第9話 市場を開く
朝霧が晴れ、ノルデンの広場に陽光が差し込む頃には、週一回の市場はこれまでにない活気を呈していた。
『不衛生だ』という悪質な風評に怯え、開場直後は遠巻きに様子を窺っていた近隣の商人たちも、やがて恐る恐る露店に近づき始めた。彼らの目を惹きつけたのは、全製品に整然と添付された『第三者職人組合による品質検査証』と、一銅貨の隙もない適正価格の札、そして何より『現物確認・現金決済』という、嘘の入り込む余地のない強固な取引条件だった。
検査見本を割り、味を確かめ、ようやく一つ、また一つと商品が売れ始めると、商人たちの警戒心は実利への欲求に変わり、広場はまたたく間に人だかりで埋め尽くされた。
「第二班の荷車、搬出ルートを塞ぐな! 空いた車はすぐに北側の予備スペースへ回せ!」
広場の入り口では、道路と荷車管理班のダリウスが声を枯らして動線を指揮していた。彼の近衛仕込みの空間把握能力と統率力により、大量の荷車が入り乱れても一切の渋滞が起きていない。
「こちらの木工品の原価は……よし、販売価格と利益率に計算の狂いはない。次の台帳を回せ!」
事務用テントの中では、トリスタンが目を血走らせながら、各店舗から上がってくる売上記録を凄まじい速度で処理していた。数字の食い違いが一つ見つかり、彼は元の伝票を繰った。差額を曖昧にして先へ進めば、締め直しになる。
そして、広場の中央で最も人目を惹いていたのは、灰色の作業着姿のユリウスだった。
「こちらの保存食は、ノルデンの寒冷な気候を活かし、塩漬けと燻煙の工程を管理し、保存条件を明記したものです。どうぞ、お手に取って品質をお確かめください」
大口の買い付けを渋っていた老商人を相手に、ユリウスは相手の目を見て、言葉を選んでいた。
老商人は彼の堂々たる振る舞いと理路整然とした説明にすっかり魅了され、「よし、このロットをすべて買おう」と気前よく現金を積んだ。
少し離れた場所から、クラウディアは注文の成立した時刻と数量を記録していた。
ダリウスの動線管理も、トリスタンの計算も、ユリウスの接客も、確かにこの市場の売上を飛躍的に押し上げている。だが、彼女は彼らに歩み寄って称賛の言葉をかけることはしない。
彼らの能力が生み出した利益は、すべて『配分可能純益』として計算され、その三十五パーセントが規定の監査を経て、彼ら自身の残債務の返済に充てられるだけだ。
「……見事なものだな」
視察に同行していたアルヴィンが、手元の監査書類に目を落としながら言った。
「かつて国を動かしていた特権階級の知恵と技術が、今はこうして、たった数銅貨の野菜や木工品を売り捌くために使われている。しかも、それが確実にこの辺境の地に現金をもたらしている」
「彼らは働いて返すためにここにいるのですから、当然のことです。……それより、一般住民の様子を見てください」
クラウディアの視線の先では、ノルデンの一般住民たちが、自分たちの作った品が次々と売れていくのを見て、顔を紅潮させながら現金を受け取っていた。
つい数か月前まで、ここは『罪人を捨てるためのどん底の土地』だった。だが今は違う。彼らが流した汗が、適正な市場価格で評価され、確かな生活の糧に変わっているのだ。
その光景こそが、クラウディアが何よりも守りたかったものだった。
「少し、休憩にしませんか。監察官殿」
昼を少し回った頃、市場の熱気がピークに達する中で、クラウディアはふと足を止めた。
彼女の視線の先には、広場の片隅で一般住民が湯気を立てて売っている、具沢山の煮込みスープの屋台があった。
「珍しいな。あなたから休息を提案するとは」
「私も人の子ですから、お腹は空きます。それに、今日の午前の監査は完璧に終わったはずですよ」
クラウディアの微かな笑みに、アルヴィンもまた小さく肩をすくめて屋台へ向かった。
二人は木製の器に入った熱いスープを買い、人混みを避けて広場の端で立ち食いをした。高級なレストランの食事とは比べ物にならないほど素朴な味だが、冷えた身体には染み渡る。
「美味いな」
「ええ。ノルデンの根菜は甘みが強いですから」
仕事の話も、残債の数字も、中央の陰謀も、この数分間だけは忘れられた。二人はただの同僚として、あるいはそれよりも少しだけ親しい存在として、湯気の向こうで視線を交わし、短い笑いを共有した。
それは、この過酷な辺境の地で生まれた、ほんの小さな、だが確かな安らぎだった。
夕刻。
予想を遥かに上回る売上を記録し、市場の片付けが始まった頃。
大口の取引を終え、荷車に品物を積み込んでいた一人の大商人が、見送りに来たクラウディアの傍へ寄り、声を潜めて告げた。
「所長。見事な市場だった。あんたらの品質と管理体制は本物だ。……だが、一つだけ妙な噂を耳にしてな」
「妙な噂、ですか?」
「ああ。ノルデンで作られた品物の質や、あんたらからの直接の支払いは確かなんだが……どういうわけか、『中央賠償管理局を経由する金』だけ、被害者への着金が異様に遅いという話が、王都の商人たちの間で密かに囁かれている」
クラウディアの心臓が、冷たく跳ねた。
隣にいたアルヴィンも、鋭い視線を商人に向けた。
「着金が遅いというのは、単なる手続きの遅延以上の話か?」
「俺も詳しい内情は知らない。だが、中央局を通した賠償金が、本来届くべき額より少ないとか、いつまで経っても口座に入らないとか……そういう焦げ付きの噂が絶えないんだ」
商人はそれだけ言い残すと、足早に去っていった。
クラウディアとアルヴィンは、顔を見合わせた。
今日、この市場が大成功を収めたまさにその裏で、ノルデンからは第一回目の通常経路――すなわち、中央賠償管理局を経由する『六十三金貨』の送金指示が行われている。
七日後。その金が、被害者たちの口座に、寸分違わず満額で届くかどうか。
物理的な妨害を打ち破った彼らの前に、今度は中央の巨大な帳簿に潜む、底知れぬ闇が口を開けて待っていた。




