第46話 囚人たちの出発
雪解けの泥が残るノルデンの正門前に、護送馬車と、東部へ向かう乗合馬車が並んで停まっていた。
冷たい朝の空気が漂う中、灰色の作業着を着た二人の人物が、それぞれ割り当てられた馬車の前に立っている。
ユリウスと、セシリア。
あの時の建国祝賀会の夜、煌びやかな王宮の広間で、クラウディアを嘲笑い、勝者として腕を組んで並び立っていた二人。だが、今の二人は互いに言葉を交わすことも、視線を合わせることすらしない。
ユリウスの廃嫡とともに婚約内定が失効して以来、二人の間には決定的な溝が生まれていた。彼らはここで泥にまみれて働き、ただ己の借金を返すためだけの時間を過ごした。
「ユリウス。……あなたの移送先は、南部にある第七公共物流施設です」
クラウディアは、手に持った移送指示書を読み上げた。
「民事上の賠償債務は完済しましたが、あなたにはまだ一年余りの最低公的奉仕期間が残っています。移送先でも、引き続き王国のインフラ維持のための労働に従事してください」
ユリウスは、クラウディアの顔を静かに見つめ返した。
彼は移送指示書へ目を落とし、それから所長を見た。
もしあの時の彼であれば、完済したのだから王族としての待遇に戻せと騒ぎ立てるか、あるいは「自分が悪かった、もう一度やり直してほしい」と、クラウディアの感情に甘えるような未練がましい言葉を口にしたかもしれない。
だが、彼はただ無言のまま、深く、長い一礼をした。
それが、彼にできる唯一の、そして最後の誠意だった。
彼はクラウディアに背を向け、自らの意思で一台目の護送馬車へと乗り込んでいった。
「次に、セシリア・ヴェルン」
「……はい」
クラウディアが名前を呼ぶと、セシリアは小さく肩を震わせて前へ出た。
偽証と偽造への関与について判決時に定められた奉仕期間は、移送前の執行も通算し、すでに満了していた。ユリウスやトリスタンには、公的な権限を使って事業の凍結を決め、執行した責任も量刑に加わっている。
「あなたは定められた奉仕期間を満たし、民事賠償も完了しました。職歴と監督条件を確認した東部の組合から、採用通知が届いています。証言をしたことによる減刑ではありません。……東部の工業都市へ到着後、管理組合へ届け出てください。監督付きの正規帳簿職として働く条件は、あなたが承諾したとおりです」
紹介状には、担当分の照合に限って帳簿を閲覧できること、原本の訂正と決済には上司の承認を要することが明記されていた。単独で帳簿を扱う権限は、新しい職場でも与えられない。
セシリアは就労先への紹介状を両手で受け取り、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……お姉様」
セシリアは、震える声でクラウディアを呼んだ。
「お姉様……ごめんなさい。私、ずっとお姉様が羨ましくて、自分の価値を認めてほしくて……あんな取り返しのつかない嘘をついて。本当に……」
その謝罪は、誰かのせいにすることのない、彼女の心からの言葉だったのだろう。
クラウディアは差し出しかけた手を止め、紹介状を持つ妹の手元へ目を落とした。
「……セシリア。あなたが私から奪った六年間の時間と、あの夜の絶望は、あなたがここで働き、借金を完済したからといって帳消しになるものではありません。私は、あなたを抱きしめて『もう許す』と言うつもりはありません」
「っ……」
「ですが、あなたの数字を扱う能力が、このノルデンを支える一助になったことも、法廷で正直に証言したことも事実です。……あなたはあなたの選んだ道で、これからは正しく数字を扱いなさい」
セシリアはその冷たさの中に、姉からの最後の決別と、かすかな期待を感じ取ったのか、涙を拭って深く頭を下げた。
「……はい。私、これからは、決して嘘の数字は書きません」
セシリアはユリウスが乗ったのとは反対方向へ向かう、二台目の馬車へと乗り込んだ。
御者が鞭を振るい、二台の馬車が雪解けの泥を跳ね上げながら、それぞれ全く別の街道へと走り出していく。
馬車が小さくなり、見えなくなった後。
クラウディアとアルヴィンは、静かになったノルデンの広場を背にして事務棟へと戻った。
所長室のデスクには、王都からの定期便で届いた数通の書状が置かれていた。
「所長。王都の法務局から、正式な通知が届いています」
出迎えたマルタが、恭しく一枚の公文書を差し出した。
クラウディアが目を通すと、そこには王国の公印と共に、鮮やかな事実が記されていた。
「……『被害者直結口座制度』の、全国施行通知です」
クラウディアの言葉に、アルヴィンが口の端を上げた。
「中央局の裁量による賠償金の留保を最大七日間に制限し、手数料の天引きを厳格に監査する新法だな。……あなたがこの辺境の地で必死に守り抜いたルールが、ついに王国の標準になったというわけだ」
「ええ。これで今後、私のような被害者が、送金を止められた時に、期限と受領記録を根拠に異議を申し立てられます。……私たちの戦いは、本当に意味のあるものだったのですね」
クラウディアは、その施行通知を丁寧にファイルへ綴じた。
しかし、デスクの上にはもう一通、見慣れた紋章の封蝋が押された分厚い封筒が残っていた。
『ヴェルン公爵家』。
クラウディアの両親からの、私的な手紙だった。
「……実家からの手紙か」
アルヴィンが、わずかに声のトーンを落として言った。
「王宮教育顧問への再任に失敗し、貴族社会での信用を失いつつあると聞く。あの時の己の決断を悔いて、君に実家へ戻ってきてほしいと泣きついてくる内容だろうな」
「おそらく、そうでしょうね」
クラウディアはその手紙を手に取った。
あの時の彼女なら、家族に見捨てられたという事実に絶望し、この手紙を読めば感情を乱していただろう。
だが今の彼女は、驚くほど冷静だった。
彼女はペーパーナイフを取ることなく、そのままその分厚い封筒を、デスクの一番下の引き出しへと静かにしまった。そして、鍵をかける。
「読まないのか?」
「はい」
クラウディアはアルヴィンを見上げ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「今すぐ読んで、彼らを許して和解する義務もなければ、怒りに任せて突き返す必要もありません。読むか、燃やすか、それともずっと後回しにするか。……それを選ぶ権利は、今の私にありますから」
そう。
自分の人生を、自分のペースで選ぶことができる。
それこそが、彼女がここまでの戦いを通して取り戻した、最大の『回復』だった。
所長室に、静かで穏やかな時間が流れていた。
書類の整理を終え、アルヴィンがふと、手元の監査バインダーを机に置いた。
彼はいつもの監察官としての壁に寄りかかる姿勢をやめ、クラウディアのデスクの正面へと歩み寄った。
「……アルヴィン?」
クラウディアが首を傾げると、アルヴィンは少しだけ改まった、真剣な眼差しで彼女を見下ろした。
「すべての残債の処理が終わり、新制度の施行も確認した。……これで君は、ただのクラウディアに戻れるわけだな」
「はい。……あの夜の約束通り、ですね」
「ああ」
アルヴィンの声は低く、だが確かな熱を帯びていた。
「クラウディア。……次の休日を、一日俺にほしい」
それは、業務の調整ではなく、一人の男としての明確な約束の打診だった。
クラウディアは頬をほんのりと染め、笑顔で頷いた。
「はい。……私の次の休日は、すべてあなたに預けます」




