されるレストランを自身の手の内に入れておけるなど、並みの富ではございません。マリスの懐のうちが垣間見えた気が致しまして、わたくしはただただ圧倒されておりました。
「一つよろしいかしら」メインディッシュを食べ終えましたところで、マリスがわたくしに向かって申します、「あたしは、とうの昔に命を止めておりますの。もうこの世界の理では生きていない種類の人間、ということですわ。ですから、そのような呼び方は止めていただきたいの」
品位を保ったままとはいえ、いつになく直接的な彼女の申されように、わたくしはいささか奇妙な気持ちを覚えましたことをここで告白致します。
「わかりました。レディ」
マリスは意地悪っぽくわたくしを覗き込んで参ります。
「あなたも、そうでなくって?」
その熱っぽい瞳、声に、わたくしはついつい引き込まれそうになりました。仄暗いせいでございましょうか、店内は不思議な空気で満ちております。その店内におりますのは、わたくしとマリスだけなのです。
「肉体がこの世界に存在したとしても、精神はこの世界にしっかりと組み込まれてはいない。世界というものを、どこか別の視点で捉えてしまう。それはまるで、幽霊のような気分ではないかしら」
「ユーカムアの『虚無の目』ですか」
わたくしが平生の生業で偉人の名を持ち出しましたところ、いつもなら心地よく口を滑らせていただける彼女も、本日は顔色一つ変えずにぴしゃりと申しました。
「今日はそういうお話はなしよ」
マリスの瞳はいつものように熱っぽく潤んでいるのです。その目に見つめられまして、わたくしの頭はくらくらとのぼせるようでございます。
「あたしは、あなたの言葉が聞きたいの」
ちょうどそのときにデザートが運ばれて参りました。今まで豪奢なものばかりが登場しておりましたので、次のデザートもなかなかのものかと期待しておりましたら、出て参りましたものは、タルトにクリームを伸ばし、上から苺のソースが彩られた、料理というよりは芸術作品と呼ぶにふさわしいものがやって参りました。
「ちょっと視点を変えましょう。あなたにとって世界とはどのようなものですか?」
わたくしはお答え致しました。
「世界とは、真理を閉じ込めた壺のようなものです。壺の中は蓋が閉じられているために何も見えません。人は真理を知るために手探りで壺の中を探っていくしかありません。人は、人という世界の中で多くの真理を獲得していきました。しかしながら、それでも人は世界のすべてを手に入れたわけではございません。そう、世界とは無限に広がっているのです。真理だけではなく、資源、命、時間も、そして破壊や、破滅、死でさえも、この世には無限に広がっているのです。人はどこまでいっても壺の中、つまり人の世、自分の肉体でしか世界を計れません。人という世界で見れば、人は多くを理解し学んできたとは思います。しかしながら、世界を構成する人間一つをとった場合、人は人の枠を超えないのです。どうして、人は神という抽象概念、理屈から外れてしまう理を信じようとするのでしょうか」
マリスは熱っぽくわたくしを見つめます。
「素敵ですわ。神なんて、この世のどこにもありはしませんわ。神が弱きを助け悪を裁くのであれば、この世界に政治や法律なんてそもそも必要ありませんもの。神の法典だけが世界の理ならば、人は永遠に年をとらずにすむのですよ」
マリスは満足そうにデザートを口に運んでいきます。
「やはりあたし、あなたとは気が合いますわ。あたしは年を忘れたところで生きていますのよ。あなたも、命という枠に意味は見出しておりませんよね?そうですとも。輪廻だろうと終焉だろうと、命とは無限に存在する世界のほんのひと欠片。生命が塵のように消えてなくなっても、世界は決して揺らぎませんもの」
「だから、レディ」
わたくしが申しますと、マリスはうっとりしたようにわたくしに訊ねるのです。
「幸福とは何だとお思いですか?」
「これは難しい質問ですね。わたくしにとって幸せは、とうに見放したものですのに」
「あら、何故?」
「幸せを欲しないのです。わざわざ望むものではないのです。そこら中に転がっているものを、幸福と見なせばそのように映るのでございますし、不幸と見なせばそのようになるのです。故にわたくしは何ものも見出さないのでございます」
デザートを食べ終わりまして二人でワインを愉しんでおりますと、マリスはあの天使の笑みを浮かべて申します。
「あたしは独占だと思いますの」
わたくしは小さく笑いました。
「なかなか正直なお気持ちです。確かに、人が望むものをすべて手に入れてしまえば、それは幸福に繋がるでしょう」
「付け加えるなら、それを他人には決して触らせてはいけないということ。自分が一番望むものが他の人の手で汚されてしまうのは我慢できませんわ」
ワインを飲みながら彼女は訊ねます。
「あなたはあたしのことを知っていて?」
ワインを飲み干しましてから、わたくしはお答え致します。
「いいえ、レディ。わたくしが存じ上げておりますのは、あなたのお名前と知性だけでございます。それだけで、わたくしは充分あなたをお慕いしております」
マリスはボーイにワインのおかわりをいただきまして、それを一口飲みますと途端に表情を曇らせるのです。
「どうしてかしら」マリスは苦悩するように申します、「あたし、あなたのような方とはよくよく接してきたつもりでしたのに、あなたはその中でも不思議な魅力がありますわ。あたし、今のこの気持ちがなんなのかまだはっきりしませんの」
ワインのおかわりを訊ねに参りましたボーイをマリスは断りました。わたくしもおかわりをお断り致しましたので、ボーイは奥の厨房へと引っ込んで行きました。マリスはグラスを置きまして、美しい瞳をわたくしのほうへと向けるのです。
「けれど、あたしはあなたにすべてを申し上げておく必要があると思いますの。それがあなたをここへ連れてきて、そして告白した理由になるのですから」
珠のように輝くブロンズの瞳がわたくしを見つめるのです。わたくしの心は、体は、全て奪われてしまったかのように彼女の虜でございました。瞳も、頬も、髪も、その整った容姿すべてが美しく、彼女に見つめていただけるわたくしは、それだけで熱くなるもので満たされておりました。これ以上に、わたくしが一体何を望めるというのでありましょうか。
マリスの唇が柔らかく開きまして、そして申しました。
「あなたを愛しています。だから、死んでください」
わたくしが生きおります間に数少なく感じた運命という瞬間は、こうも儚く幻影のように煌いておりました。食事を終えまして馬車に乗り込んだ頃には、レストランの中の蝋燭が一斉に消えてしまいまして、今晩の一時は炎とともに終わったのです。




