第六譚 火刑火葬供養
まずは皆様に本日の夕刊の記事の抜粋を御覧いただきたいと思います。
「本日今朝方より国境の丘の上で山火事が発生した。火は森全体に渡って燃え、昼を過ぎても激しく燃えていた。いまだ消える気配がない。なお、この火事による被害は報告されていないが、近くに民家はないので被害は少ないと思われる。消火活動はいまも続いている」
この報を受けて、俺は職業柄現場検証を行わなければならなかったのです。最初は断って最近入庁して来た新米たちにでも仕事をわけてやろうかと思っていたのですが、その記事に書かれている場所を目にした途端に、俺は驚きの余りに両目が零れ落ちてしまうのではないかと思いました。なんとそこは、あのマリス・ミーディアムが住んでいる丘の上の薔薇屋敷ではありませんか。俺は慌てて馬車に乗り込んで、現場へと直行したのです。薔薇屋敷までの道程は大そう遠く、夕方すぐに出発したというのに、辺りはすっかり暗闇に包まれてしまいました。俺は現場に到着するまで、同僚とともに事件を報じた記事を眺めていたのです。
「しかしだね、君」俺の同僚が言いました、「なにもこんなに早くに出かけることはなかったんじゃないのか。夜も遅いし、見ての通り、周りは森に囲まれている。月明かりだって、あてになりはしない。こんな暗い中で火事の現場に行ったって、何もでてきやしないよ。まだ火がついているなら話は別だがね」
同僚は全くと言っていいほど気がのっていませんでした。というのも、本当なら仕事は終わっているはずで、そんな調子で現場に向かったら、家路に着けるのは朝方になってしまうからです。
「何を言うんだ」しかし俺も譲りはしませんでした、「山火事だぜ。周りに民家はないとあるが、ここにはちゃんと一軒あるんだ。記者は古城かなにかと思って見逃したのかもしれない。もしかしたら、その城が燃えていたのかもしれない。その城に人がいることは、君だって知っているだろう。死者が出たら一大事だ。警察は何をしているのかと、また特大記事を見つけられないで暇を持て余している新聞社どもに叩かれるのは御免こうむりたい」
「君が心配していることは、そんなことじゃないんだろ」
同僚は妙な笑みを俺に向けてくるのです。
「どういうことだ」
「とぼけるなよ。君の知り合いが、あの魔女と関わっているんだろ。よく調べていたじゃないか。なんとも、複雑な家柄だそうじゃないか、そこのお嬢様は。君は、この火事にその知り合いが巻き込まれていないか、気になっているんだろう」
俺は咄嗟に答えられませんでした。同僚に見透かされるのは嫌でしたが、他に言いようもありませんでした。馬車の中を沈黙が襲い、俺が弁解の言葉を探しているうちに馬車は目的地に着いたようで、急に馬車が止まって俺はホッとしました。馬車を降りると、いままで覆っていた木々が嘘のようにそこだけ開けていて、目の前には薔薇に囲まれた古城が聳え立っていました。火はすでに消えてしまい、焦げ臭い臭いがするだけでそこは完全な闇でした。
「さあ、早速調査しよう。ほら、お前たち。さっさと明かりを点けろ。暗くて何も見えないじゃないか」
俺は部下たちに言って、早速辺りを調べることにしました。部下たちのほうも俺の同僚同様、やる気がないのがすぐにわかりましたが、それでも俺には一分一秒だって惜しいのです。俺のすぐそばに同僚が寄ってきて、部下たちに聞こえないように声をかけてきます。
「そうどやしつけるなよ、トゥルース。もう夜だぜ。こんなんじゃ、何も出てきやしないよ」
暗闇で俺の表情が同僚に知られないのが救いでした。俺は同僚の話を最もだと思い、悔しさに歯噛みしました。俺はすぐに毅然として、声高らかに叫びました。
「それでも探せ。怪我人は、怪我人はいないか。それが一番重要なんだ」
俺の言葉に、しかし周りの奴らの反応はいまいちでした。無理もありません。職務時間外労働を強いられているのですから、皆早く帰りたくて仕方がないのです。しかし、俺まで捜査の手を緩めるわけにはいきません。暗闇の中でランプを片手に、頻りに辺りを窺います。
俺には予感がありました。どこかに親友が倒れていないかという予感です。フリークは、以前俺に自分の家を譲るという話をしていました。もしかしたら、彼は最初からこの火事を予感していたのではないでしょうか。自分の命に危機が迫っていることを察知していたからこそ、俺に後のことを託したのではないか。あのとき、俺は親友のいつもの謎かけにでもやられたのかと気にも留めていませんでしたが、よく考えてみれば、あのときに止めることができたのではないか。いや、彼を窮地から救ってやれたのではないか。そう考えると、もういてもたってもいられません。
「どうか無事でいてくれよ」
俺の真剣な捜索も、三十分以上が無駄に終わりました。周りの部下たちの間でも、調査はほとんど投げ出されていて、もうこれ以上はここにいられそうにありません。俺もそろそろ区切りをつけようと戻りかけたとき、なんたる運命の偶然でしょう。森へと続く道の途中に、人影を見つけたのです。俺はもしかしたらと思い、人影へと駆け寄りました。俺の足音に気づき、人影も俺を見ました。俺は手にしたランプを翳して顔を見ると、それは他でもないフリークだったのです。ああ!そのときの俺の驚きようといったらありません。
「フリーク!」俺は叫びながら親友に駆け寄りました、「フリーク。君か。君なのか、フリーク」
親友も俺に気づいたようです。俺を見る彼の目は、しかし驚きも喜びもしない、そう、あれは何も感じていない人間の目だったのです。フリークは俺を見るなり、ただこう言ったのです。
「ああ、あなたでしたか。トゥルース」
凍えるような冷たい声でした。まるで天から下界を見下ろす神のそれのように、巨大で無慈悲なのです。
しかし興奮した俺の耳は、そんなものはちっとも感じやしませんでした。俺は親友に抱きついて、ひたすら彼の無事を確かめたのです。
「良かった。無事だったんだな」
しばらくの抱擁で、ようやく俺も親友の異変に気づきました。彼からは、全く温もりというものを感じないのです。人が持っている、人が接したときに感じるあの温かさが、まるで感じられないのです。俺はフリークの目を見ました。ランプの明かりで薄く照らし出されたフリークの顔は、まるで石ころのように冷え切っていて、その目は俺を見ているはずなのに、しかし俺の姿はその瞳には映っていないのです。
「どうしたんだ?フリーク」
俺の質問にフリークは全く反応を示しません。数秒遅れで、ようやく俺の言葉を理解したように、気の抜けるような声でフリークは答えました。
「ああ、そうですね。無事、無事ですね」
様子のおかしい親友に、俺は精一杯に状況を伝えようと、身振りを交えて説明しました。
「この辺りで火事があるとの報告を受けて駆けつけたんだ。ここは例の、君が通っているお嬢様の屋敷だからもしやと思ったんだが、大事なくて本当に良かったよ」
フリークは、やはり何の反応も示しません。なんでしょうか、この手応えのなさは。精巧に造られた石造に向かって話しかけているような感じがするのです。
「ここの人たちは?」
フリークは数秒遅れで俺の問いに答えました。
「皆様、先に逃げました。馬車もなくなっているでしょう。おかげでわたくしは帰る術を失ってしまいました」
「そうか」
フリークがそれ以上何も言葉を発しないので、俺もどうしたら良いか対応に困ってしまいました。気まずい沈黙が闇の中に舞い降りたのです。俺はなんとか思案して、会話の糸口を見つけ出そうと、思い切って訊ねてみました。
「それで、あのお嬢さんも逃げたのか?」
フリークにとって、あのミーディアムのお嬢様の話はとても重要なことですし、彼から直接聞き出すにはいくらかの決心が必要であったことを、皆様にもわかっていただきたい。しかしながらこの件については、フリークの口から聞く以外に方法はありません。俺の言葉に、しかしフリークは当たり前のように答えました。
「大丈夫です。ご心配いりません」
俺には、フリークが何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。俺は、だんだんと自分の内側から言葉が消失していくような気がして、慌てて口を動かしました。
「君は馬車を持っていないんだろう。うちの調査が終わったら、一緒に連れて行ってやるよ」
「ああ、それなんですが」
ようやくフリークがいつものような調子になり、俺は注意深く彼の言うことを聞いていましたが、彼の言葉に俺はしばらく理解が追いつかなかったのです。
「ここのことは、わたくしにお任せください。警察の方には、ぜひとも手を引いていただきたいのです」
「なんだって」俺は咄嗟に聞き返しました、「それはどういうことだ、フリーク」
フリークは、まるで俺など見えていないように何も語りません。何か秘密があるに違いないと、じっと親友の顔色を窺っておりましたが、この暗さで、さらにはフリークが本物の彫刻のように表情を見せないので、俺の背筋は春だというのに寒気がしました。俺はなんとか自分を保ちながら、強気な態度でフリークに言いました。
「君をこのまま馬車に乗せたら、君は署に同行してもらって事情聴取を受けるだろうね」
少しは動揺の色を見せるかと予想していましたが、しかし親友は全く意に介さず、仮面を被った表情を変えたりはしませんでした。いや、それこそが親友の真の顔であるかのように。温かみのない声で、フリークは小さく言うのです。
「どうか、この件はわたくしに任せていただけないでしょうか」
俺は困ってしまって、フリークを見ました。抑揚のない声に、人の温もりを感じさせない表情に、俺は本当にこれが親友フリークであるのか、疑問にすら思いました。しかし、疑問に思う余地がどこにあるというのでしょうか。その声、顔つき、雰囲気というものは、どれもこれも彼そのものを指しているのです。
「了解した、親友。ただし、後で個人的に聞かせてもらうから、それくらいはしてくれよ。俺には、君に聞かなきゃならんことが山ほどある」
「ありがとうございます。トゥルース」
その言葉に、俺の体は凍りついてしまうのではないかと思うほどに、温度が奪い去られていくのを感じました。俺は仲間と合流するまでの間、頻りにフリークの様子を窺いました。そのときの俺の心境を、まあ皆様も想像してみてください。まるで生き霊に出会ってしまったかのような気分でした。フリークの姿は石造のように温かみがなく、彼の声は真冬の空気のように周りの温度を奪い尽くしていくのです。フリークの目には、一体何が映っているのでしょうか。俺を見る彼の目には、しかし俺の姿など映ってはいないのです。
わたくしはトゥルースの馬車に乗り、自宅まで送っていただきました。警察の方々にはいろいろと質問されそうになりましたが、わたくしは直前に友人にいくらか申し上げておりましたので、なんとか事情聴取という形は逃れることができました。馬車の中では、友人の同僚だという方から妙な視線を向けられたものでしたが、わたくしもすっかり疲れておりましたのでずっと伏せておりました。
わたくしの家に着きましたのは、空も微かに明るくなり、次第に朝の景色が見え始めた頃でございました。もちろん、町の人々はまだベッドの中でしょうし、鳥の声さえ聞こえません。わたくしは友人にお礼を申し上げまして、彼らと別れたのです。友人からは、事情聴取をしない代わりにいままでの説明を求められましたが、それは後日という話になりました。
わたくしが家に入りますと、なんとローヤがわたくしの前に飛んで現れたのです。
「御主人様!」
あまりにもローヤが大声を出すものですから、わたくしは驚いて彼女へと振り返りました。彼女の目が赤く充血しておりますのを、わたくしは見て取りました。どうやら、いままで一睡もしていないご様子なのです。わたくしが驚きのあまり声を失っておりますと、ローヤは素早くわたくしの体を確かめまして、そしてわたくしを見上げて訊ねました。
「御主人様。大事ございませんか?」
わたくしはローヤを安心させようと微笑んでお答え致しました。
「見た通りでございます。どこもなんともございません」
そこでようやくローヤも安心致しましたのか、安堵の息を一つ吐くのです。
「それは、大変よろしゅうございました」
「一体どうしたのですか?そのように慌てまして。わたくしの留守の間に、何かございましたか?」
「それはこちらが申し上げることです」ローヤは奥の部屋から新聞を取って参りまして、わたくしに差し出すのです、「本日の夕刊を目にしたものの中に、驚かぬものは誰もいなかったでしょう」
わたくしはその記事を見つけまして目を止めました。丘の上の薔薇屋敷で起こりました火事が、もう新聞に取り上げられておりました。記事には、ただの山火事というふうに記されておりますが、ご丁寧に住所まで書かれておりましては、ローヤが気づくのも無理はありません。
「これは驚きました。もう新聞に載ったのですか。皆様、話の伝わることがお早いようです。なるほど、あなたが驚かれるものも無理からぬことでございます」
「呑気なことを仰っている場合でございますか。ああ、しかし。お怪我がなくてなによりでございます。御主人様にもしものことがございましたらどう致しましょうかと、苦心しておりました」
「心配してくださってありがとうございます」わたくしはローヤに新聞を返しました、「時にローヤ。あなたに大切なお話がございます」
「はい。何でございましょうか?」
「わたくしの書斎までいらしてください」
わたくしが書斎に戻りましてから数分ほどでローヤはやって参りました。それまでの間、わたくしは椅子に座りましたまま、珍しく本も読まずに時の流れますままにまかせてローヤを待ったのです。
「早速本題をお話致しましょう。近々この家を人に明け渡しまして、別のところへ引越しをしようと考えているのです」
ローヤは落ち着いて訊ねるのです。
「いつご出発でございますか?」
「明後日にはここを発つつもりです。それなので、あなたや御者の方にはしばらく暇をあげなければなりません」
暇を与えるという言葉を耳にしましても、ローヤの顔には少しも動くものがございませんでした。ローヤは落ち着いた調子でこう訊ねるのです。
「今度はどちらに行かれるのですか?」
「あなたが詮索することではございません」
ローヤは深く頭を下げます。
「申し訳ありませんでした」
「明日には荷物をまとめてここを出て行かれたらいいでしょう。家の中のものの処分もあらかたお任せ致します」
「かしこまりました」
わたくしはローヤに一枚の紙切れをお渡し致しました。もしも行くあてがないのでしたらこちらを訪れるとよろしいと申しておきました。ローヤは元々、家が事業で失敗したために破産してしまった家の娘です。その災難のために、母親は病気で亡くなり、父親は過労が祟って同じく亡くなっておりまして、彼女には引き取り先がございませんでした。ローヤは紙切れを握り締めて書斎を出る直前に、不意に足を止めるのです。
「御主人様」
「なんでしょうか」
「……いいえ。なんでもございません。それでは失礼致します」
結局、ローヤは何事も言わぬままわたくしの書斎を出て行きました。その不可思議な態度は十分にわたくしの注意を惹くものではございましたが、わたくしはそれ以上の詮索をするようなことは致しませんでした。
わたくしは、その日は結局一睡もせずにいつものように執筆活動に勤しんでおりました。夜には眠り、朝には起床するというのがわたくしの中で確立しておりましたので、眠気に耐えながらも起きていることに致しました。ローヤまでもが、わたくし同様に起きておりましたのは少しばかり気がかりでしたが、彼女のほうもわたくしの前で居眠りをするのは気が引けるようでした。
ローヤはわたくしの言いつけ通りに荷物をまとめてくださいました。なにからなにまで準備がすっかり整ってしまいますと、ローヤは御者とともに次の日には家を出て行きました。わたくしはその日の午前中に、しばらく一人になった家の中を見て回りました。とは申しましても、わたくしの書斎や地下の書庫はその通りにしておいてあります。調度品は大方運ばれておりまして、わたくしは久し振りに入った台所に食器や調理用品がなくなっていることに気がつきまして、とても新鮮な気持ちが致しました。家の中を回っております間に、わたくしはちょっとした好奇心からローヤが寝泊りしていた部屋を覗いてみました。そこはわたくしが用意しましたベッドやタンスなどはそのままで、それ以外のものはすっかり運び出されておりましたので、彼女が生活していたという面影は、どこからも感じ取ることはできませんでした。すっかり綺麗になってしまった部屋を見まして、わたくしは彼女がこの家を出て行かれたのだということを、改めて実感致します。
ふとわたくしはテーブルの上に置かれた封筒を見つけまして、どうやらそれはローヤからのものでございました。
「わたくし宛の手紙でございますか」
わたくしは封を切り手紙を開いてみました。最初に次のような文句が認められておりました。
「世界のどこにも神などあらず、あるは無情の人のみ。いく夜、いく世、過ぎしも、この身の刻印は少しも薄まらず、三千世界の罪過を裁かれるにこの生はあり。我は永遠の屍を背負いてこの大海に臨み、もって永遠は我が生の常の伴侶になろう。死して別つことなし、生に寄り添う褥は極刑の棘姫。ただこの世が煉獄なるを知りてなにを悔いなむ。我が心は鉄の肉にて焼け爛れるがかの理ぞ。我はただその永遠なるを憎みて永遠に仕えようぞ。この身が朽ちるは、されど決して醒めぬ夢の箱舟なり」
まあ、なんと。驚いたものです。レミールの『流転の魂』ではございませんか。ローヤが文学に通じておりますのは意外でしたが、なるほど、慣れないことなのでしょう、次に続く文章の引き合いがまだ熟達してはおりません。わたくしはもう一枚の手紙にも目を走らせるのです。
「わたしの身はいつの日から社会の波に翻弄される浮き木になりましたでしょうか。わたしが身を捧げた仕事はもはや指の数ではなく、全てが鞭打たれるように痣となっております。昔の名など何の役に立ちましょうか。親鳥がおりませんで、露天の雛にしかなりません。雛は路頭に放り出されれば凍え死ぬしかありませんので、また主を探して放浪の旅に出ましょう。もしも御主人様の懐にわたしを囲う広さがございましたら、いつでも御用命くださいまし。飛べない鳥でも馳せ参じるがこの身の習性なのです」
わたくしはついおかしくなって笑ってしまいました。
「なんとも、まあ、変わったお人です。わたくしなどに、こうまで申してこられるとは」
いまの社会に、破産してしまいましたものを救済する法などございません。幼い時分には親の面倒がございますが、一度社会に放り出されてしまえば、後は自身の手で生活をやりくりしていかねばなりません。学も特技もなければ、この社会で生きていくには難しく、あるいは卑しい身に堕ちねばその日の食にもありつけずに、野宿の日々が続くのです。社会は誉れを尊びながらも、生きていくためにはどのような苦汁を舐めても構わぬと申される方々もおありのようでして、ならば、わたくしは生になど縋りはしません。物質的生命になにを望むというのでしょうか、精神こそがわたくしの全財産であり、全存在なのです。
わたくしが手紙を眺めておりますと、不意にガラス戸を叩く音が聞こえて参りまして、一体どなたでしょうかと思い窓を開けてみますと、窓枠にちょうど重なるくらいに頭がございまして、見れば十歳くらいの女の子ではございませんか。ズボンにシャツという農家か商家のような恰好の娘でございました。彼女の手には、貴族の女性がもちますようなしなやかさはなく、肉体労働によります擦り傷や汚れが見受けられます。全体的に日焼けをしておりまして、年相応に丸みのありますお顔の中で、濃い深海の瞳と無花果のように鮮やかな唇が目を惹きます。
「これは、どちら様でございましょうか?」
「それはこちらの言うことです、御前様」
少女は驚いたように目を何度も瞬かせまして、わたくしを見上げます。わたくしも、彼女のことは存じ上げませんので、ひたすら首を傾げるしかありません。少女は短く切り揃えられた金髪を撫でつけまして、わたくしに訊ねるのです。
「ここに住まわれていた女性はいずこに行かれましたか?」
「ローヤのことでしたら、もうここには戻りません。この家は近いうちに、別の人に移譲されることになっております」
「なんですって!」少女は叫びました、「そんな話は初耳です。いつ出たのですか?」
「つい今朝方のことです」
少女はひどく悲しそうな顔を致しまして、誰にするでもなく申しました。
「もう少し早くに来たら良かったのです。今日に限ってそのようなことになるとは知りませんでした」
「ところで、あなたはどちら様でしょうか?」
「わたしはフォスティーヌです。ローヤとはたびたび、こうしてお話に来ていたのです」
わたくしは驚きました。そのような話は初耳でございました。なるほど、ローヤにはこのような可愛らしいお友達がいらっしゃったのですか。
「どのようなことを話されるのですか?」
フォスティーヌはまだわたくしに対して警戒しているようでございましたが、子ども特有の正直さから、わたくしの問いに答えてくれるのです。
「わたしの家は小さなパン屋でございます。ローヤは買い物客として、わたしの家に寄ってくれていたのです。わたしの家は、それほど裕福ではありませんので、わたしも毎日のように手伝いをさせられているのです」
「学校はどうしておられるのですか?あなたのお年では、学校に通っているものでしょう」
フォスティーヌは当然のように首を振ります。
「そんな金は家にございません。わたしだけではございません。他の家の子も、金がないために家の手伝いをするのが普通でございます。ローヤは、そんな店の子たちに時々勉強会を開いてくれるとても良い人なのです。ものの数え方を教わりました。読み書きを教わりました。金の数え方を教わりました。ものの価値を教わりました。本を読んで聞かせてくれました。聖書を教わりました」
フォスティーヌは目を瞑りまして次のように申されるのです。
「神は無をもって有をお創りになり、有より生命をお創りになりました。神は何ものにもお優しく、何ものにも寛大でございました。神は生命をお救いになり、生命を見守ってくださるのです。神は御自身の似姿であります人をお創りになって、神は同朋に多くの秘術をお教えくださったのです」
聖書の冒頭の言葉でございます。このように小さな少女が、学校にも通わずこれほどまでに滑らかに聖書の一節を暗唱されるのを拝聴致しまして、わたくしは正直に感心致しました。フォスティーヌは得意そうに申しました。
「聖書も良く覚えております。わたしは子どもたちの中でも年長者なので、子どもたちに教えてあげなければいけないのです。ローヤはいつも、最後にこう言うのです。辛いときでも苦しいときでも、欠かさず祈り続けなさい。神はいつでも、わたしたちを見守ってくださって、わたしたちをお救いになるのです。何があっても、祈りだけは忘れてはいけません。神はいつも、わたしたちのお傍におられるのです」
わたくしはそのときのローヤの姿を思い浮かべました。なるほど、ローヤはこの無宗教の家の中におりましても、一度たりとも神の教えを忘れたことはなかったのです。わたくしはこの小さな信徒に申しました。
「ローヤはあなたに教養を授けていたのですね。しかし、お嬢さん。あなたの信じております神は、あなたを貧困から救ってくれましたか?」
フォスティーヌは困ったように申します。
「家が貧しいのは変わりありませんが、ですが、祈り続ければきっと神はわたしたちを救ってくださいます」
「お気持ちはよくよくわかりますが」わたくしは申しました、「そもそもあなたは、神というものを御覧になったことがございますか?もっと根源的なことを申しますれば、神とはいかなる存在であるとお考えでございましょうか。無や有の差異というものを、この有に溢れました世界では、一体どのように証明することができると申されるのですか。物事というものは、仮定から真理を解くのではなく、事象から真理を計り、そこから仮定を作るものなのです。そこから分析なされば、有しか存在しないこの世界におきまして、無の存在を証明することなどできはしないのです。そもそも、神という存在は無の領域になければ、この世の起源が全て無であったとする仮定すら成り立ちません。神が無の存在でありまして、神の力によって世界が有に作り変えられたのであるならば、神という無も、その瞬間にこの世から消滅ししまったことになります。そこで熱心な宗教家はこう申されるでしょう。人は神の似姿であれば人は神に等しき力を持つのです、と。しかしながら、まあよく御覧になってください。聖書や神話で記されている神々の力というものは人智を超えておりますに、いかに人が神とはかけ離れた存在であることは一目瞭然なのです。話が脇に逸れてしまいましたが、この世のどこにも神を証明できるものはありはしないことが、あなたにもおわかりいただけたと思います」
「しかし御前様」フォスティーヌは申します、「神の絶対存在の前には、人間の想像力など及びもしないのではありませんか。神はいかなるときでもわたしたちを見守ってくださって、いつでもわたしたちに救いの手を差し伸べてくれるのです」
「まあ、よくお聞きなさい」わたくしは申しました、「それでは、世界の真理というものを一つ解き明かしてみることに致しましょう。神という存在が全人類に救済の光を差し伸べてくれるという仮定におきまして、人々は等しい幸福を手にしていることはあなたにもおわかりのことでしょう。しかしながら、現実をよく御覧ください。この社会には、貴族や農民などという区別がはっきりとなされておりまして、その地位によって暮らしぶりは雲泥の差を見ているのです。もしも神が全ての人々に対して平等に働きかけてくださるならば、そもそもこれほどの違いは存在しないことになるのです。それでは、この世界というものは何によって動いているものでございましょうか。世界を取り巻く自然は、ただこの世に存在しているだけで、人には何の施しも致しません。なるほど、人は自然から食をいただき寝床を与えられているという方がいらっしゃいますが、それこそ人が自然から獲得したものに過ぎず、自然は少しも人間を気にかけてはくれないのです。どこまでも無関心で、そしてどこまでも無慈悲なものこそが、自然の本質なのです。日照りや嵐、火事などはまさに自然が引き起こすちょっとした気紛れで、この世には理由なき破壊が常に存在していることを、よく覚えておいたほうがよろしいでしょう。たとえあなたが不当な破壊を受けたところで、あなたは誰も責めることができないのです。自然は人を気紛れに破壊するのですから、その人の行いは世界の秩序にふさわしい行為をしているのです」
わたくしが説いてあげましたのですが、しかしこの信じやすい年頃のフォスティーヌには、わたくしの哲学よりもローヤの夢物語のほうが納得しやすかったようでした。フォスティーヌは真っ直ぐとわたくしを見上げたまま答えるのです。
「それでもわたしは祈り続けましょう。ええ、御前様の仰るように、誰を責めたりなど致しません。わたしは献身に祈りを捧げて、神に奉仕するのです。社会にどれほどの不当がありましても、神は苦しむ人々全ての救い主なのですから」
「なるほど、それでは信じるがよろしいでしょう」わたくしは申しました、「けれど、あなたはこれからこう皆様に申し上げたらよろしいでしょう。わたくしは神を信じているのではなく、わたくしの崇拝している方が信じております神を信じるのです、と」
フォスティーヌとはもうしばらく色々なお話を致しました。わたくしの質問にフォスティーヌは素直に答えてくれました。ローヤが町の子どもたちに何をしていらしたのか、わたくしは少しも存じ上げませんでした。ローヤは大そう優しく、よく子どもたちと遊んでやっていたそうでございます。そしてローヤは、学校に行けない貧しい子どもたちに様々なことを教えていたのです。ローヤも、小さい頃に家をなくしたために、満足な教育を受けられておりませんでしたから、彼らとは通じるものがあったのでしょう。そんな彼女も、もうこの家にはおりません。フォスティーヌはしばらく致しまして、家の手伝いに戻ると申しまして帰って行きました。フォスティーヌは、またこの家にやって来るのでしょうか。もう、わたくしには決してわからないことでございます。
すっかり夜遅くとなりまして、家にはわたくし一人となりました。ひっそりと致しました部屋の中で、わたくしは書斎に籠り短い文章を認めておりました。すでにいつもお世話になっております出版会社のほうにはすっかり仕事とは縁を切ってしまいまして、わたくしは隠居生活に入ることをお伝え申し上げておきましたので、この時分になりましても筆を持っておりますのは、なんと申しましょうか、染みついてしまいました職業病というものでございましょうか。わたくしは昔から、本を読んでは何事かを書きまして、自分の思想、哲学を認めておりました。そのようなことを思い出しまして、わたくしが物書きの道を選びましたこと、同時に、家を出ることとなりましたのは必然であったことを、思い返すこととなりました。いまごろ、父上や母上はどのようにお過ごししておいでだろうかということは、わたくしにとっては縁もなにもないことでございます。いまさら舞い戻りましたところでなにもしようがありませんし、わたくしが彼らの元へと足を運ぶことは、まず起こり得ないことなのです。
そんな折、玄関から人が来たことを告げる呼び鈴が鳴りまして、わたくしは玄関へと向かいました。扉を開けますと、そこにいらっしゃったのはトゥルースでした。トゥルースは、一緒に外へ出て食事でもしながら話をしようではないかと誘ってくるのですが、わたくしはそれをお断り申し上げました。トゥルースは仕方なくわたくしの家へと上がりましたが、ローヤのいなくなりましたこの家で食事の準備などできようはずもございませんでしたので、トゥルースには悪いことでしたが、我慢をしてもらうことに致しました。わたくしは、もうなにを食べる気にもなれませんでしたので、全く構いませんでしたが。
わたくしは彼を部屋の中へと通しまして話を致しました。まずはトゥルースのほうから話を始めましたので、そのことからお話し申し上げましょう。
「この間の山火事の件なんだが、あれは悪戯ということで話が落ち着きそうだ。最近多かったから、今回のこともその流れで終着するだろう。君には特に呼び出しはないし、あの薔薇屋敷はあのまま放置になるだろう」
「ありがとうございます」
トゥルースは一度大きく頷きまして、わたくしのほうへと体を近づけるのです。
「さて、ここからは俺の個人的な質問なんだが、君は一体あそこで何をしていたんだ?あのミーディアムのお嬢さんと何かあったんじゃないのか?」
トゥルースがじっとわたくしを見つめて参りまして、わたくしは正直に彼にお答え致します。
「何もございません。ただ、マリスとの約束を果たすだけです」
「約束?それとあの火事とどういう関係があるというんだ」
そう訊き返されるものですから、わたくしはなんと返しましたらよろしいでしょうかと思案しておりますと、ふと思い出すことがございましたので、彼に申しておきました。
「そうそう、わたくしは今夜この家を出て行きます。かねてからのお約束通り、この家はあなたに譲ることに致します」
「少し待ち給え」トゥルースはわたくしの言葉を制してこう申されるのです、「君はちっとも俺の質問に答えていないじゃないか。しかもこの家を譲るなんて、そんなものただの口約束だろ」
「しかし口約束でも正当な契約になりますことを、君の立場ならばよくよく御存じのはずかと思いますが」
「ああ、その通りだ」トゥルースは不承不承に申しました、「君の言うとおりだよ。けれどね、そのわけを聞かせてくれないか。丘の上の屋敷は火事にあったが、君自身はこの通りなんともないじゃないか。君がこの家を出て行く理由が見当たらない」
「理由ならございます」
トゥルースはわたくしの言葉が気になった御様子で、じっとわたくしを見るのです。わたくしは素直にお答え致しました。
「わたくしにはあそこしかございません」
トゥルースは、まだ納得できない様子でございました。わたくしはなおも申しました。
「もう、わたくしにはあそこに行く以外に道はないのです」
「あそことは、あの薔薇屋敷のことか?」
わたくしは首肯致しました。トゥルースは理解しかねるように腕を組みまして思案致します。
「一体君はどうしようというんだ。まさか、彼女は火事から脱出できていないのか?」
「彼女は無事でございます」
「ではどうしてだ。彼女が生きているのなら、二人でここに住めばいいだろう」
「それはできません。彼女はあそこにおりますから」
トゥルースは得心がいったように溜め息を吐きます。
「心中察するよ。しかしだね、だからといって君があの城にこだわることはないんだ。君には君の命があり、彼女には彼女の命があっただけのことさ。君が生きているならば、君はいままで通りの生活を続けていればいい。そう、彼女も望んでいるはずだ」
どうやらトゥルースは、彼女がいなくなってしまったとそう考えたようでございます。それは大きな間違いです。わたくしが何度も申し上げておりますように彼女は無事でございますし、そして彼女と出会うにはあそこへ行くしかないのです。
「わたくしはもうこの社会では生きていくことができない身なのです。いままでありがとうございました。この家のことは君にお任せ致します」
トゥルースはすぐに納得することはございませんでしたが、同じやり取りと繰り返しますうちに、わたくしの言葉から意を得たのか否か、とうとう承諾致しました。
「よろしい。君がそんなに言うのならば、これ以上詮索するような真似はしまい。この家のことは大いに任されよう。だが、一つだけ言っておこう。俺と君は別段永遠の別れになるわけではないのだよ。君さえ良ければ、いつでもここにやって来るといい。君はまだこうして生きているのだからね」
それで今晩の話は終わったのです。トゥルースは帰り際に食事に出かけないかとわたくしを誘ってくださいました。しかしながら、わたくしはトゥルースからのお誘いをお断り致しました。トゥルースが帰って行きました後で、わたくしは自分の書斎へと戻るのです。
「いいえ」一人になりました書斎でわたくしは申しました、「わたくしはもう、あなたとは交わるところには生きていないのです」
わたくしと彼女はすでに社会の中にいられる身ではないのです。精神の永遠を手に入れたわたくしたちは、もはや物質に従います社会の枠組みの中では、存在できないのです。
トゥルースは実に真面目なお方で、社会に忠実で、何より心配性でございます。それをよくよく存じ上げておりましたからこそ、わたくしはトゥルースにこの家をお任せしたのです。トゥルースはいま、警察の共同寮にお住まいであると聞いております。そんな彼に、短い間ではございましたが、わたくしの数少ない友人であったことへの、これはわたくしからのささやかな贈物でございます。
友人との話も終えまして、わたくしはもうこの家と町、いいえ、社会には、もう未練はございません。翌日、わたくしは丘の上の薔薇屋敷に向かって発ったのです。森に入る途中で馬車を降りまして、かれこれ一時間以上も山道を登っております。馬車が通れるだけありそれなりの道幅がございまして、道も整っておりましたので、苦もなく頂上まで辿り着きました。先日は真夜中で様子がはっきりと致しませんでしたが、いざ目の前の光景をよくよく見てみますと、あの頃の美しさはまだそこには満ちておりました。一面に咲き乱れる薔薇の園に、薔薇園の中に聳える大きな古城、一ヶ月前にここを訪れたときから何一つ変わってはおりません。わたくしは名残惜しむようにその場をあとに致しまして、森の中へと入って行きました。先日の炎で外見こそ目立ちはしませんでしたが、城の中はあちこちが焼け焦げておりまして、とても中に入れる状態ではございませんでした。うっそうと生い茂ります木々に覆われておりまして、森の中は緑色に輝いているのです。葉の間から零れる陽光が道の上を点々と白く色づけておりまして、鳥の鳴き声も遠くにしか聞こえません。かれこれ三十分ほど歩きましたでしょうか、わたくしの目の前に大きな泉が現れまして、そこだけ森に穴が開いておりますために陽が強く照りつけ、辺りを明るく照らしております。この泉こそ、かのブリュンヒルグ卿が残した作品の舞台なのです。まさしく、森の中に現れた泉には光が満ち溢れておりまして、静寂の中に生命の存在を見ることはございません。
わたくしがさらに足を進めようと致しますと、なにやら背後で人の気配を感じまして、立ち止まって振り向きますと、木の陰からスーツを身につけました四十をいくらか過ぎた男性が姿を現したのです。男は慇懃にお辞儀を致しましてわたくしに申しました。
「よくぞこの地に舞い戻ってくださいました」
強制されておりますようなすらりと伸びた背筋に、毎日手入れをしてございますような汚れ一つ見当たらないスーツを見事に着こなしまして、鼻の下には上品な髭が伸びております。髪はまだ黒々としておりまして、鼻は見事な鷲鼻でございます。薄く開きました瞼の奥には淡いモスグリーンの瞳がございます。顔には年相応の皺が見られますが決して老いたようには見えず、むしろ若々しさすら感じ取れるのです。ふとわたくしは、どこかでこの方とお会いしているような気が致しました。
「あなたは、確か」
「エ・スッチと申します。マリス・ミーディアムお嬢様の城の執事をしておりました。いまでは全くの職なしではありますが」
ああ、納得致しました。彼女のお城で働いておりました執事でございました。なるほど、何度かお会いしたことがございました。
「それで、あなたはわたくしに何か御用がございましょうか?」
「あなたなら、よくよくおわかりだと思いますが」そう前置き致しまして、エ・スッチは丁寧な口調で訊ねるのです、「お嬢様はいまどちらにおいででしょうか?」
慇懃なエ・スッチの言葉に、わたくしは素直にお答え致しました。
「彼女ならここにおります。彼女とわたくしは永遠の契りを交わしたのです」
「そのような戯言がわたしに通じるとお思いですか?」
エ・スッチの態度が一変致しました。口調はさきほどと変わらず穏やかなものでございましたが、その言葉にはどこか他を威圧するような雰囲気がございます。エ・スッチは懐からなにやら取り出しまして、それを目にしてわたくしは大変驚きました。エ・スッチが右手で持っているものはなんとピストルだったのです。
「お嬢様の居場所を教えていただきたい」
「なんとも物騒なものをお持ちです。それでわたくしをどうしようというのですか?」
わたくしの言葉に、この元執事はまるで耳を貸してはいただけません。わたくしにピストルを向けたまま淡々と仰るのです。
「あなた様はなにも御心配になられる必要はございません。ただ、わたしをお嬢様のところまで案内してくださればいいのです」
「案内するもなにも、彼女はここにいらっしゃるではありませんか」
「戯言はそこまでにしていただきたい」
ピストルが火を噴きまして、銃声が森の中に響き渡りました。わたくしのすぐ隣を銃弾が飛んでいきまして、後ろの幹に深々と潜り込んだのです。
「撃ちましたか」
「撃ちますよ。わたしは本気なのです」
エ・スッチの顔には怒りの炎が静かに燃え上がっておりました。あれだけ躊躇いなく引き金を引けるのですから、わたくしにはもう次がないということでしょう。しかしながら、エ・スッチの行動はなんの意味もないことなのです。
「本気であるならばなおさら、あなたは銃を撃つことはできないはずです」
エ・スッチはわたくしにピストルを向けたまま訊ねるのです。
「どういうことでしょうか」
「肉体の破壊が些細なものにすぎないことは、自然の無慈悲さを見ればすぐにわかることでございます。しかしながら、精神の破壊はいかほどのものでございましょうか。そもそも自然にとって、精神なる非物質の存在はどこにもありはしないということをよく存じ上げておいたらよろしいでしょう。自然は一切思考せず、自然は全く哲学をお持ちでないから、一般社会で囁かれております倫理観などというものを持ち合わせていないのです。となれば、精神の破壊は自然の破壊活動の関与するところではなくて、いっかな自然といえど精神までを砕くことはできないのです。それでは、加えて申し上げるのならば、いまのわたくしと彼女の存在はすっかり肉体という柵、あるいは境界を失ってしまったがためにお互いの精神は混濁した意識のようにここにあるのです。すなわち、いまあなたは自らの御主人に向かって牙を向けていることになるのです」
エ・スッチの顔が灼熱の怒りに燃え上がるのが見えるようです。口元に力が入りまして、頬が強張っていきます。エ・スッチは地の底から吐き出すような声で申しました。
「お嬢様を侮辱するな。わたしはお前にピストルを向けているのだ」
「いいえ。わたくしにはすでにわたくし個人というものは存在せず、ただ一種の精神でしかないのです。個を失いました個とでも申しておきましょうか。わたくしには人間が求めます、あるいは思考致します社会的な機構は一切持ち合わせがなくて、ただ崇高する精神に仕える従者なのです。ただ精神だけの存在となったならば、あなたは決してわたくしと彼女を破壊することなどできないのです。なぜならば、どんなものでも精神を破壊することは、なにをもってもできはしないのです」
エ・スッチの手が震えているのがわかります。わたくしに向けられました銃口がカタカタと揺れているのです。エ・スッチの顔からはすっかり執事としての表情は消え失せてしまいまして、あるのは怒りを押さえつけようと致します、しかし決して治まることのない怒りをたぎらせておりますものの表情と雰囲気でございました。エ・スッチは自身の動揺に気づいた御様子で、両手でピストルを握り締めました。しかし、彼の怒りは簡単に治まるものではございませんでした。エ・スッチのピストルは未だに震えておりまして、狙いは少しも定まらないのです。エ・スッチは御自分を叱咤しますように叫びました。
「黙れ」
銃声が一発轟きました。弾は運良くわたくしから外れましたが、エ・スッチがそれでピストルから手を離してくれるわけではございません。エ・スッチは何か申し上げたいご様子で口元を動かしておりますが、しかしそこから声が出てくることはございませんでした。
「誰もわたくしたちを邪魔することなどできないのです。この精神はすでに、永遠の存在となったのですから」
元執事の怒りが頂点に達しましたのが見えるようでございました。エ・スッチは目を見開きまして、わたくしに銃口を向けるのです。最高潮の怒りは、逆に最大の集中力を生み出しまして、エ・スッチの手は少しも揺れはしませんでした。
「お嬢様の居場所を教えぬのであれば、このままお前を殺してやろう」
エ・スッチが引き金を引いた瞬間でした。突然、ピストルが爆発しまして、彼の両手を粉々に吹き飛ばしてしまったのです。なんという奇跡でございましょうか。爆発しましたピストルの破片がエ・スッチの顔中に突き刺さりまして、彼はその場に倒れてしまいました。わたくしが近づきましてよくよく彼の様子を確かめてみますと、エ・スッチの顔は潰れてしまいまして、顔中から血を噴き出しておりました。真っ赤に汚れた土の上で、元執事はすでに息をしておりませんでした。わたくしはこの憐れな男を見下ろしたまま申し上げました。
「わたくしは彼女と永遠を誓い合ったのです。なにをもっても決して揺るぐことのない永遠の精神でございます。わたくしたちの間に入り込んでこれようものなど、この世界のどこへ行こうともありはしないのです。そうですとも。人も社会も自然さえも、わたくしたちの前にはなにも阻みはしないのです。わたくしたちに祝福された永遠は、ご覧の通り全てを払い退けてしまうのです」
わたくしは彼をそのままにして、泉の向かい側にございます洞窟へと向かいました。ここは先日、彼女との約束を果たすためにこちらに赴いたときに見つけました場所でございます。かくも美しくそしてかくも恐ろしいこの奥地こそが、彼女の最も愛する場所なのです。わたくしはその禁断の地に足を踏み入れました。
わたくしがこの場所を訪れますのは、これで三度目でございます。
一度目は先ほども申し上げましたように、彼女との約束の日に城に行く前に森の中を歩いておりましたところで見つけました。この丘はブリュンヒルグ卿の作品『泉』の元となりました場所でございます。しかしながら、以前この地を訪れましたときは泉を拝見することはございませんでした。そしてわたくしは『泉』の風景が木々で囲まれました場所であることを思い出しまして、それではこの森の中にあるのではと考えまして、城を訪れる前に足を運んでみましたところ、ようやく見つけることができたのです。そのときは夜でございましたから、ブリュンヒルグ卿の作品の情景とは異なる趣を放っておりましたが、確かにこの場所こそが当時のブリュンヒルグ卿がご覧になりました泉であるということがわかったのです。そのときが、泉の奥のほうにこの洞窟を見つけました最初のときでございました。
二度目は同日、火災が起きました際に彼女をこの場所へと連れて参ったのです。
いまはどうしておられるでしょうか。お一人で寂しくしておられるのでしょうか。それとも、天使の歌声を聞きながらあの男たちと素晴らしいときを過ごしておられるのでしょうか。
ああ!わたくしは心の中で叫びました。そのようなことを考えましただけでも、わたくしは耐えることができません。そうなのです。わたくしは初めてこの場所を訪れましたときに、彼女がいままで語らなかった重大な秘密を知ってしまったのです。
わたくしは最下層まで辿り着きまして、さらに奥へと進んで行きます。まっすぐ伸びました廊下の両脇には、もう大分昔に作られました牢屋がぎっしりと並んでいるのです。牢屋の中には何人もの女たちの姿がございました。女たちは皆、腕と足とさらに首まで鎖で繋がれておりまして、その鎖は彼女たちの背後の壁に固定されているのです。女たちは誰もかれも、目を塞がれてくつわを噛まされております。彼女たちはこの闇の中で何も見ることができず、何の意味を持つ言葉を発することも許されません。女たちはわたくしの足音が聞こえたのでしょうか、狂ったように悲鳴を上げるのです。助けを求める声なのか、苦しみや悲しみを訴えているのかは定かではございませんが、そんなことは全く意味をなさないのです。そうです。ここが彼女の秘密にしておりました楽園なのです。地上で花開く薔薇園があるならば、この暗黒の地下には麗しき華たちが一斉に悲鳴を奏でるのです。ああ、どうぞ皆様ご想像なさってください。女たちが生に縋りついて頻りに悲鳴を上げるのです。人の言葉を失いまして、獣のような声しか上げることができない彼女たちは、決してお互いに慰め合ったり協力し合ったりすることもできずに、孤独の恐怖を味わい続けるのです。人が人としての尊厳や特権というものを奪い尽くされてしまった、まさに畜生となんら変わらない世界なのです。貴婦人たる、人たる全てを失ったこの場所には、彼女たちの充分な恐怖が満ちているのです。
「いつ拝見しましても、実に素晴らしいところでございます。あなたが楽園と称する所以が、わたくしにもわかります」わたくしは申しました、「精神を研究するのに最も適しているのは、真実の声なのです。人が持っております根源的な感情とは、快楽と恐怖でございます。いくら人が快楽を享受しておりましても、そこに恐怖がなければ精神に近づくことはできません。いくら人が恐怖に打ちひしがれておりましても、快楽をそこに見出さねば精神に触れることすら叶いません。写実とはすなわち、自然のありのままを捉えるものでございますが、そこには一切の真実が存在しないのです。すなわち、精神の起源となります快楽も恐怖も、そこからは読み取ることができないのです。自然を追究するには最良の法とも申せましょうが、わたくしが愛しました精神を得るには少しも至らないのです。あなたの崇高な精神はあの数々の書物ではなく、そうですとも、あれはほんの儀式でしかありません、この楽園に身を置くことで精神の追求をなさったのです」
わたくしは牢屋の中でもとびきりお若い女を見つけまして、そっと彼女に近づきます。年は十代そこらで、まだここへ連れて来られてからそう日は経っていない様子でございました。わたくしがまだ傷んでおりません女の髪を撫でてやったところ、女はわたくしに救いでも求めるように頻りに声を上げるのです。光と声を失いまして、御自身の裸体を隠す術まで剥奪されたこの女は、しかし一向に構うことなくその身を差し出して参ります。まだ希望を捨ててはおりません、恐怖に染まりきらない若い声でございました。わたくしは女の髪を撫でてやりながらそっと耳打ちするのです。
「しかし永遠を手に入れましたわたくしたちには、この美しい彼女たちでさえもすでに必然性を失った飾りに他なりません。この精神の歌声たちは、わたくしの精神が肉体の柵から解き放たれるまでのささやかな糧と致しましょう。もはや成長も老衰も致しはしない精神でございますが、せめてあなたとともに過ごすための天使としてお連れ致します」
女は狂ったように悲鳴を上げながら激しく頭を振るのです。その一等美しい悲鳴に満足致しまして、わたくしは女のいる牢屋から出て行きました。水面に投じた一つの石が波紋を広げますように、辺りの悲鳴はいっそう激しさを増し、美しい旋律を奏でるのです。楽園で飛び交う愛の天使たちが奏でます歌声とは、まさにかのうように素晴らしいものでございましょう。
この精神にまで響きます歌声を耳にしながら、わたくしは洞窟の奥地へと目指し歩き続けるのです。このときに、わたくしが思い描きますのは彼女を連れて参りました夜のことでございます。その回想は同時に、彼女以外の存在をも想起させるのです。その光景を頭に思い浮かべたまま、しかしわたくしの精神が揺らいでしまうことは決してございません。わたくしの永遠はなにものにもなびくことはないのです。いいえ、そもそもどうして迷うようなことがございましょうか。これだけ崇高な讃美歌に囲まれて、美しいものへの純粋な感嘆はございましても、畏怖に怖気づくようなことがあるでしょうか。精神の高みへ到達するものには、この光景こそが楽園のそれなのです。
わたくしは廊下の一番奥まで辿り着きまして、そこに一つの扉を見つけて立ち止まりました。
「戻って参りました」
わたくしの心のうちに、この奥を初めて見たときの様子がはっきりと思い出されました。暗闇の部屋の中は妖しげな光で仄かに照らされておりまして、そこには天上にとどきそうなほどの巨大なフラスコがいくつも並んでいるのです。その中には、わたくしと同じくらいかやや年上の貴公子方が溶液の中に浮かんでおりました。健全な裸体を曝すものがございます、腕や足の肉を失っているものがございます、体のほとんどを白骨に変えているものがございまして、実に様々な男の死体がフラスコの中にはございました。
わたくしは愕然と致しまして、同時に激しい嫉妬に心を焼きました。そうです、皆様。わたくしはその光景を目にして知ったのです。彼女と会話を致します間に、わたくしは彼女が以前にも誰かと関係をもっていたことを薄々感ずいておりましたが、彼女はこの地下室で彼らを独占していたのです。わたくしにとって彼女は唯一のお方でございますが、彼女にとってわたくしは唯一ではございませんでした。わたくしは彼女が独占するいくつもの精神のうちの一つに過ぎず、すなわち彼女はわたくしをそのていどにしか考えていらっしゃらないのです。いいえ、彼女は決してわたくしめを認めていなかったわけではございません。わたくしの彼女に対する想いが本物でございましたように、彼女もまたわたくしのことを真に慕ってくださっていたのです。わたくしたちはともに一つの崇高なる精神を愛する存在、いいえ、精神そのものだったのです。しかし、わたくしには耐えられませんでした。わたくしがどれほど彼女をお慕い申し上げておりましても、彼女はわたくしを見つめながらも他の貴公子方に目を向けるのです。ああ!まさしく、彼女が申し上げます通りでございます。彼女が独占を求めますように、わたくしも彼女を独占せずにはおれないのです。わたくしはいつまでも彼女にお仕えし、誰よりも彼女とともにいるのです。わたくしは、彼女との唯一無二の永遠を誓ったのでございます。
わたくしは扉の前で奥の光景を想像致しました。初めて見たときと同じようにあのおぞましい光景が広がっているのでしょうか、はたまたわたくしが愛しました一輪の薔薇が美しく咲き誇っているのでしょうか。わたくしは胸を高鳴らせて扉を開けました。わたくしが部屋へと入りますと、そこにはやはりいくつものフラスコが並んでおりまして、しかしながらその中には貴公子方の姿はどこにも見られません。わたくしが奥に進んで行きますと、一つのフラスコの前に人の影を見つけまして、わたくしは足を止めました。そこにおりましたのはなんとローヤだったのです。ローヤに家を出ることを告げたときに、わたくしはローヤにこの場所を記した紙を渡しておいたのです。強制はしておりませんでした。ローヤがお望みであれば、この場所で再びわたくしの侍女となれるように選択を与えておいただけでございます。ローヤは深く礼を致しましてわたくしに申しました。
「御主人様のお言いつけ通り、こちらにいらっしゃいました貴公子方には席を外していただきました。そしてマリス・ミーディアム様のご準備は、その、すでに整えてございます。あの、御主人様。わたしは御主人様のお傍にいてもよろしいのでしょうか?」
わたくしは不安そうにしておりますローヤにお答え致しました。
「天を知らぬ檻の中の鳥は身を捧げて鳴くが使命とて飛ぶことを忘れる。捕らわれの身を不幸と嘆けばそこは棘の鎖に覆われるが、世の無情を知らぬは薔薇の園にも等しきに焼きつく罪過も命の灯火に似たり。鉄に繋がれた体を何故悔いることがあろうか。針の褥で見る夢こそ甘美なものはなく、永遠はその慰みになろう。さあ、深海に溺れるが良いぞ。死して神の御心に届くことなき生死の淵は安息の奈落にありける」
ローヤは驚いたようにわたくしを見るのです。最後まで勉学に励めなかった彼女には、この言葉の意味が掴みかねるようでございました。わたくしは心のうちにその気持ちを隠しまして、ローヤに申し上げました。
「お食事の時間以外にこの部屋に立ち入ってはなりません。わたくしがお呼びするまでは何があってもです。それまでは庭に水をやり、牢に繋がれた小鳥たちの世話をしてやってください。どちらにいてもよろしいですが、決して丘から下りてはなりません。わたくしの傍にいるのがお嫌でしたら止めはしませんけれど」
「滅相もございません」ローヤは深々と頭を下げるのです、「わたしはいつまでも御主人様にお仕え致します」
「それならば、お好きにしたらよろしいでしょう。さあ、お食事の準備に取りかかってください。城の地下には食料があったはずです。それと、歌姫を一人いただきましょう」
「かしこまりました。御主人様」
ローヤはすぐに部屋から出て行きました。わたくしは彼女の傍に歩み寄りまして、二人きりの時間を愉しみます。いいえ、もはやここには一つの共有されました精神と意識しかないのです。彼女は溶液で満たされた容器の中におりました。彼女の肉体が持つ優美な曲線、女性らしい細部の特徴、顔も髪も全てがあの日の夜のままにそこにあるのです。
あの約束の夜に、わたくしは彼女に魔術師からいただいた薬を差し出しました。グラスに注いだその液体は血のように紅く、ワインのように豊潤な香りが致しました。その薬を、まずは彼女が一口含んで、そしてわたくしが続いて最後の一滴まで飲み干したのです。するとどうでしょう。二人で同じ薬を飲んだはずなのにわたくしの体はなんともなく、彼女はすっかり眠ってしまいまして目を覚まさないのです。わたくしにはあの薬の効能が得られなかったのでございましょうか。ともに永遠を手にしまして、永遠のみが支配する意識の底へと彼女とわたくしは生きていくのではなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはございません。わたくしと彼女は同じ精神の下、等しい永遠をここに手に入れたのです。彼女はいち早く肉体という束縛から解放されたに過ぎません。わたくしもやがては彼女とともに永遠の精神を生きていくのです。そうです。肉体という柵を全て打ち砕きまして、腐敗も変質も起こさない不変の精神に身を委ね、わたくしも彼女と等しい精神を共有するのです。
わたくしはフラスコの前で膝を折り、約束の言葉を申し上げます。
「わたくしはあなたの永遠の奴隷でございます」
自然はあらゆる秩序の頂点に君臨し生命を支配しておりますが、精神のみがそれを振り払う稀少の存在なのです。わたくしは社会を裏切り、自然すらも見限りまして、この最愛なる唯一の精神とともに永遠にこの世に生きましょう。永遠に不変の精神は、決してわたくしを裏切りませんし、わたくしもこの最愛なる精神を見限ることはございません。ああ、いつの日にか二人が一つたるときを、わたくしは永遠のときの流れの中にただ待つばかりでございます。




