第48話 求婚は勤務時間外
静かな湖畔を渡る春の風が、水面を茜色に揺らしていた。
夕闇が迫る中、アルヴィンはクラウディアの正面に立ち、その灰色の瞳を真っ直ぐに彼女へ向けていた。
彼の表情は、秋のノルデンで初めて会った時のように引き締まっていたが、そこに宿る熱は全く別のものだった。
「少し、改まって聞いてほしいことがある」
アルヴィンはそう切り出すと、おもむろに上着の内ポケットから、丁寧に折りたたまれた数枚の書類を取り出した。
「……書類、ですか?」
クラウディアが不思議そうに目を瞬かせると、アルヴィンは少しだけ自嘲するように口の端を上げた。
「ああ。俺は不器用な男だからな。大事なことを伝える時は、こうして確かな根拠を並べないと落ち着かないんだ」
アルヴィンは書類を広げ、クラウディアに見せた。
一枚目は、王都の監察局本部に宛てた公文書の控えだった。そこには『巡回監察職への異動願』と記されている。
「俺は、君と結婚したい」
ストレートな言葉が、不意にクラウディアの胸を撃ち抜いた。
息を呑む彼女を前に、アルヴィンは書類を指差して説明を続けた。
「だが、俺は君に『危ないから仕事を辞めて、俺の庇護下に入れ』なんて言うつもりは毛頭ない。君が血を吐くような思いで築き上げたこのノルデンでの実績と、自立して生きるための選択権を、俺が奪う権利はない。
この異動願が通れば、俺は特定の施設に常駐するのではなく、複数の自治都市を回る役職になる。帰る家はノルデンに置ける。監査するのはほかの都市だ。すでに本部へ移した金銭監査の最終承認と君の職務評価に加え、現地の保全や安全確認も後任へ正式に引き継ぐ。……二枚目は、俺の現在の階級に応じた年間収入と、保有財産の明細だ。そして三枚目は、互いの公的な職務が衝突した場合の『絶対的相互不介入の原則』を明記した覚書」
アルヴィンは、彼女の目をじっと見つめた。
「俺は、君を鳥籠に入れる気はない。君と同じ空を飛びながら……ただ、帰る巣を一つにしたいんだ。これが、君と共に生きるために俺が組んだ、生活の計画書だ」
クラウディアは書類に触れた。異動願はまだ承認されていない。覚書の表題には、小さく『案』と書き足してあった。
自分の返事で変えてよい余白が、そこにある。
顔を上げると、アルヴィンが息を詰めて待っていた。いつもの監査の時には見せない顔だった。
クラウディアは涙をこらえ、ふっと実務家としての凛とした笑みを浮かべた。
「……見事な計画書ですね、アルヴィン。ですが、私からも提示する条件があります」
「聞こう」
「一つ。私はノルデン所長職を継続します。二人の家計は別口座で管理し、生活費は互いの収入から公平に按分して拠出すること。二つ、先ほどあなたも提示した通り、職務上の相互不介入を徹底し、家庭内に仕事の序列を持ち込まないこと」
アルヴィンは真剣な顔で頷いた。
クラウディアは一歩、彼との距離を詰め、その胸元を見上げた。
「そして、三つ目。……月に数日は必ず、今日のような完全な休日を確保し、私と一緒に過ごすこと。……仕事の外では、ただのクラウディアとして、あなたに甘えることを許可してください」
アルヴィンは一瞬目を見開き、それから、耐えきれないように低く笑い声を漏らした。
「……ああ。喜んで了承する。完璧な契約の成立だな」
アルヴィンは手元の書類を再び内ポケットにしまうと、クラウディアの腰に腕を回し、力強く引き寄せた。
「実務の確認はこれで終わりだ。……ここからは、ただの男としての言葉を聞いてくれ」
彼の顔が近づき、灰色の瞳が夕日を受けて熱く燃えているのが見えた。
「愛している、クラウディア。俺の妻になってくれ」
「はい……喜んで」
クラウディアが飾らない言葉で応えると同時に、アルヴィンの唇が重なった。
それは、交際を始めた夜に交わした静かな口づけとは違う、互いの熱と未来のすべてを分かち合うような、深く、情熱的な口づけだった。
クラウディアは彼の広い背中に腕を回し、背伸びをしてその熱に応えた。冷たい春の風が湖畔を吹き抜けても、彼の腕の中はたまらなく温かく、絶対的な安心感に包まれていた。
あの夜のことを、よかったとは思わない。それでも今、好きな人に触れ、自分の言葉で未来を選べることが嬉しかった。
数日後。
ノルデンの所長室は、いつものようにペン先が紙を擦る音と、書類をめくる音に包まれていた。
机の端には、次の休暇の予定を書いた紙が挟まれている。クラウディアはそれを引き出しへしまい、マルタの報告へ向き直った。
「所長。先日の共同倉庫の決算報告書ですが、本部の担当官の監査を終え、承認が下りました」
「ご苦労様です、マルタ。午後から各組合へ配当通知を回してください」
クラウディアが淡々と指示を出した時、所長室の窓から一羽の通信鳥が飛び込んできた。
それは、王都の行政管理局の紋章が封蝋された、分厚い公式文書だった。
「……王都からですね」
クラウディアがペーパーナイフで封を切ると、アルヴィンも手を止めて視線を向けた。
中から出てきた羊皮紙に目を走らせたクラウディアの瞳が、スッと見開かれた。
「どうした、所長」
「アルヴィン、マルタ。……ついに、来ました」
クラウディアは、その公文書をデスクの中央に広げた。
「王国より、『ノルデン自治都市化』に関する最終審査の通知です」
ノルデンはこれまで、罪人へ賠償履行労役を課すための『賠償執行区』という特殊な行政区画に過ぎなかった。
だが、クラウディアの改革によって町は潤い、一般住民の数は増え続け、独自の市場と共同倉庫を持つまでに成長した。もはやここは「罪人を捨てる辺境の土地」ではない。
一般の居住区と執行施設を法的に分離し、正式な『都市』として認可されるかどうか。
あの時の絶望の地が、人々が自らの意思で住むことを選ぶ新たな町として生まれ変われるかどうかの、最終的な決断が下されようとしていた。




