第42話 閉鎖されない辺境
ベルナール侯爵が特別背任と業務上横領の罪で裁かれた翌日。
王都高等裁判所では、彼が中央賠償管理局長の権限を用いて提出していた『ノルデン賠償執行区の閉鎖申請』に対する最終的な判断が下されようとしていた。
証言席に立つクラウディアと、監察官席に立つアルヴィンが見守る中、裁判長が厳粛な声で判決文を読み上げる。
「当閉鎖申請が根拠とした会計不正および運営上の欠陥は、独立監査と現地調査の記録からは認められない。前局長による証拠回収の経緯も踏まえ、本申請を棄却する」
木槌の音が鳴り響き、ノルデンを覆っていた最大の脅威が、法的に消滅した。
だが、裁判長の言葉はそれだけで終わらなかった。
「続いて、王国の監査委員会から届いた通知を読み上げる。同委員会は、ノルデン賠償執行区においてクラウディア・ヴェルン所長が構築した『被害者直結口座』ならびに『透明性のある事業収益配当』のシステムを、極めて画期的かつ適正な賠償モデルであると高く評価する。……よって、ノルデン賠償執行区を、王国初の『独立会計・被害者直結口座の全国試行施設』に指定するものとする」
傍聴席の官僚たちが、驚きに目を見張った。
通知には、受領記録の取り方を他の試行区へ共有する日程が添えられていた。
アルヴィンが、誇らしげに口の端を上げたのが見えた。
「あわせて法務当局からの通知です。公聴会後に提出された改正案は、議会での審議を経て、採決の日程が決まりました。案では、中央留保を『最大七日』とし、手数料上限の公開と、被害者側からの受領確認を義務づけています」
採決も、施行に向けた準備も、これからだった。それでも、被害者が自分の受領記録を使って異議を申し立てる手続きが、改正案に残っている。
クラウディアは配られた通知を受け取り、その条項に細い線を引いた。
閉鎖の棄却を受け、町の組合は、冬から相談していた居住区と執行施設の分離申請を正式に進めることになった。土地と会計をどう分けるか、マルタたちが作ってきた案を行政管理局へ出す。
王都でのすべての公務を終え、ノルデンへと帰る馬車の中。
窓の外の景色は、行きに見た冷たい冬の空から、かすかな春の兆しを感じさせる柔らかい日差しへと変わっていた。
「……王宮の勢力図は、今頃ひっくり返って大騒ぎだろうな」
向かいの席に座るアルヴィンが、手元の書類を鞄にしまいながら言った。
「ベルナールの外郭口座と裏で繋がっていた旧王太子派の貴族たちは、資金の出所と配当の受領について調査を受けている。公職への再任も、その結果が出るまで保留だ。……それと、君の実家だが」
「ヴェルン公爵家ですか」
クラウディアは、感情の乗らない声で応じた。
「ああ。君の父親は、君がノルデンで上げた巨額の賠償実績を『公爵家の指導の賜物』としてアピールし、王宮教育顧問への再任を確実なものにしようと根回しに奔走していたらしい。だが……」
アルヴィンは皮肉げに鼻を鳴らした。
「公聴会で、君が自ら公式記録に残した宣言が致命傷になった。『無実の可能性を知りながら検証を放棄し、娘を追放した家』。……その公式記録が王宮内で問題視され、父親の再任は完全に見送られたそうだ。自分の保身のために実の娘を切り捨てたような男に、王国の次世代を担う教育顧問など任せられるはずがないからな」
「……どうでもいいことです。彼らがどうなろうと、私の台帳にはもう何の関係もありませんから」
クラウディアはそう答え、窓の外へ視線を戻した。
彼女の心にあるのは、過ぎ去った過去への復讐の余韻ではなく、これから帰るべき場所――ノルデンのことだけだった。
数日後、馬車がノルデンの正門をくぐると、広場は信じられないほどの熱気と歓声に包まれていた。
王都での閉鎖撤回と全国試行施設指定の報せを通信鳥で受け取っていた住民たちが、お祭り騒ぎで所長の帰還を待ち受けていたのだ。
「所長! 監察官殿! 万歳!」
「これで俺たちの町は安泰だ! 中央の連中に完全勝利だぜ!」
ローディンやマルタをはじめ、一般住民も、そして灰色の作業着を着た執行対象者たちも、この時ばかりは身分の壁を越えて歓喜の声を上げていた。
馬車から降りたクラウディアは、押し寄せる住民たちに囲まれながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「皆さんが、この町と事業を信じて働き続けてくれた結果です。ありがとうございます」
だが、クラウディアの微笑みは数秒で消え、いつもの実務家の顔へと戻った。
「ですが、まだ完全に終わったわけではありません。今日は十分に喜んでください」
「えっ?」
「あの時の事件に関する残債務は、まだ四百六十六金貨残っています。これを全額返し終わるまで、私たちの戦いは終わりません。……明日から、春の大口契約に向けた出荷準備を本格化させます。段取りの確認は、明朝の打ち合わせでお願いします」
残債の額を聞いて、ローディンたちは顔を見合わせた。それから「……相変わらず、容赦のねえ所長だぜ!」「おう、やったろうじゃねえか!」と、笑いながら祝宴の準備へ戻っていった。
その日の夜。
山積みにされた決裁書類を片付けていたクラウディアの執務室に、アルヴィンが温かいコーヒーを二つ持って入ってきた。
「君は本当に、休むということを知らないな」
アルヴィンは呆れたように笑いながら、カップをデスクに置いた。
クラウディアはペンを止め、湯気の立つコーヒーを受け取る。
「今日は、この書類を終えたら休みます。……ユリウスの残りが三百六十六金貨。セシリアの残りが百金貨。これを返すための春の道路・木材・倉庫契約の履行が終われば、すべてが終わります」
「ああ。……だから、約束しろ」
アルヴィンが、真っ直ぐな灰色の瞳で彼女を見つめた。
「最後の四百六十六金貨を返し終わったら……半日だけでいい。俺と、休暇を取れ」
それは、王都からの帰りの馬車で告げられた想いに対する、彼からの具体的な歩み寄りだった。
戦いが終わったら、所長と監察官という職責を離れ、ただの男と女として時間を過ごしたいという誘い。
クラウディアは頬をわずかに赤らめ、カップを両手で包み込んだ。
「……はい。半日だけ、あなたに時間を預けます」
「言ったな。台帳に記録しておくぞ」
アルヴィンが冗談めかして笑い、クラウディアもまた、心からの笑顔を返した。
未来への確かな希望を胸に、二人は静かにコーヒーを飲み干した。
しかし。
春の訪れとともに順調に事業が進み、最後の四百六十六金貨の原資となる大口出荷が目前に迫った、それから数週間後のこと。
早朝の所長室に、血相を変えたローディンと道路班の職員が飛び込んできた。
「所長! 大変だ!」
「何事ですか、ローディン」
「雪解けの急激な増水で……王都へ続く街道の、主要な橋が損傷した! 荷車が通れねえ!」
道路班の職員が青ざめた顔で報告を引き継ぐ。
「このままでは、明後日に控えた春の大口契約の出荷が間に合いません。期日を破れば契約は破棄され、違約金が発生します!」
クラウディアとアルヴィンの顔に、緊迫が走った。
春の大口契約の利益がなければ、最後の四百六十六金貨は生み出せない。
制度の敵を倒し、すべてが順調に終わるかと思われた矢先。
今度は『自然』という物理的な壁が、彼女たちの前に最大の障害として立ちはだかった。




