第8話 噂を売った令嬢
臨時輸送隊が無事に市場へ到着したという報告を受けたのも束の間、ノルデンの所長室には重苦しい空気が漂っていた。
蝋燭の灯りが揺れる中、会計主任のマルタが絶望的な予測数値を記した書類をデスクに置いた。
「所長。近隣の村々に広まっている噂のせいで、数日後の週一市場における外部からの買い付け予約、ならびに出店希望者が、当初の予測から半減しています」
「『囚人製品は不衛生だ』。そして『ノルデンの製品を買えば王家から睨まれる』、でしたね」
「はい。物理的な輸送ルートを絶つだけでなく、商取引の信用そのものを破壊する気です。このまま開場日を迎えても、閑古鳥が鳴くのは目に見えています」
クラウディアは静かに頷き、傍らで腕を組むアルヴィンと視線を交わした。
暴力や物流の遮断であれば、現場の力で突破できる。しかし『風評』という見えない毒は、人々の恐怖と疑心暗鬼を養分にして際限なく広がる。
この悪意ある噂の出所と伝播の仕組みを解明しなければ、効果的な対策は打てない。
「ヴィヴィアン・ロゼルをここへ」
クラウディアの指示により、すぐにヴィヴィアンが所長室に連行されてきた。
作業着姿で現れた彼女は、不満げに口を尖らせていた。着任日にクラウディアに自筆の『配布先一覧』を突きつけられ、逃げ道を塞がれて以来、彼女はずっと薄暗い倉庫で商品情報の整理という地味な作業を強いられている。
「……何かしら。私は規定通りの作業を終わらせたはずですけれど」
「あなたに意見を求めます」
クラウディアはマルタが持ち込んだ噂の報告書を、ヴィヴィアンの前に差し出した。
一年前の断罪劇において、ヴィヴィアンはクラウディアの偽の横領疑惑を、誰よりも早く、誰よりも巧みに王都の社交界へ拡散させた。彼女は情報の出所を隠し、人々の好奇心を煽る『情報流通の癖』を熟知しているのだ。
ヴィヴィアンは書類を一読すると、鼻でふっと笑った。
「なるほどね。よくできた噂だわ。ただの悪口じゃなくて、『王家から睨まれる』という権力の影をちらつかせているところが特に」
「自然発生したものではない、ということですね?」
「当たり前じゃない。噂ってね、最初の一滴をどこに落とすかが一番重要なの。この広がり方……おそらく、王都の金融組合あたりが起点ね。商人の信用情報を握っている彼らが、出入りの輸送業者や小間物商に『善意の忠告』として耳打ちしたのよ。そうすれば、あとは商人が自分の身を守るために勝手に広げてくれるわ」
ヴィヴィアンの分析は的確だった。王都の金融組合といえば、中央局とも取引がある。だが、組合の名だけでは、誰が噂を流したかまでは分からない。裏付けを取る必要があった。
自分の能力を証明できたことで、ヴィヴィアンの目に野心の色が浮かんだ。彼女は一歩前に出て、自信ありげに微笑んだ。
「ねえ、所長。私ならこの状況をひっくり返せるわよ」
「どうやって?」
「私には社交界にまだ残っているコネがあるわ。それに、噂を上書きする方法も知っている。例えば、『ノルデンの製品は、罪を悔いた高貴な血筋の者たちが精魂込めて作っている希少品だ』とか、『王家も密かに応援している』とか。私を市場の広報役に任命してちょうだい。そうすれば、すぐにでも客足を取り戻してあげるわ」
それは、ヴィヴィアンにとって起死回生の提案だったはずだ。地味な裏方作業から抜け出し、得意な『社交と噂話』で功績を立て、賠償を楽に終わらせる。
「……お断りします。あなたに対外発信権は与えません」
「な、なぜよ! 私の力が一番有効じゃない!」
「いいですか、ヴィヴィアン。一年前、あなたが面白半分に流した噂は、私個人の名誉を傷つけただけではありません。それを信じた人々が取引を停止し、多くの商会が損害を被った。噂話をしただけでも、実害が発生すれば責任を負う。それがあなたが背負っている七十五金貨の残債務の意味です」
「噂に噂で対抗すれば、必ずまた根拠のない情報戦になり、いつか必ず破綻します。私たちは『事実』と『数字』以外で反論はしません。あなたは引き続き、第三者職人組合に提出する品質検査用の商品情報整理だけを担当しなさい。ごまかしのきかない数字と規格だけを、ひたすらに拾い上げるのです」
「そんな……あんな埃っぽい倉庫で、いつ終わるとも知れない作業を続けろっていうの!?」
「あなたが賠償額を完済するまでです。下がりなさい」
ヴィヴィアンは悔しさに唇を噛み締めながら、足早に所長室を去っていった。
アルヴィンは、説明に使う資料と実物の検査結果を並べた。ヴィヴィアンにも目を通させ、違うことを言えばどの記録で確認できるかを示した。
「さて、噂で対抗しないとなれば、どうやってあの悪質な風評を打ち破るつもりだ?」
アルヴィンの問いに、クラウディアは即答した。
「徹底した品質保証と、圧倒的な取引の透明性です。『第三者職人組合による品質検査証』を検査を終えた製品に添付し、『現物確認販売』を付け、決済はすべて『現金決済』のみとする。噂など入る隙間もないほどの、絶対的な安全条件を提示します」
「なるほど。だが、それを実現するには、販売価格を適正に保つための正確な原価計算が必要だぞ。少しでも価格設定を誤れば、返品リスクで我々が破綻する」
「ええ。ですから、彼を呼びます」
次に所長室に呼ばれたのは、購買班に配属されていたトリスタンだった。
彼は呼び出されるなり、「私は言われた通りに資材の発注をしているだけだ」と保身の言葉を口にした。彼は自分の能力を過信し、適当な相場感で資材を安く叩き、その差額を自分の労働評価に上乗せしようと目論んでいた節がある。
クラウディアは、彼が提出したどんぶり勘定の購買台帳をデスクに叩きつけた。
「トリスタン。あなたが仕入れた資材の『正確な購買原価』を、すべて一銅貨単位まで開示しなさい」
「なっ、なんだと? そんな細かい計算は……それに、私が安く仕入れたのだから、その利益は私の功績として……」
「何度も言わせないでください。あなたの署名一つでどれだけの契約が凍結され、損失が出たか。それを忘れたとは言わせません」
クラウディアの威圧感の前に、トリスタンは息を呑んだ。
「初回の市場で、私たちは現物確認販売と適正価格を打ち出します。その基盤となる原価計算を誤れば、売れても返済に回す利益が残りません。あなたが持っている数字の能力をすべて使って、班で分担し、開場までに正確な原価計算表を提出しなさい。言い逃れも、ごまかしも許しません」
命令だったからと逃げていた男に、今度は逃げ場のない『実務の責任』を負わせる。トリスタンは顔面を蒼白にしながら、膨大な計算書類を抱えて執務室の隅へと追いやられた。
埃まみれのヴィヴィアンが品質規格を整理し、トリスタンが泣きそうな顔で原価を弾き出す。彼らの有能さは、彼ら自身の特権のためではなく、ノルデンの事業を支えるための強固な土台へと強制的に変換されていった。
準備を重ねた数日後。
薄霧が晴れ始めたノルデンの広場には、手作りの露店が並び、週一回の市場が初めてその産声を上げようとしていた。
出店者は当初の予定より少ない。買い付けに来た商人の数もまばらで、皆、遠巻きに様子を窺っている。不衛生だという噂の呪縛は、まだ解けてはいない。
だが、クラウディアの目に焦りはなかった。
すべての商品には、ヴィヴィアンが整理した情報に基づく第三者機関の品質証明書が付けられ、トリスタンが算出した原価に基づく適正価格の札が下がっている。そして『現物確認販売』の大きな看板が掲げられていた。
クラウディアは所長室の窓から、静かに開場を待つ市場を見下ろした。
隣には、同じように広場を見つめるアルヴィンが立っている。
「ここからが正念場だな、所長。噂の払拭と、事業の真の自立がかかっている」
「はい。ですが、今日動くのは市場だけではありません」
クラウディアは視線を広場から、王都の方角へと移した。
「今日、中央賠償管理局の通常経路を使用した、最初の『六十三金貨』の送金指示が発動します。被害者の元へ、予定通り七日後に全額が実着金するかどうか。……中央の連中がどう動くか、見物です」
直接支払条項が封じられた今、中央の法定経路を使わざるを得ない。
市場での泥臭い戦いと、中央組織の闇に潜む数字の戦い。
ノルデンの辺境再建は、新たな局面を迎えようとしていた。




