第45話 最後の四百六十六金貨
翌朝、銀行の営業開始からしばらくして、クラウディアはすでに所長室のデスクで地方銀行からの急使を待っていた。
傍らには会計主任のマルタが分厚い台帳を抱えて立ち、アルヴィンもまた監察官の定位置から窓の外の街道を見つめている。
やがて、遠くから馬の蹄の音が響き、息を切らせた銀行の使いが所長室へと駆け込んできた。
「ヴェルン所長! たった今、各地の被害者口座への送金手続きがすべて完了いたしました!」
使いの者が差し出した正式な送金完了証明書を、クラウディアは両手で受け取った。
アルヴィンがその上から覗き込み、マルタが震える手で台帳の最終ページを開く。
「……送金額、四百六十六金貨。全件、無事に実着金が確認されました」
クラウディアの静かな声が、所長室に響き渡った。
ついに、この時が来た。
あの時の断罪事件が生み出した、千八百六十金貨という巨大な負債。それが今、この瞬間にすべて被害者たちの手へ帰り着いたのだ。
「マルタ。最後の配分記録を読み上げてください」
「はいっ……!」
マルタは感極まった声で、台帳の数字を読み上げ始めた。
「ハンナ殿へ十七金貨。オットー殿へ二十三金貨。エリーズ殿へ二十七金貨。パウル殿へ三十四金貨。ミリアム殿へ三十二金貨。ヨアナ殿へ二十九金貨。レミ殿へ二十八金貨。ネラ殿へ二十九金貨。フーゴ殿へ九十金貨。……そして」
マルタは顔を上げ、潤んだ目でクラウディアを見つめた。
「クラウディア・ヴェルン殿へ、残債務全額にあたる……百五十七金貨!」
「……ええ」
クラウディアは小さく息を吐き、静かに頷いた。
「これをもって、ユリウス元殿下の残債三百六十六金貨、およびセシリアの残債百金貨は完全にゼロとなりました。旧断罪事件に関わる千八百六十金貨の賠償執行は……ここに、全額完了です」
その宣言とともに、マルタが堪えきれずに涙を拭い、アルヴィンも深く息を吐いて「よくやった」と短く労いの言葉をかけた。
あの夜のあと、まずは働く場所を探した。ここではマルタが帳簿を支え、住民たちが仕事をつなぎ、アルヴィンが記録を守ってくれた。
そのすべての戦いが、今、最後の受領印へとつながったのだ。
「所長。……先日ご希望された、受領済み口座からの移管も、本日手続きできます」
マルタが差し出したもう一枚の書類。
それは、判決時からずっと裁判所の管理下に置かれ、クラウディアが引き出しを自ら見送っていた百三金貨の、生活口座への移管申請書だった。
今回の百五十七金貨と合わせ、合計『二百六十金貨』。
それが、クラウディア自身があの時の事件で負った損害の全額だった。
「……長かったですね」
クラウディアは、その数字を指先でなぞりながら、ふっと柔らかな笑みをこぼした。
家の購入予算を書いた紙を引き寄せる。必要な修繕費と、暮らしの予備費。その欄を埋めてから、移管申請書に署名した。
「私はこの二百六十金貨を、自分の生活口座へ移します。……このお金は、私自身がこれから生きていくための、私名義の家と生活予備費として使います」
その日の昼、ネラは銀行から戻ると、工房の戸を開け放った。
残り二十九金貨の入金を確かめてきた。借換えの時に皆が引き受けてくれた共同保証を外し、残った金は糸の仕入れと、母の薬代に分けてある。
「もう、保証をお願いしなくていいの?」
母が寝台から尋ねた。
「ええ。返した分の証書も、持ってきた」
ネラは母に見えるよう、返済済みの印を示した。
それから織機の前へ座り、途中だった布を張り直す。明日から急に暮らしが変わるわけではない。けれど次に糸を買う時は、あの代理人の返事を待たずに済む。
窓の向こうで、荷車が止まった。
ネラは一度、戸口を振り返った。今度は自分が頼んだ、糸屋の配達だった。
その日の午後。
ノルデンの広場には、ユリウスとセシリアの姿があった。
クラウディアは彼らの前に立ち、二枚の『賠償完了通知』を手渡した。
「ユリウス。セシリア。今回の配当充当により、あなた方の民事上の賠償債務は全額完済となりました」
その通知を受け取った二人の表情には、達成感も歓喜もなかった。
ユリウスは無言のままその紙を見つめ、セシリアは震える手でそれを握りしめていた。
「ユリウスは最低公的奉仕期間が残るため、別施設へ移送します。セシリアは期間を満たし、監督条件付きの就労へ移ります。明日、二人ともノルデンを退去する手続きです」
二人は翌朝の出発時刻を確認し、通知を畳んだ。
荷物をまとめるため、二人は宿舎へ戻っていった。クラウディアも、退去手続きの残りを終えに事務棟へ向かった。
その日の夕刻。
勤務時間を終えた所長室で、クラウディアはアルヴィンと共に、数枚の図面を机に広げていた。
それは、ノルデンの自治都市化に向けて新しく整備され始めている、一般居住区の物件の間取り図だった。
「この角の物件なら、広場へのアクセスもいいし、陽当たりも悪くない。……だが、少し手狭か?」
アルヴィンが図面を指差しながら真剣な顔で言うと、クラウディアは少し可笑しそうに笑った。
「アルヴィン、私が一人で暮らすには十分すぎる広さですよ。それに、予算は手元にある二百六十金貨の範囲内で収めたいですから」
「俺の意見も言わせてもらうが、名義も購入の判断も君のものだ。君が心から安らげる場所を、君の金で買うんだ。俺は、その手伝いをしているだけさ」
アルヴィンは優しい手つきで図面をめくった。
クラウディアは図面の食堂に目を留めた。一人用の卓なら余裕がある。もう一脚、椅子を置くとしたらどこだろう。
「……ふふ、そうですね。なら、もう少しだけ広い物件も見てみましょうか。将来的に、誰かを招くこともあるかもしれませんし」
クラウディアが少しだけからかうように言うと、アルヴィンはわずかに目を丸くし、それから照れ隠しのように「そうだな」と低く笑った。




