第47話 監察官の求婚準備
ノルデンの厳しい冬が終わりを告げ、柔らかな春の日差しが差し込む早朝。
アルヴィン・グレイは、宿舎の簡素な机に向かい、数枚の書類にペンを走らせていた。
それは、彼が普段扱っている横領の証拠や監査台帳ではない。彼自身の人生に関する、重要な計画書だった。
一番上にあるのは、王都の監察局本部へ提出するための『異動願』。現在のように特定の施設に常駐するのではなく、複数の自治都市を定期的に回る『巡回監察職』への転属を希望する書類だ。これを通せば、彼はノルデンを居住の拠点にし、他の都市を担当できるようになる。金銭監査の最終承認とクラウディアの評価からは、交際前にすでに外れている。今回の願いが通れば、現地に残していた証拠保全や安全確認も常駐の後任へ引き継ぐ。
その下には、自分の現在の階級に応じた年間収入と財産額を正確に記した明細書。さらに、互いの公的な職務領域が衝突した場合の『絶対的相互不介入の原則』を明記した覚書。
「……聞かれそうなことは、書いたはずだ」
アルヴィンは書類の束をトントンと揃え、小さく息を吐いた。
今日、彼はクラウディア・ヴェルンに求婚する。
この町での仕事を続けたいと、彼女は何度も話していた。自分にも監察の仕事がある。その二つを続けながら暮らせる案を考えると、まず異動願を書くことになった。
けれど、収支が合えば彼女が頷くわけではない。断られることも、別の案を出されることもある。
アルヴィンは覚書の表題に『案』と書き足した。
だが。
アルヴィンはふとペンを置き、窓から見える春の空を見上げて、自嘲気味に笑った。
これではまるで、商会の合併交渉ではないか。
彼がクラウディアの隣に立ちたいと願う理由は、そんな理詰めの条件闘争だけではない。もっと根本的で、一人の男としての、シンプルで切実な欲求が根底にあった。
監査台帳の外で、彼女がどんな朝食を好むのかを知りたい。休日の朝、少し寝ぼけた顔で、どんなパンにどんなジャムを塗って食べるのか。
しかめっ面で書類の束を睨みつける彼女の顔も好きだが、仕事から解放された休日に、どんな景色を見て、どんな風に笑うのか。
孤独に戦い抜いた彼女の、強張った肩を優しく抱き寄せたい。彼女の人生の、仕事のない朝や夜も分け合い、ただの男と女として一緒に暮らしていきたい。
それが、アルヴィン・グレイという男の、たった一つの素直な願いだった。
アルヴィンは書類の束を丁寧に折りたたみ、上着の内ポケットに入れた。
待ち合わせの場所では、クラウディアが家の間取り図を広げていた。
「……待たせたな。行くか」
今日一日は、彼女が自分に預けてくれた完全な休日だ。
午前中のノルデンは、活気に満ちていた。
アルヴィンとクラウディアが待ち合わせて最初に向かったのは、町の外縁、新しく整備された一般居住区の一角だった。
最後の着金の日、クラウディアが自らの債権二百六十金貨を生活口座へ移した際、「自分名義の家を買う」と決めていた。今日はその物件の内見だった。
「所長、監察官殿! お待ちしておりました」
管理組合の案内人に通されたのは、日当たりの良い南向きの平屋だった。
真新しい木材の香りが漂う室内は、頑丈な造りでありながら、どこか温かみがある。リビングの窓からは、活気を取り戻したノルデンの町並みが見渡せた。
「素晴らしい造りですね。採光も風通しも申し分ありません」
クラウディアが、実務家としての厳しい目つきではなく、自分の居場所を探す一人の女性としての輝くような瞳で室内を見回していた。
アルヴィンはその後ろを歩きながら、部屋の広さを目で測り、少し意地悪く口の端を上げた。
「……いい家だが、君が一人で住むには、少し広すぎるんじゃないか?」
「そうですか?」
クラウディアは振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「将来、誰かを招いて一緒に食事をすることもあるかもしれませんし。それに、本を読むための書斎や、落ち着いてお茶を飲める空間も欲しいですから、これくらいが丁度いいんです」
「なるほどな。確かに、誰かと一緒に食事をするには、この広いダイニングは完璧だ」
窓辺に机を置くか、食卓にするか。二人で部屋を歩き、日差しの入り方を確かめた。アルヴィンが椅子を引く幅を測っていると、クラウディアが可笑しそうにその背中を見ていた。
ノルデンへ来た頃には想像もできなかった、あまりにも穏やかな時間が流れていた。
結局、クラウディアはこの家を大いに気に入ったものの、「もう一晩だけ冷静に考えます」と言って、契約自体はこの場では保留にした。
午後からは町を離れ、近郊にある静かな湖畔へと足を伸ばした。
雪解け水で満たされた湖面は、春の陽光を反射してキラキラと輝いている。二人は湖畔のベンチに並んで座り、ただ静かに流れる時間を共有した。
誰の目も気にする必要はない。不当な圧力も、背負うべき重い借金も、もはや存在しない。
クラウディアは目を閉じ、湖から吹く心地よい風を全身で受け止めていた。その表情には、すべての戦いを終えた者だけが持つ、純粋な安らぎがあった。
やがて、太陽が西の山に傾き、空が淡い茜色に染まり始めた頃。
『勤務外の時間』も、ゆっくりと終わりに近づいていた。
アルヴィンは、隣で静かに息をする彼女の横顔を見つめ、上着の内ポケットに入れた書類の重みを確認した。
覚悟を決める時だった。
「……クラウディア」
アルヴィンの声のトーンが変わった。
湖を渡る風の音よりも低く、真摯な響きを帯びた声。
クラウディアが目を開け、不思議そうに彼を見上げた。
アルヴィンはベンチから立ち上がり、彼女の正面に回って、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「少し、改まって聞いてほしいことがあるんだ」
夕闇が迫る湖畔で。
アルヴィンは内ポケットへ手を入れた。用意してきた言葉が、一度に出てこなくなった。




